イスラーム世界の拡大
Civの各文明の中ではペルシアのダイレオス1世が強いのですが、アラビアのハールーン・アッラシードもソコソコは強いです。(笑)
先の「ペルシアとイスラーム」ページでは、アケネメス朝やサーサーン朝が最大版図を有していました。
Wikiで「イスラーム世界の拡大」を調べると、「シスラーム黄金世代」や「イスラム帝国」ページがヒットします。
ですが先の「ペルシアとイスラーム」ページとの整合性を取る為に、まずは「イランの歴史」の§文芸復興とイラン系諸王朝の時代から記述します。
1)文芸復興とイラン系諸王朝の時代:
2)アッバース朝の全盛は長くは続かなかった。ハールーン・アッ=ラシードの子、アミーンとマアムーンの内乱は全土に影響し混乱状態を導いた。
3)このような中で頭角を現し、反乱討伐に派遣されたホラーサーン総督となったイラン系マワーリーの将軍ターヒル・イブン・アル=フサインがニーシャーブールを中心に半独立政権を立てた。
4)半独立というのはカリフからの直接の支配は受けないものの、アッバース朝によって支配権を追認されアミールとして正統性を確保したためで、これがターヒル朝(821年−873年)である。
5)その後、9世紀後半には都市任侠集団ともいえるアイヤールを出自としてイラン東部スィースターンに成立したサッファール朝(867年−903年)、マー・ワラー・アンナフルにブハラを首都としてサーマーン朝(875年−999年)という
いずれもイラン系の王朝が成立した。
6)これらの王朝もアッバース朝から認められたアミールによる半独立政権であった。
7)ターヒル朝は873年、南から侵入してきたサッファール朝に滅ぼされ、そのサッファール朝も北から進出したサーマーン朝に900年、ホラーサーンを奪われている。
8)イラン史ではこれらの王朝をもって「アラブの軛」を脱したとすることもあるが、この評価はイラン民族主義的な色彩が濃く、あくまでアッバース朝下の地方政権と評価するべきである。
9)しかし、この時代が近世ペルシア語がほぼ形成され、ペルシアの伝統やペルシア語への誇りが復活した、ペルシア文芸復興と呼ばれる時代であったのは確かである。
10)特にサーマーン朝はペルシア文芸の保護に熱心でルーダキー、ダキーキー、フィルダウスィーらのペルシア詩の巨人を輩出している。
11)この時代のもう一つの特徴は社会的流動性が活発化したという点である。
12)アッバース朝の内乱はイスラーム世界全体で軍隊の移動、知識人の避難、糧食の移動に伴う取引など人々や物資の流動を激しくした。
13)辺境部にあるイラン系諸王朝、特にサーマーン朝は中央アジア方面のテュルク系遊牧民との抗争を繰り返し、捕虜をマムルーク(奴隷軍人)としてアッバース朝へ供給した。
14)恒常的なイスラーム世界中心部へのテュルク族の移入と、その代価としての銀の流れは巨大なものであった。
15)経済は活況を呈し、人々の交わりは増えてゆく。
16)イラン以外の諸地域における地方王朝の成立もこのような社会的背景があるが、重要なのはこの時期にイラン地域で社会上層部を中心にイスラームへの改宗が飛躍的に進むことである。
17)まさにこの時期に人々の生活・交流の規範となる文化――イスラーム的ペルシア文化が形成されたのである。
18)換言すればイランやテュルクの人々がイスラーム文化に参入し、イランのイスラーム世界への統合が起こったといえよう。
テュルク系民族とは、チュルク語族の言語を使用する民族集団で、ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫き、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地帯を中心にシベリア、中央アジア、西アジア、東欧などに広く分布、トルコ系諸民族、とあります。
19)テュルク族の参入と黄金時代
20)カスピ海沿岸ではイスラーム化は遅々として進まず、アッバース朝もたびたび侵攻を行なっているが、恒久的な支配権を打ち立てることは出来なかった。
それだけ、遊牧民族は強いのでしょう。それに、お宝も少なそうです。(笑)
21)このような中でシーア派がこの地域に勢力を徐々に扶植し、9世紀後半にはシーア派の一派ザイド派のアリー朝が成立するなど地域独自の勢力が形成されていた。
22)10世紀にはズィヤール朝が成立(927年)、ザンジュの乱ののち衰退著しいアッバース朝の領域へアルボルズ山脈を越えて進出してゆく。
23)この過程で優秀な歩兵としてダイラム人が脚光を浴び、その指導者のブワイフ家が932年、ブワイフ朝を建てた。
24)ブワイフ朝はその後イラン高原からイラクを席捲、945年にはバグダードに入城して、アッバース朝カリフからアミール・アル=ウマラーに任じられた。
25)配下の軍人にイクターとして徴税権を分与して軍事力を確保する一方、統治権は自らのもとにおいた。
26)またブワイフ家はシーア派を奉じており、スンナ派のアッバース朝がその支配権を承認するという状況を引き起こした。
27)この時代には西方エジプトではシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がカリフを称し、アッバース朝カリフの権威は地に落ち、現実の支配者に正統性を付与する存在に過ぎなくなる。
28)同時期、ホラーサーン方面ではテュルク族が政治の表面に現れてくる。
29)9世紀半ば頃に中央アジアの草原地帯に形成されたカラハン朝が10世紀半ばには大勢力となってマー・ワラー・アンナフル方面へ進出してきた。
30)伝承では960年、20万帳に及ぶテュルク系遊牧民がイスラームへ改宗したという。
31)これ以降、カラハン朝はサーマーン朝とマー・ワラー・アンナフルとホラーサーン北部を巡って激しく争う。
32)一方962年、サーマーン朝のテュルク系奴隷軍人でガズナ太守となったアルプテギーンがサーマーン朝から半独立、勢力を伸ばして972年にはガズナ朝となる。
33)サーマーン朝は北からカラハン朝、南からガズナ朝に挟撃され999年に滅亡した。
34)11世紀初めのイラン世界の勢力配置は北東から順にマー・ワラー・アンナフルにカラハン朝、ホラーサーンにガズナ朝、イラン高原にブワイフ朝という状況であった。
35)カラハン朝、ブワイフ朝が内紛に見舞われて弱体化する一方、998年に即位したマフムードの下でガズナ朝は最盛期を迎え、北インドから西部イランにまで遠征しており、インドのイスラーム化はこの頃に始まる。ガズナ朝はサーマーン朝を継いで
ペルシア文化を保護した。
36)しかしマフムードが1030年に没するとガズナ朝は急速に勢力を後退させ、イラン世界全体が混乱状態に陥る。
37)9−10世紀はイラン世界が東西にやや分立する時代であった。
38)直轄地の多い西方が内乱で疲弊してゆく一方、東方ではサーサーン朝以来の在地勢力が温存され生産力の拡大が見られた。
39)これを背景に政治勢力も東西に分かれたが、ガズナ朝の後退後にこれを克服したのがトゥグリル・ベグ率いるオグズ系テュルク族のセルジューク朝である。
40)セルジューク朝は、遊牧的部族紐帯を維持したままイスラームへと改宗、集団としてイスラーム世界に参入して王朝を開いたという点で、これ以降の西アジアにおけるテュルク系諸王朝の嚆矢ともいえるものである。
41)セルジューク朝は1038年のニーシャープールへの無血入城ののちホラーサーンでガズナ朝を破って、さらに南方・西方へと転じて勝利を得る。
42)1055年にはトゥグリル・ベグがバグダードに入城、アッバース朝カリフから外衣と賜与品を与えられ、スンナ派ムスリムの支配者としてスルターンの称号を正式に認められた。
43)続くアルプ・アルスラーン、マリク・シャーのもと、セルジューク朝は東部アナトリア、シリアへと勢力を広げてゆく。
44)地中海から中央アジアに及ぶこの広大な帝国の行政を担ったのがペルシア人官僚たちであった。
45)セルジューク朝の行政用語はペルシア語であり、在地の行政・司法を担うカーディーらもペルシア人であった。
この辺り、中国の歴史にも似ています。
46)ガズナ朝にも見られるが、このようなペルシア系文人官僚をタージークといい、行政はタージークが、政治と軍事はテュルク系を始めとする遊牧民が担い、さらにペルシア語を共通語とする枠組みがセルジューク朝のもとで完成した。
この辺り、軍事力の強い遊牧民族と文化の高い定着民族の特徴が生かされています。ダイバーシティの走りでしょうか?
47)イラン史を専門とする羽田正はこの体制を持つ世界を「東方イスラーム世界」と呼ぶ。このような体制は以降、20世紀に至るまでイラン世界の歴史の骨格となるのである。
ですから、あの大モンゴル帝国の雛形も既に有るのです。
48)タージークの頂点に位置したのが、宰相ニザームルムルクであった。彼は自らペルシア散文の名著『統治の書』(スィヤーサト・ナーメ)を著す一方、文芸・科学を保護し、
レイ、エスファハーン(イスファハーン)、ニーシャープール、バルフ、マルヴなどの都市を中心にペルシア文化の黄金期が訪れる。
49)宰相は全主要都市にニザーミーヤと呼ばれるマドラサ(学院)を設け、あるいはジャラーリー暦を生み出すウマル・ハイヤームの天文台建設を後援するなどした。
50)またセルジューク朝の主要都市の一つたるバグダードにアブー・ハーミド・アル=ガザーリーなど、イスラーム史上に名高い学者らを招聘、その活動をも後援した。
かなりの文明強化です。辺境に在る国ほど、教育を気にして、力を入れるのかも知れません。(〜日本、長野県、笑)この辺りで、「教育」テクノロジーを記述する事にします。
→教育
51)スンナ派の保護者として君臨したセルジューク朝の脅威となったのは、イラン内のシーア派急進派であるイスマーイール派であった。
52)ファーティマ朝は10世紀後半以降、イスラーム世界全体にイスマーイール派の宣教員(ダーイー)を送り込んでいたが、この頃には東部山岳地帯、エスファハーン、アルボルズ山脈地帯に勢力を扶植。
53)1090年に現在のテヘラン北方にアラムート城砦(英語版)を奪取すると、これ以降150年間にわたって散在する根拠地周辺を支配してイラン高原に無視できない勢力(ニザール派)を築き上げた。
54)暗殺などの手段を用いて立場を確立するその政治手法は王朝統治者やスンナ派住民らに特に恐れられた。
55)トルコマーンと東方イスラーム世界:
56)セルジューク朝のもと、政治・軍事をテュルク系などの遊牧民が担い、行政・文化をペルシア系の者が担う東方イスラーム世界が現出した。
57)13世紀にはモンゴル帝国がイラン高原を征服しイルハン朝が成立する。
58)この時代、遊牧民の機動力に基づく軍事的優位性は圧倒的であった。
この辺りで、「騎乗とパルティアンショット」テクノロジーを記述する事にします。
→騎乗とパルティアンショット
59)こうした勢力は権力中枢所在地に広大な牧草地を必要としており、この時代のイラン高原の歴史は、東方のホラーサーンやマー・ワラー・アンナフル、あるいは西方のアゼルバイジャンから東アナトリアに基盤を置く勢力による角逐の歴史
であったといえる。
60)イルハン朝崩壊後にはマーワーランナフルからティムールが大帝国を築く。
61)その勢力が弱まると、西方の黒羊朝、白羊朝東方のティムール朝が対峙する状況となる。
62)やがて16世紀への転換期にアゼルバイジャン方面からサファヴィー朝(1502年−1736年)がイラン高原を統一する。
63)サファヴィー朝はシーア派を国教とし、ここにイランのシーア化が始まる。
64)中期のシャー・アッバース1世は都をイラン高原中央のエスファハーンに移し全盛の時代を迎える。
65)サファヴィー朝崩壊後も遊牧系のナーディル・シャーのアフシャール朝、カリーム・ハーンのザンド朝がそれぞれ短期間イランを支配し、同じくトルコマーン系のガージャール朝(1795年−1925年)が成立する。
66)遊牧勢力の優位性が揺らぐ中で、東方イスラーム世界もまたその変容を余儀なくされる。
67)サファヴィー朝中期頃から、イラン世界は縮小を始め、マー・ワラー・アンナフルはトルキスタンとしてイラン世界から離れ、そしてドッラーニー朝以降ホラーサーンもまたアフガニスタンとイラン辺境部に二分される。
68)さらに西方も東アナトリア・イラク方面もオスマン帝国との間に完全な国境線が敷かれ、ここに東方イスラーム世界は終焉を迎える。
69)ガージャール朝はうち続く戦敗によってヘラートやカフカズを失い、今日ある姿での国民国家「イラン」の原像が立ち現れてくることになる。
70)セルジューク朝の分裂とホラズム・シャー朝:→詳細は「セルジューク朝」および「ホラズム・シャー朝」を参照
71)セルジューク朝はマリク・シャーの没後、遊牧的分割相続の影響もあり分裂が始まる。
72)イラン高原方面を治めたのが、宗家大セルジューク朝であるが、シリア、イラク、ケルマーン、ルームなどの地方政権が分立し、各政権間およびその内部において抗争が繰り返され、政治的統一は失われてゆく。
73)この間にもテュルク族の流入は続き、セルジューク朝は彼らをアナトリアなど辺境部に送り出しており、これがアナトリアのテュルク化のきっかけとなっている。
74)1141年に大セルジューク朝のアフマド・サンジャルがカトワーンの戦いでカラキタイに敗れ1157年に亡くなると、大セルジューク朝は決定的な混乱に陥る。
75)このときアラル海東南方に独自勢力を築きつつあったホラズム・シャー朝はアラーウッディーン・テキシュのもとで内紛を克服、イラン高原へと進出し1197年、アッバース朝カリフからイラクからホラーサーンに至る支配権を認められた。
76)アラル海北方出身の遊牧民カンクリ、キプチャクの軍事力を背景にホラズム・シャー朝は次代アラーウッディーン・ムハンマドのもと13世紀初に最盛期を迎えた。
77)しかし1219年にチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国軍が侵攻を開始(チンギス・カンの西征)。
78)ホラズム・シャー朝は決定的な敗北を喫し、西方へ移りアゼルバイジャン地方を本拠地とするようになるが、1230年にルーム・セルジューク朝などの中東のイスラーム国家の連合軍との戦闘に敗れる。
漸くチンギス・カンが登場しました。以下は省略します。まずは「イスラム帝国」ページから。
1)イスラム帝国(イスラムていこく、アラビア語:〇、英語:caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。
席亭も、イスラムには寛容と平等が有ると思います。そしてこれが、布教の原動力なのでしょう。(効率は無いかも、笑)
2)定義:
3)この用語は、イスラム帝国と呼ばれる政権自身の用いた呼び名に基づいたものではなく、現代の歴史叙述の上で便宜的に用いているものである。
4)現代日本の用例では、おおよそ2つの使い方がある。
1.イスラム国家の帝国的な支配体制のうち、アッバース朝において実現された、ムスリム(イスラム教徒)であれば平等に支配される国家体制のこと。
正統カリフ時代からウマイヤ朝の時代において、ムスリムであっても軍人として俸給(アター)を受け、人頭税(ジズヤ)を免除されるのはアラブ人のみというように、アラブが支配階級として君臨していた体制を指して「アラブ帝国」と呼ぶのに
対比する形で用いられる。世界の歴史学者の間では、この理解が一般的である。
2.イスラム世界の中心的な王朝を漠然とイスラム帝国と呼ぶもの。日本において「イスラム帝国」という用語は、一般的にこのように理解されていることが多いようである。
イスラム教では民族平等ですから、(氏神などではなく)世界宗教な訳です。
5)大食:
6)大食(タージ)は、ペルシャ語の(〇) の中国語音訳である。元来はアラブ人のことであるが、拡大してイスラム教徒全体や、その国家を表すようになった。
席亭も、大食=アラブ人とは知りませんでした。
7)(〇)は、アラブの有力部族だったタイイ族 (Tayy) の名から来ている。タジク人と同語源という説もある。
8)政権
9)正統カリフ時代のイスラム国家:
10)イスラム教の開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちが構築した国家。
11)首都はムハンマド以来のイスラム共同体の所在地であるマディーナ(メディナ)がそのまま使われた。
メディナはサウジアラビア西部にある都市で、メッカに次ぐイスラム教第2の聖地、とあります。その参拝路は、確か西方の紅海側から上陸した筈です。
12)初代カリフのアブー=バクルのときアラビア半島のアラブ人を統一、第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブのときにはシリア地方、エジプト、イラク、イランにまで兵を進めて、アラブ人が多民族を支配する帝国を築き上げた。
13)第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブのとき、首都をイラクのクーファに移したが、同じころ内部対立による不満が高まり、反乱が続発する。
14)第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンおよび第4代アリーは反対派により暗殺された。
宗教よりも、政治の方が強い訳です。(苦笑)
15)ウマイヤ朝:→詳細は「ウマイヤ朝」を参照
16)ダマスカスのウマイヤド・モスク:現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である。
ダマスカスはシリアの首都で、ベイルートの南東に在ります。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られるそうで、都市圏全体では400万人に迫るそうです。ダマスカス鋼は有名です。
17)アリーの暗殺後、アリーの政敵であったシリア総督ムアーウィヤが自らカリフに就任して建設した政権。
18)就任に至る経緯、およびムアーウィヤがカリフ位の世襲化を始めたことから、これまでの4人の正統カリフに比べて合法性で劣るとみなされたが、大多数のムスリム(スンナ派)はウマイヤ朝の支配を承認したので、
イスラム帝国最初の世襲王朝となった。
19)ウマイヤ朝は正統カリフ時代末期の内紛を収めて安定した支配を構築すると、西では北アフリカ、アンダルス(イベリア半島)、東ではホラーサーンまで勢力を広げ、アラブ人が異民族を支配する『大世界帝国』へと発展した。
民衆に承認されるのは、結構な事です。(笑)
20)アッバース朝:→詳細は「アッバース朝」を参照
21)東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは当時、地域最大の都市だった。
22)アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、インド、アラビア、ペルシア、中華、ギリシアなどの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。
23)8世紀半ば、ウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家を指導者として行われた革命によって成立した政権。
24)ホラーサーンを王朝発祥の基盤とする東向きの帝国で、イラクのバグダードを首都とした。
25)アンダルスではウマイヤ朝の残党が後ウマイヤ朝を建設してアッバース朝の支配から離れたが、それを除いた帝国のほとんどを継承し、さらにタラス河畔の戦いで唐軍を撃退すると中央アジア、インドまで勢力を広げてイスラム国家としては過去最大の
版図を実現した。
26)王朝の初期にはアッバース革命に参加したイランのペルシア人たちが政権において官僚として活躍し、地方でもアラブ人の絶対支配体制が解消されてムスリムの原則的な平等が実現した。
27)このため、非アラブ人はイスラムに改宗することによる税制上のメリットが得られるようになり、アラブ化・イスラム化が進むことになる。
28)また、カリフの政治はイスラーム法に基づいて実施されるようになった。
29)このため特にアッバース朝こそを「イスラム帝国」と呼ぶこともある。
帝国には最大版図が必要なのでしょう。(笑)
30)しかし、9世紀に入ると地方が次第に自立し始め、早くも統一が失われていった。
31)10世紀には北アフリカで興ったファーティマ朝がシーア派を奉じ、アッバース朝に対抗してカリフを称した。
32)さらにアンダルスの後ウマイヤ朝もファーティマ朝との対抗上カリフを自称し、イスラム世界に3人のカリフが並存する本格的な分裂時代に入った。
33)また、バグダードのアッバース朝中央ではマムルーク(奴隷身分出身の軍人)がカリフにかわって実権を握り、アッバース朝の支配は弱体化した。
34)946年にはイランのシーア派王朝ブワイフ朝がバグダードの支配権を握ってカリフ政権は形骸化し、1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝がカリフからスルターンの称号を与えられて世俗の支配権を譲られ、
カリフは名目的な支配者となっていった。
35)セルジューク朝の衰亡後、バグダード周辺の支配力を回復しつつ、イスラム帝国の支配者カリフとして各地のスンナ派諸王朝に名目的な宗主権を認めさせていたアッバース朝がモンゴル帝国によって完全に滅ぼされるのは1258年のことである。
36)以後もカリフを主張する者は現れたが、スルタンの権威づけの道具に過ぎなかった。
37)関連項目:イスラム共同体、イスラム国家、イスラム王朝、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝、カリフ、スルターン、アッバース革命、オスマン帝国、知恵の館
次は「イスラーム黄金時代」ページです。
1)イスラーム黄金時代(イスラームおうごんじだい、英語:Islamic Golden Age)とは、1258年のバグダードの戦いまで続いたアッバース朝時代の呼称である。
2)イスラム黄金時代やイスラム黄金期と表記されることもある。
3)イスラーム黄金時代は8世紀中期にアッバース朝が成立し、ダマスカスからバグダードへの遷都が行われて始まった。
4)アッバース朝の学問に対する姿勢は「学者のインクは殉教者の血よりも尊い」といった、知識の価値を強調するクルアーンの訓戒やハディースの姿勢に大きく影響を受けた。
何やら「ペンは剣よりも強し」ですが、それは後世談であって、現状は首が胴から離れる、です。(苦笑)
5)アッバース朝時代、アラブ世界は科学、哲学、医学、教育などの知識の集積所となった。
6)アッバース朝は知識人の庇護を行い、バグダードに知恵の館を建設した。知恵の館ではムスリムの学者もそうでない学者もすべての世界の知識を収集し、アラビア語へと翻訳していた。
7)他の地域では失われてしまった多くの知識はアラビア語やペルシア語へと翻訳された後、さらにトルコ語やヘブライ語、ラテン語へと翻訳された。
つまりはこの時代、アラビア語、ペルシア語が世界語、標準言語な訳です。
8)この時代、アラブ世界は古代ローマ、中国、インド、ペルシア、エジプト、ギリシャ、ビザンツから得た知識を集積、大きく発展させ文化の中心地となっていた。
ですからローマではなくギリシアの正統な後継者はイスラーム、という訳です。キリスト教国は残念でした。(苦笑)
9)黄金時代の成立:
10)バーナード・ルイスは次のように述べている。
イスラム世界は古代中東、ギリシャ、ペルシア帝国の知識、技術を受け継いだ。彼らは中国から渡来した紙の製造方法やインドからもたらされた十進法のように、イスラム世界外部から入ってきた重要な新知識を手に入れたのだ。
紙や数学に関しては、既に言及しています。
11)イスラーム芸術:→詳細は「イスラーム美術」を参照
12)イスラーム美術の黄金時代は750年から16世紀まで続いた。
13)この時代、ラスター彩などのイスラム陶器、ガラス、金細工、織物、装飾写本、木工技術などが発展した。
→ガラス
→糸と織物
そう言えば木工技術はおろか、林業にも言及していませんでした。この林業については、折を見て記述する事にします。
14)写本の文字の装飾は非常に重要性の高い技術とされ、ペルシアでは細密肖像画(英語版)が発展した。
15)アラビア語の筆記で非常に重要とされたカリグラフィーは写本や建築物の装飾に用いられ、大いに発展した。
16)人間の描画を禁じるイスラム教の教えはカリグラフィー発展の大きな要因となった。
イスラームでは偶像崇拝が禁止されているので、美術の色気はイマイチです。(笑)
17)1560年に制作された寄木細工
18)グラナダのアルハンブラ宮殿、スペイン
グラナダは、ジブラルタル海峡の北東に在ります。
19)哲学:→詳細は「イスラーム哲学」を参照
20)イブン・ルシュドやイブン・スィーナーはアリストテレスの著作の保存に大きな役割を果たした。
識者は、どの資料が大切なのかを良く分かっている訳です。
21)彼らはキリスト教世界、イスラム世界における宗教と関係のない知識の修得を目指していた。彼らは中国やインドからも知識を吸収し、大きく発展させた。
22)イブン・スィーナーやキンディー、ファーラービーなどの思想家はアリストテレス学派(Aristotelianism)やネオプラトニズムといった思想とイスラム教の思想を融合させた。
23)アラビア語の哲学書はラテン語やラディーノ語へと翻訳され、近代ヨーロッパ哲学発展の一因となった。
24)社会学者兼歴史家のイブン・ハルドゥーンや、ギリシャの医学書を翻訳したカルタゴ市民のコンスタンティヌス・アフリカヌス、代数方程式の解法などを記した数学書を著したフワーリズミーなど、優れた人材を多く輩出した。
25)イスラーム黄金時代はムスリムでない学者も丁重に扱っており、アンダルシア在住のユダヤ人哲学者モーシェ・ベン=マイモーンが例としてあげられる。
開かれた社会な訳です。
26)科学:→詳細は「イスラム科学」を参照
27)イスラーム黄金時代には多くの著名なムスリム、非ムスリム科学者を輩出した。
28)この時代にムスリムの学者がなした功績の一つとして三角法の改良がある。これは月齢の計算を容易にした。この他、光学や天文学の分野でも発展が見られた。
30)医学:→詳細は「ユナニ医学」を参照
31)イスラム医学(アラビア医学、ユナニ医学、ギリシャ・アラビア医学)は、主に古代ギリシャ、古代ローマ、ペルシア、インドの伝統医学の理論と実践を基に発展した。
32)ただし、医師はアラビア人・イスラム教徒に限られず(むしろ著名な医師にアラビア人は少ない)、多様な民族・宗教の医師が活躍している。
某ゲームにも、このアラビア人医師は登場します。
33)イスラム世界の学者にとって、ヒポクラテスやガレノスといったギリシャ・ローマの医師は医学の権威であった。
34)そのため、古代ギリシャ・ローマの医学をもっと利用しやすく、学習や教育が容易なものにするために、膨大で矛盾もある知識を整理し、百科事典や要約を作った。
35)シリア語、ギリシャ語、サンスクリット語の膨大な著作がアラビア語へと翻訳され、これらを基に新しい医学体系が作られた。(アメリカ合衆国国立医学図書館のデジタルアーカイブより)
36)ローマ帝国東西分裂後、西ローマ帝国ではギリシャ語は使われなくなり、西ヨーロッパからギリシャ語の医学書の多くが失われた。
この時点で、西ローマ帝国はギリシアの末裔では無くなった訳です。(笑)
37)ローマ帝国の公用語であったラテン語は、西ローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会の公用語として利用された。
38)日常で話されたわけではなく、公文書やミサ、学術研究などに限られているが、聖職者・貴族といった西ヨーロッパのエリート層は、一般にラテン語による意思の疎通が可能であった。
日本で言う所の、漢文、ですね。(笑)
39)西ヨーロッパでは、12世紀ルネサンスとよばれる時代に古典文化の復興が見られ、イタリアやスペインでアラビア語やギリシャ語の文献がラテン語に翻訳され、ガレノスやヒポクラテスの作品を含む古代ギリシャの医学書が再発見されることになった。
西ヨーロッパでは、文明の継承はルネサンス迄待たなければ成らない訳です。つまりは、イスラーム識者とは差が生じた訳です。
40)翻訳の正確性はともかく、イブン・スィーナーの著書「医学典範」のような体系的な医学書はラテン語に翻訳され、写本や印刷本という形でヨーロッパ中に広まり、西ヨーロッパの医学に大きな影響を与えた。
41)15世紀と16世紀の間だけで医学典範は35以上も版を重ねた。(アメリカ合衆国国立医学図書館のデジタルアーカイブより)
それだけ医学書は、ニーズが高かった訳です。
42)中世のイスラム世界では、すべての大都市に病院が建設された。例として、カイロには内科医、薬剤師、看護師などが勤務するカラーウーン病院(英語版)があった。
席亭もこれは意外でした。やはり伝統的に、地中海沿岸は文明度が高いのですね。某都知事も、眼だけは良さそうです。(笑)
43)商業・旅行:
44)ナイル川やチグリス川、ユーフラテス川といった大河川から離れていたため、航行できる河は少なく、海上交通は非常に重要だった。
45)航海学は大きく発展し、原始的な六分儀(カマル)も作成された。地図と組み合わせることで、航海士は陸伝いではなく、海洋の中を航海できるようになった。
ここで漸く、大洋航海術が完成する訳です。
→大洋航海術
46)イスラム世界の航海士は3艘の大型商用帆船を地中海へと漕ぎだす役目を果たした。帆船の名前であるキャラベルは初期のアラブの船の名前であるカーリブ (〇)から採られたと考えられている。
これは席亭も知りませんでした。ですからCivは、キャラベル船を重視している訳です。
47)イスラーム黄金時代には、遠方の国家との交易も行われた。
48)紙は8世紀に中国からイスラム世界へと伝わり、10世紀にスペインへ、さらに他のヨーロッパ諸国へと伝わっていく事になる。
49)羊皮紙、パピルスよりも製造しやすい上に破けにくく、インクの吸収も良いためクルアーンの写本作成の媒体として理想的であった。
50)「イスラム諸国の製紙業者は同時代のヨーロッパよりずっと多くの出版物を製造するため、手書き写本を流れ作業にする方法を考案した」。
51)亜麻を用いた紙の製造技術はイスラム世界から世界の他の地域へと伝わっていった。(アメリカ合衆国国立医学図書館のデジタルアーカイブより)
亜麻はリネンの事で、一年草だそうです。席亭も紙の原料に樹皮ではなく草を使用する事は、意外でした。
52)建築・工学:→詳細は「イスラーム建築」を参照
53)670年に設立されたウクバのモスク(英語版)、現存するイスラーム建築の代表例とされている。ウクバのモスクはチュニジアのケルアンにある。
チュニジアは地中海沿岸、北アフリカに在る国家で、首都はチュニスです。ケルアンは首都の南に在ります。
54)イスタンブールのスルタンアフメト・モスク
写真からは、4本の尖塔が窺えます。
55)12世紀のアイユーブ朝時代の城壁、バブ・アル=バルキーヤー門の実物大レーザースキャン画像。この防壁は入国者を取り囲むことができる構造になっており、通常の市街の壁門よりも安全性や制御面で優れていた。
56)チュニジアにあるウクバのモスク(英語版)は西部イスラム世界最古のモスクであり、以降建築されるモスクの手本となった。
57)ウクバのモスクは初期の大モスクの内、最良の保存状態を保っている重要な建築物である。670年に建築され、9世紀より現在の面影を保ち続けている。
58)ウクバのモスクは正方形による三層のミナレットから構成されており、広大な中庭の周りには柱廊式の玄関と頂点部分が円形状になっている大量の柱に囲まれた礼拝広場がある。
59)847年には、イラクのサーマッラーに大規模な螺旋状のミナレットであるマルウィヤ・ミナレットが建設された。
60)ムーア人は785年にスペインや北アフリカのイスラーム建築の先駆けとなるコルドバ・メスキータの建設を始めた。このモスクの特筆すべき点として内部の架構構造がある。
61)ムーア建築はグラナダの重要文化財であるアルハンブラ宮殿の建設において最盛期を迎えた。
62)アルハンブラ宮殿は赤、青、金で装飾された建物と、広々とした内部空間から構成されている。壁面は葉のモチーフや装飾体のアラビア文字、アラベスク模様などで装飾され、釉薬を塗ったタイルで構成されている。
63)もう一つの独自建築の例としては16世紀ムガル帝国の建築がある。
64)イスラム教とヒンドゥー教の要素を融合させ、1500年代後半、アクバル帝は当時の首都アーグラから西に約40kmのところにファテープル・シークリーを建設し、短期間ながら遷都を行った。
65)モンゴルの侵入と衰退の始まり:
66)セルジューク朝時代のシャトランジの駒、12世紀
シャトランジは、かつて中東で指されていた将棋です。将棋盤は縦*横8(チェスと同じ)で、縦は8よりも大きそうです。
67)11〜12世紀に十字軍がイスラム世界へと度重なる侵攻を行ったが、最大の危機となったのは13世紀におけるモンゴル帝国の侵入であった。
68)1206年、チンギス・カンはモンゴルを中心とする中央アジア一帯に帝国を築いた。
69)その後モンゴル帝国は東は中国から西は古代イスラム帝国やキエフ大公国まで、ユーラシア大陸のほとんどの地域を征服した。
70)通説では1258年のフレグによるバグダードの破壊がイスラーム黄金時代の終焉とみなされている。
71)ティムールのような後年のモンゴル人による帝国のように、彼らは多くの街を破壊し、何百、何千という人々を虐殺した。
72)この破壊行為はメソポタミア文明から続いてきた灌漑用式に取り返しの付かない損害を与えた。
73)以後、モンゴル帝国に屈服したムスリムたちは南西部にあるメッカよりも北東部となる中国へ続く陸路と向き合うことになった。
74)次第に、西アジアに定住したモンゴル人の多くがイスラム教へと改宗し、多くはトルコのムスリムと同化していった。
75)オスマン帝国は彼らの子孫によって建国されたものであるが、一般的にはモンゴル帝国による征服をもってイスラーム黄金時代の終わりとしている。
76)衰退の原因:
77)イスラーム黄金時代の衰退の正確な原因として学者間で合意を得られている要因は少ないが、モンゴル人や十字軍の侵攻による図書館やマドラサ(イスラム教神学校)の破壊に加えて、政治における失態や
イジュティハード(独立を求める要因となった)の窮屈さ、制度化されたタクリード(英語版)(模倣)思考なども衰退の原因として挙げられている。
78)しかしアフマド・Y・ハサン(英語版)は創造的思考の欠如が原因であるとの考察を否定し、科学は常に宗教的要素とは交じり合わないと主張した。
79)彼はその代わりとして14世紀の作家イブン・ハルドゥーンの著作を引用しながら政治的、経済的要素が衰退の原因であると分析している。
まあ、モンゴル侵略の隙を作った、国力低下が原因なのでしょう。(笑)
80)関連項目:イスラム世界の科学技術の歴史(英語版)、イスラーム研究(英語版)、近代イスラーム学者の一覧(英語版)、中世イスラム世界の医学(英語版)、イスラム科学、中世イスラム世界の天文学(英語版)、
ペルシア人科学者と研究者の一覧(英語版)、スペインにおけるユダヤ文化黄金時代(英語版)
次は「ローマの末裔、キリスト教国の反攻」です。(笑)
→ローマの末裔、キリスト教国の反攻