建築
この「建築」はCivでは古典時代のテクノロジーで、明らかに11)手足とその力学的な出力に関係しています。
Wikiで建築を調べると、「建築」や「建築物」ページがヒットします。しかしこれらには、古代の歴史が有りません。そこで「建築史」ページを調べると、辛うじて古代の歴史が掲載されています。
1)建築史とは、建築の歴史のこと。建築学の一分野であると同時に、歴史学の一分野でもある。さらに、建築史は文化史・美術史・技術史・社会史の一つとしても捉えられる。
席亭としては、そんなに新しい時代に興味は有りません。(苦笑)
2)ゴシック、ルネサンスなど表層としての様式の変遷に目が行きがちであるが、建築様式のみが独自に展開するわけではなく、また様式はあくまでも個々の建築物の結果の総体であるので、社会的・経済的・文化的・技術的状況などの時代背景を
総合的に考察する必要があるとされている。
建築者としては、やはり技巧や技術に目が行くのでしょう。(笑)
3)現に残っている歴史的建造物の研究が中心になるが、古文書の分析や発掘などの考古学的手法により、失われた建造物の復元的考察も行われる。
4)近代以降は、作り手としての建築家の内面にアプローチする作家研究も盛んである。建築史の専門家を意味する建築史家という呼称が、しばしば用いられる。
5)建築史へのアプローチについては美術史の項目も参照。
6)建築史の分類:
省略します。
7)古代の文明の建築の歴史:メソポタミアの建築(英語版)、インダス文明の建築(「インダス文明」も参照。モヘンジョダロ等、特筆に値する建築物がある。)、古代エジプト建築、メソアメリカの建築(英語版)、インカの建築(英語版)
日本語のページは少ない様です。また、中国の建築が抜けています。
建築の技術は住宅技術から発展しているのでしょうから、まず最初にこの「人類の住居」を調べてみる事にします。
→人類の住居
英語版ページには立派な建築の歴史が語られている様ですが、残念ながら日本語のページは有りません。そこで席亭が「メソポタミアの建築」、「古代エジプト建築(日本語)」、「メソアメリカの建築」、「インダス文明の建築」、
「ギリシア建築(日本語)」の順で和訳する事にします。最初は「メソポタミアの建築」ページです。
1)メソポタミアの建築は、チグリス・ユーフラテス川の流域(メソポタミアとしても知られている)にある古代建築であり、いくつかの異なる文化を包含し、紀元前10千年紀(最初の恒久的な建造物が建てられた時期)から
紀元前6千年紀までの期間に渡る。
2)メソポタミアの建築の成果には、都市計画、中庭のある家、ジッグラトの開発がある。
3)書記官(スクライブ)は、政府、貴族、あるいは王族の為に設計、管理する建築家の役割を担っていた。
4)古代メソポタミアの研究は以下の物に基づいている、利用可能な考古学的証拠、建物の絵画的表現、建築慣行に関するテキスト。
5)アーチボルト・セイスによると、ウルク時代の原始的な絵文字(ピクトグラフ)は、“石は不足していたが、既にブロックやシールに切出されていた。レンガは一般的な建築材料で、それを使って都市、砦、寺院と家が建築された。
都市には塔が設けられ、人工の台座の上に建っていた;家も同様に塔の様な外観をしていた。それにはドアが用意され、それは蝶番(ヒンジ)で回転し、一種の鍵で開くことができた;
都市の門はより大きく、二重だった様だ。・・・鳥の様な翼を持つデーモンが人を驚かせ、家の基礎石−もしくはレンガで−はその下に置かれた特定の物体によって清められていた。”
6)学術文献は通常、寺院、宮殿、城壁や門、その他の建築に焦点を当てているが、しかしながら時には住宅建築に関する作品にも焦点を当てる。
7)考古学的な地表調査により、初期のメソポタミア都市の都市形状の研究も可能になった。
8)建築材料:
9)シュメールの石工は通常モルタルを使わなかった、ビチューメン(bitumen)は時々使われたが。
ビチューメンは瀝青(〜タール)です。
10)レンガのスタイルは、それは時代によって大きく変わるが、時代によって分類されている。
パッツェン80*40*15cm:後期ウルク時代(3600−3200BC)
リームヘン16*16cm:後期ウルク時代(3600−3200BC)
平凸10*19*34cm:初期王朝時代(3100−2300BC)
11)好まれたデザインは丸い煉瓦で、やや不安定であったため、メソポタミアの煉瓦職人は数列おきに他のレンガに対して垂直にレンガの列を積み上げた。
12)平凸レンガの利点は製造の早さだけではなく、不規則な表面、それは仕上げの漆喰コートがより良く食い付く、他の煉瓦タイプの滑らかな表面よりも。
13)レンガはそれらを硬化させるために天日で焼かれた。
14)こうしたタイプのレンガは耐久性に劣る、オーブンで焼かれたレンガよりも、それゆえ建物はやがて劣化した。
15)建物は定期的に破壊され、平坦化され、同じ場所に再建された。
まるで日本の建築現場です。(笑)
16)この計画的な構造ライフサイクルにより都市のレベルが徐々に向上し、その結果周囲の平野よりも高い位置となった。
17)この結果のマウンドはテル(tells)として知られ、古代近東を通じて見られる。
18)公共の建物は劣化を遅らせた、色とりどりの石の円錐、テラコッタパネル、粘土の釘、を使用して、粘土の釘はアドビーレンガに打込まれ、保護カバーを作成し、それはファーサード(建物の正面)を飾る。
19)特に貴重だったのは輸入建築材料で、それはレバノンの杉、アラビアの閃緑岩、インドのラピスラズリなどでした。
テラコッタとは装飾用の素焼陶器で、アドビ−レンガとは砂、砂質粘土とわらまたは他の有機材料で構成された天然建材で、同名のPDFメーカーは有名です。閃緑岩は有色鉱物を含む深成岩で、ラピスラズリは青い宝石です。
20)バビロニアの神殿は粗末なレンガ造りの巨大な建造物で、支え柱(buttresses)で支えられ、雨水は排水溝(drains)によって流出される。
21)ウルのその様な排水溝の一つは鉛で出来ていた。
22)レンガの使用は、付け柱(pilaster)や柱の早期開発に導いた、そしてそれはフレスコやエナメルタイルからなる。
23)壁は鮮やかに彩られ、時には亜鉛や金で飾られた(plated)、タイル使用と同様に。
platedはメッキなのでしょうか? ion platingは確かにメッキですが・・・。先の「メッキ」ページには、「紀元前1500年頃にはアッシリアで錫めっき」とあります。
24)着色されたテラコッタコーン、松明用の、は同様に、漆喰に埋め込まれていた。
25)アッシリアはバビロニアの建築を模倣し、同様にレンガの宮殿や神殿を建てた、同国では石が自然な建築材料だったにも関わらず−
レンガの土台は忠実に残された、それはバビロニアの湿地帯では必要ながら、北部では殆ど必要でない。
26)装飾:
27)しかし時が経つにつれて、後代のアッシリアの建築家たちはバビロニアの影響から抜け出し、レンガだけでなく石も使う様になった。
28)アッシリア宮殿の壁は彫刻され色付けされた石板で覆われた、カルデアのように塗装される代わりに。
29)これらのバスーレリーフ(浅い浮彫り)芸術には3つの段階が見られる:アッシュールナシルパル2世時代には力強いがシンプル、サルゴン2世時代には慎重で写実的、アッシュールバニパル時代には洗練されているが大胆さに欠ける。
30)バビロニアでは、バスレリーフの代わりに、三次元的な人物像がより多く使われるようになった、結局。−最も古い例はギルスの彫像で、写実的で、やや不器用である。
31)バビロニアにおける石の欠乏はどのような小石でも貴重なものにし、宝石カット技術では高い完成度に導いた。
32)アッカドのサルゴン時代の2つの印章シリンダー(seal-cylinders)は、この種のものの一番優れた例である。
33)考古学者によって発見された初期の冶金学の第一に注目すべき標本の一つは、エンテメナの銀の花瓶である。
34)後の時代には、偉大なエクセレンスが達成された、金のイヤリングやブレスレットの様な宝飾品の製造で。
35)銅においても、巧みに加工されていた;実際、バビロニアは銅加工発祥の地であった可能性がある。
36)人々は有名であった、古くから、彼らの刺繍や絨毯で。
37)アッシリアの陶器の形は優美で;磁器、それはガラスの様で、ニネベの宮殿で発見された、はエジプトのモデルから派生したものである。
38)透明なガラスはサルゴンの治世に初めて導入された。
39)石、粘土とガラスは花瓶製造に使用され、固い石の花瓶はギルスで発掘されている、初期エジプト王朝時代のそれに似た。
以下は、§都市計画、§住居、§宮殿、§寺院、§See also、§Notes、§参考、§Futher readingですが、省略します。
都市の代表的な建築には、神殿、宮殿、寺院などが有りました。これらもここで調べる事にします。
→神殿
→宮殿
→寺院
次は「古代エジプト」ページです。
1)古代エジプト(こだいエジプト、アラビア語:〇、英語:Ancient Egypt)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的に、どの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から
紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。
2)エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年夏のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河で行われた。
3)ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。
4)このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。
5)この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。
ですからエジプトは、細長い国なのです。
6)ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。
7)最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。
8)毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。
9)また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源となったとされる。
10)エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、
部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今のところ発見されていない。
メソポタミアは交通の要衝なのですが、エジプトはそうでは無いのでしょう。
11)歴史:→詳細は「エジプトの歴史」を参照
12)古代エジプト人は、元号のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた際には学者によりずれが生じることに留意されたい。
13)古代エジプトは、次の時代に区分されているが、これも学者により差がある。また、年数はすべておよその年で、時代の後の数字は王朝。
・エジプト先王朝時代(紀元前3100年以前)
・エジプト初期王朝時代(1−2;紀元前3100年−紀元前2686年)
・エジプト古王国(3−6;紀元前2686年−紀元前2181年)
・エジプト第1中間期(7−11前半;紀元前2181年−紀元前2055年)
・エジプト中王国(11後半−12;紀元前2055年−紀元前1795年)
・エジプト第2中間期(13−17;紀元前1795年−紀元前1550年)
・エジプト新王国(18−20;紀元前1550年−紀元前1069年)
・エジプト第3中間期(21−26;紀元前1069年−紀元前664年)
・エジプト末期王朝(27−30;紀元前664年−紀元前332年)
・プトレマイオス朝(紀元前332年−紀元前30年)
14)建築:→詳細は「古代エジプト建築」を参照
15)建築材料としては日干しレンガが主流であり、石材も多用された。特に石灰岩や花崗岩、砂岩などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた加工技術と高度な数学を元にピラミッドやギザの大スフィンクス、カルナック神殿、
ルクソール神殿、アブ・シンベル神殿といった巨大で精密な建造物が続々と建設された。
16)支配者層は庭園を所有しており、木材に乏しい地域にもかかわらず造園技術が発達した。
次は「古代エジプト建築」ページです。
1)古代エジプト建築(こだいエジプトけんちく)は、古代エジプトにおける建築である。歴史上最も他の文明に影響を与えた文明である古代エジプトは、ナイル川の川岸に多様な建築物と巨大な記念碑を極めて多数建造した。
2)それらの中で最も巨大で有名なものはギザのピラミッドとギザのスフィンクスである。
3)特徴:
4)乾燥気候のエジプトでは森林が発達せず、木材は不足気味だった。このため、古代エジプトで主に用いられていた建材は 日干しレンガと石の2つであり、石は主として石灰岩が使用されたが、砂岩と花崗岩も相当な量が用いられていた。
5)エジプト古王国前期から、石は主に墓や神殿(英語版)専用の建材であり、一方で煉瓦は王宮や要塞、神殿境内や都市を囲う壁、あるいは神殿複合体の中にある補助的な建物を作るために用いられていた。
6)ピラミッドの中核部分は現地で切り出された石、煉瓦、砂利から成っていた。ピラミッドを覆う化粧石は遠隔地から運ばねばならず、主に白い石灰岩はトゥーラから、赤花崗岩は上エジプトから持ち込まれた。
石灰岩は、CO2を含んだ雨水に弱そうです。(笑)
7)古代エジプトにおいて、家は日干しレンガで造られていた。 ナイル川から採取した泥を型に流し込み、適度な硬さになるまで熱い太陽の光に晒して乾かした後、建材に用いた。
8)多くのエジプト文明の都市はナイル谷の耕作地域にあり、1000年にわたって徐々に隆起してきた川床として恒常的に洪水の被害を受け、あるいは建物の素材であった土レンガが農民に肥料として用いられたために現存していない。
9)それ以外の都市は新たな建物が古代のものの上に築かれているために現在は見ることができない。しかし幸運なことに、エジプトの暑く乾燥した気候のおかげで一部の土レンガの遺構は保存されている。
10)ディール・エル=メディナの集落やカフンにあるエジプト中王国の街、ブヘンとミルギッサの要塞がその例として挙げられる。
11)また、多数の神殿や墓所がナイル川の洪水の影響を受けない高台に建てられていたり、石で作られていたために現在も残っている。
12)以上の記述からも示唆されるように、我々の古代エジプト建築に対する理解は、主に宗教的な遺跡に基づいているものである。厚く傾斜がありほとんど開口部を持たない壁によって特徴づけられる大規模な建造物は、
土壁において十分な堅牢性を得るために用いられていた建築法に影響を受けた可能性がある。
13)同様にして、彫刻が施され、平たく設計された石造りの建物の表面装飾は土壁装飾から着想を得たものかもしれない。
14)アーチ構造はエジプト第4王朝の時に発達、普及したが、あらゆる記念碑的建築物にはまぐさ石構造が用いられている。まぐさ石構造とは、外部の壁と狭い間隔に設置された支柱によって支えられた巨大な石のブロックでできた平らな屋根のことである。
15)建物内は柱と同様に、外壁あるいは内壁はヒエログリフや図示された色とりどりのフレスコ画や彫刻で一杯であった。 エジプトの装飾におけるモチーフの多くは、スカラベや神聖な甲虫、光球、ハゲワシのようにシンボル化されたものである。
16)その他の一般的なモチーフの例として挙げられるのはヤシの葉やパピルス、スイレンのつぼみや花である。
17)ヒエログリフは歴史的な出来事や呪文を記録するため、または装飾的な目的のために彫られた。
18)加えて、これらのフレスコ画や彫刻のおかげで我々は古代エジプト人の生活、身分、戦争、信仰について知ることができる。
19)このことは特に近年古代エジプトの貴人の墓所を発掘する際に顕著に実感される。
20)古代エジプトの神殿は至点や分点といった各出来事の瞬間に正確な計測を必要とする天文学的に重要な出来事に基づいて整然と配置されていた。
21)最も重要な神殿における計測は儀式としてファラオ自身が行った。
暦の作成などはファラオの仕事なのでしょう。
22)ギザのピラミッド群:→詳細は「メンフィスとその墓地遺跡」を参照
23)ギザの共同墓地はエジプトの首都カイロの郊外にあるギザ台地の上にある。この古代の遺構の一群はカイロの中心街から20kmほど南西のナイル川のほとりにあるギザの旧市街から8kmほど砂漠に入ったところにある。
24)この古代エジプトの共同墓地はギザの大ピラミッド、カフラー王のピラミッド、比較的小さめなメンカウラー王のピラミッド、そしてそれらに付随する、王妃のピラミッドとして知られるたくさんの建築物、スフィンクスで構成されている。
25)エジプト第4王朝期に建てられたピラミッドは王への信仰と権威を強調するためのものであった。それらのピラミッドは墓所、そしてファラオの名前を人々の記憶に永遠にとどめておくために建造された。
26)その大きさと簡素なデザインはエジプトのデザインと大規模なものに対する工学の技術の高さを示している。
27)紀元前2580年に完成したと言われるギザの大ピラミッドはピラミッドの中で最も古く最も巨大なものであるが、世界の七不思議の中で唯一現存するものでもある。
28)カフラー王のピラミッドはカフラー王の治世末期である紀元前2532年頃にできたとされており、カフラー王は先祖のピラミッドの隣に自分のピラミッドを建てることに執念を燃やした。
29)彼のピラミッドは彼の父のものほどには高くなかったものの、ピラミッドの基礎を約10m父のものより高い場所に作ったことにより彼のピラミッドの方が高いような印象を与えることができた。
30)ピラミッドを建てるにあたって、カフラーは墓所の守護者として大きなスフィンクスを造らせた。ファラオを想起させる人間の顔にライオンの体というデザインは神性を表す象徴として500年後のギリシャ国家で見られるものである。
31)スフィンクスは砂岩の巨大なブロックを彫って造られたもので、高さは約20mある。
32)メンカウラー王のピラミッドは紀元前2490年前後に建てられたものでその高さは3大ピラミッドの中では最も小さい約65mである。
33)大衆文化の影響で人々はピラミッドの内部は盗掘対策のために多数のトンネルがはりめぐらされており、かなり複雑な構造をしていると信じているが、その認識は実際の事実とは異なる。
34)ピラミッド内の通路は極めて単純なもので、多くは石室に直接通じている。ピラミッドはあまりにも大きかったため、内部に巨万の財宝が眠っているだろうと盗掘者たちを惹きつけてしまい、いくつかのピラミッドは封印されてから比較的早い時期に
盗掘の被害を受けている。
35)時にはピラミッド内に追加のトンネルがあることもあるが、これは建設工事者がどの程度の距離まで地殻を掘って墓所を造ることができるかを把握するためのものである。
36)また、盗掘者たちのせいで、クフ王、カフラー王、メンカウラー王以後の王たちは知られぬまま王家の谷に葬られていると信じられていることがあるが、これはもちろん誤りである。
37)ピラミッド建設は小規模になっただけでその後の多くの王朝で行われていた。最終的にピラミッド建設は盗掘ではなく経済的な原因により止められた。
38)ピラミッド建設は奴隷たちの労働によってできたと広く考えられている。一部の学者は建設を支えた労働者の多くは農閑期の農夫たちであったと考えている。すなわち、ピラミッド建設とは公共事業だったという考え方である。
39)いずれにせよ、ピラミッド建設は奴隷労働なしでは成り立たなかった貴族の生活様式を象徴するものである。
40)カルナック神殿:→詳細は「カルナック神殿」を参照
41)カルナック神殿複合体はルクソールから2.5kmほど北に離れたナイル川の河岸にある。主に、アメン大神殿、モントゥの神域、ムトの神域、アメンホテプ4世の神殿(破壊された)という4つの部分で構成されており、
それら4ヶ所を取り囲むように建てられた壁の外に、いくつかの小さな神殿と聖域、そしてムトの神域、アメン大神殿、ルクソール神殿を結ぶ羊の頭を持つスフィンクスが立ち並ぶ通りがある。
42)カルナック神殿とエジプトの他の神殿、遺跡の鍵となる違いは、建造・使用されていた期間の長さの違いである。
43)建築工事は紀元前16世紀に始まった。おおよそ30人のファラオが建造に携わり、他に見られない大きさと複雑さ、多様性をもつ建物となった。カルナック神殿の一つ一つの構成建築物自体はそれほど個性的ではないものの、
大きさと構成建築物の数は他を圧倒している。
44)ルクソール神殿:→詳細は「ルクソール神殿」を参照
45)ルクソール神殿はナイル川の東岸にあるルクソール(古代にはテーベと呼ばれていた。)の市街の中にある古代エジプトの神殿複合体である。建築工事は紀元前14世紀アメンホテプ3世の治世に始まった。
46)ホルエムヘブとツタンカーメンが支柱と彫像とフリーズを増やし、 アメンホテプ4世は早々に父のカルトゥーシュを消し去ってしまい、 アテンを讃える霊廟を建造した。
47)しかし、もっとも大規模な拡張工事は最初に神殿の工事が始まってから約100年経ったラムセス2世の治世に行われた。
48)ルクソール神殿はラムセス2世が23mの高さの最初の塔門を建てたことにより建造が始まった。塔門はラムセスの軍事的功績(特にカデシュの戦い)を讃える装飾が施されている。
49)のちのファラオたち(特にヌビア朝やエチオピア朝のファラオたち)も彼らの戦績をそこに刻んでいった。
50)この神殿複合体の正門にはもともと6体(うち4体は座っていて2体は立っていた)のラムセスの巨大な彫像が立って脇を飾っていたが、現存しているのはそのうちの2体(どちらも座っているもの)である。
51)現在神殿を訪問するとこれらに加えて25mの高さのピンクの花崗岩でできたオベリスクを見ることができる。
52)このオベリスクは1835年まで一対のものであったが、片方はパリに運ばれ、現在はコンコルド広場に立っている。
オベリスクは一つの石から掘り出された四角柱、記念碑です。
53)塔門は周柱式の中庭につながっているけれども、この中庭もラムセス3世が造ったものだ。この区画と塔門は神殿の残りの部分からすると斜めに建てられているが、これは北西の角にすでに存在した3つの船の霊廟に対応するためのもの
であったろうと考えられる。
54)周柱式の中庭ができた後、アメンホテプ3世が造った14本のパピルス柱頭の柱が並ぶ100mの廊下が続いている。
55)フリーズはヌト祭の場面を表しており、カルナック神殿の生贄が左上、アメンがルクソールに降臨するところが端に、帰還が反対の端に描かれている。
56)装飾はツタンカーメンによって設置されたが、描かれた少年のファラオの名前はホルエムヘブの名前で上書きされている。
57)柱廊は周柱式になっているが、柱の中にはアメンホテプの時代に造られたものもある。もっとも保存状態のよいものは東側にあり、もともとの色の痕跡を見ることができる。
58)この中庭の南側には36柱からなる多柱式の中庭があり、神殿の暗い内部屋へと続いている。
「メソアメリカの建築」は「寺院」ページで述べましたので、次は「インダス文明」ページです。
1)インダス文明(インダスぶんめい、英:Indus Valley Civilisation)は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。
2)これら各国の先史文明でもある(インドの歴史、パキスタンの歴史、アフガニスタンの歴史も参照)。
3)崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。
4)狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。
5)インダス文明の遺跡は、東西1500km、南北1800kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。
ですから、かなり広大な遺跡です。
6)そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。
7)歴史:→詳細は「インダス文明の時代区分(英語版)」を参照、→詳細は「インダス文明遺跡のリスト(英語版)」を参照
→「ジャンムー・カシミール州」、「ギルギット・バルティスタン州」、「バローチスターン州」、「パンジャーブ」、「パンジャーブ州(パキスタン)」、「パンジャーブ州(インド)」、「ラージャスターン州」、
「シンド州」、「グジャラート州」、「ハリヤーナー州」、および「マハーラーシュトラ州」も参照
以下は省略します。
8)遺跡:→詳細は「インダス文明遺跡のリスト(英語版)」を参照
9)都市の規模はメソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。
10)都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。主な遺跡は以下の4地域に集中している。
1.インダス川流域(ハラッパー 分離型、76ヘクタール:周囲を含む全体推定値150ヘクタール、モヘンジョダロ 分離型、83ヘクタール:周囲を含む全体推定値125−200ヘクタール)
2.ガッガル・パークラー川流域(ラーキーガリー(英語版)105ヘクタール:分離型、バナーワリー(英語版)16ヘクタール:一体型、カーリバンガン12.1ヘクタール:分離型)
3.マクラーン地方(ソトカー・コー(英語版)1.5ヘクタール:分離型、ソトカーゲン・ドール(英語版)1.95ヘクタール:分離型)
4.グジャラート地方(北西インド、どの都市も一体型。ロータル7ヘクタール:沐浴室の列、基壇、ドーラビーラ52ヘクタール:居住地域部分のみ19ヘクタール、スールコータダー(英語版)0.72ヘクタール、
クンターシー(英語版)1.56ヘクタール:穀物貯蔵室、土器・銅の工房、バーバルコート(英語版)2.7ヘクタール、ロジュディ(英語版)7ヘクタール:大型方形建物、カーンメール(英語版)1.25ヘクタール:大型方形建物)
11)城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。
12)「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。
13)インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。
14)戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。
15)周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。
16)モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。
周塞がないのは、敵に攻められなかったからでしょう。また王宮や神殿が無いのでは、面白味に欠けますよね?(苦笑)そしてお待たせしました。次は「ギリシア建築」です。
1)ギリシア建築(ギリシアけんちく、古代ギリシア建築、ギリシア語:〇、ギリシア語ラテン翻字:Arkha〇(i+')a ell〇(e+-)nik〇(e+-+') arkhitektonik〇(e+-+')、英語:Ancient Greek architecture)は、
古代ギリシア人によって創造された建築様式である。
2)特に神殿建築は代表的であり、古典主義建築の直接的、間接的規範とされ続けた。
大理石を多用したギリシア建築は、余りにも有名です。
3)ギリシア建築は紀元前7世紀頃から様式の創造が開始されはじめ、紀元前5世紀から紀元前4世紀頃にその頂点を迎えるが、空間よりも細部の装飾や比例原理を洗練させて自己完結していく傾向にあり、現代の美術的な感覚からすれば、
建築よりもむしろ彫刻に近い。
4)その後のヘレニズム時代には建築の形態が再編成され、建物の関係性が意識されるようになり、やがてこれらがローマ建築に継承された。
5)古典主義建築の源泉でありながら、ヨーロッパでは18世紀に至るまで忘れ去られていた建築であったが、新古典主義運動において建築の起原であると考えられるようになり、ギリシア建築の復興運動(グリーク・リヴァイヴァル)を巻き起こした。
ルネサンス運動は14世紀ですから、同運動はかなり後です。
6)19世紀に建築起原論は解体されてしまったが、古典(classic)の象徴という概念は現代においてもなお続いている。
7)概説:
8)歴史的、地理的関係性を考慮すると、古代ギリシアの建築活動は紀元前2000年頃のミノア文明中期に遡り、ギリシア本土では紀元前1400年頃のミケーネ文明を発祥とする。
9)しかし、クレタの建築とミュケナイ建築、そしてギリシア建築との間にある程度の共通性が認められるが、その関連性は必ずしも明確ではなく、ギリシア建築と呼べる建築は紀元前8世紀頃が出発点と考えられている。
10)一般的なギリシア神殿と同じ形式の建築物は、遅くとも紀元前8世紀初期には形成されたが、当時の建築材料は木材であり、今日それを完全に復元することはむずかしい。
11)しかし、都市国家の社会制度が発達するにつれて宗教的、公的建築が発達することがうかがえ、紀元前6世紀中期には建築材料として本格的に石がもちいられるようになった。
12)また、ペロポネソス半島とイタリア半島南部(マグナ・グラエキア)ではドーリア式が発展し、一方で小アジアではイオニア式建築がそれぞれ発達する。
13)人の目に触れにくい場所ではあったが、アーチやトンネル・ヴォールトの活用など、工学的な進歩も見られる。こうした建築的特質は、その文化と領土とともにローマ帝国に組み込まれ、紀元前1世紀以降はローマ建築に受け継がれていった。
14)歴史
15)黎明期からアルカイク期のギリシア建築:
16)紀元前8世紀から紀元前7世紀のギリシアは、都市国家が形成されはじめた頃であり、中央集権化や社会制度も発達していなかったが、同時に身分の垣根も低く、活気に富んだ公流が盛んであったと考えられている。
17)建築についても、ほとんど暗中模索の状況ではあったが、古典期に引き継がれる建築的な下地は形成されつつあった。
18)紀元前6世紀以前の建築:
19)ギリシア神殿の最初の形態は、ミュケナイ特有の建築であるメガロンのような形状で、神像を納めるナオス(内陣)とプロナオス(前室)から構成される、寄せ棟屋根の単なる小屋のようなものであった。
20)しかし、次第に「神の家」と呼べるものにまで発達し、紀元前7世紀中期には外部にテラコッタによる装飾を施して、その格式を高めるようになった。
21)構造についても、木材と日干し煉瓦で構築されていたものが、紀元前6世紀には石灰石や大理石で築かれるようになった。
22)技術が確立されると、神殿建築はほとんどすべてが石造となるが、その意匠の一部は、木造であった時に構造的な意味を持っていたものが様式化したものである。
23)テルモン(古名テルモス)のアポローン神域は、ギリシア北西部の有力豪族アエトリア人の聖域で、後のアエトリア同盟の中心地でもあった。
24)紀元前9世紀頃の「メガロンB」と呼ばれる神殿の後部は湾曲したアプス状で馬蹄形平面を持ち、これはレフカンディのヘローン(紀元前10世紀)やエレトリアのアポローン・ダフネフォロス古神殿(紀元前7世紀)、
オリンピアの古神殿などに見られる。
25)続く紀元前620年から紀元前610年頃に建設された第T神殿は初期のドーリア式神殿のひとつで、内陣を柱が囲む周柱式神殿である。
26)柱と梁は木造、壁は日干煉瓦で構成されており、未だ原始的な印象は否めないが、幾何学様式時代の鮮やかな彩色テラコッタが発掘されており、外装は美しい装飾に覆われていたらしい。
27)古代ギリシア有数の聖域であるオリンピアのヘーラー神殿も、ゼウスとヘーラーを祭る木造ドーリア式神殿として建設されたものだが、パウサニアスによると、その創建は紀元前1096年に遡るとされる。
28)この神殿の内陣は5つのスペースに区切られているが、これは当時の建築家たちが、建物を拡張する場合に奥行き方向のみを拡充していったことの所作であると考えられている。
29)このため、ヘーラー神殿の大きさは、短辺が18.75mであるのに対し、長辺は50.01mと非常に細長い。この形状は、テルモンのアポローン神殿も同様である。
30)現在残っている石造円柱は、直径やフルーティングの数がまちまちなうえ、石から切り出した一本の柱とドラムを積み重ねた柱が混在していること、そしてパウサニアスが柱の一本が樫の木で出来ていたと伝えていることから、
本来は木造であったものが、逐次石造に変えられていったと考えられている。
31)小アジアのイオニア式:
32)ギリシア建築の伝統は、主にペロポネソス半島と南イタリアを発祥とするドーリア式と、小アジア一帯を発祥するイオニア式に分けることができる。
33)イオニア式は小アジアにギリシア人が入植した紀元前12世紀頃まで遡ると考えられているが、紀元前6世紀に小アジアで建設された2つの巨大神殿、エフェソスのアルテミス旧神殿、そしてサモス島のヘーラー神殿(第V神殿)が、
その意匠の確立に大きな影響を及ぼした。
34)これらの神殿は現存しておらず、発掘された遺構から神殿の形態を推測するほかないが、どちらも二重周柱式神殿(ディプテラル)で、よく似た構成をしていたことは確実である。
35)ウィトルウィウスとプリニウスによれば、ヘーラー神殿は建築家ロイコスとテオドロスが、アルテミス神殿はクレタのケルシフロンとその息子メタゲネスが設計を行ったが、アルテミス神殿については、
ヘーラー神殿を計画したテオドロスも参画していたらしく、これが両神殿に共通性をもたらしたようである。
36)女神ヘーラーの生誕の地とされるサモス島のヘーラー神域(ヘライオン)の起源は古く、最初の第T神殿(通称ヘカトンペイドン(百尺神殿)、長辺60m・短辺30m)は紀元前8世紀初期に建設された。
37)その後、紀元前8世紀末に内陣を正面7本、側面8本の柱で囲む増築が成され、ギリシア世界の最初期の周柱式神殿となった。
38)この神殿は紀元前660年頃に洪水によって破壊されたが、すぐに同一平面の第U神殿が建設されている。
39)第V神殿は、紀元前570年から紀元前560年頃に建て替えられたもので、長辺104m・短辺52m、104本もの円柱によって内陣を2重に囲む巨大建築であった。
40)柱の配置は内陣の柱の位置と完全に一致しており、神殿が秩序立てて構成されていることがよくわかる。
41)アルテミス神殿のある場所も由来は古く、パウサニアスによれば、この神域の起源はイオニア人入植よりも古いとされている。
42)紀元前560年から紀元前550年頃に建設されたこの神殿は、ヘーラー神殿よりもひとまわり大きく、長辺114m・短辺54.6mである。平面構成はほとんど同じだが、装飾はヘーラー神殿よりも豪華で、
正面の円柱の柱頭と柱脚にまで浮き彫りが施されていた。
43)これにはリディア王クロイソスの銘が刻まれており、少なくともいくつかのものは彼の寄進によるものである。
44)両神殿の影響はたいへん大きく、その後数百年の間、小アジア一帯の神殿の設計において繰り返し手本とされ続けた。
45)イオニア人は建築の装飾にたいへんな関心を示しており、イオニア式建築はギリシア本土にも徐々に伝達されていったが、最初はこのような美しい模様や彫り物が採用された。
46)紀元前550年頃から紀元前525年にかけて建設されたデルポイのアポローン神域にある宝庫群は、ギリシア本土における初期のイオニア式建築であり、洗練された装飾をみることができる。
47)クニドス人の宝庫とシフノス人の宝庫は二柱式神殿(ディスタイル・イン・アンティス)の形式であるが、正面の2本の円柱は女性像に置き換えられている。
48)シフノス人の宝庫の壁体は小口と長手が交互に繰り返され、その上部には彫刻が施されたフリーズと菊紋が連続するアーキトレーヴが載っている。
49)入り口は連続した玉飾り(ビード・アンド・リール)で装飾されており、この小建築物がいかに華美なものであったかが窺える。
50)ドーリア式の発達:
51)小アジアにおける建築活動とは別に、ペロポネソス半島からイタリア半島南部ではドーリア式の神殿が発達した。古代ギリシアのドーリア式は、スタイロバティスの上に直接円柱が載せられるため基盤を持たず、柱頭は円形の皿型エキヌスと、
方形の台アバクスで構成されていることが特徴である。
52)しかし、シチリア島およびイタリア半島のドーリア式と、ギリシア本土のドーリア式では、相互に強い結びつきが見られるものの、その形態に顕著な違いが認められる。
53)ペロポネソス半島のポリスと強い結びつきを持っていたイタリア南部ではドーリア式が採用されていたが、これらの地域ではギリシア本土の伝統には拘束されず、かなり独自の建築活動を行っていた。
54)建築家クレオメネスとエピクレスによる、シュラクサイのオルティギア島にあるアポローン神殿は紀元前570年頃に建設されたもので、構造が石造にかわった最初のギリシア神殿のひとつである。
55)技術的には、異様に高い梁(エンタブラチュア)を柱を密に並べて支えるなどの未成熟な部分があるが、この神殿のドーリア式にふさわしいどっしりとした重さは、紀元前6世紀中期以降に建設されるシチリア島やイタリア半島南部の神殿建築に
特有のものとなった。
56)セリヌスの最も巨大な建築物であるG神殿は、幅49.5m、奥行108.9mの巨大神殿で、紀元前520年に起工された。
57)僭主ピタゴラスによって、エフェソスやサモス島の巨大神殿と張り合うよう意図されたらしい。
58)周柱式であるため翼廊の幅は12mと広く、内陣は幅18m。列柱によって3等分された3廊式である。露天になった内陣には小神殿が設けられており、この点はディディマのアポローン神殿(イオニア式)に影響を受けたものではないか
と考えられている。
59)石造技術は完成され、意匠はギリシア本土のような各部の構成に縛られない自由さも兼ね備えている。
60)「バシリカ」と呼ばれるパエストゥムの第1ヘーラー神殿は、紀元前565年ないしは紀元前530年頃に建設されたものと推定されている。
61)建築の装飾に対する意識からであろうが、エンタシスはたいへん強調され、柱頭のエキヌスはかなり扁平で、その下部には葉飾りが挿入されている。
62)周柱式神殿であるが、正面の円柱は偶数ではなく奇数(9本)配置されており、建物の軸に一列の列柱が通る格好になっている。このため内陣は2廊である。
63)内陣の壁と前室の柱は外周の柱割に一致しているが、内陣の列柱の間隔はこれとは異なり、一般的なギリシア神殿とは明らかにその性格が異なっている。
64)ギリシア本土におけるドーリア式建築は、紀元前7世紀頃、未だ建築が石ではなく木造であった時期に完成した。
65)ドーリア式は古いドーリア人入植地に由来し、これらの地域では相互に強い結びつきが見られるが、これについては南イタリアに複数の植民都市を建設し、ペロポネソス半島で最も活発な交易活動を行っていたコリントスが
重要な働きを担ったと考えられている。
66)アゴラに隣接して紀元前6世紀中期に建設されたアポローン第U神殿は、現在も何本かの柱が残っているが、正面と側面の柱のスパンは異なっており、また、隅部の柱間は他よりも少し狭くなっている。
67)また、内陣が2室あるなどの特徴は、デルポイのアポローン神殿やアテナイの古パルテノン神殿に共通しており、この神殿が両者に影響を与えたことが窺われる。
68)イタリア半島への中継地で、コリントスと密接なつながりのあったケルキラのアルテミス神殿も、紀元前585年頃か紀元前580年頃に建設された、石造ではギリシア最古のドーリア式神殿のひとつである。
69)神殿の保存状態は極めて悪いが、大きさは幅22.4m、奥行き47.9mで、疑似二重周柱式平面を持ち、内陣は列柱によって3廊に分離されていた。
70)この神殿を特に有名にしているのは、ペディメントに据えられていたゴルゴーンの巨像で、このため「ゴルゴーン神殿」とも呼ばれている。ペディメントを彫刻で飾った、知られている限り最古の神殿である。
ペディメントとは、もともとは建築用語で、西洋建築の切妻屋根で囲われた下の三角形の部分、とあります。
71)厳格様式時代から古典時代へ:
72)紀元前5世紀中期になると、石造技術は高度に運用されるようになり、ドーリア式、イオニア式の伝統が融合して、ギリシア建築は完成の域に達した。
73)古典期のギリシアは完璧な比例法則を備えた壮麗な建築を創建し、古典建築の源泉となった。ホールや劇場などの公共建築は大きく発展したが、一方で個人邸宅などの私的建築物についてはあまり進展はなかった。
74)ドーリア式神殿の完成と衰退:
75)厳格様式時代にあたる紀元前5世紀の初期から中期にかけて、ドーリア式は特有の堅牢さ、重厚さを持つ神殿建築を確立した。
76)アイギーナのアテーナー・アパイアー神殿や、建築家リボンとペイディアスによるオリンピアのゼウス神殿はその典型的な例で、最終的にアテナイのアテーナー・パルティノス神殿(パルテノーン)において、
まさに完成された姿となった。しかし、ドーリア式建築の隆盛は長く続くことはなく、続く紀元前4世紀になると、ドーリア式はその厳格さによって早くも廃れていった。
77)アイギーナは、ファレロン湾に浮かぶ小さな島のひとつであるが、紀元前6世紀にはエーゲ海の基軸通貨としてアイギーナ貨幣が流通するなど、紀元前5世紀中期まで、アテナイを抑えるほどの勢力を誇った
有力な海洋交易国家であった。
78)島の東端にある女神アパイアーの神殿は、紀元前5世紀初期に建設された、全幅13.5m、側面長さ28.5mの神殿である。保存状態が良く、青みがかった地元の多孔質石灰石を構造体とし、
その上に白い漆喰を塗っているのが現在でも確認できる。
79)扁平でやや大きなエキヌスを持つ円柱の意匠は、アルカイク時代の形態をある程度保持しているが、平面はプロナオスとオピストドモスを持つ古典時代特有の形式で、このため、わずか幅6.3mの内陣を、2層のドーリア式円柱
で3廊に分けている。
80)聖地オリンピアの主神殿となるゼウス神殿は、紀元前470年から紀元前460年に建設されたものである。
81)現在はほとんど残っていないが、構造体は地元の石灰岩を整形したもので、表面には白い漆喰が塗られ、全体の色彩は乳白色であったが、トライグリフやペディメントなどは鮮やかに彩色されていた。
82)これらの措置はアパイアー神殿と同様である。3廊に分割された神殿内部には、ペイディアスが作成し、世界の七不思議にも数えられるゼウスの黄金象牙像が、かなり窮屈に収められていた。
83)これは、建築家リボンが神殿に厳格なモデュールを適用していたため、座像に合わせて内部を作り替えることが難しかったことによる。
84)ゼウス神殿以後の時代に建設されたドーリア式には、必ず厳格なモデュールが適用されているが、この流れはゼウス神殿が起点となったものである。
85)ペイディアスとイクティノスによるアテナイのアテーナー・パルティノス大神殿(パルテノーン)は、ドーリア式神殿の、そしてギリシア建築の最高傑作と言える作品である。
86)また、ひとつの神殿のなかにドーリア式とイオニア式を混淆したという点でも特筆に値する。
87)パルテノーンは、ペルシア戦争によってアテナイが灰燼に帰した後、キモンによるアクロポリスの再建時に、建築家カリクラテスによって着手された。
88)紀元前447年に、神殿の造営がペイディアスとイクティノスに継承されたとき、パルテノーンは再建の真っただ中にあり、柱などの建築資材のいくつかはすでに構築されていたが、この神殿の計画は旧神殿の平面を
踏襲したものであったため、ペイディアスが作成する女神アテーナーの黄金象牙像を安置する空間を確保できなかった。
89)イクティノスは計画を変更して平面を拡大せざるを得ず、すでに整形された柱から、新たに全体のモデュールを構築しなおさなければならなかった。
90)このように、神殿の設計は難しいものであったが、パルテノーンは伝統的規範を墨守し、かつ、厳格な比例関係を保つように再構築された。
91)このように、神殿の構成はドーリア式特有の厳格なものであるが、内陣は女神アテーナーにふさわしい、優雅な2層構成のドーリア式円柱にイオニア式フリーズを組み合わせたもので、
外部も古典期の傑作と言われる多くの彫刻(いわゆるエルギン・マーブル)によって飾りたてられた。
マーブルとは、大理石の事です。
92)これらの造営資金は、デロス同盟で各地のポリスから収集された対ペルシア戦用の軍資金を流用したものであり、現在アテネ帝国とも呼ばれるアテナイ最盛期の栄華を物語っている。
93)アテナイのヘーパイストス神殿(テセイオーン)、スニオン岬のポセイドーン神殿、ラムヌスのネメシス神殿は、明らかにパルテノーンを規範とした建築である。
94)パルテノーンで確立されたドーリア式は、独自の建築活動を行っていたイタリア南部にまで影響を及ぼし、パエストゥムの最後の神殿となるヘーラー第2神殿は、古典時代の規則がすべて重んじられたつくりになっている。
95)しかし、ドーリア式は外部の比例と内陣の比例を秩序立てて構成することが非常に困難だったため、やがて外部と内部の相互関係は破条することになる。
96)バッサイのアポローン神殿や建築家スコパスによるテゲアのアテーナー・アレア神殿では、もはや外部と内陣との間にはなんらの連携もなく、やがて、ドーリア式には美学的に重大な欠陥ありとして、衰退することになるのである。
97)イオニア式とコリント式の萌芽:
98)イオニア式は、紀元前6世紀末には小アジアと交易を行っていたイタリア南部に及び、パエストゥムのヘーラー第1神殿の細部装飾にその影響が窺われるが、本格的な導入は、紀元前500年頃に建設されたアテーナー神殿の
内陣前柱においてであった。
99)南イタリアと同じように小アジアと交流の深かったアテナイも、紀元前5世紀頃にイオニア式を導入するようになり、紀元前450年頃には、アッティカで最初のイオニア式である女神デーメーテールの神殿(現在は消失)が建設された。
100)イオニア式は、建築を優雅で華美なものにするというイオニア人特有の美意識によって形成されたが、アテナイにおいてもこれは受け入れられ、独自にアレンジされて表現された。
101)紀元前437年から紀元前433年に建設されたプロピュライアは、アクロポリス唯一の入り口であり、すでにミュケナイ時代から門があったことが知られている。
102)正面は、中央通路部分をやや広くしたドーリア式オーダーの列柱で構成されているが、内部通路はイオニア式が配置されている。
103)また、西面南側の壇上には、プロピライアのドーリア式と対照を成す女神ニーケー・アプテロス(翼なき勝利の女神)の神殿が建っている。
104)このアテーナー・ニーケー神殿は、ペロポネソス戦争が一時的に収束し、アクロポリス再建計画が最終段階に入った紀元前427年に、ペルシア戦争の勝利(カリアスの和平)を記念して建設されたものである。
105)幅4.13m、奥行3.83mのイオニア式小神殿で、表裏ともに前柱式の平面を持つアンフィ・プロスタイルと呼ばれる形式である。
106)円柱と内陣を囲む壁は、ともに半円のトルスを持つ基壇の上に載り、浮き彫りを施したフリーズを持つエンタブレチュアをその上部に巡らせて、正面および背面、そして側面を統一している。
107)また、神殿下部のアクロポリスの城壁の縁にも女神の浮き彫りが取り付けられた。
108)アテーナー・ニーケー神殿のように、小規模の建築にイオニア式オーダーを用い、彫刻などで装飾するという手法は、紀元前4世紀頃に葬祭建築に応用されることになる。
109)アクロポリスの最も神聖な場所であり、アテーナー・ニーケー神殿と同時期に起工されたエレクテイオンは、ペロポネソス戦争の再開によって紀元前409年まで工事が中断し、完成したのは紀元前406年である。
110)宗教行事を行う機能上、それまでの神殿よりも複雑な平面を持つが、内部は保存状態が悪いため、いくつかの復元案がある。
111)基礎以外はペンテリコン産の白大理石で造られているが、フリーズはエレウシス産の青灰色石灰石で、表面に大理石の浮き彫りを釘留めしていた。
112)入り口は正面にあたる東側と北側に設けられ、北入口は敷地の高低差により東より低く、そのポーチは建物本体から西に雁行して取り付けられている。
113)南面には西端にカリアティディス(女性像型の柱)を持つ演壇があるが、特に対称性や全体の秩序は意識されておらず、建築としてはまとまりに欠ける。
114)しかし、こうした不整形な平面の建物にイオニア式を採用することができたのも、イオニア式の調和性と形態の自由さ故のことである。
115)紀元前5世紀後半になると、イオニア式の影響はギリシア本土におよぶが、小アジアのものと比較すると柱基の形式やフリーズの有無、ディンティルの有無といった相違がある。
116)ヘレニズム時代に一般的となるイオニア式は、総じてギリシア本土で形成されたものを基本としているが、装飾性の高いイオニア式は、ドーリア式よりも細部の変化が大きく、紀元前5世紀末から発展するコリント式オーダーは、
アッティカ風イオニア式オーダーの発展形態と考えられている。従って、ギリシア建築のコリント式はオーダーとしての独立性に乏しく、ドーリア式の柱に採用されることもあった。
117)紀元前675年に遡る歴史を持つとされるバッサイ神域のアポローン・エピクリオス第W神殿は、紀元前5世紀末に建設された、幅14.4m、全長37.8mの周柱式神殿である。
118)パウサニアスはイクティノスが設計したものとしているが、エンタシスや細部の比例はパルテノーンほど精密ではない。
119)外部の円柱はドーリア式であるが、内陣はたいへん個性的で、付け柱というにはあまりに突出した、ほとんど控壁のようなイオニア式の柱型が並べられた。
120)このような壁付きイオニア式は、おそらくギリシア最古の実例である。
121)また、内陣の中央には一本のコリント式円柱が設けられたが、このコリント式についても、神殿に採用されたものとしては、ギリシア最古のものである。
122)ヘレニズム期:
123)ヘレニズム期になると機能的要求から建築平面が複雑化し、ギリシア建築から独創性や力強さは失われてしまうが、建築物を組み合わせるという新しい動きが見られるようになる。
124)これは都市計画の概念とともに形成されたもので、都市全体の眺望に対する意識の現れであった。
125)アレクサンドロス3世と、彼の後継者たち(アンティゴノス1世、セレウコス1世、プトレマイオスら)のために建設されたヘレニズム時代のギリシア建築は東方の広範囲に広がっていったが、
ギリシア人建築家が用いた形態やモティーフは徹底的に保守的なものであった。このため、硬く生気のない印象を受けることがある。しかし、建築の格式の高さを演出するための様々な努力が見られ、
特に装飾については古典時代よりもさらに発展した。
126)紀元前3世紀頃になると、モジュールと比例関係との整合性の悪さや複雑形態の建築に適用できないなどの理由からドーリア式が忌避されるようになり、代わってイオニア式とコリント式が用いられるようになった。
127)サルディスのアテネ・キュベレイ神殿、ディディマのアポロン神殿は、ヘレニズム期を代表するイオニア式の巨大神殿である。
128)サルディスの神殿は紀元前3世紀ころに起工され、ほぼ100年をかけて建設されたもので、建築家ヘルモゲネスの設計したマグネシアのアルテミス神殿に倣って建設された。
129)イオニア式の柱には、ギリシア本土の簡素なものとは対照的に華美な装飾が施されている。
130)エフェソスのパエオニウスとミレトスのダフニスの手によるアポロン神殿は、同時代では最も巨大な二重周柱式神殿で、内陣の入り口には1.5mの高さの敷居が設けられ、みだりに人が立ち入ることを拒んだ。
131)内陣は天井のない中庭になっており、神像を納めるための小神殿が建された。このような空間の入れ子構造、そしてその多彩な装飾によって、この神殿はヘレニズム時代、ローマ属州時代を通じて多大な影響を及ぼした。
132)建築と彫刻を融合する動きは古くからあり、アルカイック時代にも丸掘りの彫刻が建築を装飾するために設置された。
133)古典時代になるとデルフィのイオニア式宝庫や、アテナイのアクロポリスにあるエレクテイオンのカリアティスのように、建築と彫刻が一体となったものが見られるようになる。
134)このような動きは、ヘレニズム時代になるとさらに進展し、ロンドンで復元されている紀元前4世紀初期のクサントスのネレイド記念堂、ハリカルナッソスのマウソロス王の霊廟(現在は消失)において実現された。
135)宗教建築の彫刻による装飾方法は、エジプト、メソポタミアなど、明らかに東洋起原になるもので、豪華さと格式の高さを補強するものであった。
136)ベルリンで復元されているペルガモンのゼウ大祭壇は、その最も成功した例である。
137)装飾に対する嗜好は、オーダーにも及んだ。古典時代までは壁と一体となった円柱(付け柱)は内部空間でしか用いられていなかったが、ヘレニズム時代にはアテナイのリシクラテス記念碑やアクラガスのゼウス神殿など、
ファサードを構成する要素として運用されるようになった。このためオーダーは構造的な要素ではなく、単なる装飾として扱われることになった。
138)この壁付きオーダーは、最初に劇場の背景として出現しており、ヘレニズム時代の建築は、絵画(壁画)との密接なつながりも考慮されている。
139)ヘレニズム時代のギリシア建築は装飾への関心が高く、個々の建物の構成については、まったく進展はなかった。しかし、建物相互の関係性については革新があった。
140)アルカイック時代から古典時代にかけての建築は、個別の機能を満足した独立性の強いものであったが、ヘレニズム期になるといくつかの建築が統合され、組織化された。
141)ロドス島にあるリンドスのアクロポリスには、複数のテラスによって個々の建築が結ばれ、全体を統一的に見せる景観をつくりだしている。ペルガモンのアクロポリスはより複雑なもので、不規則な地形に様々な建築が建てられているが、
それらはやはりテラスによって接続され、景観を統一する要素として、扇形の神域の中央部に劇場が配置された。
142)ペルガモンの場合、こうして作り出された景観はアッタロス朝ペルガモン王国の威厳と誇りを示すものであり、ここで働いた職人は、やがてアッタロス朝の同盟国へ派遣され、歓迎された。
143)後にアッタロス朝は共和政ローマと強固な同盟関係を結び、ローマの建築家や彫刻家の多くが、ペルガモンの芸術から学ぶことになった。
以下は§特徴、§主要建造物、§参考文献、§出典・脚注ですが、省略します。
144)関連項目:建築史、建築、ローマ建築、ビザンティン建築、ギリシア美術
145)ギリシア建築に関わる世界遺産:
・バッサイのアポロ・エピクリウス神殿
・デルフィの考古遺跡
・アテナイのアクロポリス
アクロポリスとは、「高いところ、城市」を意味し、防御で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれている、だそうです。
・アスクレピオスの聖地エピダウロス
・オリンピアの考古遺跡
・デロス島
・サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿
・アイガイ(現ヴェルギナ)の考古遺跡
・ミケーネとティリンスの考古遺跡群
・パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントとディアノ渓谷国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院
・シラクサとパンターリカの断崖の墳墓
・アグリジェントの遺跡地域
・クサントス・レトーン
これでギリシア建築は終了です。
時代は確実にギリシアからローマに移りつつあります。次はギリシア時代を飾る、「アテナイとスパルタ」です。
→アテナイとスパルタ