大洋航海術

Civでは外洋を航海可能なキャラベル船が、「天文学」/ルネサンス時代テクノロジーの取得によって建造可能と成ります。
ですが、これでは遅過ぎます。史実では紀元前既に、インド洋では沿岸航路ではない沖乗り航路が有力な航路と成っていたからです。またこの航海術は移動手段ですから、11)手足とその力学的な出力に関係するテクノロジーです。
Wikiで「大洋航海術」を調べると、「航海術」、「太洋」ページがヒットします。しかし肝心の「航海術」ページには、航海術の歴史が記載されていません。
また同ページの関連項目には「航法」、「航海書」ページも記載されていますが、前者は目次的で後者も参考には成りません。困りました。

そこで過去の「人類の移動と拡散」、「遠距離の交易(貿易)」、「シルクロードと海のシルクロード」ページから、外洋航海と関係する部分を抽出してみる事にします。まずは「人類の移動と拡散」ページから。
111)紀元後700年までにはさらに先の太平洋の島々に航海していく。まず、クック諸島、ソシエテ諸島、マルキーズ諸島に定住するようになり、続いて900年ごろにハワイ、
    1,000年頃にラパ・ヌイ島、1,200年頃にニュージーランドに到達する。
112)マダガスカルにオーストロネシア人が移住したのは約1,200年前とされており、ミトコンドリアDNAに基づく研究によればマダガスカルの先住民の遺伝子はインドネシアの30人の母親にその起源をたどることができると推定されている。
113)マダガスカル語にはサンスクリット語から借用され、ジャワ語やマレー語による言語上の修正の痕跡があることから、当時海上交通を築いていたシュリーヴィジャヤ王国からの入植者が
    マダガスカルの先住民となったと推定されている。
114)オーストロネシア人の拡散は新石器時代で最も長距離を移動した拡散となり、オーストロネシア人は現在に至るまで太平洋やインド洋の島々の主要な民族となった。
次は「遠距離の交易(貿易)」ページから。

93)ローマ帝国は西アジアでパルティアと絹貿易を行い、紅海からインド洋にかけては南インドのサータヴァーハナ朝と季節風を利用した貿易を行った。
94)インドとの貿易はアウグストゥス時代に急増し、当時の様子はストラボンの『地理誌』や、紀元1世紀に書かれたとされる『エリュトゥラー海案内記』に記されている。
次は「シルクロードと海のシルクロード」ページです。

3)海のシルクロードは主に東南アジアのオーストロネシア語族の船員、インドと東南アジアのタミル商人、東アフリカ、インド、セイロン、インドシナのギリシャローマ商人そしてアラビア海とそれ以降のペルシャとアラブの貿易業者によって
  設立され運営された。
9)海のシルクロードは、スリランカと南インド(紀元前1000年から600年に設立)との島民東南アジア人初期のオーストロネシアの香辛料貿易ネットワーク、および南シナ海フィリピン・リンゴアーティファクトの翡翠などの産業貿易から
  発展(紀元前500年頃)しその歴史の大部分において、オーストロネシア語族が制海権特にマラッカ海峡とバンカ海峡、マレー半島、メコンデルタ周辺の政体を支配してきた。
141)インド洋の西部では、季節風が4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月にかけては北東から南西に吹く。
142)1世紀から2世紀には、アエギュプトゥスに住むギリシア人が、貿易商人のための案内書として『エリュトゥラー海案内記』を書いている。
143)この書では、エリュトゥラー海を指す紅海だけでなく、アラビア海、ペルシア湾、インド洋も含んでいた。
144)案内記によれば、ギリシア人の船乗りであるヒッパロス(英語版)が季節風を利用する航路を開拓したためにヒッパロスの風とも呼ばれた。
要するに、季節に依存した貿易風です。
183)モルッカ諸島の香辛料であるクローブや、コショウ、 シナモンは、紀元1世紀頃には知られていた。
以上の事から、外洋航海はまずはインド洋と東南アジア付近の太平洋を調べれば良さそうです。最初は「インド洋」ページから、外洋航海に関係する部分を抜出して見ます。

1)大西洋のハリケーン、太平洋の台風に対し、インド洋で発生する熱帯低気圧はサイクロンと呼ばれる。
2)サイクロンが多く発生するのはベンガル湾付近であり、4月から5月と10月から11月に多く発生する。
3)サイクロンが北上してバングラデシュやインドを襲った場合、多くの死傷者が出ることがある。
4)なかでもバングラデシュはほぼ全域がガンジス川のデルタの上にできた国であり、標高が低く無数の河川が網の目のように走っているため、サイクロンによる高潮、洪水、強風、および高潮による塩害はしばしば大被害をもたらす。

5)太平洋や大西洋と同じく、インド洋にも環流・南赤道海流・赤道反流・北赤道海流といった3海域共通の海流は存在する。
6)太平洋や大西洋との違いは、インド洋には北半球に属する部分が非常に小さいため、環流が南半球のインド洋亜熱帯循環ひとつしかないことである。
7)このインド洋亜熱帯循環は、オーストラリア沿岸から赤道の南をアフリカ東岸やマダガスカル近くまで流れる暖流の南赤道海流、アフリカ東岸やマダガスカルから南下しアフリカ大陸南端近くのアガラス岬付近まで流れる暖流のアガラス海流、
  アフリカ南端から南極環流の北縁を西に流れオーストラリア西部に達する寒流の南インド洋海流、そしてオーストラリア西岸を北上する寒流の西オーストラリア海流からなる。
8)南半球の環流であるので、コリオリの力に伴いこの環流は反時計回りとなっている。
9)もう一つのインド洋の海流の特徴は、季節風が非常に強いために季節によって海流の流れが異なる地域があることである。
10)インド洋の北部海域がそれに当たり、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹くのにともなって、海流もその方向に流れる。
11)このため、冬季には東から西に流れる北赤道海流が存在するのに対し、夏季にはその海流が消滅してしまう。そのかわり、夏季には南西から北東に季節風海流が流れる。
これらの海流を使用して、季節的な航海を行う訳です。

12)こういった表層の海流のほかに、深層で起こる熱塩循環と表層で起こる風成循環のあわさった、いわゆる海洋大循環もインド洋を通過している。
13)北大西洋で沈み込んだ北大西洋深層水は大西洋を南下してインド洋へと入り、インド洋南部から南極海を西から東へと流れる。
14)このうち一部は北上して海面に浮上し、温められて表層水となる。
15)深層水の主流は太平洋で浮上して表層水となり、今度は東から西へと流れ、そのままインド洋を通過して大西洋へと入り、北大西洋で冷やされてまた沈み込む。

16)モンスーンの海
17)インド洋北部は、モンスーン(季節風)の影響が強く、夏は南西から北東に、冬は北東から南西に風が吹く。
18)海流も季節風の影響を強く受けて、夏は時計回りに、冬は反時計回りに海流が生まれる。
19)この時期によって一定の方向へ向かう風と海流は帆船の航行に向いており、これを利用してインド洋では古くから交易が行われてきた。
20)まず最初にインド洋で貿易が始まったのは、メソポタミア文明とインダス文明の間においてだった。
21)ウルなどメソポタミア文明の諸都市からは、船によって運ばれたハラッパー製の人工物が発掘されている。
22)紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によってアラビア半島からインダス川の探検が行われ、さらにアケメネス朝を征服したアレクサンドロス大王もインダス川からユーフラテス川までのインド洋をネアルコスに航海させている。
23)こうした探検の結果、インド洋交易は盛んになっていった。
これらの行為によって、少なくとも沿岸航法は完成に近付く訳です。

24)このころまではインド洋交易は大陸沿岸に沿って進むものであったが、紀元前120年から紀元前110年の間に、キュジコスのオイドクサスという航海者が紅海から大陸沿岸を経由せず直接インドへと向かう航路を開発し、
   以後この沖乗り航路が有力な航路となっていく。
25)紀元1、2世紀ごろに書かれた『周遊記』によれば、ギリシアの商人ヒッパルスがインド洋の季節風を利用し、アラビアからインドへ沖合を航海したことから、南西風をヒッパルスの風と呼んでいたとされる。
26)そして、紀元後40年から70年ごろに『エリュトゥラー海案内記』が書かれる。
27)この本には当時ローマ帝国領であったエジプトの紅海沿岸からアラビア半島、インド西海岸にいたる紅海ルートと貿易港が記載され、当時季節風を利用したローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝などの諸王朝との交易の実態を示している。
これにより、海図も整備されていた事が分かります。
28)他にもアラビアのモカ(イエメン)の港から、多数の船が東アフリカに向かっていたこと、インド、マレー半島、中国の記述がある。
イエメンは紅海の出口/アラビア半島に有り、アデンなどの港町が有名です。

29)インドからマレー半島へと向かうベンガル湾の航路、およびそこから中国へと向かう航路もほどなくして確立され、ここに「海のシルクロード」と呼ばれる東西通商路が完成した。
30)166年には大秦国王安敦(ローマ皇帝アントニヌス・ピウス、またはマルクス・アウレリウス・アントニヌスに比定される)からの使者と称するものが後漢王朝最南端の地である日南郡(現在のベトナム・フエ周辺)に到着した
   との記述が後漢書にあり、この時までにはインド洋の横断交易ルートは確立していたことがうかがえる。
31)5世紀初頭には法顕が、セイロン島からの帰路に海路を取り、ベンガル湾から広東へとたどりついた。
32)671年には義浄が広東からシュリーヴィジャヤを通り、インドのナーランダ僧院で仏典を学んだ後シュリーヴィジャヤ経由で帰国し、『南海寄帰内法伝』や『大唐西域求法高僧伝』を著した。
33)また、この航路によりインドから東南アジアにヒンドゥー教や仏教が伝わり、東南アジア沿海各地にインド化した港市国家が成立するようになったた。

34)マレー系のマダガスカル移住
35)一方、1世紀ごろからは、インドネシア中部のボルネオ島のマレー系の人々がインド洋中南部を突っ切り、インド洋西端のマダガスカル島への移民が行われるようになった。
36)沿岸諸地域にマレー系民族の上陸した痕跡がないため、ボルネオの人々はジャワ島やスマトラ島で補給を行った後、南東貿易風に乗って一気にインド洋を直航したと考えられている。
これが外洋航海の傍証です。
37)この移住は数百年間続き、マダガスカル全島はほぼマレー系によって支配された。
38)のちにインド洋交易によってやってきたアラブ人や対岸のモザンビーク付近から移住したバントゥー系諸民族がマダガスカルにやってきたものの、マダガスカルの基層文化はこのマレー人移住によって形成され、
   現在でも言語・文化・民族など多くの面でインドネシアやマレーシアといったマレー系民族の国家と多くの共通点を持っている。

39)海の道
40)アッバース朝以降には、ダウ船と呼ばれた木製の帆船により、インドの香辛料だけではなく中国の絹や陶磁器が西へ運ばれた。
この様に外洋航海には、大型帆船は必ずしも必要有りません。
41)西の東アフリカからは象牙・犀の角・鼈甲が、北はヨーロッパやオリエントからガラス製品・葡萄酒が交易されていた。
42)内陸部の交易路シルクロードに対して、海上交易路を海の道、あるいは海のシルクロードと呼んでいる。インド洋はその海の道の主要部を成していた。
43)アッバース朝はバグダードを首都としたので、首都に近いペルシア湾を中心に交易が発達した。
44)しかし、アッバース朝の衰退・滅亡や、エジプトのファーティマ朝やマムルーク朝の繁栄にともない、紅海を中心に帆船が行き来するようになった。
45)これらのイスラム諸王朝を起点として多くのアラブ人商人がインド洋交易を担うようになり、10世紀以降徐々にアフリカの東海岸においてイスラム教が勢力を拡大していき、15世紀ごろまでには東アフリカの諸都市はほぼイスラム化した。
46)このイスラム化を基に、沿岸諸都市にはスワヒリと呼ばれるイスラムの影響の強いバントゥー系文化が成立しはじめた。
47)アフリカのインド洋交易の南端はザンベジ川河口にほど近いソファラであり、それ以南においては海上交易ルートは到達していなかった。
ザンベジ川はモザンビーク共和国/東アフリカの川です。某ゲームソフトにも、この港町ソファラは登場していました。

48)一方インド洋東部においては、7世紀ごろにスマトラ島に成立したシュリーヴィジャヤ王国がマラッカ海峡を押さえ、中国とインドの間の交易を押さえて繁栄した。
49)しかしシュリーヴィジャヤ王国は、インド南部に本拠を置くチョーラ朝と対立するようになり、1025年にはチョーラ朝のラージェーンドラ1世が海軍を遠征させてシュリーヴィジャヤを占領し、以後インド洋東部の制海権はチョーラ朝
   が握ることとなった。
50)チョーラ朝は強力な海軍を持っており、ベンガル湾やモルディブ諸島にまで影響力を拡大させていた。
51)チョーラ朝は13世紀に滅亡するが、以後もパーンディヤ朝やヴィジャヤナガル王国など南インドに勢力を持った諸王朝は積極的にインド洋交易をおこなった。
52)13世紀末以降、インドネシアやマレーシアにはイスラム教が伝わるようになり、やがて仏教やヒンドゥー教に代わってこの地域の支配的な宗教となっていった。
これで時代背景は粗方理解出来たでしょう。この後はモンゴルやポルトガルが登場します。次は「太平洋」です。

1)太平洋(たいへいよう)とは、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる世界最大の海洋のこと。
2)大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。
3)日本列島も太平洋の周縁部に位置する。
4)面積は約1億5555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。
5)英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記されることもある。

6)太平洋は、西部にあるマラッカ海峡でインド洋 とつながり、東南部にあるドレーク海峡およびマゼラン海峡で大西洋とつながり、北部のベーリング海峡で北極海とつながる。
7)太平洋は、ほぼ中央を通る180度経線を境に西半球と東半球とに分けられている。
8)東半球にある部分を西太平洋といい、西半球にある部分を東太平洋という。
9)180度経線は基本的には日付変更線と可能な限り同一になるように定められており、両者が異なる場合も海上を通るように設定されているため、太平洋は中央部で日付変更線に分断される形となっており、東西で日付が1日違う。
10)マゼランがマゼラン海峡からフィリピンまで航海した時、その旅程のほとんどは実に穏やかだった。しかし、太平洋は常に穏やかなわけではない。
太平洋が穏やかだったのは、つまりは神様の御褒美だったのでしょう。(笑)
11)多くの熱帯低気圧が太平洋の島を襲う。環太平洋地域には火山が多い。また地震もよく起こり、それに伴ってしばしば津波も発生し、多くの街や島を破壊してきた。

12)海流
13)太平洋の海水の動きは一般的に、北半球では時計回り、南半球では反時計回りの環流である。
14)北赤道海流は、北緯15度付近では貿易風により西に流れ、フィリピン沖で向きを北に変え黒潮になる。その後北緯45度付近で東に向きを変え、黒潮と一部の海水は北へ向かいアリューシャン海流になる。
15)そうでない海水は南へ向かい、北赤道海流に戻る。
16)アリューシャン海流は北米に近づくと、一部はベーリング海を反時計回りに回る基礎となる。
17)南側の部分は南へ向かう遅い寒流、カリフォルニア海流になる.。
18)赤道に沿って西に流れる南赤道海流は、ニューギニアの東で南へ、南緯50度付近で東へと向きを変え、南極海を西から東へ流れ地球を一周する南極環流に合流する。
19)チリの海岸に近づくと、南赤道海流は2つに分かれる。片方はホーン岬をまわり、片方は北へ向かうフンボルト海流になる。

20)歴史
21)ポリネシア人の移住:→「オセアニア」を参照
22)有史以前、すでに太平洋の沿岸地域には人類が居住していた。
23)しかし、太平洋中央部に点在する島々へと人々が移住するようになったのは、紀元前1500年ごろにニューギニアに居住していたラピタ人たちが、島伝いに沖へと乗り出していったものがはじまりと推測されている。
24)彼らはまずニューギニアから近いメラネシアへと進出し、ビスマーク諸島には紀元前1300年、バヌアツには紀元前1000年、フィジーには紀元前900年、トンガには紀元前850年に到達した。
25)この第一期の移住の波は、サモアでいったん停止した。
確かにこの辺り迄は島伝いなのでしょうが、此処から先は明らかに外洋です。
26)その数百年後、サモアやフィジー、トンガといったポリネシア西部の島々から第二期の移住の波が起こり、ニュージーランド(アオテアロア)、マルケサス諸島、タヒチ、イースター島、ハワイなど残りの島々にすべて植民し、
   ヨーロッパ人が太平洋に到達する数百年前には、すでにポリネシア人は太平洋の隅々まで植民を終えていた。
27)→「太平洋の諸島の歴史」も参照
次は「航海術」ページです。

1)航海術(こうかいじゅつ)とは、船舶の自位置および方角を算出あるいは推定し、目的地に到達するための最も合理的な進行方向・速度を決定する為の技術の総称である。
2)方位磁針や六分儀、クロノメーター、海図などを用いる方法(天測航法)、陸地の特徴的な地形を目印にする(地文航法、山アテ)方法、天体の位置や動き、風向、海流や波浪、生物相などから総合的に判断する方法(スター・ナヴィゲーション)
  などがある。
磁石や羅針盤、海図、山アテ(〜土地の測量)、天体の観察、天文学、暦などは既にご紹介済みです。またスターナビゲーションとは、古代ポリネシア人が海図や羅針盤なしに、星や太陽、波、風などの自然現象を頼りにした航法です。
六分儀などを使用する天測航法は、ヨーロッパ人が外洋に進出する為に使用しました。
3)近年ではGPS(グローバル・ポジショニング・システム)や衛星通信を利用する電波航法が主流である。
4)かつては漁場のピンポイントに船をつけるには、民生用のGPSでは精度が不足していたため、山アテを併用する漁師も多い。
山だての 峰は吹雪か 田子の浦 by席亭。
5)また、ポリネシアやミクロネシアでは、民族のアイデンティティのよりどころの一つとして、伝統的な推測航法術を再評価する気運が高まっている。

6)関連項目
  航法、水深測量、三角測量、航海書
日本に寄港した黒船などは、江戸湾で水深測量をしていました。(〜大型船座礁対策)また航海書とは、航海術や航海に必要な情報などについて記した本です。天測航法に関しては、後述されるかも知れません。
「イスラーム世界の拡大」ページに戻ります。

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