騎乗とパルティアンショット

Civでは「騎乗」は古典のテクノロジーで、「騎士道」は中世のテクノロジーです。「騎士道」を習得すると、ケシクが作れる様に成ります。また「騎乗」は徒歩、交通手段の延長上に有りますから、明らかに11)手足とその力学的な出力のそれです。
Wikiで「騎乗」を調べると、「乗馬」ページがヒットします。

1)乗馬(じょうば、イギリス英語:horse riding、アメリカ英語:horseback riding)とは、馬に乗ること。馬に乗るという行為全般。あるいは、そのための馬、つまり乗用馬。この場合は乗馬をのりうまと読む。
2)移動のため、戦争のため、狩りのため、牧畜のため、気晴らしのため、競技をするためなど、様々な目的のために人々は馬に乗るという行為を行ってきたし、行っている。
3)本記事では馬に乗るという行為を主に解説し、乗るための馬、つまり乗用馬については末尾で解説する。

4)概要
5)人類がどれくらい昔から馬に乗るようになったのかということは正確には知られていない。紀元前4500年ころには馬に乗るようになっていただろう、ともされている。
6)人が馬に乗るようになる前に野生の馬(野生馬)がいて、人類の一部に、野生動物の一部を飼いならす集団が現れて、その飼いならすさまざまな動物の中に馬も加えられるようになり、馬の家畜化が起きた。
7)馬も他の家畜とともにさまざまに活用されるようになったが、こうした馬の利用が始まってからかなりの年月を経てから「馬の背に乗る」という行為を始めた、と考えられている。
馬の背に乗る以外にも、馬にぶら下がる乗り方が有ります。(〜三宝荒神)
8)遊牧民の中に馬にさかんに乗るようになった人々がいる。
9)「遊牧」というのは、何らかの動物を自分の所有物のように扱った上で、一か所に定住しないで、その動物の群れが必要とする水や新たな草を求めて、動物とともに移動する生活を行うことである。
10)遊牧は人が歩いて行うこともでき、世界各地に人の脚だけで遊牧を行っている民族がいる。だが、馬に乗って行うと家畜の群れを統率しやすいし、牧草地から牧草地へと数十km、数百km・・・と移動してゆくのが人が脚で歩いて移動するよりも
   はるかに楽である。
乗馬もハタで見る程、楽では有りません。股ずれも起こすでしょうし、競馬での落馬は死亡に繋がる事も有ります。
11)道も無いような場所の移動を続けなければならないわけだが、馬に乗れば天幕などの荷物を乗せて移動してゆくこともでき、人が荷物を背負う必要も無くなる。
ですが、乗馬が遊牧よりも先行している訳では有りません。

12)たとえば紀元前9世紀(あるいは8世紀)ころからスキタイは、馬に乗りつつ遊牧し、中央アジア(や現在のロシア南部やウクライナあたり)の地域で各地を移動する生活をしつつ、帝国を築いていった。
13)馬に乗って遊牧する民族を「遊牧騎馬民族」という。
14)モンゴル人も遊牧を行っていたわけだが、やはりかなり古い段階で馬に乗るということを始めた、と考えられている(モンゴルでの馬利用の文化についてはen:Horse culture in Mongoliaという記事もある)。
15)19世紀ころからは米国のカウボーイも馬を乗りこなしており、アルゼンチンやオーストラリアのカウボーイも同様である。
16)戦争はもともと馬に乗らずに、つまり戦士(兵士)などが足を地につけた状態で行うものであったが、紀元前8世紀以降あたりから戦争の時に馬に乗ることが行われるようになった。
騎乗よりも戦車(〜エジプト、チャリオット)の方が先です。
17)戦争時に馬に乗ることは紀元前8世紀以前は、ほぼ行われていなかった、とさまざまな証拠を用いて指摘している研究者もいる。
確かに、いきなり騎乗/戦闘は難しそうです。やはり散歩、家畜の管理/遊牧などが先なのでしょう。

18)馬に乗った人は、馬に乗っていない人よりも位置が高くなり、周囲を見下ろすような形になり、周囲の状況、位置関係を把握しやすく、特に槍を用いると、剣しか持たない歩兵との空間的距離を保ってその剣が届かないようにして
   自身の身を護りつつ、しかも斜め上方から歩兵を一方的に突くことが可能になり、圧倒的に有利になる。
19)また馬に乗りつつ槍でなく剣を用いて接近戦で周囲の剣を持つ敵歩兵と対峙する時も、相対的に位置が高いので、自分の首・頭部周辺には敵の剣が届かないが、敵の首・頭部周辺には自分の剣が届くような、独特の間合いが生れ、
   自分の首・頭部は護りつつ、剣を低く振ることで周囲の歩兵の頭部・首を攻撃し致命傷を与えることが容易になる。
20)また、馬という動物は大きいので、慣れない人間にとっては一般に、あまりに接近されると怖いものである。
21)まして戦場で歩兵から見ると、馬という大きな生き物の上に人が乗りさらに大きな一体となって、武器を持ち、殺意を持って接近してくる状態は、非常に威圧感があり強い恐怖を感じさせ、平静心を失い普段より判断力が鈍るものである。
22)つまり、物理的にも心理的にも、馬に乗って戦う側は圧倒的に有利になるのである。
23)軍隊を所有しその指揮をとる王や、軍の中でもリーダー格の者(「将」)が馬に乗るようになり、有利な立場にたった、と考えられている。
24)王族や貴族たちは、戦争を行う宿命にあり、ヨーロッパでは馬に乗ることに慣れその技術を向上させるために普段から馬に乗ったり、閲兵を行い自分たちの武力や地位や経済力を誇示したり暗示するためにさかんに馬に乗った。
25)中世には騎士という身分も誕生した。

26)馬に乗って疾走しながら弓を使う騎射は非常に強力な手段である。
27)人馬が時速数十kmほどの速度で接近して矢を放ちそのまま逃げ去る一撃離脱戦法は、歩兵の側からは対処が難しい。
これはパルティアンショットです。
28)モンゴル人は、世界的に比較しても特に馬をたくみに乗りこなす民族であったが、モンゴル軍の騎馬軍団は騎射を主体とした機動戦により、世界各地の軍を圧倒して進軍をつづけ、はるかヨーロッパまで攻め込んで、モンゴル帝国を巨大な
   世界帝国にした。

29)現代では、警察による警備や、広大な自然公園等での巡回にも用いられている。
30)現代では、乗馬は趣味やスポーツとして人々に楽しまれている。
31)スポーツ競技としては、騎乗の正確さや活発さなどを競う馬術競技や、馬の速さ、着順を競う競馬、乗馬ホッケーとでもいうべきポロ、カウボーイの腕自慢から発展したロデオも行われている。
32)また、競技にとらわれず、野外での乗馬を楽しむ外乗、逍遥乗馬や狐狩りに代表される猟騎、より身近には乗馬学校・乗馬クラブでの練習等、騎乗自体を楽しむためにも乗馬は幅広く親しまれている。
33)また近年、乗馬による心身の癒やし効果の見地より、治療行為としての乗馬(ホースセラピー)がドイツやアメリカから始まって世界に広がりつつある。
34)「乗馬」という言葉は馬に乗ること全般を指す。
35)なお、「馬術」「馬場競技」という別の言葉があるので、馬術や馬場競技と対比させつつ、「乗馬」は「楽しく馬に乗ること」に重点を置いて指すためにも用いられている。

36)日本
37)古代−中世
38)古代の日本では蝦夷が騎射によりヤマト王権側を苦しめたとされる。
奥州藤原氏は俘囚の長と呼ばれ、弓馬に長じていました。また大陸との関係も有りそうです。NHKで遣っていました。
39)女性の乗馬事例としては、「宗教目的での乗馬」もあり(葵祭の「女人列」を参照)、『続日本紀』天平宝字8年(764年)10月30日条に、勅命で、東海・東山の「騎女(むまのりおんな)」を奉るよう指示が出された記述が見られる。
40)また『今昔物語集』(12世紀前半成立)にも、女を馬に乗せ、男は徒歩で丹波国に向かう話がある他、『園太暦』(1311年〜)にも「騎女(めき)」の記述が見られる。
41)女性が軍事目的で乗馬をする例では、平安時代末期の巴御前や平安時代末期〜鎌倉時代の坂額御前がいる。
42)中世・近世の日本になると、武士達は蝦夷の騎射技術を取り入れ、馬術と弓術を武芸として位置づけ「弓馬の道」と呼ぶようになった。
以下は省略します。次はパルティアンショットですが、Wikiで調べると「パルティアンショット」や「騎射」ページがヒットします。まずは「騎射」ページから。

1)騎射(きしゃ)は、騎上(馬に乗った状態)から弓で矢を射ること。対して地面に立って射ることを歩射(ぶしゃ)という。
2)狩猟においては重要な技術であるため、遊牧民にこれを得意とするものが多い。
3)紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。騎馬遊牧民の彼らは牧草を求め常に移動しながら生活、またしばしば馬に跨がり他民族と闘っていたが、彼らのこういった生活文化の中で自然的必要性から騎射は開発・発展して来たものと考えられる。
4)騎射はすぐに中央アジアの遊牧民の間に波及し、フン人、アヴァール人、マジャル人など同様の騎馬遊牧民に次々と取り入れられ、後にモンゴル人にも及び、古代世界に普及して行った。
5)古代において彼ら騎馬遊牧民の騎射術が定住民に及ぼした影響は大きいが、しかし常に移動を繰り返すために当時の彼らの実体は詳しく解っていない。
果たして彼らは文字を持ち、記録媒体に記録したのでしょうか?

6)歴史
7)騎射は世界史的にはスキタイ文化(紀元前8世紀−紀元前3世紀)の初期から存在し、この疾走する馬上から矢を射るという特異性から古代ギリシア人はケンタウロスを想像したという説も生まれた。
8)スキタイ人は上下がやや非対称の短弓の両端に硬い『耳』を取り付け、また鏃を大きな鉄製から小さなブロンズ製にする事で、フン人の弓に勝った。
9)またさらに完成度を高めた弓として、トルコ人はさらに軽量・コンパクトな弓を用い、矢は両端が細く中央部に膨らみを持たせた造りにして飛翔力を高めた。
10)モンゴル人はさらに『ストリングブリッジ』を設けるなど、より速く、貫通力を上げることで、重装騎兵団に対しより有効な戦力となって行った。

11)戦場において弓騎兵の主な役割は軽騎兵と同じく、前哨・斥候兵として敵を攪乱することにある。
12)弓騎兵は接近戦を避けながら、敵の脇、及び後方から敵を素早く急襲する。その為軽装備であり、その機動力を活かして馬を止めること無く前進、後退、右、左へと絶え間なく俊敏に動き回りながら弓矢で敵を攻撃する戦術をとる。
13)敵の武器が届かない距離を保ちながら攻撃をし、着実に敵を後退、飛び道具を持たない敵兵は弓騎兵の攻撃下では手も足も出ずに士気を奪われ隊列を乱した。
Civのケシクでは戦闘後移動が可能な為、同一射点から複数のユニットで攻撃が可能です。これは一般には車掛かりと呼ぶ戦術ですが、何処にも説明が有りません。

14)弓騎兵は概ね重装歩兵に対して脅威となり、特に気温が高く木の無い平坦な地域においては敏捷性に優れる弓騎兵は鈍重な重装歩兵団に対して極めて有利である。
Civでは、重装歩兵はギリシアの槍兵でした。
15)事実、弓騎兵に対抗し得るのは弓矢や弓騎兵のみであった。
16)特に「パルティアンショット」は敵と相対せず退却しながら矢を射続けるため、敵を苦しめヨーロッパ人の間では知られた騎射戦術であった。
17)弓騎兵は『カルラエの戦い(紀元前53年)』、『ワールシュタットの戦い(13世紀)』で中心的役割を果たし、両戦とも敵兵が弓騎兵に対して直接戦闘に固執した為に勝利を収めた。
18)西欧の重装歩兵は機敏な弓騎兵に苦戦し、東方諸国の弓騎兵は十字軍に対し多くの実績を残した。『ローマ書』にはサルマタイの弓騎兵やオスマン帝国のイェニチェリ騎兵が画かれている。
19)遊牧民の弓騎兵に対し勝利した欧州国家は数少なく、『ヤクサルテス川の戦い(紀元前329年)』では名将アレクサンドロス3世(大王)が弓騎兵と戦い打ち負かす事に成功した数少ない歴史的勝利の1つである。
20)アレキサンドロス3世はこの戦いでマケドニア領土をアジアの一部にまで伸ばすが、それでも遊牧国家の中心部を攻略する事は叶わなかった。

21)中世の『ハッティンの戦い』は重装歩兵に対し弓騎兵が執拗な攻撃をしかけ敵の戦意を喪失させる事で勝った古典的な事例である。
22)また、チンギス・ハーンはモンゴル弓を用いた弓騎兵を擁し、他の遊牧国家と同様の戦術で巨大なモンゴル帝国を築きあげ、全盛期には中国大陸からヨーロッパにまで領土を広げた。

23)日本における騎射
24)古墳時代以降、古代東北地方(馬産は青森県青森平野、上北地域南東部まで確認されている)に住んだ蝦夷(えみし)の騎射術と、弥生人から続く長弓術とを取り入れ組み合わせた特徴を持ち、突撃・攻撃力を中世に至るまで高めていった(弓馬)。
25)高い難度のため習得には特別な修練が必要だった。
26)蝦夷自身は短弓を用いた騎射をしていたらしく、日本へ古墳時代に馬・騎馬術が伝わったのと同時に騎射の技術も伝わった可能性がある。

27)古代の騎射
28)日本へ馬が導入されたのは古墳時代の5世紀初期といわれており、古墳から挂甲、直刀、鏃、馬具が一括して出土するようになる。
29)神事である流鏑馬は古くは馬的射(むまゆみいさせ)騎射(むまゆみ)矢馳せ馬(やはせむま)と呼ばれた。
30)朝廷の行事として、端午の節日になると武徳殿に天皇が隣席し、衛府の官人が騎射を披露する「騎射の節」が行われていた。
31)文献においては『日本書紀』の雄略天皇記で騎射の記述がある。
32)雄略天皇が即位する前(456年)、有力な皇位継承候補だった市辺押磐皇子を狩猟に誘い、天皇が「弓を彎(ひきまかな)ひ馬を驟(は)せ」、偽って皇子を射殺したという。これが日本での騎射の初見であると思われる。
33)雄略天皇は5世紀の人物であるので、騎兵の成立時期にすでに騎射の技術があったことを示している。
34)流鏑馬の起源といわれているのが、6世紀中頃(552)年頃に欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前の宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀り「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に
   馬上から三つの的を射させた神事であり、武士の台頭よりかなり古い時期から騎射の技術が普及していた事を伺わせる。

35)日本書紀に天武天皇9年(682年)「朝嬬に幸す。因りて大山位より以下の馬を長柄杜長柄神社に看す。乃馬的射させたまふ」とある。(天武天皇が長柄神社で流鏑馬を催し観覧した。)
36)続日本紀文武天皇二年(698年三月「山背国の賀茂祭の日にもろびとをあつめて騎射(むまゆみ)することをいさむ」とある。(京都府の葵祭で人々を集めて流鏑馬をすることを禁止する)
37)8世紀に編纂された『肥前風土記』には五島列島の海士について、「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」という記述がある。
38)続日本紀に神亀四年(727年)四月癸卯「教下坂東九国軍三万人教二習騎射一、試中練軍陳上」(坂東の9カ国の軍3万人に騎射を教習し軍隊を試練する)とある。

39)中世の騎射
40)平安時代から鎌倉時代にかけて騎射が中心の戦いとなり、鐙は踵まで足全体で踏込む舌長鐙に進化し、馳射時に立ち上がっても身体を振れなく安定できるようになった。

→馬具

41)また、鎧は騎射に特化した形状に進化した「大鎧」が使われるようになった。
42)戦では騎射による一騎討ちで戦ったと考えられているが、実際には集団戦の中で条件が整う場合にしか起こらなかった。
43)文献では2例、『今昔物語集』では源充と平良文が騎射による一騎討ちを行ったという記述があり、『前九年合戦絵巻』に一騎討ちの直前の絵が描かれているのみである。
44)騎射には静止した馬上から矢を放つ場合と、馬を走らせた状態で矢を放つ場合があった。
45)いずれの場合も基本は前方方向への騎射であり、現在の流鏑馬のように左横への騎射は一般的ではなかった。
46)源順が編纂した『和名類聚抄』の巻四・術芸部射芸類では、馬を馳せる騎射を「馳射」と表記し、「於无毛乃以流(おおものゐる)」と訓読している。つまり、追物射であり、騎射三物の中では犬追物こそが最も実戦に近かった。
47)絵巻においても『前九年合戦絵巻』にある源義家が敵を射た場面や、『蒙古襲来絵詞』における三井資長の騎射の場面など、前方方向に向けて矢を射る姿が描かれている。
48)また、後方からの前方射撃への対処として「押し捻り」というパルティアンショットに似た後方射撃も使われた。
両者が騎馬の場合、パルティアンショットには成り難いのでしょう。(笑)
49)合戦時の騎射以外にも平安時代以降は騎射様式が整理された。流鏑馬・犬追物・笠懸などが成立し、神事・祭礼行事として行われはじめる。
50)鎌倉時代には流鏑馬・犬追物・笠懸は「騎射三物」と称され各地で盛んに行われた。
51)騎射は武芸の中でも上位のものとされ、戦場での主戦力でなくなって以降、泰平の江戸時代においても武芸としてその位置付けは変わらなかった。
52)しかし騎乗できる者は少なく、少なくとも旗本以上で高禄の者でなければ騎乗すらも出来なかった。
馬を飼って置かなければならないので、薄給では養い切れないのです。

53)海外における騎射
54)古代中国において武官の登用制度である武科挙では騎射と歩射の実技試験があった。

55)関連項目
   弓騎兵、パルティアンショット、流鏑馬、笠懸、犬追物、騎射三物、弓術、フルーシーヤ−サーサーン朝ペルシアで、騎兵に必修とされた教養(馬・騎射・槍、14世紀から剣術が追加)
次は「パルティアンショット」ページです。

1)パルティアンショット(英:Parthian shot)とは、弓術(広義)における射法の一つ。軍事においては弓騎兵の射法の一つであり、また、その射法を用いた戦術をも指す。
2)軍事においては、遊牧民族の弓騎兵が一撃離脱戦法のための用いる射法の一つ、および、その射法による戦法を指す語である。
3)「パルティアの射撃」を原義とするこの語が成立したのは、西暦紀元前後数百年のあいだ古代オリエント世界の中央部で繁栄したパルティア王国(紀元前247年頃−226年)が、その使い手として知られ、
  何度も交戦したローマ人を体験者としてのちのヨーロッパ人にまで語り継がれたことによる。
4)オンライン・エティモロジー・ディクショナリーによれば、そもそも英語の"Parthian"という語は、1580年代にパルティアンショットについて言及した一節"of or pertaining to the Parthians,"に初出している。
5)なお、パルティアで開発されたものではなく、それより遥かに古いスキタイに起源を求める説が有力である。
6)古代中国ではアルサケス朝(パルティア)を漢訳名で「安息」と呼んだことから、現代中国語では「安息回馬箭(簡体字: 安息〇〇〇)、現代日本語では「安息式射法(あんそくしきしゃほう)」とも呼ぶ。

7)射法
8)ここでは、射手/アーチャー(馬に乗った狩人や弓騎兵など)が用いる射法としての"Parthian shot"について解説する。

9)弓騎兵戦術:→「パルティア§軍事」も参照
10)軍事分野におけるパルティアンショットは、戦いの最前線に出ては馬上で後ろ向きに矢を放ってから後退することを繰り返す戦闘方法である。
11)パルティアは遊牧民が政権中核を構成した国家であり、弓と馬の扱いに秀でていた。そのため軍隊の主力にも軽騎兵を採用しており、機動力を生かした戦いを得意としていた。
12)軽騎兵は槍や剣ではなく弓で武装し、一定の距離を保ち矢を放って敵を苦しめた。
13)こうした軽騎兵を効果的に活用するためにパルティア軍(英語版)は接近した白兵戦につながる会戦をできるだけ避け、戦闘になっても会戦で決着をつけようとはせずにすぐに退却した。
14)退却するパルティアの部隊が追撃する敵に逃げながら矢を放つと、その損害に敵が浮き足立ったり、高速移動に敵の戦列が対応できずに戦闘隊形が乱れる。
15)すると、パルティアの部隊は踵(きびす)を返して攻勢に転じた。
16)こうした戦法は、パルティア独自のものではなく、スキタイ、匈奴、モンゴル帝国といった遊牧国家の戦争に共通したものであるが、ヨーロッパに古典文明を伝えた古代ローマが本格的に対峙した遊牧民勢力がパルティアであったため、
   ヨーロッパ人にとって遊牧民の戦法は、パルティア的なものとして記憶されるようになった。
17)このようなパルティアの戦い方から、逃げながら馬上から振り返りざまに打つ弓矢の騎撃を「パルティアンショット」と呼ぶようになった。
つまりは、馬の持つ機動力を十分に発揮している訳です。
18)こうした馬上の弓術は、パルティアの後継政権であるサーサーン朝の帝王の狩猟図像などに記録されているものを、今日でも見ることができる。
19)なお、日本の騎射では、通常的ではないが、後方からの前方射撃への対処としてパルティアンショットに似た後方射撃の技術「押し捻り(おしひねり)」が存在し、戦況の次第ではこれを使用した。
それにしても、馬に乗れないのでは、ヨーロッパの軍隊も大した事は有りませんよね?(苦笑)

20)関連項目
  パルティア軍(英語版)、騎射、複合弓、弓騎兵、カラコール、カンタブリアン・サークル(英語版)−槍騎兵による同種の戦術。カンタブリア戦争(英語版)でカンタブリア族が古代ローマ軍に対して用いた。
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