教育
Civではこの教育は中世のテクノロジーです。またこの教育は個体間の知識のトランスファーですから、12)個人の集積、社会に関する技術です。
「教育の歴史」をWikiで調べると、「日本教育史」、「教育史」、「西洋教育史」などがヒットします。まずは「西洋教育史」ページから。
1)西洋教育史(せいようきょういくし)は、古代ギリシアから現代までの主として欧米の教育のありかたとその制度、教育内容や教育の思想の歴史を扱う、教育学の部門の一つである。
2)古代の教育
3)教養と小アジアにおけるギリシアの植民地から始まった自然科学の勃興と哲学の探究は、近代ヨーロッパの学問と科学的な精神の起源をなしている。
4)ギリシアのポリスと呼ばれた都市国家は、もともと土地に依存した戦士の共同体で、そこで行われる教育は戦士としてのもので、理想的戦士を養成する伝統的なスタイルが、スパルタ教育だった。
5)リュクルゴスが始めたというもので、強健な体、スポーツ、やり投、レスリング、円盤投などが重視され、読み書きは最小限に留められた。服従、勇気、自己犠牲が尊ばれた。
ですから寺子屋ではなく、クラブな訳です。
6)山国のスパルタとは逆に、海に程近いアテネは、商業経済が早くから活発だったため、多文化との交流も活発で民主化が進み、教育でも個性の多様な伸長が尊重された。
7)その授業法は後の時代の講義式ではなく、先生をとりまき自由問答し歩き移動するものであった。ただ、スパルタは教育は国が費用の上でも面倒を見たが、アテネでは親の経費で賄われた。
8)7歳からは教育係の奴隷が、音楽や文法、弁論術などの教師のところに送り迎えし、その他に体操場(ギムナスティケー、「裸でスポーツする」の意、ここからジムという言葉が由来した)にも通って身体の鍛錬を行った。
9)五種競技、グレコローマンスタイルのレスリングなどはこの時代に好まれたスポーツである。
10)直接民主制を取り入れたアテネでは、雄弁術と弁証法、修辞学は、市民権をもった男子の必須の社会的スキルとなり、またそれを教える教師たち、ソフィストは、アテネの黄金時代に最も好まれた職業でもあった。
11)ソフィストと教育的な姿勢のあり方で対立したソクラテスは、その営業を妨げるものとして裁判にかけられ、最後は自ら毒酒をあおった。
12)ソクラテスの弟子にプラトン、そのまた弟子にアリストテレスがいる。
つまりは(高位者は)、徒弟的な訳です。
13)それぞれ、アカデメイア、リュケイオンという私塾、のちに歴史に名を残す学校を創立した。
14)プラトンは永遠のイデアを求めるエロースを強調し、永遠なるものの影に過ぎない現実よりも、イデアを観照することを説いた。
15)しかし、その個人の資質は持って生まれたもので、個々その資質に合った生活が望ましいとし、現実的な自己実現のための自由な教養と年齢段階にあった読み書き、図画、体育、音楽、文法、修辞学、数学などの学びを勧めるアリストテレスとは
好対照をなした。
16)これはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるルネサンスの画家ラファエロの「アテナイの学堂」に象徴的に描かれている。
17)プラトンは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アリストテレスはミケランジェロをモデルとして描かれている。
18)その後、地中海の文化圏を制したローマは、もとが農耕民族で、社会生活だけでなく子供の教育でも家父長である父親の権威が強く支配的であった。
19)母親は父親の協力者として、子供を保護し、養育する役割を担った。
20)「男らしさ、人間らしさ」が彼らが子供に要求した徳目であった。
21)3世紀から4世紀、ギリシア文化の影響で学校教育が発達し、帝政の時代になって、ラテン語学校、修辞学校などの学校のシステムが根付いた。
22)自由七学科が形をとってきたのもこの頃である。
23)図書館も発展し、いくつかの公立図書館も設立され、学術研究と教育の機関として重要な役割を担うことになる。
24)アレクサンドリアの図書館とそれに隣接した植物園は、古代世界最大の学術センターの体をなしていた。
→図書館
25)中世の教育
26)まず中世に入って最初の大きな出来事は、カロリング・ルネサンスである。
27)フランク王国のカール大帝がようやくヨーロッパのほとんどを支配下に置き、800年ローマ教皇から冠を授けられてローマ皇帝となる。
28)カールは産業振興、教会の刷新と共に、学芸の奨励を図る。ローマ文化の復興、ラテン語の公用語化によって、帝国の文化的統一を図り、イングランドから学僧アルクィンを招いたが、効果はあまり上がらなかった。
29)11世紀から12世紀の十字軍遠征の結果、東方からもたらされた都市の経済発展を背景として、ヨーロッパで初めて大学が成立する。最初のものは、ボローニア、サレルノ、そしてパリの各大学である。
30)特にボローニアとパリのものは、その成り立ちに学生の組合、教師の組合と特徴があり、後年の諸大学の範となった。
→大学
31)大学を指すuniversitasは「組合」の意で、異郷で学ぶ者たちが現地の市民と利害の衝突が起きないように、その権益を保障するための組合から由来したものである。
32)また、階級身分別の教育もこの時代から始まる。
33)騎士や貴族は、城郭学校や宮廷学校で、その職分にふさわしい武芸や文筆、あるいは宮廷のしきたりなどを学び、都市の庶民は、都市学校で読み書きを教わり、また修道院や教会でも庶民の師弟に読み書きを教える学校を併設する
ところも出てきた。
宗教組織の近くに学校が併設されるのは、何処も同じです。宗教と哲学はとても近く、また思考、思惟の賜物です。以下は§ルネサンス・宗教改革期の教育ですが、省略します。
次に「イスラムの教育」をWikiで調べると、「Category:イスラーム教育」ページがヒットします。此処には「アル=アズハル大学」、「テッケ」、「ニザーミーヤ学院」、「マクタブ」、「マドラサ」ページが有ります。
・・・大学、・・・学院は固有名詞ですので省いて、「テッケ」、「マクタブ」、「マドラサ」について調べます。まずは「マドラサ」から。
1)マドラサ(正則アラビア語:〇、madrasa)とは、イスラーム世界における学院。元々は単純にアラビア語で「学ぶ場所、学校」を意味するだけだったが、11世紀に制度的に確立し、イスラーム世界の高等教育機関として広く普及した。
2)モスクと併設される場合も多く、一般に寄進財産で運営される。
3)近代の世俗教育の普及によって、イスラム教神学校として宗教教育の専門機関となった。
4)概要
5)「マドラサ」という語は、もともと「学校」「学ぶ場」という意味で、アラビア語以外にも、ウルドゥー語・ペルシア語・トルコ語・クルド語・インドネシア語・マレー語・ボスニア語などアラビア語の影響を受けた諸言語にも語彙として存在する。
6)語源はアラビア語で「学ぶ」を意味する動詞「ダラサ」(〇)である。
7)アラビア語では、もともと「マドラサ(〇)」には、運営形態・宗教性の有無などに関係なく「学校」という意味しかない。
8)現代アラビア語でも、「マドラサ」は宗教性の有無に関係なく「学校」の訳語として用いられており、したがって小学校・中学校・高等学校は全て「マドラサ」の範疇に入る。
9)ヘブライ語の"midrasha"も、「学ぶ場」という意味をもっている。
10)一般的に、政府が市民にひろく教育の機会を提供できない場合には、私立の宗教組織が代わりにこの需要と供給の不均衡を埋める傾向にあると言われている。
11)つまり、日本流にいうところの「寺子屋」である。その結果、当該地域の教育システムは、教育機会を提供する宗教組織の宗教観に基づいたものとなりやすい。
12)この点からいうと、マドラサは、カトリックの教区学校とか、正統派ユダヤ教のイェシーバーと同様の、ムスリムのためのイスラーム学校、ということになる。
13)これらの教育組織はいずれも、基礎教育を提供すると同時に、自分たちの宗教の基礎を生徒に教えることを目的としている。
宗教は、昔は「生き方、世間常識」を教えるテキストでした。
14)非宗教的な学校と同じように、マドラサの多くは女生徒の入学を認めているが、イスラーム社会の習慣にのっとり、通常は男女別学である。また大規模な女子だけのためのマドラサの例もある。
日本にも女子大が有りました。
15)典型的なマドラサでは、二つの学習コースがある。
16)一つは「ヒフズ」コースで、クルアーンの暗記をするコースである(クルアーンを完全に暗記した人を「ハーフィズ」と呼ぶ)。
17)もう一つはウラマー英文「'alim」コースで、専門的な学者を目指すコースである。
18)通常カリキュラムでは、アラビア語(古典アラビア語)、タフシール(クルアーンの解釈)、イスラム神学、イスラム哲学、シャリーア(イスラーム法)、イスラム法学および法解釈、ハディース(ムハンマドの言行録)、マンティク(論理学)、
イスラーム史などが教えられる。
19)また、現代のマドラサにおいてはアラビア語文学、英語および外国語、簿記、プログラミング言語、科学、教養、世界史などの講義も行っている。
20)マドラサにはあらゆる年齢の人が入学でき、少なくない人数がイマームとなるために勉強を続ける。
21)例えば、ウラマーの資格を得るためにはおよそ12年間の勉強が必要である。
22)また、マドラサは、夕方の授業を開講し、寮が付属する点でイギリスの「カレッジ」にも似ている。マドラサの重要な役割の一つは、孤児や貧しい家庭の子供に教育・訓練の機会を提供することにある。
言葉は悪いですが、孤児を拾って戦士に仕立てる手法は万国共通です。
23)歴史
24)マドラサは、イスラーム世界の創成期からあった機関ではなかった。その起源は、ムスリムがモスクでイスラームの教義などを話し合ったことに由来するとされる。
25)ムスリムたちは、このモスクでの対話を通じて、コーランやその教義について理解を深めた。その際に、講師役を務めて会合をまとめた人物が「シャイフ」(長老、老人を指すアラビア語、それが転じて集団の長を意味し、
ウラマーやスーフィーを指すこともある)とみなされた。
26)彼らは定期的に「マジュリス」(集会所、サロン、議会を指すアラビア語)と称される会合を開き、イスラーム諸学についての研鑽を積んだ。
27)イスラーム世界では、859年に設立された、モロッコ、フェズのアル=カラウィーン大学が、世界最古のマドラサと考えられている。
28)10世紀より、ホラーサーン地方で各地の実力者によってマドラサが建設され、11世紀後半、セルジューク朝のワズィール(宰相)ニザームルムルクが、国家主導の公的な学術・教育機関としてマドラサを各都市に配置した。
29)これらは、彼の名をとってニザーミーヤ学院と称され、スンナ派法学を中心として諸学の振興が図られた。(当時有力であったイスマーイール派(ニザール派)による活発な布教活動への対抗があったとも指摘される。
のちにニザームルムルクは、イスマーイール派の一派に属する「暗殺教団」に殺害されたといわれる。)
30)主なマドラサ
31)カラウィーイーン大学(アル=カラウィーン学院)
32)アル=アズハル大学(アル=アズハル学院)
33)ニザーミーヤ学院
34)ウルグ・ベク・マドラサ
35)ダルル・ウルーム・ハッカニア・マドラサ(英語版)−パキスタン北西部にあるマドラサ。タリバンの指導者を多数輩出したことからジハード大学とも呼ばれる。
36)関連項目
37)カイロ大学
38)ターリバーン
39)イスラーム建築
カイロ大学は某都知事でも有名です。次は「マクタブ」です。
1)マクタブ(ラテン文字:Maktab、アラビア語:〇、メクテブとも呼ばれる)、あるいはクッターブ(ラテン文字:kuttab、アラビア語で学校を意味する) はアラビア語で初等教育学校を意味する単語である。
2)マクタブは子供に読み書き、文法、クルアーンの朗読のようなイスラーム関連事物(英語版)を教えるために使用されるが、その他の実践的、理論的な事柄に関しても教育を行なっている。
3)20世紀まで、マクタブはイスラーム世界の多くの地域において唯一の大衆教育機関であった。
4)アラビア語ではマクタブは単に初等教育学校を意味する単語として言及されるが、マクタブはアフガニスタンのダリー語においても使用されており、アフガニスタンでは初等教育学校、中等教育学校を含む学校と同義で使用されている。
5)イブン・スィーナーもまたマクタブという語を同様の意味で使用した。
6)歴史
7)中世イスラーム世界では、初等教育学校はマクタブとして知られており、この起源は少なくとも10世紀まで遡ることができる。高等教育を行うマドラサと同じく、マクタブはモスクに付属する形で建設された。
8)10世紀、スンナ派のイスラーム法学者イブン・ハジャル・アル=ハイタミー(英語版)はマクタブについて議論を交わしている。
9)マクタブを孤児のために運営していた、引退したシーア派の裁判官からの嘆願書への返答の中で、アル=ハイタミーはマクタブに在籍する孤児に対するあらゆる物理的、経済的搾取を防ぐマクタブの教育構造について概説したファトワー(裁断)
を下している。
10)11世紀、ペルシアの有名なイスラーム哲学者であり教育者のイブン・スィーナーは自身の著書において「子供の訓練と教育を行う際の教師の役割」と題したマクタブを扱った一節を設け、マクタブに勤務する教師へのアドバイスを贈っている。
11)彼は学費を払って個人家庭教師を雇う代わりに学級授業で勉強したほうが子供たちはより良く学習できると述べており、彼はその理由としてグループ討論やディベートの有益さとともに生徒間の競争の価値の認識や切磋琢磨の意識などを挙げている。
12)イブン・スィーナーはマクタブのカリキュラムについてある程度詳細に記述しており、マクタブにおける二つの教育課程のカリキュラムについて触れている。
13)初等教育
14)イブン・スィーナーは、子供たちが6歳でマクタブに入学し14歳まで初等教育を受けると自身の著書で記している。
15)また、彼はクルアーン、形而上学、アラビア語、文学、道徳(英語版)、手技(様々な実践的スキルを指す)が教えられるべきだと述べている。
16)中等教育
17)イブン・スィーナーは中等教育過程におけるマクタブによる教育を、生徒は自身の社会的地位に関わらず手技を要求され始める専門化の時期として言及している。
18)彼は14歳以上の子供には自身が興味のある事柄、具体的には読書、手技、文学、説法、医学、地理、商業、専門職やその他の事柄、もしくは生徒が将来の職業として興味を持っている職業に対し選択し専門化を深める選択が与えられる
べきだとしている。
19)彼は中等教育過程を過渡的な時期であるとし、生徒が生徒の情操教育の段階や卒業する年齢を見越して教育選択科目を十分に考慮し、柔軟な運用がなされる必要があると述べている。
20)識字率
21)中世において、イスラーム世界ではイスラム帝国時代に識字率の増加を経験した。当時中世世界において最も識字率の高い地域となり、古典古代の古代アテネの識字率と肩を並べるほどであった。
22)マクタブとマドラサという教育機関の出現は中世イスラーム世界の比較的高い識字率に大きな貢献を果たした。
23)関連項目
24)マドラサ, イスラム教神学校の高等教育機関
25)マクタブ・アンバル(英語版)
「テッケ」は信者が集う修道場の事ですが、省略します。次は中国の教育です。
Wikiで「中国の教育史」を調べると、「科挙」、「監生」、「私塾」、「書院(東アジア)」、「小学(古代中国の教育機関)」、「蒙求」などがヒットします。「科挙」は有名ですが、これは厳密には登用試験の事です。まずは「小学」ページから。
1)小学(しょうがく)は、古代中国の夏・殷・周の時代にあったと伝えられる初等教育機関である。後代の書に現れるもので、実在した制度とは言えない。
2)そうした文献によれば、当時は全ての人が8歳で小学に入学し、15歳で大学に進んだ。あるいは13歳で小学に入学し、20歳で大学に進んだと説かれることもある。
3)内容は『漢書』によれば、暦と地理と読み書きと計算を学び、家庭と長幼の秩序を知るもの。
4)また朱熹の説では掃除と応対と進退、それから礼・楽・射・御(馬車の操縦)・書・数を学んだ。
次は「書院」ページです。
1)書院(しょいん)とは、中国に端を発し、漢字文化圏の東アジア(日本、朝鮮、ベトナム)に波及した前近代の学校、私塾の一類型である。
2)宋代以降、国家の官学に対して特に民間の私学で行われた。中国語での発音はシューユエン(sh〇(u+-)yu〇(a+')n)、朝鮮語ではソウォン(〇)。
3)中国大陸の書院
4)書院の由来は唐代にあり、開元13年(725年)、麗正殿を集賢殿と改めて書院を置き、学士を置いて古今の経籍を校勘したり、天下の遺書を収集したりした。
5)貞元中、李渤は廬山白鹿洞に隠居して読書したが、南唐の時、ここに学館が置かれ、廬山国学とされた。これが宋代に白鹿洞書院と改められた。南宋の朱熹や明の王陽明がここで講学している。
6)宋代、政府によって書院の造成が奨励され、政府や私人が書院を創設した。白鹿洞書院(江西廬山)・応天府書院(河南商丘)・嵩陽書院(河南太室山)・岳麓書院(湖南岳麓山)は、宋の「四大書院」と呼ばれる。
7)元代には、すべて政府の管理下に置かれ、科挙試験の予備校と化した。
8)明代には、東林書院のように政治問題を取り扱う書院があらわれ、しばしば弾圧の憂き目にあった。
9)清代、科挙を目的として数千もの書院が作られた。しかしなかには、阮元の詁経精舎(杭州)・学海堂書院(広東)のように、科挙ではなく学問研究(考証学)を目的とするものもあった。
10)清末、科挙が廃され、書院は「学堂」と改められた。これが近代、中国の大学の母体となっていった。
11)中華人民共和国成立後、文化大革命中の批林批孔運動による儒教排斥に伴い各地に残る書院建築物に対する破壊行為が横行したが、1990年代以降復興再建が進められている。
12)白鹿洞書院は世界遺産である廬山の、嵩陽書院も「天地の中央」にある登封の史跡群の構成資産に含まれることから観光地化(遺産の商品化)が著しい。
§台湾の書院は省略します。
13)朝鮮の書院:→詳細は「書院(韓国)」を参照
14)韓国(朝鮮半島)における書院の始まりは1542年に建てられた紹修書院(朝鮮語版)(白雲洞書院)である。現在韓国には637件の書院があるとされ、中にはマンションの一室に収まるものやキリスト教系のものもある。
15)そうした中で陶山書院・紹修書院・道東書院(朝鮮語版)・屏山書院(朝鮮語版)・玉山書院(朝鮮語版)は五大書院と呼ばれ、屏山書院と玉山書院は「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」として登録されている世界遺産の構成資産になっている。
16)また2016年の世界遺産登録審査予定物件として陶山書院・紹修書院・道東書院・武城書院(朝鮮語版)・遯岩書院(朝鮮語版)・濫渓書院(朝鮮語版)・筆岩書院(朝鮮語版)に屏山書院と玉山書院を統合し
「書院、李氏朝鮮の性理学教育機関群」として推薦していたが、書院間の相互関係や中国の書院との違い、既存登録物件からの分離再編による管理体制を示しきれていないとして登録延期勧告が出され推薦を取り下げた。
しかし、第43回世界遺産委員会では、「書院、韓国の性理学教育機関群」として登録勧告を踏まえて正式登録に至った。
17)一方北朝鮮では、世界遺産「開城の歴史的建造物群と遺跡群」でッ陽書院(英語版)が構成資産となっている。
以下は省略します。
18)関連項目
14)書堂
書堂とは、朝鮮王朝時代の私塾の事です。次は「蒙求」ページです。
1)蒙求(もうぎゅう)は、伝統的な中国の初学者向け教科書である。古人の逸話を集めて韻文で並べた故事集。日本でも平安時代以来長きにわたり読まれた。
2)現在でも広く知られる「蛍雪の功」(典拠は晋書や南史)や「漱石枕流」(典拠は世説新語)などの故事は蒙求によって学ばれることが多い。
3)概要
4)『蒙求』の著者である李瀚については、ほとんど何もわかっていない。上表文に「天宝五年」(746年)と記されていることから、8世紀前半の成立と考えられている(ただし、この日付を疑う説もある)。
5)題名は『易経』の「蒙」卦辞「匪我求童蒙、童蒙求我」による。「蒙」は木を覆い尽くす蔓草のことで、蒙昧を意味し、「匪我求童蒙、童蒙求我」は教える側が生徒を求めるのでなく、生徒が師を求めるべきだという意味。
6)本文は四字一句の韻文で、596句2384字からなる。偶数句の句末で押韻し、結語にあたる最後の4句以外は8句ごとに韻を変えている。
7)内容は古人の逸話をきわめて短い言葉で羅列したもので、実際の逸話そのものは注に書かれている。
8)宋代には蒙求は代表的な教科書であり、蒙求に範を取った『十七史蒙求』や朱子学派の蒙求とも言える『純正蒙求』なども作られた。
9)明末になると、学習書の主流は三字経などに移り、蒙求は忘れられていった。
10)現存の写本でもっとも古いのは敦煌の唐五代残巻である。印刷物としては山西省の応県仏宮寺木塔から発見された遼刻本が古い。
11)中国では明代以降蒙求はほかの学習書に淘汰され、現存する蒙求の古いテキストはほとんど日本のものである。
テキストが確立していれば、後は教える場所と師だけです。
12)関連項目
13)故事、漢音、日本漢字音の声調
13)外部リンク
14)蒙求(漢文叢書;第1)塚本哲三有朋堂書店大正8
「監生」ページは明・清代中国において現在の国立大学に当たる国子監の学生、とありますので、省略します。
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