古代中国の歴史と発明

Civ5においては、中国は同文明の一つです。ですが指導者である武則天は女性であり、しかも悪女に例えられている人物なのです。
中国には「国が乱れるから、女は政治に口を出すな」という考えがあって、同国のガラスの天井と成っています。その女性を指導者に選出するのですから、欧米人は中国がよっぽど嫌いなのでしょう。(笑)
Wikiで「古代中国の歴史」を調べると、「中国の歴史」、「中国の歴史年表」ページがヒットします。まずは「中国の歴史」ページから。その調査範囲は、イスラムが台頭する7世紀以前です。

1)中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)の対象は、中国大陸の地域史であり、漢民族を中心に様々な異民族に加え、現在の中華人民共和国に至るまでの歴史である。
2)中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在していた。以降、現代までの中国の歴史を記す。
四大文明の経緯は、前述した通りです。
3)中国の歴史においては、政治的統一による平和の時代と、国家崩壊および戦争の時代が交互に繰り返されていた。
4)最近のものは国共内戦(1927年−1949年)である。ときおり中国は遊牧民による支配を受けていたが、最終的にそのほとんどは漢民族の文化に同化され、中国の一部になった。
これは中華民族の負惜しみでしょう。中国が外国勢力(〜元、欧米人)によって征服されたのに対して、日本は征服されなかったからです。欧米人によると、中国人は武人(〜官)以外は戦わないそうです。
5)秦による中国統一後、皇帝は広大な領土を直接的に支配するため、または貴族たちの意見を無視できるために「官僚制度」を創った。
6)紀元前206年から西暦1912年までの中国において、兵力を持たない「士大夫」と呼ばれる層によって皇帝を支えて全国を管理し続けていた。
この士大夫が武力を持たないのは国家統治の知恵(〜文武分離)なのでしょうが、戦国時代にはそうも行きませんよね?(苦笑)
7)士大夫は非常に難しい科挙を通じて官僚に選ばれ、文化を大きく発展させていた。
政治体制には去勢した男性、宦官も存在しました。
8)最後の王朝である清は、1912年の中華民国の建国によって滅亡し、中国の帝制はここで消えた。

9)王朝・王政の変遷:→詳細は「中国の歴代王朝一覧」を参照
10)先史時代:
  ・長江文明
  ・黄河文明
  ・遼河文明
11)神話伝説時代(盤古・女〇(女+過の右側)・伏羲と三皇五帝)
12)夏(紀元前2070年頃−紀元前1600年頃)*諸説あり
13)殷(商、商朝とも。商人の語源)(紀元前1600年頃−紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ)
14)周(紀元前12世紀・紀元前11世紀ごろ−紀元前256年)・・・殷を滅ぼし、周(西周)建国。克殷の年代については諸説あり、はっきりしない。
  ・春秋時代(紀元前770年−紀元前403年)・・・紀元前453年晋が韓魏趙に分割された時点、または紀元前403年韓魏趙が諸侯に列した時点をもって春秋時代の終わり、戦国時代の始まりとする。
  ・戦国時代(紀元前403年−紀元前221年)・・・晋が韓・趙・魏に分裂し、戦国時代突入。
15)秦朝(紀元前221年−紀元前207年)・・・秦王・政(始皇帝)が六国を滅ぼし中華統一。
16)漢
  ・前漢(西漢、紀元前206年−8年)・・・秦滅亡後、楚の項羽との楚漢戦争に勝ち、劉邦(高祖)が建国。
  ・新(8年−23年)・・・外戚の王莽が皇帝から帝位を簒奪後、建国。
  ・後漢(東漢、25年−220年)・・・前漢の景帝の子孫の劉秀(光武帝)が新末後漢初の動乱を勝ち抜き、漢を再興。
17)三国時代(220年−280年)
  ・蜀、魏、呉・・・曹操の子 曹丕(文帝)が献帝から禅譲を受け即位すると、蜀の劉備(昭烈帝)も漢皇帝を名乗り即位、呉の孫権(大帝)も即位し、三国時代に入る。
18)晋(265年−420年)
  ・西晋(265年−316年)・・・晋王司馬炎(武帝)が魏の元帝より禅譲を受け即位し建国。だが、異民族五胡の侵入により衰退。異民族の漢に滅ぼされた。
  ・東晋(317年−420年)・・・皇族の生き残りの一人の琅邪王・司馬睿は江南に逃れ、建康で即位(元帝)。これを中原の晋と区別して東晋という。
  ・五胡十六国時代(304年−439年)
19)南北朝時代(439年−589年)
  ・北魏、東魏、西魏、北斉、北周
  ・宋、斉、梁、陳
20)隋(581年−618年)
21)唐(618年−907年)
  ・武周
以下は省略します。

22)先史時代
23)文明の萌芽:
24)中国に現れた最初期の人類としては、元謀原人や藍田原人、そして北京原人が主である。
   →「中国の新石器文化の一覧」も参照
25)中国大陸では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて黄河文明と長江文明の2つがある。
26)黄河文明は、畑作が中心、長江文明は稲作が中心であった。

→米と稲作

27)黄河文明が、歴史時代の殷(商)や周などにつながっていき、中国大陸の歴史の中軸となった。
黄河文明が中心と成った理由は、何なのでしょうか?
28)長江文明は次第に、中央集権国家を創出した黄河文明に同化吸収されていった。

29)長江文明:
30)長江文明は稲作発祥地として中国の発展の基盤となった。
   ・玉蟾岩遺跡・・・湖南省(長江中流)。紀元前14000年?−紀元前12000年?の稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。
   ・仙人洞・吊桶環遺跡・・・江西省(長江中流)。紀元前12000年ごろ?の栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
   ・彭頭山文化・・・湖南省(長江中流)。紀元前7000年?−紀元前5000年?。散播農法が行われており、中国における最古の水稲とされる。
   ・大渓文化・・・四川省(長江上流)。紀元前4500年?−紀元前3300年?。彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る
    平野部へ移動した。
   ・屈家嶺文化・・・湖北省。紀元前3000年?−紀元前2500年?。大渓文化を引き継いで、ろくろを使用した黒陶が特徴。河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。
   ・石家河文化・・・屈家嶺文化から発展し、湖北省天門県石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年頃を境として屈家嶺と区別する。この都城は南北1.3km、東西1.1kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのは
    この頃と考えられる。
   ・河姆渡文化・・・紀元前5000年?−紀元前4000年?下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
   ・良渚文化・・・浙江省(銭塘江流域)。紀元前3260年?−紀元前2200年?(以前は文化形態から大〇(サンズイ+文)口文化中期ごろにはじまったとされていたが、1977年出土木材の年輪分析で改められた)青銅器以前の文明。
    多数の玉器の他に、絹が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明の山東龍山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。
   ・三星堆遺跡・・・紀元前2600年?−紀元前850年?。大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。
    青銅器については原始的な部分が無いままに高度な青銅器を作っているため他の地域、おそらくは黄河流域からの技術の流入と考えられる。長江文明と同じく文字は発見されていないが、「巴蜀文字」と呼ばれる文字らしきものがあり、
    一部にこれをインダス文字と結びつける説もある。

31)黄河文明:
32)黄河文明は、その後の中国の歴史の主軸となる。
   ・裴李崗文化・・・紀元前7000?〜紀元前5000?。一般的な「新石器時代」のはじまり。定住し、農業も行われていた。河南省(黄河中流)。土器は赤褐色。
   ・老官台文化・・・紀元前6000?〜紀元前5000?。土器作りや粟作りが行われていた。陝西省(黄河上流)。土器は赤色。
   ・北辛文化・・・紀元前6000?〜紀元前5000?。土器は黄褐色。山東省(黄河下流)
   ・磁山文化・・・紀元前6000?〜紀元前5000?。土器は赤褐色。河北省(黄河下流)
   ・仰韶文化・・・紀元前4800?〜紀元前2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進んだ。土器は赤色。
母系社会だった事は、どんな事で判断するのでしょうか?
   ・後岡文化・・・紀元前5000?〜紀元前4000?。北辛文化が発展。河南省。
   ・大〇(サンズイ+文)口文化・・・紀元前4300?〜紀元前2400?。土器は前期は赤色(彩陶)、後期は黒色(黒陶)。なお、この区分は黄河文明全体に見られる。山東省。
   ・馬家窯文化・・・紀元前3100?〜紀元前2700?。彩陶中心。仰韶文化が西へ伝播し発展した。甘粛省。
   ・龍山文化・・・紀元前2500?〜紀元前2000?。大〇口文化から発展。後期黄河文明最大の文化。土器は黒色(黒陶)。山東省。
   ・喇家遺跡・・・紀元前2000年頃の遺跡。水害で埋まり、麺類や楽器などが発見された。青海省。
   ・二里頭文化・・・紀元前2000?〜紀元前1600?。遺跡の中心部には二つの宮殿がある。河南省。

33)遼河文明
34)遼河文明は黄河文明にも大きな影響と与えたとされる。
   ・興隆窪文化・・・内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前6200年頃−紀元前5400年頃の遺跡。土器や環濠集落が見つかり、龍をかたどった中国でも最も初期の玉製品が発見されている。
   ・新楽遺跡・・・遼寧省(遼河流域)。紀元前5200年?ごろの定住集落。母系社会が定着し、農業も行われていた。
   ・趙宝溝文化・・・紀元前5400年頃−紀元前4500年頃
   ・紅山文化・・・内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前4700年頃−紀元前2900年頃の農業遺跡。龍をかたどった玉器や、大規模な祭祀遺跡を建設した。
   ・夏家店下層文化・・・紀元前2000年頃−紀元前1500年頃
   ・夏家店上層文化・・・紀元前1100年頃−紀元前500年頃

35)神話伝説の時代
神話よりも古い時代は(余りにも獣じみており)、人々の記憶には残らないのでしょう。(苦笑)
36)天地伊始・開天闢地:
   盤古、女〇(女+過去の右側)、伏〇(義に似た字)、蒼〇(吉+頁)、〇(山+而+頁)〇(王+頁)

37)黄炎蚩尤:
   神農(炎帝)、蚩尤、黄帝、蒼〇

38)堯舜時代:
   〇(こく) 堯 舜 四凶(渾沌 〇〇(とうてつ) 窮奇 〇〇(とうごつ、とうこつ)) 四罪(共工 鯀 驩兜 三苗)

39)〇(げい)禹時代:
   〇 禹 鯀 益 〇によって退治されたという悪獣たち(〇〇(あつゆ)、鑿歯、九嬰、大風、修蛇、封〇(豚の右側+希))

40)先秦時代
41)夏:→詳細は「夏(三代)」を参照
42)史記では伝説と目される三皇五帝の時代に続き、最初の王朝国家として夏朝が創始されたとされる。しかし、その実在性については議論が存在する。
43)夏王朝の特徴は「公天下から家天下へと転換」、つまり中国は統治者が交代できる集落の形態から、父の王位を子に与える王国の形態になってきた。
中国は革命の国なので、この時点で王朝の変更が盛込み済みなのでしょう。

44)殷・商:→詳細は「殷」を参照
45)殷の代表的な遺跡は殷墟であるため、日本では一般に「殷」と呼ばれるが、「商」の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国ではこの王朝を「商」と呼ぶほうが一般的である。両方も考えて「殷商」とも呼ぶこともある。
46)実在の確認されている中国最古の王朝である。この時から漢字が出現し、文字の記録によって信憑性の高い歴史が始まっていた。
47)殷では、王が占いによって政治を行うことから、神権政治とみられる。
48)殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であったと考えられる。

49)西周:→詳細は「西周」を参照
50)紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。
51)しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと
   短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。
52)平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。
53)これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。

54)東周:→詳細は「東周」を参照
55)春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。

56)春秋時代:→詳細は「春秋時代」を参照
57)春秋時代は都市国家の盟主どうしの戦いだった。しかし春秋末期最強の都市国家晋が三分割されたころから様子が変わる。
58)その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで
   最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され滅亡した。
59)このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用し始めやがて領土国家に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。
60)また鉄器が普及したことも相まって、農業生産も増大した。
鉄器は武器よりも、農具の効果の方が大きいのでしょう。

61)諸子百家:
62)また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。
63)このような思想を説いた人たちを諸子百家(陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家、兵家等が代表的)という。
この文化の恩恵を、日本も受けている訳です。世が乱れても、武家だけでなく文化人も活躍しました。(笑)

64)戦国時代:→詳細は「戦国時代(中国)」を参照
65)晋の分裂以後を一般に戦国時代という。

66)帝国時代
67)秦漢帝国
68)秦:→詳細は「秦」を参照
69)現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。
70)秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。
71)始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。
72)また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。
73)さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。
74)さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。
75)しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。
76)さらに、宦官であった趙高が始皇帝の側近として力を強め、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、趙高は暴政をはじめたため、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。
77)反乱軍は破竹の勢いで各地を次々に制圧し、かつての戦国時代、李牧擁する5カ国の合従軍さえも絶対に抜けなかった函谷関が抜かれる。
この函谷関は、箱根の山の歌にも登場しています。
78)この乱に刺激され各地で反乱がおき、項羽と劉邦の挙兵後、劉邦が都であった咸陽を占領し、ついに秦は紀元前206年に滅びた。

79)楚漢戦争:
80)秦の滅亡後、項羽と劉邦が覇権を争った(楚漢戦争)。
81)当初、項羽有利であったが、韓信が、劉邦側に寝返ったことを機に、劉邦が主導権を握るようになった。そして、紀元前202年の垓下の戦いで項羽は自害し、劉邦は天下を統一した。
垓下(がいか)の戦いではあの有名な、四面楚歌が登場します。楚歌は楚の故郷の歌でした。

82)前漢:→詳細は「前漢」を参照
83)劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。
84)しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。
85)紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。
86)また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。漢四郡などこれらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。
87)また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
武帝はおくり名なのでしょうか?
88)一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。
89)漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。
90)また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。ちなみに、このころイエス・キリストが生まれ、以降は紀元後となる。
確かに、商業の発達はヒエラルキーを深くするのでしょう。この市場に関しては、イスラムの所で触れる予定です。

91)新:
92)8年には、王莽が皇帝の位を奪って漢を滅ぼし、新を建てた。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、
   辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った(新末後漢初)。
93)その中で新は更始帝により滅ぼされる。

94)後漢:→詳細は「後漢」を参照
95)その後漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を後漢という。
96)王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。
97)初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ、安定した政治が行われた。
98)しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。

99)魏晋南北朝時代:→詳細は「魏晋南北朝時代」を参照
100)黄巾の乱以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。
101)また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
102)魏晋南北朝表も参照

103)三国時代:→詳細は「三国時代(中国)」、「蜀漢」、「魏(三国)」、および「呉(三国)」を参照
104)後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱が起き、黄巾の乱が鎮圧されたあと、都では董卓が暴政を始め、豪族が各地に独自政権を立てた。
105)中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。
106)結局、曹操の死後、220年に曹操の子 曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。
107)このことにより後漢は滅亡し、漢王朝は完全に滅びた。
108)これに対し、221年には現在の四川省に割拠し、漢王朝の復興を唱えていた劉備が皇帝となり、蜀漢を建国した。
109)江南の孫権も229年に皇帝と称し、呉を建国した。この蜀、魏、呉の三国が鼎立した時代を三国時代という。
    →「後漢末」も参照
席亭も横山光輝の「三国志」は読みました。
110)三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。
111)魏では官吏登用法として、九品官人法 がおこなわれた。
倭が登場する、魏志倭人伝は有名です。
112)西晋:
113)三国時代は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、魏で重鎮であった司馬懿がクーデターを起こし、司馬一族が魏の国内の権力を掌握した(高平陵の変)。
この争いにはあの有名な、諸葛孔明が登場します。
114)その後、蜀が263年に魏に滅ぼされた(蜀漢の滅亡)。司馬懿の死後、息子の司馬師、司馬昭が後を継ぎ、司馬昭が晋王となる。
115)そして265年、司馬昭の息子である司馬炎が魏の皇帝である元帝より禅譲をうけ、皇帝として即位し魏は滅亡する。
116)そして司馬炎は新たな王朝として西晋を興した。その後、司馬炎は呉に20万の大軍を送り、呉を滅ぼした(呉の滅亡)。これにより三国時代は終結し、晋が中国統一を果たした。
117)だがその後司馬炎は急に堕落し政務を顧みなくなり、その死後帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした(八王の乱)。
天下を統一すると、遣る事が無くなるのでしょう。まるで某マンガです。ですから、豊臣秀吉は(某国からはボロカスですが)ある意味、偉いのでしょう。(苦笑)

118)五胡十六国時代:→詳細は「五胡十六国時代」を参照
119)この時、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの民族が非常に強い力を持つようになった。
野蛮人の方が、命の値段は安そうです。(苦笑)
120)316年には、五胡の1つである匈奴の劉淵が晋を滅ぼし、漢(その後前趙)を建てた永嘉の乱)。
カッコの位置がおかしいです。
121)これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。
122)この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。
123)代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。

→道教

仏教はインドの所でお話しします。
124)439年の北魏による華北統一により南北朝時代へと移る。

125)南北朝時代
126)東晋と南朝:
127)江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。
128)それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。
129)一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。
130)東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。

131)北朝:
132)華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせた北魏は471年に即位した孝文帝によって漢化政策を推し進めた。
133)また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。
134)しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。
135)西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。
136)577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、隋が北周にとって代わった。
137)589年に、隋は陳を滅ぼし、中国統一を達成した。

138)隋唐帝国:→詳細は「隋」および「唐」を参照
139)隋唐史とは、隋王朝と唐王朝の歴史のことだが、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶこと自体に、隋や唐という王朝を自明の存在としてしまう罠がしかけられている。
140)易姓革命による王朝交替をしめす隋(楊隋)や唐(李唐)の名称を用いることによって、華北の黄土に拠点をおく政権が、中国大陸全体を支配する揺るぎのない政権である印象が生まれ、内外の政治情勢のなかで、
    政権の正統性の構築をめざしてもがき続けた、可変的で流動性に富んだ側面がみえにくくなる。
141)軍閥内の権力闘争を勝ち抜いて、楊堅が隋王朝を建国した際、政権の正統化作業に多大な労力を割いたことは、アーサー・F・ライトが明らかにしている。
142)宮崎市定は、隋王朝が、権力基盤が不安定ななかで政治運営に苦心する状況を叙述した。
143)唐建国が、隋末に勃発した各地の軍閥同士の大規模な戦闘と、突厥や南匈奴などが中原に影響力を及ぼす複雑な内外情勢のなかで挙行され、隋末の政治状況が唐建国後にも影響を与えたことは、氣賀澤保規や石見清裕が明らかにしている。
144)唐王朝は、建国後も政権内で権力闘争が続き、武則天が皇帝となり周王朝を建国した時点で一旦断絶し、唐という統一王朝が10世紀初まで継続して存続した訳ではない。
145)後の歴史家が、女帝である武則天による周王朝の建国を認めなかったに過ぎず、安禄山政権の燕王朝や、朱政権の秦王朝・漢王朝、黄巣政権の斉王朝などが長安を都に建国したことによって、唐王朝は、繰り返し正統性を否定されている。
146)隋唐という名称こそが、自らの存在を固定し正統化しようとする隋唐の政権担当者たちが、同時代と後代の歴史家を抱き込もうとした文化的仕掛けである。
147)中国の伝統的正統史観を相対化するための戦略として、普遍的な時代区分の名称を用いて、隋唐期を「中国中世後期」と称したり、杉山正明のように、北魏の前身の代国から隋唐王朝までの国家を、政権統治者層が一貫して鮮卑拓跋である点に注目し、
    「拓跋国家」と名づける考えもある。
148)歴史叙述が異なる価値観のせめぎあう場であることを認め、6世紀末から10世紀初にかけての中国大陸を中心とする東アジア地域史を、隋唐史と呼ぶことの政治性を自覚すべきである。
149)隋唐王朝の存在を自明の前提として、そこから遡る歴史叙述とは別に、何もないところから隋や唐という王朝名を自称する政権が強引に構築されてゆく、政治権力の生成過程を分析する方法を模索すべきであり、
    唐太宗が勅撰した『晋書』の思想性を分析する礪波護、武田幸男、安田二郎、『周書』を分析する前島佳孝、『貞観氏族志(中国語版)』を分析する山下将司の研究により、唐太宗政権が、歴史書の編纂を用いて、
    支配の正統化の獲得にもがく様が明らかになっている。
150)唐太宗時に編纂がはじまり高宗時に完成した『隋書』経籍志序文および目録部分に、精緻な考証を施した興膳宏、川合康三も唐初の政治文化を把握する示唆を与えてくれる。
この辺りの解釈は、属人的であるのでしょう。

151)隋:
152)隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。
153)また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。
154)しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。
155)三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。
日本の聖徳太子から遣隋使(小野妹子)が送られた。

156)唐
157)初唐:
158)隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。
159)唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、626年に即位した太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成させた。
160)唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。
161)長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。
162)また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。
景教は、キリスト教ネストリウス派の事です。またゾロアスター教・景教・マニ教は唐代三夷教(とうだいさんいきょう)で、唐王朝によって保護された西方紀源の異教です。

163)武周: 164)唐太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年政権を簒奪し、中国史上唯一の女皇帝に即位し、国号を周とした。
そしてこれが、Civの指導者な訳です。

165)盛唐から晩唐へ: 166)712年に玄宗は唐を再興させて国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った節度使を置く必要がでてきた。
167)節度使は軍権以外にも、後に民政権・財政権も持ち始め、755年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。
168)この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子の葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどからさらに各地で土地の私有(荘園)が進み、
    土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。
この現象は日本でも生じました。貴族に土地を寄進する、荘園制度がそれです。
169)結局政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。
170)875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜し、各地の節度使はますます権力を強め、907年には節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。
以下は省略します。

171)関連項目:中華人民共和国、中華民国、中国帝王一覧、中国の首都、中国史時代区分表、夏商周年表、魏晋南北朝表、元号一覧、二十四史(清によって公認された正史)、中国の歴史年表、マカオの歴史、香港の歴史、台湾の歴史、
    中国の通貨制度史、中国法制史、中国の科学技術史、中国での数学の発展、中国暦、中国の農書、中国の書道史、中国の官職、中国の仏教、中国学、中国化、百年国恥(百年耻辱)、中国の世紀

「中国の歴史年表」には名目だけがリストに成っていますが、省略します。次にWikiで「古代中国の発明」を検索すると、「中国の科学技術史」、「古代中国の四大発明」ページがヒットします。
まずは「中国の科学技術史」ページから。

1)中国の科学技術史(ちゅうごくのかがくぎじゅつし)は、長い歴史をもち科学技術の発展に大きく寄与してきた中国における科学と技術の発達を対象とする。
2)古代にはギリシアの哲学者と他の文明圏、および中国の哲学者がそれぞれ独自に科学・技術・数学・天文学を発達させた。
3)彗星や超新星の世界で最も古い観測記録が残っているのは中国である。
4)伝統医学・鍼灸術・漢方薬も実践された。
5)初期の発明には算盤・影時計・凧・天灯といった世界初の人工飛行体などがある。
席亭も、天灯という名前は知りませんでした。同オブジェクトはアジアでは、かなり普遍的です。

→凧

→天灯と気球

6)古代中国の4大発明といわれる羅針盤・火薬・紙・印刷は最も重要な技術革新であるが、ヨーロッパに伝わったのは中世の終わりごろである。

→紙

→印刷

→羅針盤

→火薬

7)唐代(618年−906年)はことに発明が続いた時代である。
8)ヨーロッパと中国の間で知見の交換が始まったのは清代以前のことである。
清代は1636年ですから、かなり後です。ですからこれ以前は、シルクロードに隣接する国家や民族などの方(〜騎馬民族)が物知りでした。
9)イエズス会中国使節は16世紀−17世紀に西洋科学と天文学を中国に持ち込み社会改造に利用する一方、中国技術の知識をヨーロッパに持ち帰った。
10)欧米における中国科学史研究の初期の業績の多くはジョゼフ・ニーダムに帰することができる。近代以後の日本では薮内清らがこの分野を手がけてきた。

11)古代技術:→詳細は「en:List of Chinese inventions」を参照
12)古代中国に始まり長く実用に供されているもののひとつに、道教に由来する鍼灸術や漢方薬などの伝統中国医学がある。
13)鍼灸術の実践は紀元前1世紀に遡ることができる。鍼灸術に類似した医術は青銅器時代のユーラシアですでにみられたとする科学者もいる。

→医療と医術

14)古代中国は数学や天文学に使う計数・計時装置も発明した。日時計の前身である影時計が中国で出現したのは4000年前のことであるが、算盤の発明は紀元前1000年−500年の間ごろである。

→時計

→算盤と計算機

15)これらを使った中国人は、紀元前500年に惑星の記録を作成した。
16)『天文気象雑占(英語版)』は紀元前400年頃に著された史上初の彗星図解である。約300年間に出現した29彗星を掲載し、彗星の出現を地上の出来事と関連づけて解釈した。
地上と天空との相関を求めるのが、勿体無い、惜しいです。依然迷信の中に在り、科学的ではないです。(苦笑)

17)建築では中国技術の頂点に立つのが、紀元前220年−紀元前200年頃に在位した秦の始皇帝の時代に建設された万里の長城である。
18)秦に続く漢の時代から19世紀まで中国の一般建築に大きな変化はなかった。
19)秦の時代に弩が改良されたが、これはのちにヨーロッパに渡り武器の主流になった。始皇帝の墓から出土した兵馬俑墓から数点の弩が見つかった。
弩は、いしゆみと読みます。席亭も(ゲームで)名前だけは知っていましたが、写真は初めて見ました。

20)後漢の学者で天文家の張衡(78年−139年)は渾天儀(天球儀)を発明したが、これは2,500の恒星と100以上の星座を収めている。
21)132年に張衡は世界初の感震計を発明し、「候風地動儀」と名づけた。
何の為に地震計が必要だったのでしょうか? 占いの為でしょうか?
22)後漢(25年−220年)の歴史によれば、この感震計は壺のような形の装置で、8個の球のうち1個を落下させて、いつ、どの方向に大地が揺れたか(震源)を知らせるという。
23)2005年6月13日、中国の地震学者がこの複製を作成したと発表した。

24)機械技術者の馬鈞(200年−265年ころ)も古代中国で際立つ人物である。
25)馬鈞は絹の機織機を改良し、機械式チェーンポンプを設計して庭園に給水し、水転百戯(目隠しをした大きな水車を動力に動く大きく複雑な人形芝居)を創作、魏の明帝に献上した。
26)しかし馬鈞最大の発明は指南車であろう。これは複雑な構造の機械式羅針盤車である。これは各々異なる速度で回転する車輪に同じトルクを配分する差動歯車を組み込んでいるが、これは現代の自動車がすべて装備している機構である。
差動ギアはカーブなどで、左右の車輪の回転数とトルクを塩梅します。但しタイヤが空転すると、トルクが逃げてしまいます。(苦笑)
27)ノギスは中国で2,000年以上前に発明された。
このノギスは長さを測る測定器、工具です。
28)また中国文明は航空の領域に世界で初めて踏み込んだ。凧と天灯(熱気球の原型)は人類初の『飛行機』といえる。
飛行機ではなく、飛行物体、飛行船です。(笑)

29)後漢時代に成立したとみられる著者不明の『九章算術』と言う算術書には開平法や連立一次方程式など様々な数学の問題が載っており(籌算参照)、後には数学教育のテキストに採用されている。
籌算はちゅうさんと読みます。一組の棒を用いる器具代数術です。
30)魏の劉徽は『九章算術』の注釈のなかで、円周率を計算して、3.1416という近似値を得ている(「円周率の歴史」参照)。
算数、数学には、中国の寄与も大きいのです。

31)南北朝時代の数学者の祖沖之は円周率を3.1415926と3.1415927 の間であると推算し、その密率を 355/113 と決めている。これは当時の世界で最も正確な値であったようである。
32)また彼の子の祖〇(日+恒)は半径rの球の体積が(4/3)πr^3で求められることを考えだした。
ですから、積分の一部分もこなした訳です。

33)古代中国の4大発明:→詳細は「古代中国の4大発明」を参照
34)羅針盤・火薬・紙・印刷の4つは古代中国の4大発明と呼ばれている。
35)紙と印刷の発明がこの中で早かった。
36)印刷は唐の時代の中国の記録があるが、布地のプリント染色は220年以前のものが残存している。
37)羅針盤の発達を正確に追跡するのは困難だが、針と磁石の引き合いは20年−100年頃に編纂された『論衡』で検証されている、中国文学に磁針が初めて登場するのは1086年である。

38)晋代(265年−420年)の建武元年(317年)には錬金術師の葛洪が硝石・松脂・木炭を一緒に加熱したときに生じる化学反応を自著『抱朴子』に記録している。
39)その他の火薬の記録では、850年頃の中国のある書籍には、道教徒が不老不死の霊薬を作ろうとしてできた副産物が火薬であるという記述がある。
40)硫黄・鶏冠石・硝石・蜂蜜を混ぜて加熱すると煙と炎が上がり、作業者の顔と腕は焼け、家屋は全焼した。
鶏冠石(けいかんせき)はヒ素の硫化鉱物です。As4S4。硫黄が燃料と成るのでしょう。硝石は酸化剤です。
41)この4大発明は中国文明の発展にのみならず、地球規模で巨大な衝撃を与えた。たとえば火薬は13世紀にアラブ世界に広がり、その後ヨーロッパへ伝わった。
   イギリス人哲学者フランシス・ベーコンは『ノヴム・オルガヌム』(新機関)のなかで次のように記している:
42)印刷術・火薬・羅針盤:これら3点は全世界のすべての表層と深層とを変えてしまった。
43)印刷術は文学を、火薬は戦争を、羅針盤は航法を、である。大きな変化が起こってしまうと、それはかつていかなる帝国も、いかなる社会勢力も、いかなる星も発揮したことがない強い影響力を人間社会に及ぼしたことがわかった。
   −フランシス・ベーコン、

44)14世紀に焦玉が記した『火龍経』は中国の重要な戦術論のひとつである。
45)火薬を使った兵器として記載されたものには、火箭(焼夷矢)・火鎗・火器・地雷・水雷・射石砲・大砲、および火薬のほか毒ガスや煙幕などの処方も収めてある。
46)11世紀には、畢昇(972年−1051年)が膠泥活字印刷を発明、1298年には王禎が木活字を実用化、1490年には華燧が金属活字を実用化した。
以下は省略します。

47)関連項目:中国文明、中国の発明一覧(英語版)、中国の数学、数学史♯中国での数学の発展、中国の剰余定理、中国天文学(英語版)、伝統中国医学、永楽大典、錬丹術、中国の軍事史(兵器と軍事技術の歴史)、中国暦、農書#中国、    中国学、中国哲学、術数学、本草学
次は「古代中国の四大発明」ページです。

1)古代中国の四大発明 (こだいちゅうごくのよんだいはつめい、こだいちゅうごくのしだいはつめい、簡体字: 四大〇明; 繁体字:四大發明; 〇(手偏+併の右側)音:〇)は古代中国においてなされた4つの発明で当時の中国の先進性を示すものである。
2)沿革
3)四大発明とは:羅針盤、火薬、紙、印刷を指す。 4)フランシス・ベーコンは1620年の『ノヴム・オルガヌム』の中で、印刷術・火薬・羅針盤の3つを、起源ははっきりしないが古代には知られていなかった最大の発明としてあげた。
5)その200年後、中国宣教師のウォルター・ヘンリー・メドハーストは1840年の『中国の現状と展望』の中で、これらがいずれも中国人の発明によると指摘した。
6)ジョゼフ・エドキンズは中国人の発明として製紙を加えて4つにし、現在のリストができあがった。のち、20世紀のジョゼフ・ニーダムによって有名になった。
7)これらの4つの発明は中国文明だけでなく世界に多大な影響を与えた。
8)しかしながら、近代中国の一部学者は、四大発明はシルクロードがもたらした東西の技術的交流を強調するものにすぎず、他の中国の発明のほうがおそらくより高度で中国文明にとってより影響力が大きかったと主張する。
これは席亭に言わせれば、負惜しみでしょう。他所の人に指摘されたから、悔しいのでしょう。それに、発明者は必ずしも権力に近い、とは限りませんから。(苦笑)

9)関連項目:世界四大文明、夢溪筆談、中国の科学技術史
中国はこの位にしておいて、次は(科学に無関心だった為?)没落へと向かうローマに代わる科学の待避地、「ペルシアとイスラーム」です。(笑)

→ペルシアとイスラーム