ペルシアとイスラーム

此処ではギリシアのもう一方の正当な後継者ペルシアと、ムハンマド(マホメット)の出現によりイスラームへと向かう中東の歴史を説明致します。
Civの文明には以下の2国、ペルシア/ダイレオス1世とアラビア/ハールーン・アッラシードが採用されています。アッラシードはアッバース朝最盛期の帝王で、千夜一夜物語にも登場しています。
Wikiで「ペルシア、イスラーム」を検索すると、「イスラーム教徒のペルシア征服」、「ペルシア」ページがヒットします。まずは「ペルシア」ページの、ヘレニズム以降から。

1)ペルシア、ペルシャ(ギリシア語:〇)は、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。
波斯国は、席亭も聞いた事が有ります。
2)概要:
3)古代ペルシア人は「パールサ」(〇(楔形文字))を自称していた。それを古代ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」となった。
4)かつてイランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられたが、1925年のレザー・シャー・パハラヴィーの即位後にイスラム化前への復古主義が盛んとなり、1935年3月21日に「アーリア」に由来する
  「イラン」に改めるよう諸外国に要請し、日本の外務省もそれに従った。
歴史にはアーリア人が良く登場しますが、席亭もアーリア=ペルシアとは知りませんでした。(苦笑)
5)しかし混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。
6)その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
7)イランの主要民族・主要言語は現在もペルシア人・ペルシア語と呼ばれている。
8)なお、イラン人・イラン語はペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なり、代替可能ではない。
中々面倒です。土地は同じでも、住む人が違ったりします。(苦笑)

9)歴史的イラン世界では、古代ペルシアのパールサ地方〇のこと。語源は騎馬者を意味するパールス〇。ギリシャ語ではペルシス(〇)と呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。
ファールス地方はイランの南部、ペルシア湾に近い位置に在ります。
10)ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、またはパールサの現代形のファールスと呼ばれている語である。
11)たとえばペルシア語をファールス語に相当する現代のペルシア語ファールスィー(ペルシア語:〇)と呼ぶ。
この辺り、意味不明です。(苦笑)
12)また、この地に興ったペルシア帝国と呼ばれる諸王朝も指す。ただし、同じ地に興ったパルティア(アルシャク朝)はペルシアとは語源的に無関係である。
13)イランの文化や特産物に対する呼び名としても使われる。
ナカタが居たイタリアのペルージャの呼名もペルシアだそうですから、何か関係(出資者?)が有るのでしょうか?

14)ペルシアの王朝:
   アケメネス朝の領域、アルサケス朝の領域、サーサーン朝の領域、ティムール朝の領域、サファヴィー朝の領域
サーサーン朝の領域はアルサケス朝やティムール朝のそれよりも広く、アラビア半島の南部沿岸、イラン以東の大面積で、アケメネス朝に匹敵する広さです。

15)関連項目:アーリア人、ペルシア人、ペルシア語、ペルシア文字、ペルシア暦、ペルシア戦争、ペルシア立憲革命、ペルシア湾、ペルシア高原、ペルシャ絨毯、ペルシャ猫、パールシー、アラブ、ファールス(イラン)、イラン研究
次は「イランの歴史」ページです。

1)イランの歴史(イランのれきし)は、イラン高原の古代文明から現在のイラン・イスラーム共和国に至るまで数千年に及ぶ。
2)こうした中でさまざまな王朝が興亡を繰り返し、イラン高原のみを領域としたものもあれば、アッバース朝やモンゴル帝国のような巨大な王朝もあった。
3)したがって「イランの歴史」を現在のイラン・イスラーム共和国領域に限定した地域史として記述するのはほとんど不可能である。
4)本項ではイラン高原を支配した諸勢力の歴史を中心に、その周辺域、特にマー・ワラー・アンナフル、ホラーサーン地方、アゼルバイジャン地方を含めた歴史的イラン世界の歴史を叙述する。
以下は§先史時代ですが、これは省略します。

5)歴史時代の始まり:
6)明らかにメソポタミア地方の文化的影響を強く受けたイラン高原南西部の文化は、やがてイラン地域における最初の文明、エラムの成立を見た。
7)エラム人は高度な国家機構を整え、イラン世界最初の文字記録を残した。
8)紀元前2千年紀の末期にはアーリア人(アーリヤ人)、またはインド・イラン人と呼ばれる人々がイラン高原に定着し、イランの歴史の根幹を成す要素が形成された。
アーリア人は有名ですが、これでしたか?

9)エラム:→詳細は「エラム」を参照
10)イラン世界の歴史時代(文字記録のある時代)はエラム人の文明とともに始まる。エラムの人々は紀元前3千年紀から紀元前1千年紀半ばまでの間に、現在のイラン・イスラーム共和国のフーゼスターンからファールス地方にかけての領域に
   幾多の国家を形成した。
11)エラム人の話した言語は、一般にエラム語と呼ばれる系統不明の言語である。これは後にイラン世界で主流となるインド・ヨーロッパ系の言語とは異なり、その出自はわかっていない。
12)エラム人は紀元前3千年紀の終わり頃、クティク・インシュシナク(プズル・インシュシナク)王の元で高度な政治的統一を見た。
13)彼の勢力範囲はイラン高原南西部のほぼ全域を覆っており、確実な記録に残るものとしてはイラン高原における最初の統一的政治勢力となって周囲に覇を唱えた。
14)以後、エラムはメソポタミアの諸王朝と度々戦火を交え、1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、紀元前1千年紀にアッシリアによって主要都市スサが破壊されると、
   列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。
15)だが、エラム人の作り上げた政治・社会の仕組みと文化は、後にこの地を支配したハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって継承され、後世のイラン世界に有形無形の影響を残し続けた。

16)アーリア人の到来:
17)紀元前2千年紀、中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧民として生活し、インド・ヨーロッパ系の言語を用いていたアーリア人(アーリヤ人、アールヤ人)と自称し、或いは後世インド・イラン人と呼ばれるようになる人々が、
   イラン高原やインド亜大陸へと移動した。
18)アーリア人達の移住ルートは主にコーカサス山脈の山道(コーカサス回廊)を超えるルート、中央アジアからソグディアナ、ホラーサーンに入るルート、そしてアフガニスタン地方を経由してイラン高原に入るルート(カーフィルの道)
   の三つがあったと言われている。
19)紀元前1千年紀の始め頃までにはイラン高原全域にアーリア系の人々が定着した。彼らはそれ以前の住民と異なり、切妻型の屋根を模した石などを載せた塚状の墓を築き、ライオンや山羊、馬などをあしらった新しい彩文土器を用いた。
20)こうしたアーリア人の到来によって齎されたと思われる変化はスィアールク遺跡などで発見されている。
21)そしてこの時期にイラン高原は本格的な鉄器時代に入った。
ですから、アーリア人は鉄を持っていたのでしょうか?
22)非アーリア系と思われる先住の人々(エラムとインダス文明の中間のShahr-e Sukhtehで栄えたジーロフト文化(英語版))は次第にアーリア人に同化して姿を消していった。
混血でしょうか?
23)ただし、紀元前10世紀頃にはアーザルバイジャーン地方に近いウルーミーエ湖周辺の地方には、非アーリア系と考えられるマンナエ人(英語版)の王国が一時期勢力を持った。

24)アーリア人の歴史には紀元前9世紀頃から次第に光が当たり始める。彼らの中でも最も重要な二部族、即ちペルシア人とメディア人が、ほぼ同時に歴史記録に登場し始めるからである。
25)この記録を残したのは、当時イラン高原西部に勢力を伸張させていたアッシリアであった。
26)当時ペルシア人やメディア人は、まだ力が弱くしばしばアッシリアに貢納を収めていた。しかしメディア人達は次第に勢力を伸ばし、やがてイラン高原全域を支配する王国を作り上げた。
27)これは慣用的にメディア王国と呼ばれ、オリエント世界を支配したアッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトに並ぶ古代の強国となった。
28)その後、メディア王国は新たに興ったペルシア人のハカーマニシュ朝に飲み込まれるが、エラム人と並んでハカーマニシュ朝の支配機構の中に入り、共に中央権力機構を構成する集団となってペルシア人と同化していった。

29)ペルシアとイラン:
30)やがて、後世この地域、及び住民を指すことになる言葉、即ちペルシアとイランが歴史に登場した。
31)かつてエラム人の中心地の一つであったアンシャン(現在のファールス地方)にはペルシア語でパルスア、パールス、或いはファールスと呼ばれるアーリア人の部族(ペルシア人)が定着した。
32)このためアンシャンと呼ばれた地方は次第にその部族名で呼ばれるようになった。これは古典ギリシア語ではペルスィスと呼ばれ、ヨーロッパの諸言語で用いられるペルシアという言葉はこのペルスィスに由来するものである。
33)この名は紀元前6世紀にこの地から興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来、歴史的にイラン高原に発した諸帝国と住民を指す名前ともなった。

34)イラン人自身はイラン高原に侵入するしばらく前に分かれた、インド亜大陸に侵入した同族と同様に、「高貴な人々」を意味する「アイルヤ」(アーリア)という自称を長く用いており、サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は
   「アーリア人の土地」という意味のパルティア語「アールヤーン」に由来するパフラヴィー語の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。
35)「イーラーン」は、イスラーム時代になって現れる、パフラヴィー語の「エーラーン」の近世ペルシア語形である。
36)紀元前3世紀のギリシアの地理学者エラトステネースも「イラン」の語で言及している。
37)1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーは諸外国に対し「イラン」の使用を要請した。
38)その後イラン人研究者による抗議などがあり1959年にはペルシアおよびイランは併用できるものとされた(詳細はイラン・ペルシア名辞論争を参照、またペルシアの地理についてはイランの地理を参照)。

39)諸王の王:詳細はペルシア帝国を参照。
40)紀元前6世紀にファールス地方から興り、当時の文明世界の大部を支配するハカーマニシュ朝(アケメネス朝、アカイメネス朝)が成立した。
41)この王朝の王であるダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は諸王の王を名乗った。
42)これはアッシリア王の称号の1つに由来し、ある特定の地域の王ではなく、広大な領域に住む幾多の異民族を支配する王、世界帝国の支配者であることを意識した称号であった。
つまりは、皇帝という事でしょう。
43)以後グレコ・マケドニア系のセレウコス朝、セレウコス朝をイランから放逐したパルティア人のアルシャク朝(アルサケス朝)、そしてファールス地方から興ったサーサーン朝に至るまで、諸王の王を名乗る王朝がイラン世界で興亡を繰り返した。

44)ハカーマニシュ朝とその時代:→詳細は「ハカーマニシュ朝」を参照
45)メディアに従っていたアンシャン(ファールス)の王クル2世(キュロス2世)は、反乱を起こしてメディア王イシュトゥメグ(アスティアゲス)を破ってイラン高原の支配権を握り、前559年頃にハカーマニシュ朝を成立させた。
46)クル2世は更にリュディア、次いでバビロニアを征服した。
47)次のカンブージャ2世(カンビュセス2世)の時代にはエジプトからインダス川流域に至る大帝国が形成された。

48)アッシリア帝国やバビロニアの統治機構を倣ったハカーマニシュ朝では、広大な領域を統治するために高度な官僚制が整えられ、領土内に20以上の軍管区(サトラペイア)を設定した。
49)そしてそれぞれに総督(一般にギリシア語に由来するサトラップという名で知られている)が任じられたが、彼らを監視するために王の目、王の耳と呼ばれた監察官が活動した。
このサトラップの名前も、Civには登場しています。
50)また首都としてペルセポリスと呼ばれる都市が築かれたが、実質的な政治の中心はエラムの中心都市スサであった。
51)また、王は一年の間にスサ、バビロン、エクバタナを移動したと伝えられる。
王の視察でしょうか?
52)ハカーマニシュ朝はしばしばペルシア帝国と呼ばれるが、単純に「ペルシア人の国家」というわけではない。
53)ペルシア人は支配者として振舞ったが各地で征服された現地人の人口は圧倒的であり、またその中には長い歴史・伝統を持つ集団が数多く存在した。
54)メディア人はしばしばペルシア人と併置して呼ばれ、帝国の中枢部にいて支配者の栄誉を共有していた。
55)行政組織においては、豊かな経験を持つエラム人が多用されていた。行政文書や事務書類にエラム語が多用されていることがこれを端的に示す。
56)バビロニアでは征服以前の官僚達が引き続いて現地の政治行政を担当しており、リュディアやエジプトでもその統治は現地人の有力者に強く依存していた。
57)このようにハカーマニシュ朝は長い伝統を持つ征服地の政治組織を温存し、その上に君臨した。
58)またハカーマニシュ朝時代にはゾロアスター教の教義体系、組織もかなりの程度整えられたと考えられる。
宗教の利用はローマでも日本でも、行われました。
59)ザラスシュトラ(ゾロアスター)によって開かれたとされるこの宗教はこの時代以降、長い時間をかけてイラン世界の思想的な柱となっていった。

60)ハカーマニシュ朝は紀元前5世紀初頭のギリシアへの遠征(ペルシア戦争)においては一敗地にまみれ、対外的な拡大は一つの限界に達した。
61)紀元前5世紀末頃には、相次ぐ分割相続と税負担増のために軍務を担ったペルシア人の封土所有者が没落し、帝国を支える軍の中心は傭兵へと移っていった。
62)宮廷では慢性的な王位継承の争いが起きており、地方ではペルシア人の有力者やバビロニアやエジプト、リュディアなどの現地勢力による反乱が頻発した。
63)歴代の王達はしかし、これらの反乱の鎮圧の脅威を抑えてその覇権を維持し続けた。この時代は王朝衰退の時代と言われているが、近年では再評価する動きもある。
64)ハカーマニシュ朝の支配は最終的には外敵の侵入に対する敗北によって失われた。
65)ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)の治世であった紀元前334年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した。
66)ダーラヤワウ3世はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い、次いでガウガメラの戦いで大敗し、最後は部下の裏切りによって殺された(前330年)。
67)こうしてハカーマニシュ朝は短期間のうちに瓦解し、アレクサンドロスがハカーマニシュ朝の領域と統治機構を継承した。

68)ヘレニズムとイラン世界:→詳細は「セレウコス朝」、「ヘレニズム」、および「パルティア」を参照
69)アレクサンドロスはハカーマニシュ朝を征服して間もない前323年にバビロンで没した。
70)アレクサンドロスの将軍達はその後継者たるを主張して相互に争った(ディアドコイ戦争)。この争いの末、イラン世界の大部分はセレウコス1世によって建てられたセレウコス朝の支配する所となった。
71)アレクサンドロス時代からセレウコス朝時代にかけて、各地にギリシア人・マケドニア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)による植民都市が多数建設された。
72)特にセレウコス朝は各地にギリシア的なポリスや、将来のポリスへの昇格を前提としたカトイキア(軍事植民地)の建設を行った。
73)こうしたセレウコス朝の都市建設政策によって造られたポリスやカトイキアを拠点にギリシア文化やギリシア的な社会制度の普及が進み、ギリシア語はイランでもアラム語と並ぶ共通語となった。
74)こういった文化的・社会的な潮流はヘレニズムと呼ばれる。

75)だが、セレウコス朝の植民政策は圧倒的にシリア、次いでバビロニアを中心としており、イラン高原より東への植民は規模からすればかなり限られたものであった。
76)東方のサトラペイアの支配者たちはセレウコス朝の西方重視の姿勢に反発し、前250年前後にはバクトリアの支配者ディオドトス1世や、パルティアとソグディアナの支配者アンドラゴラスが相次いで独立した。
77)ディオドトス1世は王国(グレコ・バクトリア王国)を存続させることに成功したが、アンドラゴラスの領土は独立後間もなくアルシャク1世(アルサケス1世)に率いられたパルニ氏族を中心とする中央アジアの遊牧民部族連合によって征服された。
78)彼らはイラン系の言語を使用していたと考えられ、パルティアに定着し、一般にパルティア人という名で呼ばれるようになった。
79)このパルティア人の王国がアルシャク朝(アルサケス朝)である。アルシャク朝は100年余りの間領土奪回を図るセレウコス朝と争った。
80)これはセレウコス朝の王アンティオコス7世(前139−前129年)の敗北によって大勢が決し、セレウコス朝はシリア以外の領土を完全喪失した。
81)一方アルシャク朝は戦いの中でバビロニアとイラン高原及びその周辺地域を支配し諸王の王を称するようになった。

82)アルシャク朝は遊牧民的な気質を強く残しており、王の宮廷は常に移動した。
83)政治では有力な貴族が大きな影響力を持ち、その領地の経営には中央の統制はあまりかからなかった。
84)アルシャク朝の領土、特にバビロニアを中心とした西部にはギリシア人やバビロニア人の多くの都市があった。
85)ギリシア人は特にアルシャク朝の支配下にあってもそ政治・経済・文化の面で強力であった。
86)コインの鋳造技術はギリシア人が握っていて軍事的にも大きな存在であった。
87)アルシャク朝はこのギリシア人に特に配慮し、ミフルダート1世(ミトラダテス1世)のようにフィルヘレネ(ギリシアを愛する)という称号を用いたりした王もいた他、芸術や一部の社会制度については顕著にヘレニズム的な要素を取り入れられた。
88)ギリシア人やバビロニア人など都市住民が力を持った西部と、遊牧民的な大氏族の勢力が強い東部との社会的な相違は深刻な政治対立を引き起こしていた。
89)紀元前1世紀の接触以来アルシャク朝の主要な敵となったローマは、アルシャク朝に親ローマ的な王を擁立すべく介入を続けたが、この親ローマ王の支持基盤は常にギリシア人を中心とした西部の都市住民であった。

90)1世紀初頭にローマの支援の下でヴォノネス1世が王座を得ると、それ以前の親ローマ王と同じくギリシア人(及びバビロニア人)の都市がこれを支持したが、パルティア人の貴族達はヴォノネス1世に反対してアルダヴァーン2世
   (アルタバヌス2世)を擁立した。
91)西暦12年頃まで続いた内戦でヴォノネス1世は敗れた。この戦いの結果、アルシャク朝におけるギリシア人都市の政治的意義は急速に低下した。
92)36年から43年にかけてバビロニア最大のギリシア人都市セレウキアで大規模な反乱が発生したが、これはイラン世界においてギリシア人が主要な政治勢力として起こした最後の出来事となった。
93)ギリシア人の勢力減退に合わせるようにイラン世界におけるヘレニズムは大きな影響を残しつつも終焉へと向かった。
94)そしてイラニズムとも呼ばれる伝統回帰の動きが強くなっていった。

95)サーサーン朝:→詳細は「エフタル」および「サーサーン朝」を参照
96)アルシャク朝の治世後期はローマとの戦争を除き情報が乏しいが、王位継承を巡って激しい内乱が繰り返し発生していた事がわかっている。
97)またローマとの戦いでは中核地帯であるメソポタミアが度々占領されるなど、大きな損害を数度に渡り被った。
98)このような戦乱の代表的なものは西暦110年代のローマ皇帝トラヤヌスによるパルティア遠征である。
パルティアは古代イランの王朝名(アルサケス、アルシャク朝)です。
99)最終的にアルシャク朝はイラン高原南西部で発生した反乱によって滅亡した。
100)208年頃、ファールス地方の支配者パーパクの元でアルシャク朝に対する反乱が起きた。同じ頃、アルシャク朝ではヴォロガセス6世とアルダヴァーン4世(アルタバヌス4世)による内乱が発生した。
101)アルシャク朝の内乱の最中、ファールスで新たに支配者となったアルダシール1世は226年までに二人のアルシャク朝の王を相次いで倒し、新たにサーサーン朝を建てた。
102)サーサーン朝は間もなく旧アルシャク朝の領域のほぼ全てを支配下に置いて諸王の王を称するようになり、更に西ではローマ皇帝を捕虜とする大勝利を収め、東ではクシャーナ朝を支配下においた。
103)そしてその中心都市はイラクのクテシフォンに置かれた。
104)ただし、パルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続けた点に見られるように、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの面においてアルシャク朝時代の継続であった。

105)サーサーン朝は支配の正統性をゾロアスター教に求めた。
106)アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成された。
戦いに明け暮れる武将は、信仰が深い事で有名です。
107)こうした中で教会の勢力は増大し、シャープール1世(241年−272年)の時代に祭司長となったカルティールはやがて国王に匹敵する権力を得た。
108)この時代のイランは諸宗教が渦巻く時代であった。正統な教義の制定に伴って教義論争・宗教対立が激化した。
109)古くからイランに存在したズルワーン主義、サーサーン朝と時を同じくして成立したマニ教、またローマに対する勝利によって得られた捕虜達からはキリスト教が広まり、一定の勢力を得ており、東部領土には仏教を信仰する人々もいた。
110)カルティールがこういった異端、異教を弾圧したことを誇っているように、宗教弾圧がしばしばあった。
宗教を自身の権力の拠所とすると、異教は許せないのでしょう。(苦笑)
111)サーサーン朝は王位継承紛争に悩まされながらも4世紀を通じてローマとの戦いを優位に進め、ローマを苦しめた遊牧民フン族の移動でも彼らの圧力をかわすことに成功していた。
112)しかし5世紀には中央アジアで勢力を拡大したエフタルに相次いで敗北し、貢納を収めるようになった他、中小貴族の没落や飢饉の発生による社会不安の中で、急進的なマズダク教が広まり、彼らによる反乱や暴動が頻発するようになった。

113)6世紀に入るとホスロー1世(531年−579年によってエフタルが滅ぼされ、国内で盛んになっていたマズダク教を徹底弾圧して抑え、安定した時代を築いた。
114)この時代には定額税制が導入され、軍制と身分制が確立した。
115)繁栄は長く続き、ホスロー1世の孫、ホスロー2世(591年−628年)の時代には一時東ローマ帝国の支配下にあったシリア、エジプト、アナトリアを一時占領した。
116)しかし東ローマの反撃でホスロー2世は敗れ、最後は反乱によって殺害された。
117)この結果サーサーン朝では深刻な政治混乱が発生し、短期間に王が次々と交代した。
118)混乱の中でヤズデギルド3世(632年−651年)が即位したが、この政治混乱とカーディスィーヤの戦い(636年)等の敗戦による弱体化は明らかであった。
119)7世紀半ば、疲弊していたサーサーン朝はアラビア半島から勢力を拡大したアラブ人たちによって攻撃され、首都マダーインの陥落、ニハーヴァンドの戦い(642年)での敗北によって瞬く間に瓦解し、逃亡したヤズデギルド3世が殺害(651年)
    されたことによって完全に滅亡した。

120)イランのイスラーム世界化:
121)イランは7世紀半ば、イスラーム勢力の統治下に入る。
122)ウマイヤ朝、アッバース朝はペルシアの統治機構を温存して利用した。
123)9世紀にアッバース朝が衰退を始めるとホラーサーンなどでイラン系半独立王朝ターヒル朝・アリー朝(ザイド朝)が現れ、ペルシア文芸復興の時代が始まる。
124)アフガニスタン・スィースターン(英語版)地方では、アフガン系独立王朝サッファール朝・ガズナ朝が現れた。
125)イラン高原でも10世紀にブワイフ朝が成立、イランの地のイスラーム化が進み、イスラーム世界に統合されるようになる。
126)11世紀になると中央アジアからのテュルク系遊牧民が参入。遊牧系王朝とペルシア文人官僚、ペルシア文化の組み合わせからなる時代がセルジューク朝のもとに始まる。

127)イスラーム到来:
128)アラブ人たちは一神教イスラームを奉ずる共同体を形成していた。
129)第3代正統カリフ・ウスマーン(644年−656年) の頃までにイラン世界はカスピ海沿岸部と中央アジア方面を除くホラーサーンまでがイスラーム勢力下に入り、670年代にはサマルカンドやブハラなどマー・ワラー・アンナフルも征服された。
130)これらの土地のうちサーサーン皇族などの領主がいなくなった土地はメディナのペルシア財務庁が管理し、地租ハラージュを徴集するハラージュ地に編入される一方、在地領主がいる場合にはイスラーム勢力との契約が結ばれ、
    一定の貢納を条件に彼らの統治が追認された(アフド地、スルフ地。以上について詳細はイスラームの征服(イラン)を参照)。

131)イスラーム勢力はやがて王朝化してウマイヤ朝が成立する。
132)この時代には東方・北方における散発的なサーサーン朝残党の蜂起や領土拡大を目的として、ホラーサーンなど辺境要地と都市にアラビア半島方面から徐々にアラブ人が入植してくるが、領土の人口の大部分はサーサーン朝の遺民であった。
133)これを治めるために先述のように在地の統治機構は温存されたが、ウマイヤ朝では広大な領域統治のため中央統治機構にもサーサーン朝の官僚制と文書行政、通貨などの経済制度を導入した。
134)ハカーマニシュ朝以降の帝国統治で蓄積されたペルシアの政治的経済的経験と知識が利用されたのである(西方では東ローマ帝国の経験と組織を同様に利用した)。
135)実際に8世紀初め頃までの徴税文書はアラビア語ではなく中世ペルシア語で記されており、東方ではサーサーン朝のディルハム銀貨が流通した。

136)ウマイヤ朝下では地租ハラージュはアラブ人には事実上免除されていた。
137)一方、東方領民の大部分はイスラーム征服後も特に改宗を強制されることもなかったためゾロアスター教徒のままであり、非ムスリムである彼らにはジズヤという人頭税が課された。
138)8世紀に入るとマワーリーと呼ばれる降伏したサーサーン朝残党やアラブ人に仕える人々がイスラームに改宗しムスリムとなり、官僚や軍人などとして活躍する者も出てきた。
139)しかしながらムスリムとなってもジズヤが免除されることはなく、イスラームの平等の理念に反するとして徐々に不満が高まった。
140)このマワーリー問題は、8世紀半ば、ウマイヤ朝を打倒しアッバース朝を成立させるアッバース朝革命の一因となった。
141)アッバース朝革命がホラーサーンに起こり東方を根拠としたこと、指導したアブー・ムスリムがイラン系マワーリーである点にこれを見て取ることができる。

142)アッバース朝はこれまでのダマスカスにかえてバグダードを首都とした。
バクダードは現在はイラクの首都です。
143)これによってイスラーム世界の比重はやや東方に移り、政治・経済・文化の様々な面でシリア系マワーリーに代わってイラン系マワーリーの参入が始まる。
144)またアッバース朝下にはムスリムであればアラブ出身でなくともジズヤが免除されるようになる一方、平等性を強調するシュアービーヤ運動は高まりを見せる。
145)ペルシア人官僚はアッバース朝で重きをなし、ハールーン・アッ=ラシードの宰相バルマク家はその代表である。
146)同時にアッバース朝はホラーサーンの度々の反乱、アゼルバイジャン方面のバーバクの乱を抑えつつ、9世紀初頭に安定した全盛期を迎える。
以下は省略します。

147)関連項目:アフガニスタンの歴史、アゼルバイジャンの歴史、タジキスタンの歴史
他にも「イスラーム教徒のペルシア征服」ページなどが有りますが、体制の歴史はこの程度で良いでしょう。次は科学や文化です。

Wikiで調べると、「アラビア科学」や「イスラーム文化」ページがヒットします。まずは「アラビア科学」ページから。

1)アラビア科学(アラビアかがく)とは、アラビア語で記述された科学であり、イスラーム世界に発展した科学である。イスラーム科学ともいう(♯定義と呼称)。
2)8世紀ごろからイラン、インドの学知を取り入れながらヘレニズム文明の遺産をアラビア語へ翻訳することで発展しはじめ、10−11世紀に最盛期を迎え、15−16世紀ごろには停滞した(#歴史)。
3)定義と呼称:
4)中村(1993)は「アラビア科学」の一般的定義として「アラビア語で記述された科学」という定義を紹介し、「イスラーム科学」の一般的定義として「イスラーム世界に発展した科学」という定義を紹介している。
5)この場合、両者は同じ概念を指す。
6)しかし、どちらの呼び名にも、それぞれ問題があることはよく知られている。
7)「アラビア科学」といっても、アラビア半島を中心とする地名としての「アラビア」でのみで発達したわけではない。
8)「アラビア科学」が発展した地域は中央アジアからイベリア半島までいたる広大な範囲であり、その担い手もペルシア人など非アラブが多く、多様である。
9)「イスラーム科学」といっても、その担い手の信仰はユダヤ教やキリスト教など多様である。むしろ初期にはイスラーム教徒が少数派ですらあった。

10)一般的には「アラビア科学」と「イスラーム科学」は同じものだと考えられている。
11)他方で、それぞれの言葉が指す意味内容・ニュアンスが異なるとする主張もあり、たとえば、矢島(1977)は、前者を自然科学と数学に限定する一方で、後者を哲学や歴史学、地理学も含む包括的な概念としている。
12)また、1993〜2012年時点ではまだ広範な支持を得るには至っていないが、記述的な意味での「アラビア科学」ないし「イスラーム科学」(すなわち本項の主題である、「イスラーム世界に発展した科学」)を超えた特別な意味やニュアンスを
   「イスラーム科学」に付加する論者もいる。
まあ、この辺りは専門家の争いなのでしょう。
13)英語圏ではIslamic scienceと呼ばれることが多い。

14)歴史:
15)イスラム帝国が形成されアラビア語が学問の言語として広い地域で使われるようになる以前の、エジプト、メソポタミアといった古代オリエントの文化や古典古代のギリシャ、ペルシア、インド、中国などで発展していた科学をもとに発展した。
古代では現在とは異なり、知識の流れは堰止められ、普遍しないのです。
16)法学・神学・語学・文学などのアラブ人伝来の「固有の学問」があったが、これに対し、上記のようにしてイスラム世界にもたらされた学問には哲学、論理学、幾何学、天文学、医学、錬金術などがあり、博物学、地誌学などとともに
   「外来の学問」と呼ばれた。
これは中国などでも同様でしょう。
17)ただし、外来の学問であっても正確な知識を求めることはハディースに照らしても神の意思を知るためのイスラムに相応しい行為とされ、「固有の学問」を修める学者が「外来の学問」を兼修することはまったく珍しいことではなかった。
この聡明さが、江戸時代の日本には無かったのです。(笑)
18)ムスリムの治める地域において、ムスリムを中心とする人々が科学の研究へと進み始めたのは、8世紀に成立したアッバース朝のもとであった。
19)アッバース朝ではカリフや宮廷のワズィールたちの保護と学術振興の意思に基づいて主にギリシャ語の翻訳が始まり、特に第7代カリフマアムーンが創設した研究施設バイト・アル=ヒクマ(智恵の館)には多くの科学者が集まり、
   ギリシャ科学のアラビア語への翻訳が進められた。
20)マアムーンに仕えた科学者のひとり、フワーリズミーは、インドの天文学や数学を取り入れて、代数学や数理天文学に関する著作を残した。
21)9世紀にはこの成果がアッバース朝の隅々にまで行き渡ったアラビア語による学問のネットワークに乗せられて知識人たちに広く受け入れられ、イスラム哲学の祖として知られるキンディーのように、同時に数学、天文学、医学、論理学、哲学など
   様々な学問に通じた学者が多くあらわれた。
アイデアを出す人間が居ても、それを使える人間が居ないと、社会は豊かには成りません。(苦笑)
22)10世紀から11世紀には、アッバース朝の政治的な衰退とは裏腹に、アラビア科学は空前の発展を遂げ、プトレマイオスの天文学を改良したバッターニー、数学・天文学に通じ光学に関する重要な著書を残したイブン・アル・ハイサム、
   哲学と医学の分野でヨーロッパに大きな影響を与えたイブン・スィーナーらが活躍したが、14世紀から15世紀にかけてアラビア科学は廃れ、以降は科学の中心が西欧に移った。

23)アラビア数学:→詳細は「アラビア数学」を参照
24)特に数学の分野ではアラビア数学がもたらした成果は大きく、代数学や三角法はアラビア数学が開拓した分野である。
25)また、アラビア語とともに使われていた数字は、インドから取り入れたゼロの概念を反映して、ゼロの数字をもっており、これがアラビア数字としてヨーロッパに伝わり、世界中で使われるに至った。

26)医学:→詳細は「ユナニ医学」を参照

27)光学:
28)イブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)はプトレマイオスが導き出した光学を徹底的に批判し分析を行った。
29)彼は、目から光線が放出されることで視覚が生じるというプトレマイオスの理論を否定し、太陽その他の光源から放出された光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を発見した。
30)彼は目の精密な解剖図も著している。
解体新書の目バージョンです。科学を学ぶ人間には、手先の器用さも必要、という事です。(笑)
31)彼の著作『Kitab al-Manazir』(光学の書)はヨーロッパの光学の基礎となったものであり、デカルトやケプラーもイブン・アル・ハイサムの著作から光学を学んだ。
この「光学」は、Civでは古典時代のテクノロジーです。

→光学

32)化学:
33)化学の分野でもアラビア科学の果たした役割は大きい。
34)アラビア語の〇、〇(錬金術)は英語の「alchemy(錬金術)、alchemist(錬金術師)」の基になっており、「chemistry(化学)」という言葉もここから転じている。
35)〇が、12世紀ヨーロッパで羅:ALchemia「Alchimiaアルキミア」とラテン語に翻訳されて紹介され、ヨーロッパの錬金術は、やがて17世紀の科学革命を経てアラビア語の定冠詞「al」が取れて羅:Chimica(化学)となった。
36)また、「アルコール」、「アルカリ」などの名称にもその痕跡を留めている。
37)Kimyaは希:〇(Khemeiaケーメイア)に由来する。「ケーメイア」の語源には諸説あるが、希:〇「Khem(ケム)」 の派生語で、「黒い地」「エジプト」を意味するのではないかと言われている。
38)結局、以下のように変遷したことになる。
   希:〇→希:〇→阿:〇→羅:ALchemia→羅:Chimica→Chemistry
39)この変遷自体が、古代エジプト、古代ギリシアの科学がイスラム世界のるつぼに流れ込み、中世ヨーロッパに伝えられ、科学革命を経て西欧近代科学に繋がるという科学史をそのままに写している。
40)8世紀、 アッバース朝の5代目カリフに仕えたジャービル・イブン・ハイヤーン(羅;geber(ゲーベルまたはジーベル)は、ヨーロッパにおいて伝説的な錬金術師とされ、化学の祖ともされる(レトルトの発明者)。
レトルトとは、科学実験に用いられるガラス製の蒸留器具、だそうです。
41)9世紀のアル・ラーズィー、10世紀のイブン・スィーナー(ラテン名「アウィケンナ」)、ラゼスらも有名である。

→化学

42)科学的方法:
43)イブン・アル・ハイサムは経験知や実験観察を重視し、そこから帰納法的な推論を用いて理論を打ち立てた最初期の科学者である。
   彼の手法(科学的方法)は、彼の著作に学んだロジャー・ベーコンやヨハネス・ケプラーらに受け継がれた。

44)近代西洋科学の基礎:
45)これらのアラビア科学の成果は、12世紀以降にムスリムの手からキリスト教徒に再征服されたシチリアやイベリア半島においてラテン語への翻訳が進められ、近代ヨーロッパ科学の基礎を提供した。
46)また、この時代には数学・天文学の分野でオマル・ハイヤームなどの学者が活躍し、13世紀にはモンゴル帝国のもとで、イスラム科学の先端の天文学が中近東から中国へと伝えられた。
此処でも、騎馬民族が情報の伝達に寄与しています。

47)関連項目:イスラーム哲学、イスラーム建築、知恵の館−バグダードに建設された研究施設、バグダード−イスラム科学が栄えた都市、ハッラーン−イスラム科学が栄えた都市、バグダードの戦い、イスラム黄金時代−イスラム科学が栄えた時代
島津斉彬らなどは、この知恵の館の存在を知っていたのでしょうか? 次は「イスラーム文化」ページです。

1)イスラーム文化(イスラームぶんか)とは、歴史的にイスラム教信者に共通する文化的な特徴を指す言葉として用いられる世俗用語である。
2)7世紀にアラビア半島でイスラム教が成立し、初期のムスリム文化は主にアラブ地域で発展した。
3)イスラム帝国の急速な拡大とともに、ムスリムの文化はペルシア、バングラデシュ、トルコ、パキスタン、タタール、モンゴル、中国、インド、マレーシア、ソマリ族, ベルベル人、エジプト、インドネシア、フィリピン、東ローマ帝国、アンダルス、
  シチリア人、バルカン半島、西洋など広範な地域や人々に影響を与え、同時に同化してきた。
4)専門用語としての使用:
5)イスラーム文化はそれ自体が議論の多い用語である。ムスリムは多くの異なる国や地域に居住しており、ムスリム間における文化的な連帯を分離することは難しい。
6)人類学者や歴史家は宗教が文化に大きな影響を与えている地域としてイスラームに関する研究を行なっている。

7)イスラームの著名な歴史家であるマーシャル・ホジソン(英語版)は自身の著作である「イスラームの試み」の中で、「イスラームの(Islamic)」や「ムスリム(Muslim)」と言う用語を世俗的な利用と対比しながら宗教用語として利用する
  難しさを述べている。
8)彼はイスラームやムスリムといった用語を純粋に宗教的な現象にのみ使用することでこの問題を解決しようとし、歴史上におけるムスリムの文化や事物に関しては「Islamicate」と言う用語を生み出して差別化を図ろうとした。
9)しかし、この用語は広まっておらず、イスラーム文化の事物とイスラームの宗教的な用語の文脈の違いについては混同されたままである。
イスラム教を信仰する人々の行いにも、それがイスラムに起因したものと、そうではないものが有ります。宗教が、彼らの日常全てを決めている訳では有りません。

10)イスラーム信仰:
11)イスラーム文化は一般的にイスラム教に関連して発展したサラートなどのクルアーンに関するすべての修練とそれ以外のイスラム世界の文化、ベンガル地方のバウルと呼ばれる神秘主義の吟遊詩人による弾き語りなどを含む。

12)言語と文学:→「イスラーム文学」も参照
13)アラビア語:→「アラビア語文学」も参照
14)初期のムスリム文学はアラビア語で書かれており、預言者ムハンマドや、メッカやマディーナのようなイスラム教で特別とされる土地に関する言及が多かった。
15)初期のムスリムの歴史はイスラームの設立に関するものに集中しており、ムスリムの文学はその性格上宗教的な色彩を帯びていた。
16)初期のムスリム文学の形成過程についてはクルアーンやハディース、預言者の伝記(英語版)の項目を参照のこと。
17)ウマイヤ朝の建国とともに、千夜一夜物語に見られるような世俗的なイスラーム文化が発展した。
18)宗教的な内容を含まない世俗的な文学はイスラム帝国内のアラブ地域で広まり、広く共有される文化の一つとなった。

19)ペルシア:→「ペルシア文学」も参照
20)ペルシア語はアッバース朝時代に訪れるイスラーム黄金時代の主要言語であったため、有名なイスラーム文学の多くはペルシア文学であった。詳しくは『鳥の会議』やジャラール・ウッディーン・ルーミーの詩を参照されたい。
このベルシア文学は日本には余り紹介されておらず、浸透していない様です。(ネタ本?)
21)南アジア:→「ベンガル語文学」および「ウルドゥー語文学」も参照
22)ベンガル地方には、伝統音楽に乗せてスーフィズムや土着の文物を歌うバウルという文化がある。高名な人物としてはハーサナ・ラージャ(英語版)やラーラナ(英語版)がいる。

23)近代:
24)近代になり、言語による作家の分類は急速に意味をなくしていく。エジプト人ノーベル文学賞受賞作家ナギーブ・マフフーズの作品は英語に翻訳され世界中で読まれている。
25)オルハン・パムクのような他の作家は国際的な影響力を考慮し、直接英語を用いて書物を著した。

26)劇場:
27)舞台芸術では、イスラーム黄金時代に最も人気のあったのはパペット劇場(影絵、マリオネットなども含む)とタージヤと呼ばれるイスラム教の歴史(英語版)に基づいた受難劇である。
28)特に、シーア派の戯曲はアリー・イブン・アビー・ターリブの息子であるハサン・イブン・アリーやフサイン・イブン・アリーのシャヒード(英語版)(殉教)を多く描いている。
29)中世のアダブ(英語版)文学に記録されているアクラジャ(akhraja)と呼ばれる大衆劇があったが、パペットやタージヤの劇場よりは開催が小規模だった。
30)トルコの影絵劇場カラギョズ(英語版)は広範な地域の影絵に影響を与え、影絵はインドを経由して中国へと伝わった。
31)後に中国からモンゴルを経由して中央アジアのテュルク系民族へも伝わった。
32)影絵芸術は中央アジアからテュルク系民族が移動してきたことでアナトリア半島へも伝わった。
33)他の学者は影絵は中央アジアからではなく16世紀にエジプトからアナトリア地方へと伝わったと主張している。
34)彼らはセリム1世が1517年にエジプトを征服した際に、歓待の場で影絵を鑑賞したと主張する。
35)セリム1世は影絵に強く惹かれ、イスタンブールの彼の宮殿にも影絵のパペットを持ち帰った。
36)彼の21歳の息子、後のスレイマン1世も影絵を観覧して大いに興味を持ち、たびたび観覧した。
37)従って影絵劇場がオスマン帝国の宮殿にも作られたとしている。

38)他の地域ではこれらの影絵は「カーヤール・アッ=ジール(khayal al-zill)」として知られている。これは影絵にドラムやタンバリン、フルートによる生演奏をつけたものであり、「煙、火、雷などの特殊効果や効果音によって人々の笑いや身震いなどの
   興奮を引き出す」。
39)イランでは1000年以前よりパペットの存在が知られていたが、糸による操り人形による人形劇に人気があった。
40)パペットによる人形劇としては18〜19世紀ガージャール朝時代にトルコから流入してきた「ケイメー・シャーブ=バジ(Kheimeh Shab-Bazi)」がある。
41)「ケイメー・シャーブ=バジ(Kheimeh Shab-Bazi)」は音楽演奏者と「モルシェド(morshed)」もしくは「ナーガール(naghal)」と呼ばれる話者によって構成されるペルシアの伝統的なパペット人形劇である。
42)この劇は「ガーフヴェ・カーヴェ(Ghahve-Khave)」と呼ばれる伝統的な喫茶店で行われることも多い。
43)劇は「モルシェド(morshed)」とパペットの対話により進行するものだった。
44)パペット人形劇は現在もイランで非常に人気があり、冒険譚のロスタムとソフラーブ(英語版)はその代表的な例である。)
単純な劇が好きだという事は、社会がそれだけ複雑化していないのでしょう。(笑)

45)祝祭:
46)イド・アル=フィトル、イード・アル=アドハー、アーシューラー、預言者生誕祭、イスラー・ワル・ミラージュ(英語版)、ミド・シャーバン(英語版)を参照のこと。

47)結婚:→詳細は「イスラームの結婚式」を参照
48)イスラームの結婚式は非常に重要なものと考えられている。最後のイスラム教の預言者であるムハンマドは「結婚は信仰の半身である」と述べた。
49)ハディースには結婚と家族に関する賞賛の言葉が数多く並べられている。
50)イスラームにおいて、結婚はシャリーアによる法的なつながりと社会契約の役割を果たす。
シャリーアとは、イスラム教の法規の事です。

51)芸術:→「イスラム美術」も参照
52)イスラーム研究(英語版)の一部であるイスラーム美術では歴史的に幾何学的文様や花柄、アラベスク、カリグラフィーによる抽象的な装飾を主要な描写方法として取り入れてきた。
53)人間描写を主に扱ってきたキリスト教芸術(英語版)と異なり、イスラーム美術では人間を含む生物の描写を行わない。
席亭などは、生物や人間の持つ「業」に正面から向合わない限り(〜仏教)、本物では無いと思います。
54)イスラーム美術は通常アッラーを題材として描かれることが多いが、イスラム教は偶像の使用を禁じているため、幾何学的な文様で表される。
55)そのパターンはアラベスクの文様と似ており、幾何学文様を繰り返し使用することで構成されるが、秩序や自然といった概念を表現する際には必ずしも使用されるわけではない。

56)カリグラフィー:→詳細は「イスラームの書法」を参照
57)生きた動物の表現を禁止するクルアーン崇拝の教えから、イスラム教信者はイスラームの書法を芸術へと発展させてきた。
58)イスラーム書家はクルアーンの言葉やことわざを芸術対象として扱い、クルアーンの文言に現れるアラビア語の文字の流れを芸術として表現した。

59)武道:回族の中国武術、シラット、ヴァルゼシェ・バースターニー(英語版)、ヤールギュレシ、クラッシュ

60)イスラーム建築:→詳細は「イスラーム建築」を参照
61)イスラーム建築の特徴:
62)イスラーム建築はムハンマドによりマディーナに建設された最初のモスクから継承されている様式を指す。
63)他にはイスラーム普及以前にあった教会やシナゴーグを改修した様式もある。
   ・広大な中庭にはしばしば中央に礼拝広場が設置される(原型は預言者のモスク)
   ・ミナレットや塔(光を表すアラビア語の「ヌール(nur)」という語にその名の由来があるウマイヤド・モスクに見られるように、トーチライト付きの見張り台として使われていた)。
    世界最古のミナレットはチュニジアのケルアンにあるウクバのモスク(英語版)にあるミナレットである。8世紀から9世紀にかけて建設された、3層から構成される壮麗な塔である。
   ・ミフラーブやメッカの方向を向いた壁にあるくぼみ部分。ユダヤ教のシナゴーグに見られるモーセ五書の巻物設置のためのくぼみやペルシアのミトラ教の「メフラーブ(Mehrab)」(ペルシア語:〇)や
    コプト正教会の教典の設置に利用されたくぼみ部分を利用したことに由来すると考えられている。
   ・ドーム(イスラーム建築における早期の使用例としてはマディーナの8世紀のモスクがある)
   ・異なる区画をつなぐイーワーンの使用
   ・幾何学的な形状と繰り返しによる構図(アラベスク)
   ・装飾体のアラビア文字の使用
   ・シンメトリー構図の採用
   ・沐浴施設
   ・鮮やかな色彩の使用
   ・外観よりも内部の空間的構図を重視した建設方法

64)イスラーム建築に対する解釈:
65)イスラーム建築に対する一般的な解釈は以下のものを含む。
   ・アッラーの万能性が繰り返しを多用した様式により表現されている。
   ・イスラム教で表現が制限されている人間や動物の絵が建物の装飾にほとんど用いられていない。葉の模様はしばしばモチーフとして利用されるが、同様の理由により一般的に簡略化された定型的なものにとどまっている。
   ・クルアーンからの引用文へのカリグラフィー使用により建物内部の芸術性を高めている。
   ・イスラーム建築は中庭や教室といった建物の外部からは見えない内部の空間の美を重視するため「ヴェールの建築」と呼ばれる。
   ・大きな尖塔やミナレット、広大な中庭などの印象的な建築方法
砂漠は太陽光が強いので、遮光の意味も有るのでしょう。

66)音楽:→詳細は「イスラーム音楽」を参照
67)多くのムスリムは普段より多くの音楽に親しんでいる。 イスラーム音楽はムスリムのための宗教音楽であり、公共の場や個人的な礼拝の際に演奏が行われ、口ずさまれている。
誤解を恐れないで言うならば、音楽は論理的な思考には邪魔だと思います。脳の別な部分を刺激する為、邪魔に成るのです。(苦笑)
68)イスラム国家のハートランドはアラビア半島と中東地域、北アフリカ、エジプト、イラン、中央アジア、インド北部、パキスタンとなっている。イスラム教は多文化にわたって受容されている宗教であるため、イスラム教信者による音楽表現は
   多岐にわたり、それぞれの地域の土着の音楽と結びつくことで様々な音楽スタイルを生み出している。
   ・ナシード
   ・アラブの古典音楽
   ・イランの宗教音楽(英語版)
   ・ヒンドゥースターニー音楽
   ・カッワーリー
69)セルジューク朝はアナトリア半島を征服し、オスマン帝国はイスラム帝国を築いた。これらの国々はイスラーム音楽にも強い影響を与えた。(トルコの古典音楽を参照)
70)サハラ砂漠以南のアフリカ地域やインドネシア、マレーシア、フィリピン南部などにも多くのイスラム教信者がいるが、これらの地域ではイスラーム音楽はさほど影響力を持たなかった。
71)南インド:マッピラ・パーットゥ(英語版)、ドッフムットゥ(英語版)
72)これらの地域では600年前後に行われたイスラム教国家による侵略以前から交易でイスラム教国家と結びつきがあり、イスラーム音楽もまた交易品とともに伝わったと考えられる。
73)しかし、記録の欠損から、イスラーム音楽が伝わってくる以前の音楽については推測以外に知る方法はない。
74)イスラームは音楽にも強い影響力を持っており、初期のカリフのもとで領土を拡大し、遠方の地域との交易を推奨することで広範な地域へと伝わった。
75)ムスリムの神秘主義であるスーフィズムはイスラーム音楽の広がりとともにこれらの地域に伝わっていった。

次はモンゴル帝国迄の繋ぎ、「イスラーム世界の拡大」です。(笑)

→イスラーム世界の拡大