ローマの末裔、キリスト教国の反攻

Civではローマ帝国の末裔の話は有りませんが、地域としてはトルコから西、イタリア、フランス、ドイツ、ロシアなどの話に成るのでしょう。
此処ではローマ帝国の分裂(395)から十字軍(1096)を経て、モンゴル帝国の成立(1206)迄を語る事にします。

Wikiで「ローマ帝国の分裂」を調べると、「ローマ帝国」、「西ローマ帝国」、「ビザンツ帝国」などがヒットします。まずは「ローマ帝国」ページの§帝国の衰退から。

1)帝国の衰退
2)帝国の分裂:
3)コンスタンティヌス1世の没後、帝国では再び分担統治が行われるようになった。
4)テオドシウス1世も、395年の死に際して長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。
5)当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。
6)もっとも3世紀後半以降、東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、
  また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。
7)今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。
8)ただし、史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。
次は§西ローマ帝国と§東ローマ帝国ですが、席亭は東の方を本家と見做している為、順序を入替えてご説明します。

9)東ローマ帝国:→詳細は「東ローマ帝国」を参照
10)東ローマ帝国(395年−1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。
11)中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
12)この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが、完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていった。
席亭も東ローマ=ギリシアは知りませんでした。トルコかと思いました。(苦笑)
13)東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。
14)西ローマ帝国における西方正帝の消滅後、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。

15)東ローマ帝国による帝国の再建は何度か試みられ、実際に5世紀のレオ1世や12世紀のマヌエル1世の様に、アフリカやイタリア征服を試みた皇帝もいた。
16)6世紀のユスティニアヌス1世によるものは一定の成功を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ皇帝領となった。
17)ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成であるローマ法大全の編纂でも知られている。
18)ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7〜8世紀にかけイスラム帝国やスラヴ人などの侵入により領土が大幅に縮小した。
19)統治体制は再編を余儀なくされ、テマと呼ばれる軍閥制が敷かれた。
20)ラテン語が使用されていた帝国西方との隔絶は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。
21)一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。

22)9〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。
23)帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。
24)しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領された。
十字軍によって、首都が占領されるのですか? 面白い事が有るものです。(苦笑)
25)13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、オスマン帝国等に領土を侵食されていった。
26)1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。
27)最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。

28)この東ローマ帝国の滅亡は、中世の終わりを象徴する大きな出来事の1つではあったが、通常「ローマ帝国の滅亡」として認識されることは少ない。
29)これは、東ローマ帝国がその長い歴史の中で性質を大きく変化させ、自らの認識とは裏腹に古代ローマとは異なる国へと変貌したことに起因している。
30)中期以降の東ローマ帝国は、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。
31)このため、特にローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いて西ローマ帝国の「滅亡」をもってローマ帝国の「滅亡」とすることが一般的である。
まあ、これはそうなのでしょう。そして一般には西ローマ帝国の滅亡を、中世への入口としている様です。

32)コンスタンティノープルを領有した東ローマ帝国の滅亡後、まだ東ローマ系の国家はいくつか存在したが、それも長くは持たなかった。
33)モレアス専制公領が1459年に、トレビゾンド帝国も1461年に、やはりオスマン帝国によって滅ぼされた。
34)最終的に、クリミア半島にトレビゾンド帝国と関係の深かった小国家・テオドロ公国が残されたが、この国も1475年にオスマン帝国の攻撃を受けた。
35)モルドバやクリミア・ハン国からの援軍も加えて激しい戦いが行われたが、約6ヶ月間の防戦の末、1475年12月にマングプが陥落し滅亡した。

36)西ローマ帝国:→詳細は「西ローマ帝国」を参照
37)ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地は首都ローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。
38)西ローマ帝国の皇帝政権はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され
   西方正帝の地位が消滅した。
39)その後もガリア地方北部にはシアグリウスが維持するソワソン管区がローマ領として存続したが、486年にゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世による攻撃を受け消滅した。
40)旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって、全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官として統治を行った。
41)したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、
   ゲルマン系諸王はローマ帝国の官人としてローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。
まあ政体は同じでも人は入替りますから、厳密には違います。人間の体と一緒ですね。(苦笑)

42)継承国家:
43)西方正帝の消滅後に西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命されたローマ帝国の官僚の資格で統治を行った。
44)したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人の認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、
   住民達も自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。
45)しかし、フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、800年にカールが教皇レオ3世によりローマ皇帝に戴冠されたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実ともに離脱し、
   ローマ帝国は東西に分裂した。
46)ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年のライン同盟結成まで継続した。
47)東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルターン)であるメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。
48)もともと東ローマ帝国においては帝国を征服した辺境の異民族が帝国そのものとなったり帝位簒奪者が定着することは幾度となく繰り返されてきた歴史でもあり、このことについて吉村忠典は
   「第三のローマとしては、モスクワよりイスタンブールの方が本家のように思える」とする感想を述べている。
49)ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
50)その他にも、ロシア帝国(ロシア・ツァーリ国)はローマ帝国とギリシア帝国に続く第三のローマ帝国としてローマ帝国の後継者を称した。
51)ただし、君主はロシア皇帝を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。
52)その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ皇帝の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。

53)現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味である。
54)そのルーマニア国歌「目覚めよ、ルーマニア人!」とイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれトラヤヌスとスキピオの名(正確には、スキピオは家名)
   が歌詞に入っている。
まあ薄々は感付いていましたが、ルーマニア=ローマな訳です。

55)関連項目:SPQR、ローマ軍団、ローマ帝国の人口学、ローマ帝国時代の服飾、古代ローマの通貨、ローマ帝国初期のゲルマニア戦役、ローマ帝国支配下のギリシャ、ローマ帝国の国境線、ローマ帝国以外で2世紀前半に存在した他国、
   パルティア、クシャーナ朝、後漢
次は「ビザンツ帝国」ページです。

1)はじめに:
2)歴史上ビザンツ帝国と自称した国家は存在しません。私たちが一般にビザンツ帝国と呼んでいる国に住んでいた人々はいつも自分たちをローマ帝国であると主張していました。
3)ビザンツ帝国というのは近代の西ヨーロッパの人たちがこの国家を指すときに便宜的に用いたものなのです。
4)ビザンツ帝国と呼ばれている国は395年のローマ帝国の分裂のあとにできた東ローマ帝国のことです。

5)ローマ帝国の東西分裂:
6)テオドシウス帝の死後にローマ帝国は東西に分裂しました。
7)このうち現在のイタリアを中心としてフランスやスペインを統治していた西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされました。
8)一方、東ローマ帝国は今日のギリシャやトルコ、シリアやエジプトといった地域を統治し、現在一般にビザンツ帝国と呼ばれています。
9)ビザンツという名称は帝国の首都コンスタンティノープルが古代ギリシャの時代にビザンチオンと呼ばれていたことに由来しています。
10)当時ビザンツ帝国の地域は西ローマ帝国に比べると文化的に先進地域であり、エジプトは豊かな穀倉地帯でした。
11)またローマ帝国の国教であったキリスト教には重要な総主教座というものが5つありましたが、これらのうちローマ以外の4つ、コンスタンティノープル・エルサレム・アンティオキア・アレクサンドリアの総主教座はすべて
   ビザンツ帝国の領内にありました。

12)ユスティニアヌス帝の統治:
13)6世紀になると、ユスティニアヌス帝によってかつての西ローマ帝国の地域を一時的に回復しました。
14)ユスティニアヌス帝はイタリア半島にあった東ゴート王国を滅ぼし、北アフリカのヴァンダル王国も征服しました。さらにイベリア半島にあった西ゴート王国を服属させました。
15)またユスティニアヌス帝は古くなったローマ法を整理し『ユスティニアヌス法典』を編纂しました。
16)その後今日まで残っている壮麗なキリスト教建築である聖ソフィア大聖堂をつくりました。
17)しかしこのような事業や拡大した国土の防衛に要した大変な出費は財政を圧迫することになりました。そのためユスティニアヌス帝の死後すぐに北アフリカや北イタリアなどは失われました。

18)土地と軍事の制度:
19)ローマ帝国の時代に出現したコローヌス制度はビザンツ帝国において奴隷制度に近いものになりました。
20)ディオクレティアヌス帝以前の時代はコローヌスは地主と農地の貸借契約を結んだ小作人でした。
21)ところが、ユスティニアヌス法典のなかでは、コローヌスは主人の権力の下にあるのだから、奴隷と何ら変わらないということが定められています。
22)ビザンツ帝国の軍事力は最初、ローマ帝国以来の職業軍人や傭兵に頼っていました。
23)7世紀中頃になると、軍隊がじょじょに一定の地域に駐屯するようになり、軍隊の長官が行政も担当するようになりました。これをテマ制度と呼んでいます。
24)8世紀になると、従来の属州に代わってテマが地方の行政単位となりました。
25)このテマ制度はビザンツ帝国の滅亡まで存続しました。

26)11世紀ころからはプロノイア制度がおこなわれました。これは軍役を課すかわりに一定程度の土地の私有を許す制度で、プロノイアは相続によって世襲することは基本的に許されませんでした。
27)しかし14世紀になるとプロノイアの相続が広汎に認められている例が見られるようになります。

28)文化:
29)ビザンツ帝国ではラテン語が公用語でしたが、7世紀頃にはギリシャ語が公用語として使われるようになりました。このことによってビザンツ帝国の文化はギリシャ的になっていったと考えられています。
30)キリスト教は相変わらず国教として尊重されていました。
31)イスラム教徒によってコンスタンティノープル以外の総主教座は奪われてしまったため、ビザンツ帝国ではコンスタンティノープル総主教が尊重されました。
32)またイタリア半島に残されたローマ教皇もキリスト教で特別な地位にあることが認められていました。
33)しかし教皇とビザンツの皇帝やコンスタンティノープル総主教はキリスト教の教義の問題で何度か対立しました。
34)8世紀のレオン3世はキリストや聖母を描いた木版の聖像画であるイコンを礼拝することを偶像崇拝であるとして禁止しました。
35)イスラム教の影響で、神聖な人物を絵に描くことはいけないことだという思想がビザンツ帝国では流行していたためです。
36)ところが西方ではゲルマン人への布教活動などでこのような聖像画を用いることが広くおこなわれていたので、ローマ教皇はイコンの禁止には反対しました。
37)こののちじょじょにローマとコンスタンティノープルに教会の中心がわかれていくことになりました。
キリスト教も帝国と同様に、分裂した訳です。

38)ビザンツ帝国の滅亡:
39)11世紀になると、南イタリアにはノルマン人が、小アジアにはセルジューク朝がやってきてビザンツ帝国の国土は次第に縮小しました。
40)そこでビザンツ帝国は西ヨーロッパの君主やローマ教皇に救援を求めました。
つまりは、東が西に援軍を頼んだ訳です。
41)当時キリスト教の聖地エルサレムはセルジューク朝に支配されていたので、ローマ教皇はこの救援に応えて十字軍を組織しました。
42)ところが第4回十字軍は商業上の利害から聖地を目指さずにコンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼしてラテン帝国をつくりました。
十字軍も宗教上の理由などではなく、世俗的な理由で動いていた訳です。
43)ビザンツ帝国の有力者たちはいくつかの地方政権を作って抵抗しました。
44)このうち小アジアのニケーア帝国が有力となってラテン帝国を滅ぼしてビザンツ帝国を再興しました。
45)しかし復興したビザンツ帝国は以前より弱小で、小アジアにあったセルジューク朝の地方政権であるルム・セルジューク朝や移住してきた遊牧民族のトルコ人に国土を奪われていきました。
トルコ人も、遊牧民族であった訳です。
46)そして1453年にオスマン帝国のメフメト2世によって滅ぼされました。

47)まとめ:
   1.時期−395年〜1453年    2.テマ制度−7世紀中頃からおこなわれたビザンツ帝国の行政制度
確かにWikibooksはコンパクトで分り易いのですが、これだけでは物足りないのもまた事実です。(笑)次は「西ローマ帝国」ページです。

1)西ローマ帝国(にしローマていこく)は、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である。
もう少し良い説明が必要です。例えば皇帝が違う、とか。
2)一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域および時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第1段階)以降の
  ローマ帝国についても用いられることがある。
3)概要:
4)395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。
5)西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。
6)通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。
7)ただし、それをもって西ローマ帝国の「滅亡」と見なすべきでない、として学問分野より見直しが求められている。
8)西ローマ帝国の領域は、中世においてもギリシア化を免れ、古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。

9)西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも次第にカトリック教会に感化されてローマ化し、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用して、自らを古代ローマの「真の相続者」であると認識していた。
10)なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国という2つの国家も存在しなかった。
これは微妙ですね。両国の国境の扱いとは、どの様な物だったのでしょうか?
11)複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。
12)ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは一つのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。
13)両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。

14)背景:
15)共和政ローマが版図を拡大するにつれて、ローマに置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。
16)これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間がかかったためである。
17)当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制(クルスス・プブリクス)で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。
18)返答と対応にもまた同じくらいの時間がかかった。
19)このため属州は、共和政ローマの名のもとに、実質的には属州総督によって統治された。
20)帝政が始まる直前、共和政ローマの領土は、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、マルクス・アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治により分割統治されていた。

21)アントニウスは、アカエア、マケドニア 、エピルス(ほぼ現在のギリシャ)、ビテュニア、ポントゥス、 アシア、シュリア、キプロス、キュレナイカといった東方地域を手に入れた。
22)こうした地域は、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって征服された地域で、ギリシャ語が多くの都市で公用語として使用されていた。
23)また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。
24)これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)、ヒスパニア(イベリア半島)である。
25)こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように文化的にケルト人に支配されている地域もあった。
26)レピドゥスはアフリカ属州(現在のチュニジア)を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。
27)アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは一時的に東方を代理として支配した。
28)同じことは、ティベリウスが東方に行った際に甥に当たるゲルマニクスによって行われた。

29)反乱と暴動、政治への波及:
30)西方において主な敵は、ライン川やドナウ川の向こうの蛮族だったと言ってよい。
31)アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。
32)一方で、東方にはパルティアがあった。
パルティアの版図は、イラクやイラン方面です。
33)ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて襲撃と掠奪を行なった。
34)二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。
35)地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。
37)西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。
38)皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。
つまりは、ローマは国を守る為に道路を整備した訳です。これは日本でも同様ですよね?

39)ガリア帝国:→詳細は「ガリア帝国」を参照
40)235年3月18日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。
41)今日、この時期は軍人皇帝時代として知られている。
42)259年、エデッサの戦いでサーサーン朝との戦いに敗れた皇帝ウァレリアヌスは捕虜となり、ペルシアへ連行された。
皇帝が捕虜とは、情けないです。(苦笑)
43)ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあったガッリエヌスが単独皇帝となったが、混乱に乗じて皇帝僭称者が相次いだ。
44)ガッリエヌスが東方遠征を行う間、息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスに西方地区の統治を委任した。
45)サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:ケルン)に駐屯していたが、ゲルマニア属州総督マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが反逆、コローニア・アグリッピナを攻撃し、サロニヌスを殺害した。
46)ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、ローマ皇帝を僭称する。
47)このポストゥムの政権が、後にガリア帝国と称されている。

48)首都をアウグスタ・トレウェロルム(現:トリーア)に置いたこの政権は、ゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復したと見られ、ヒスパニアやブリタンニアの全域に支配が及んだ。
トリーアは、ドイツのラインラント=プファルツ州の都市で、ルクセンブルクの東に在ります。ヒスパニアはイベリア半島の古名で、ブリタンニアはグレートブリテン島南部に在りました。
49)この政権は独自の元老院を有し、その執政官たちのリストは部分的に現在まで残っている。
50)この政権はローマの言語、文化を維持したが、より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。
51)273年にパルミラ帝国を征服した皇帝アウレリアヌスは翌274年、軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。
52)これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝のテトリクス1世およびその息子のテトリクス2世との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。
53)アウレリアヌスは彼らの命を助けて、反乱した2人にイタリアでの重要な地位を与えた。

54)東西分担統治の開始
55)テトラルキア(四帝統治):→詳細は「テトラルキア」を参照
56)284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは皇帝権を分割した。
57)自身を東方担当の正帝とする一方、マクシミアヌスを西方担当の正帝とし、ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスをそれぞれ東西の副帝に任じた。
58)この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、首都ローマから分離した前線拠点を作った。
59)西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現:ミラノ)とコンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルム(現:トリーア)であった。
60)305年5月1日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。

61)コンスタンティヌス1世:→詳細は「コンスタンティヌス1世」を参照
62)西帝コンスタンティウス・クロルスが306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタンニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。
63)その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、危機が訪れた。
64)308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世とリキニウスという新参者とで権力を分けることにした。
65)だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。
66)東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争った。
67)コンスタンティヌスが324年9月18日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。
この辺り何やら、翻訳文の様な気もします。
68)テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を2人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。
69)非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割統治されるようになった。

70)再分割
71)コンスタンティヌス朝:
72)コンスタンティヌス1世の代にはローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、同帝が337年に死去すると、3人の息子たち(長兄コンスタンティヌス2世、次兄コンスタンティウス2世、三弟コンスタンス1世)が
   共同皇帝として即位し、帝国には再び分担統治の時代が訪れた。
73)長兄コンスタンティヌス2世はブリタンニア、ガリア、ヒスパニアなど、次兄コンスタンティウス2世は東方領土、三弟コンスタンス1世はイタリア、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治したが、まもなくその三者の間には内乱が勃発した。
当然とは言いながら、兄弟争いですか? 身内を攻めている様では、帝国の拡大は不可能ですね。(笑)
74)まず三弟コンスタンス1世が長兄コンスタンティヌス2世を340年に打ち破って西方領土を統一、そのコンスタンス1世も350年に配下の将軍であったマグネンティウス(僭称皇帝)に殺害された。
75)351年に次兄コンスタンティウス2世がマグネンティウスを打ち破り、353年にマグネンティウスが自殺することによって、コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。
76)唯一の正帝となったコンスタンティウス2世は拠点をメディオラヌム(現:ミラノ)へと移した。
貴種の血とはつまりは相克、流血の血であり、毛利元就の3本の矢の教えが必要な訳です。(笑)
77)しかしコンスタンティウス2世がサーサーン朝との争いに備えるためメディオラヌムを留守にすると、西方ではコンスタンティウス・クロルスの孫でコンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが軍団の支持を得て独自の行動をとるようになり、
   360年には軍団からアウグストゥス(正帝)と宣言された。
78)ユリアヌスとコンスタンティウス2世との対立は決定的となったが、361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、ユリアヌスが唯一の正帝となった。
79)ユリアヌスは363年にサーサーン朝との対戦中に戦死し、ヨウィアヌスが皇帝に選ばれたが、364年1月17日にアンキラで死亡した。

80)ウァレンティニアヌス朝:
81)皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。
82)364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、ただちに帝権を再び分割し、東側の防衛を弟ウァレンスに任せた。
83)東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、なかなか安定した時期が実現しなかった。
84)西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、古代ローマの伝統宗教を信仰する異教徒による政治的な反撥であった。
85)ウァレンティニアヌス1世は古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、その子グラティアヌスは379年初頭にローマ皇帝として初めてポンティフェクス・マクシムス(pontifex maximus)の称号を止めている。
86)ポンティフェクス・マクシムスの称号はローマ教皇に移行し、382年にはローマ神官団(pontifices)やウェスタ神殿の巫女から権利を剥奪し、アウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリアの勝利の祭壇(英語版)も
   元老院から撤去した。

87)テオドシウス朝:
88)388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝として宣言された。
89)グラティアヌスの異母弟である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。
90)テオドシウス1世は391年まで西側に滞在し、西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。
異教の禁止も、政治的な都合で行われるのでしょう。
91)392年5月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、同年8月に元老院議員のエウゲニウスが西帝となったが、394年に息子ホノリウスに西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。
92)テオドシウス1世はホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、395年に崩御するまでの4か月間、東西の両地域を実質的に支配した。
93)一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。
つまりは、明確な線引きは出来ない訳です。

94)東西宮廷の対立と西ローマ皇帝の廃止:
95)ホノリウスがテオドシウス1世によって西方を任された当初から、西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。
96)ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって西方で宣言された皇帝ではなかったので、ホノリウスは西方の伝統的な勢力からは攻撃にさらされることになった。
97)さらにホノリウスはマケドニアとダキアの統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。
98)両管区はエウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたが、東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、以後そのまま東方が実効支配を続けていた。
99)西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、この問題に東の宮廷は敏感に反応した。
100)ゴート人のアラリックが西方で略奪を働き東方へと逃亡すると、西方の軍司令官スティリコはアラリックを追撃したが、これに対し東の宮廷は「それ以上の追撃は東方への侵略とみなす」と警告してアラリックの逃亡を手助けした。
101)また397年には東の宮廷の官僚エウトロピウス(英語版)がアフリカ軍司令官のギルドー(英語版)を唆し、ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。
102)同時にホノリウスは蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入にも悩まされ、410年には西ゴート人によってローマ市が掠奪された(ローマ略奪)。
103)このとき西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。

104)ウァレンティニアヌス3世の時代には状況はさらに複雑になった。
105)438年に発布された「テオドシウス法典」は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、
    テオドシオス法典の発布後、実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた。
106)現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。
107)450年にテオドシウス2世が没すると、東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍アスパルがウァレンティニアヌス3世に無断でマルキアヌスを皇帝の座に据えたが、ウァレンティニアヌス3世は452年頃までマルキアヌスに
    正式な皇帝としての承認を与えなかった。
108)こうした東西宮廷の分裂に加えて、皇帝権そのものにもさらなる分割が加えられた。
109)440年にレオ1世がローマ教皇となると、グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていたポンティフェクス・マクシムスの称号を教皇が名乗るようになり、皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として
    神法の遵守を監督するようになった。
110)さらに445年にはウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた。
これは独裁政治です。
111)こうした特権の付与が積み重ねられていった結果、教皇は帝国の代表者として、452年にはフン族と、455年にはヴァンダル族と、591年および593年にはランゴバルド族と、それぞれ皇帝を無視したまま単独で交渉を行うようになった。
112)いずれにせよ、教皇は5世紀末までには西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた。
113)軍事の面においても帝国で重要な役割を果たしていたのは皇帝ではなくアエティウスのような蛮族出身の将軍たちであった。
114)そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、ブケッラリイと呼ばれる将軍の私兵たちであった。
115)西方において、皇帝の果たす役割は限りなく小さなものとなっていた。

116)ゲルマン人の将軍リキメルが帝国の実権を握った時代になると、皇帝が不在のまま放置されることすらあり、もはや西方では皇帝は傀儡としてすら必要とはされていなかった。
血で血を争った結果、皇帝の権威は全て否定された訳です。
117)475年、東方皇帝レオ1世によって送り込まれたユリウス・ネポスが軍司令官オレステスによってラヴェンナから追放され、オレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスが皇帝であると宣言された。
118)ネポスはダルマチアへと亡命し、いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の活動が続いたものの、ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、西方全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。

119)最後の皇帝:
120)476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、元老院を通じて
    「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東方皇帝ゼノンへ送り、西方皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。
時代区分では西ローマ帝国の滅亡を以て、古代と中世とを分けている様です。

121)ゼノンは彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルにパトリキの地位を与え、オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた。
122)一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだダルマチアの残存領土で引き続き西方の統治権の保持を宣言しており、東帝ゼノンも一応はネポスを正当な西帝として支持していた。
123)そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた。
124)元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。
125)オドアケルは主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。
126)ユリウス・ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を平定してしまう。
127)東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである。
128)とはいえ、6世紀末から7世紀初頭にかけて皇帝マウリキオスや教皇グレゴリウス1世らが西方正帝の設置を検討したように、東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものは
    ただちに失われたわけではなかった。

129)オドアケルとテオドリック:→詳細は「オドアケル」、「テオドリック(東ゴート王)」、および「東ゴート王国」を参照
130)西ローマ帝国の中で振興した東ゴート王国の領地
版図は、イタリアとその東側の東欧諸国辺りです。
131)西方正帝の廃止によって、西ローマ帝国に何らかの変化がもたらされることはなかった。
132)ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、西方の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された。
133)オドアケルの統治下で西方の内乱は終息し、地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、帝国は一時の復興を遂げることとなった。
134)ゼノンにとってオドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、2人の関係は当初は非常に良好であった。
135)しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、488年にゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じた。

136)テオドリックはイタリアへ侵攻してたびたびオドアケルを打ち破り、493年にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。
137)ゼノンは既に491年に死亡していたが、テオドリックは東方皇帝アナスタシウス1世より副帝およびイタリア道の軍司令官に任ぜられた。
138)また、497年にはイタリア王を称することが許され、ここに東ゴート王国が創設された。
139)ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、オドアケルの時代と同様に、その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、民政は引き続き西ローマ政府によって運営され、
    立法権はローマ皇帝が保持していた。
140)オドアケルとテオドリックの統治下において、シチリア島の一部がヴァンダル族から帝国へと返還され、アフリカからの食料供給や地中海沿いでの交易が再開されたことにより、ローマの人口は40万人ほどにまで回復した。
141)オドアケル、テオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、西方帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた。

142)東ローマ帝国による征服事業:→「ゴート戦争」も参照
143)テオドリックが526年に没したとき、もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。
144)西方では古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、東方では大幅にギリシャ化が進んでいた。
145)また、東ローマ皇帝にとって「皇帝」の名に反して帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難いことであった。
146)ローマ市は西方正帝が廃止された後も名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨した。
147)東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾たびかの遠征をおこなった。
148)最大の成功は、2人の将軍ベリサリウスとナルセスが535年から545年に行なった一連の遠征である。
149)ヴァンダル族に占領された、カルタゴを中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。
150)遠征は最後にイタリアへ移り、ローマを含むイタリア全土と、イベリア半島南岸までを征服するに至った。
151)ユスティニアヌス1世はテオドシウス1世から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。

152)しかし皮肉にも、ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した。
153)ユスティニアヌスによる長年にわたる征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである。
154)西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、その多くが失われることとなった。
155)もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。
156)帝国の人口減衰率は約50%と推定され、プロコピオスは「いたるところで住人がいなくなった」と記し、ローマ教皇ペラギウス1世は「誰一人としてその復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した。
157)一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう。
158)この惨状について、6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は、「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。
159)しかしながら東ローマ皇帝にとっては、一時でもローマを支配しえたことは、東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続ける精神的なよりどころの一つになった。
戦乱の為に、住人が居なくなったのでしょうか。
160)ユスティニアヌス1世によって獲得された西方領土は、その死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった。
161)さらにギリシア語圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は再び競争関係に入った。
162)マウリキウスは次男ティベリオス(英語版)を597年に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが、そのマウリキウスも602年にフォカスの反乱によって殺されてしまう。
163)この後、サーサーン朝やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、古代ローマ的な要素は失われていくこととなる。

164)遺産
165)言語:
166)東方領土でラテン語が死語になった後も、西ローマ帝国の大部分の地域ではラテン語が何世紀にもわたって維持された。
167)いわゆるゲルマン語などからの影響は軍事に関する数語の借用語に限られていた。
168)時代が下ると、ラテン語は8世紀頃から12世紀頃にかけて緩やかに変化し、地方ごとの分化が明らかになっていった。
169)こうして地方ごとに分化したラテン語の方言が現代のロマンス諸語で、それらは中世においては単に「下手なラテン語」の一つだった。

170)識字率は大幅に低下したが、公式文書や学術関係の書物は引き続きラテン語で記され続けた。
171)西方でギリシア語の地位が失われたために、リングワ・フランカとしてのラテン語の地位は向上した。
172)ラテン文字は、J、K、W、Zが付け足され、文字数が増えた。
173)10世紀になるとヨーロッパにアラビア数字が伝えられ、ローマ数字は、たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいては依然として使われ続けたものの、16世紀頃にはほとんどがアラビア数字に取って代わられた。
174)ラテン語は今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されており、学名のほとんどがラテン語である。
175)ミサの挙行では1970年まで古典ラテン語が使われていた。
176)また、ラテン語は英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。
177)ヨーロッパにおけるロマンス諸語
地図ではイベリア半島、フランス、イタリア、ルーマニアが示されています。

178)宗教:
179)西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。
180)カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、5世紀後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。
181)ゲルマン系の民族は、たいていアリウス派の信者だったが、彼らも早晩カトリックに改宗し、中世の中ごろ(9世紀−10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。
182)西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失って後も、教会に援助された宣教師は北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。
183)単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。
184)フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、800年にローマ皇帝として推戴されると、教皇レオ3世によって戴冠された。
185)これが神聖ローマ帝国の由来であり、それはラテン的教養とカトリックを紐帯としてローマ人貴族層によって受け継がれてきたローマ理念の具象化であった。
186)こうした理念から、オットー3世は古代の皇帝たちに倣ってパラティーノの丘に造営した宮殿に住まい、ローマ市を中心とした帝国を指向したし、フリードリヒ1世やフリードリヒ2世も「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執した。

187)経済とのかかわり:
188)ローマとイタリア半島では、生産性の高い東方地域が属州へ組み込まれると徐々に交易や高級作物の生産へシフトしたが、経済の重心は次第に東へ移った。
189)既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマ帝国が経済的な下降線を辿っていった。
190)中央の権力が弱まると、国家として国境や属州を制しきれなくなり、致命的なことに、地中海をも掌握できなくなった。
191)歴代のローマ皇帝は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったが、ヴァンダル族はとうとう北アフリカを征服してしまう。
192)これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。
193)ローマ帝国は帝政期以前より、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。
194)ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。
195)この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ帝国崩壊の伏線となったのである。
これは席亭も知りませんでした。確かに、換金作物だけでは危ういですよね?
196)古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。
197)税収が不十分では、高くつく職業的な軍団を維持することも、雇い入れた傭兵を当てにすることもままならなかったからである。
198)西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。
199)西ローマ帝国の諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。
200)たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。

201)イタリア半島の農業は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。
202)経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。
203)こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。
204)そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。

205)これはすなわち、不幸にして、東ローマ帝国による西ローマ帝国の建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。
206)その一方で、エジプトやシリアなどの穀倉地帯を確保し、オリエントとの交易ルートを押さえていた東ローマ帝国は、とりわけコンスタンティヌス大帝やコンスタンティウス2世のような皇帝が、莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、
    さほどの経済的な衰微は起きなかった。
東西帝国の差が示されています。古代では農業が、かなり重要です。

207)西ローマ帝国の「滅亡」:
208)18世紀になると、ロムルス・アウグストゥルスまたはユリウス・ネポスの廃位によって西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現が生み出され、この表現は現在でも慣用的に用いられている。
209)しかしながら、西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く、不正確で不適切な表現」として、学問分野より見直しが求められている。
210)西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡ではない。西方正帝の地位が廃止された後も、正帝以外の各種公職や政府機関は健在であった。
211)少なくとも法律・制度・行政機構の面においては「西ローマ帝国の滅亡」といった断絶を見出すことはできない。
212)いわゆるゲルマン王国と呼ばれる領域においても、実際に行政権を行使していたのは西ローマ帝国政府から任命されるローマ人の属州総督であったし、住民もまた東西で共通のローマ市民権を所有しつづけていた。
213)彼らローマ人は西方正帝の廃止後も変わらずローマ法の適用を受け、帝国の租税台帳によってローマ人の文官によって税が徴収されていた。
214)一方のゲルマン王らは名目上はローマ帝国によって雇用されている立場であり、帝国から給金を受け取っていた。
215)オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである。
216)彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え
    古代ローマの生活様式を保存しようとさえした。
217)西欧において読み書きのできる人々は、西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」である
    との認識を共有していたのである。
218)20世紀以降の歴史学においては、アンリ・ピレンヌ、ルシアン・マセット(フランス語版)、フランソワ・マサイ(フランス語版)、K.F.ヴェルナー(ドイツ語版、フランス語版)、ピーター・ブラウンといった歴史家による
    「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている。
219)また、古代ローマにおける主権者が皇帝ではなくSPQR(元老院とローマ市民)であるとされていたことから、SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。
以下は省略します。

220)関連項目:西ローマ帝国の衰亡(英語版)、ローマ帝国、SPQR、イタリア本土(古代ローマ)、テトラルキア、元老院(ローマ)、ローマ教皇、ガリア帝国、東ローマ帝国、フランク・ローマ皇帝、神聖ローマ帝国
この西ローマ帝国の歴史は、476年迄語られています。次は蛮族(ゲルマン人)が建てたキリスト教国、「フランク王国」です。

→フランク王国