アテナイとスパルタ
アテナイとスパルタはギリシアの都市国家です。Civではマケドニアのアレクサンドロス(3世)が指導者です。Wikiにも、この「アテナイ」、「スパルタ」ページは存在します。まずは「アテナイ」ページから。
1)アテナイ(アテーナイ、古希:〇、古代ギリシア語ラテン翻字:〇)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシャの都市国家。
2)名はギリシア神話のアテーナーに由来する。アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。
アテーナーはオリュンポス十二神の一柱で、処女神だそうです。ギリシア民族が南下して勢力を伸張させる以前より多数存在した城塞都市の守護女神、とあります。
ギリシアは多島海で有名で、ですから良港に恵まれたのでしょう。(笑)
3)アテナイの歴史:→詳細は「アテネの歴史」および「ギリシャの歴史」を参照
4)アテナイの成立:
5)アカイア人分派のイオニア人がアッティカ地方に定住したのは紀元前2000年ごろと推定され、紀元前1200年ごろから紀元前1100年ごろにかけてドーリス人の侵入をうけ周辺村落は次々と征服された。
6)アテナイは、これを凌いで続く暗黒時代を通して王政を維持しつつ存続した(もっとも、当時のアテナイは経済的に未熟で土地も肥沃ではないため、ドーリス人が攻略する価値を見出せなかった)。
痩せた土地が侵入を防いだ訳です。
7)このころ代々の王家に代わって、移住者の子孫であるピュロス王家が成立する。
8)アテナイは立地条件を生かし、エーゲ海や黒海での海上交易を中心に、交易都市として発展していく。
アテナイの北東にはエーゲ海とイスタンブールが、その先には黒海が在ります。
9)ソロンの改革によって経済的に活性化され、主に陶器の輸出や穀物や織物の輸入などが扱われていく。
10)また、アイギナとコリントスの経済を巡る覇権争いでは、当初はアイギナ側に立ったが後にコリントス側に移ってその優位を助け、後にコリントスが衰退の気配を見せると並び立った。
11)この動きに拍車をかけたのはラウリオン銀山(古希:〇、古代ギリシア語ラテン翻字:Laurion)の存在である。
12)その発掘の歴史はカルタゴのイベリア開発等と比べ遅れるものの、ギリシア世界では殆どとれなかった銀を唯一大量にとれる同銀山の本格的な採掘が開始されると、短期間のうちにその豊富な資金でアイギナ・コリントスに並ぶ存在となり、
やがてギリシャ地方有数の都市となった。
席亭も、アテナイ繁栄の原因が銀であるとは知りませんでした。多島海ですから、他にも良港は有りそうです。(笑)
13)ペルシア戦争:→詳細は「ペルシア戦争」を参照
14)海上交易への依存度が強かったアテナイを始めとしたギリシア諸ポリスは、小アジアにまで伸張する大国アケメネス朝ペルシアにエーゲ海の制海権を奪われた。
15)こうした中、当時アケメネス朝の影響下におかれていた小アジアにおいて、イオニア植民市の反乱が勃発した。これをアテナイを中心とするアッティカ、イオニア系都市の一部が支持したことでアケメネス朝のダレイオス1世は
ギリシア地方の諸部族に対して強硬策を採り、ついにペルシア戦争が勃発した。
16)これに対して圧倒的な国力と先進性を誇るペルシャを恐れ中立を保つポリスやペルシャ側へ付くポリスも多かったが、アテナイやスパルタを中心としたポリスは一致結束してギリシア連合軍を結成した。
17)そしてマラトンの戦い、サラミスの海戦、プラタイアの戦いなどでギリシア側が勝利を収め、アケメネス朝ペルシアの侵攻を頓挫させた。
このマラトンはマラソン/陸上競技の語源です。
18)全盛期のアテナイ:
19)ペルシア戦争に勝利し海上交易における覇権的地位を確立したアテナイは、ギリシア第一のポリスとなり、軍事のみならず経済の中心都市としても発展した。
20)また、前の戦争において市民による重装歩兵が都市の防衛の主役となったほか、海戦における軍艦の漕ぎ手として無産市民も活躍したことで彼らも政治的地位を向上させ、軍事民主制(民主主義)による政治体制が確立されていった。
重装歩兵はCiv5でも登場しています。
21)こうした状況下で、優れた政治的指導者であるペリクレス将軍統治の下、アテネは繁栄した。
22)外交面では、アテナイを盟主としてイオニア地方やエーゲ海のポリスまで含んだデロス同盟と称される軍事同盟が結成された。
23)当初はアケメネス朝の再襲に備えたものであったが、アケメネス朝の脅威が減少するにつれ、徐々にアテナイが他のポリスを支配する道具になっていった。
24)当初はデロス島に設置されていた金庫がアテナイに移されて以降、潤沢な資金はアテナイの為に流用され公共事業であるアテナイのアクロポリスでのパルテノン神殿建設や海軍増強などに注ぎ込まれた。
25)ペロポネソス戦争:→詳細は「ペロポネソス戦争」を参照
26)ペルシア戦争での威信を利用したアテナイが急激な軍備拡張と諸ポリスの占領・隷属化を進め、ギリシア最強の都市国家として拡張していく様子に対し、他の多くのポリスはアテナイの専横的かつ強圧的な振る舞いを苦々しく感じていた。
27)アテナイが帝国主義的な振る舞いを加速するに連れデロス同盟内のポリスからも反発が起こるようになった。
28)そして元々農業国でペルシア戦争のもう一つの戦勝功績国スパルタは、こうしたアテナイの拡張・侵略政策と相容れないポリスを支援して両者は激しく対立するようになる。
29)紀元前431年、アテナイとスパルタを中心とするペロポネソス同盟の間にペロポネソス戦争が開始された。陸戦に強いが国内に多くの農奴及び奴隷を抱えるスパルタ、海戦に強いが国内に多くの奴隷及び国外に多数の隷属都市を抱えるアテナイは、
共に政治的な不安定さと国家組織の未発達から長期間の遠征が無理であったため、指導者ペリクレスは籠城戦を選択する。陸での決戦を避けて戦力を温存、強大な海軍と合わせ海外の植民地を維持し長期戦に耐える計画であった。
ペリクレスはアテナイ側の指導者です。
30)紀元前429年、アテナイ城内に蔓延した疫病(19世紀にはペスト説が有力であったが、実際は別の伝染病であったと考えられる)によってペリクレスを含めた多数の人間が死亡した後、漸次隷属させていた植民地が離反するなどして
アテナイは劣勢に立たされ、戦争は紀元前404年にスパルタの勝利の内に終結した。
31)アテナイの衰退:
32)スパルタに敗れた後のアテナイには三十人政権と呼ばれる寡頭制政権が成立し恐怖政治を敷いた。
33)間もなくトラシュブロスによって寡頭制は崩壊し富裕市民の合議制に戻ったものの、海外領土および隷属都市を失ったアテナイの経済力は衰退し政治が大きく乱れた。
34)コリントス戦争後、紀元前377年に再度海上同盟を結成するなど国力を回復したものの、かつての勢いを取り戻すことは二度と無かった。
35)紀元前357年に起きた同盟市戦争により同盟市に対して大幅な譲歩を強いられ、紀元前338年にカイロネイアの戦いでマケドニアのフィリッポス2世に降伏してからはデモステネスの抵抗も空しく政治的独立性を失いアレクサンドロス大王と
それに続くディアドコイの帝国に編入された。
36)アレクサンドロス大王の死後反乱(ラミア戦争)を起こしたものの、短期間で鎮圧された。
37)ローマの支配下となった後は文化都市として栄えたが、域内完結型のローマ経済圏において生産力の乏しさから徐々に衰退し、6世紀頃までには東ローマ帝国の一地方都市となった。
海上貿易のメリットを失うと、アテネは貧しい一地方都市に成下るのでしょう。そしてこれは、ギリシア国家に於いても同様です。
次は「スパルタ」ページです。
1)スパルタ(ドーリス語:〇/ドーリス語ラテン翻字:〇スパルター、英語:Sparta)は、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。
スパルタはアテネの南西に在ります。アテナイとスパルタとの争いは、つまりはイオニア人とドーリス人との争いな訳です。
2)自らはラケダイモーン(古代ギリシア語:〇/古代ギリシア語ラテン翻字:〇)と称した。
3)古代ギリシア世界で最強の重装歩兵を誇り、ペルシア戦争ではギリシア軍の主力であった。
つまりは、アテネよりも軍功を挙げていたのです。
4)ペロポネソス同盟の盟主となり、アテナイを破って一時期はギリシア世界に覇を唱えた。
5)多のギシシア諸都市とは異なる国家制度を有しており、特に軍国主義的政治と尚武を尊ぶ厳格な教育制度は「スパルタ式」と後世に呼ばれ、「スパルタ教育」語源ともなった。
世間ではよくアテナとスパルタの国家体制が比較されますが、勝負の勝敗には両者の外側の影響も有りそうです。(笑)
6)名称:
7)「スパルタ」はドーリス語(古代ギリシア語ドーリス方言)の「〇/ギリシア語ラテン翻字:〇」がもとになっており、原音の発音に沿ってカナで表記すれば「スパルター」となる。
8)古典ギリシア語の標準とされるアッティカ方言では「スパルテー(古希:〇/古代ギリシア語ラテン翻字:〇)」と呼ばれる。
9)アッティカ方言をもとにした現代ギリシア語では「スパルティ(希:〇/ギリシア語ラテン翻字:Sparti)」となる。
10)地理:
11)エウロタス河畔に位置するスパルタは、ラコーニアーとメッセーニアーを治めた。彼らの支配地には城壁等は無かった。
12)これは、スパルタの陸軍は最強であるというのが当時のギリシア世界の常識であり、攻め入ることは自殺行為に等しいという認識が浸透していたからである。
13)事実、スパルタの戦士共同体が弱体化し、レウクトラの戦いで敗れるまでは、スパルタの支配地に侵入できた軍隊は存在しなかった。
14)歴史:
15)スパルタは歴史書などの記録をほとんど残さず、定期的に外国人を追放するなど排他的な政策をとった。このため、スパルタの歴史及び国家制度についてはクセノポンの『ラケダイモン人の国制』のような実録を除き、
アテナイなど他のポリスによる記録や後世の顕彰的な記録に頼らざるを得ず、不明確な点が多い。
16)しかし、20世紀後半以降は考古学的発掘調査及び文化人類学、民俗学などに基づく新たな史料批判が進められ、プロパガンダの要素が多く「スパルタの幻影」(英:Spartan mirage)と呼ばれた従来のスパルタのイメージは変更を迫られている。
17)成立:
18)紀元前10世紀ころに祖先がギリシア北方からペロポネソス半島に侵入し、ミュケナイ時代の先住民アカイア人を征服しヘイロタイ(奴隷)にした。伝説では、紀元前1104年にエウリュステネスが建国したとされる。
19)紀元前8世紀から7世紀にかけて無法状態を経験したことは、ヘロドトスやトゥキュディデスにより伝えられている。
20)社会的な不満から社会改革の動きが活発化し、伝説的立法者リュクルゴスによって秩序がもたらされた。
21)リュクルゴスは、諸国遍歴の末、この制度をスパルタに成立させ、スパルタ市民はリュクルゴスの制度に基づいた社会生活を営んだ。
22)土地の均等配分、長老会設置、民会設置、教育制度、常備軍の創設、装飾品の禁止、共同食事制がその基本である。
23)紀元前743年、スパルタは自分たちの部族の統一もままならない中、西の隣国、メッセニアを征服した(第一次メッセニア戦争)。
24)この戦争はスパルタがギリシアの強国となるための一つのステップであったといえる。このため、スパルタは、当時のポリスのなかでもその領域は例外的に広かった。
25)奪った土地はスパルタ市民に均等配分され、約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは奴隷の身分から解放されることも移動することも許されず、土地を耕してスパルタ人に貢納した。
この奴隷を監視する為だけにも、多くの軍隊が必要であると思われます。
26)スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千−1万人であったが家族を含めて5万人程度)、多数の被抑圧民を抱えたことから市民皆兵主義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。
27)ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、クリュプテイア(〇)と呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れて彼らの集落を襲い、未然に防いだ。
28)紀元前685年、スパルタの軛に耐えかねたメッセニア人たちは反乱を起こし(第二次メッセニア戦争)、それは周辺諸国をも巻き込んだ戦争になった。
29)前半の戦況はメッセニア優位であったが、大掘割の戦いでのスパルタの勝利が転換点となり、戦局はスパルタ優位に転換、ついにエイラ山(〇)の陥落を以ってスパルタの勝利に終わった。
30)この事件からスパルタ人はヘイロタイに対する締め付けを強化した
31)ペロポネソス同盟とペルシア戦争:→詳細は「ペルシア戦争」を参照
32)第二次メッセニア戦争を戦ったテオポンポスの頃にエフォロイの制度が始まり、王権への制限は強化された。
33)その一方で徐々にスパルタはペロポネソス半島での影響力を増やしていき、紀元前6世紀にはペロポネソス同盟を結成し、その盟主の座に就いた。
34)紀元前5世紀初頭の第二次以降のペルシア戦争でスパルタはアテナイと共にギリシア諸国を主導してペルシア帝国と戦った。
35)有名な戦いはテルモピュライの戦いであり、スパルタを主力としたギリシア同盟軍は、数十倍はあるかというペルシア軍に対して奮戦した。この戦いで英雄的な討ち死にしたレオニダス1世は、その名をギリシア中に轟かせた。
36)プラタイアの戦いでは、4万ほどのスパルタ軍が30万とも伝えられるペルシア軍を打ち破り、敗走させている。ペルシア戦争でスパルタの無敵さは世界でも通じるものであると証明し、陸上戦においてペルシア帝国の野望を何度も打ち砕いた。
37)ペロポネソス戦争とギリシャの覇権:→詳細は「ペロポネソス戦争」を参照
38)デロス同盟の盟主となったアテナイの強大化に伴ってアテナイとの関係は悪化し、紀元前460年から紀元前445年まで第一次ペロポネソス戦争と呼ばれる断続的な戦争状態に陥った。
39)この戦いは30年間の休戦を条件に終わったが、その半分もいかないうちにペロポネソス戦争が勃発した。
40)戦争はギリシア中を巻き込んだ大戦となったが、籠城戦を選択したアテナイに疫病が蔓延したこともあり、前404年にスパルタが勝利した。それによって、スパルタはギリシアの覇権を獲得した。
41)しかしその勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらしたことにより、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じた。その結果、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。
42)紀元前395年、スパルタに対してアテナイ、アルゴス、テバイらが挑戦し(コリントス戦争)、両陣営は一進一退の攻防を繰り広げたが、ペルシア王アルタクセルクセス2世の仲介のもと、アンタルキダスの和約(大王の和約とも)によって
戦争は終わったが、スパルタは海上の覇権をアテナイに引き渡した。
陸軍の強さと海上の覇権は、イコールでは無いのでしょう。
43)その後、エパメイノンダスとペロピダスに率いられたテバイとの対立が激化した。
44)紀元前371年のレウクトラの戦いで、エパメイノンダスに率いられたテバイ軍に、クレオンブロトス1世率いるスパルタ軍は敗れた。ここでスパルタはギリシアにおける覇権を失った。
紀元前の記録、記憶を有するヨーロッパ史は、やはり羨ましいですよね?(苦笑)
45)ヘレニズム期からローマへ:→詳細は「セッラシアの戦い」および「ナビス戦争」を参照
46)紀元前4世紀中頃からピリッポス2世の元で強大化したマケドニア王国がギリシアでの影響力を強め、アテナイやテバイはそれに対抗していたが、スパルタはそれには加わらず、ついにマケドニア軍がカイロネイアの戦いで
アテナイ・テバイ軍を撃破すると、マケドニアの主導でコリントス同盟が組織され、マケドニアのギリシアでの覇権が確立した。
47)しかし、スパルタはこの同盟に加わらずに反マケドニアの態勢を貫き、紀元前331年にはアギス3世のもとでマケドニアに反乱を起こしたが鎮圧された(メガロポリスの戦い)。
48)紀元前3世紀以降、アギス4世やクレオメネス3世、マカーニダースやナビスらが国政改革を実施して、アカイア同盟やマケドニア、共和政ローマと戦ったが、セッラシアの戦いやマンティネイアの戦い、ナビス戦争におのおの敗北。
この時期に名実共に独立国家としての地位を失った。
戦に強かったスパルタが、戦で滅ぶ訳です。新兵器でも登場したのでしょうか?
49)紀元前146年にローマはアカイア同盟をコリントスの戦いで破ったのを機に、スパルタを含むギリシア全土をローマの属州に組み込んだ(アカエア)。ただし、アテナイ並びにスパルタはかつての功績から一定の自治権を認められた。
その後:以下は省略します。
50)ギリシア神話:
51)ギリシア神話では、トロイア戦争の原因となったヘレネの夫メネラオスがスパルタ王となっているが、トロイア戦争はミケーネ文明時代の話であるため、メネラオスのスパルタは後世のスパルタとは別の国である。
52)後世のスパルタの建国神話はヘラクレイダイ(ヘーラクレースの末裔)のペロポネソス半島への帰還と共に語られている。
王位簒奪を恐れたエウリュステウスによって故郷を追われていたヘラクレスの子孫たちは、アルゴスを打ち倒し、三代目にしてやっと故郷の地であるペロポネソス半島へと帰還することができた。
この時、ヘラクレイダイは領地を分け合った。すなわち、アルゴスをテメノスが、メッセニアをクレスポンテスが、スパルタをアリストデーモスが支配することになった。この中で、アリストデーモスは雷に打たれて既に死亡していたため、
その子供たちがスパルタを支配することになった。彼らの名前はエウリュステネスとプロクレスと言い、エウリュステネスがスパルタ王家のアギス朝、プロクレスがエウリュポン朝の創始者となった。
彼らは仲が悪かったため、二つの王家は一つになることはなく、スパルタには代々二人の王が並立することになった。
53)こうして、スパルタはヘラクレイダイによって統治され、スパルタ人は大英雄ヘーラクレースの血統に組み込まれたのであった。
54)関連項目:歴史(ヘロドトス)−ヘロドトス、スパルタ王、侍政、スパルタスロン
スパルタスロン、はマラソンの長距離版競技です。ここで「アテナイ」ページに戻ります。
38)神話の中のアテナイ:
39)ギリシア神話では、アテナイはオリュンポス十二神の水神ポセイドンと女神アテナが、その当時まだ名前の無かったアテナイの領有権をめぐって争い、それにアテナが勝利したため、女神の名にちなんでアテナイと名づけられたとされている。
その争いとは、アテナイ市民により有益なものを作り出したほうを勝者とするものであった。ポセイドンは馬を作り出して乗馬の方法を教え塩水の井戸を湧き出させた。
他方アテナはオリーブの木を生み出し、これを見た神々がアテナの方が住民に有益であり、アッティカの守護者として相応しいとした。これに怒ったポセイドンは津波による洪水を起こしたという。
40)関連項目:カリストラトス、イフィクラテース、プニュクス、ケラメイコス
これらは人名や地名です。
次は「ヘレニズム」ですが、それを誕生させた国家「マケドニア」については既にご紹介済みです。ですから此処では東西交流や文化面に焦点を当てて、ご紹介する事にします。
→ヘレニズム