寺院
Wikiで寺院を調べると、「寺院」ページがヒットします。しかしこのページは主に仏教のそれを説明しており、先の「神殿」ページとは整合性が良く有りません。
そこで最初に、「寺院」ページの§仏教以外の宗教の寺院、を調べる事にします。
1)仏教以外の宗教の寺院:
2)神道の寺院−神社を参照。
3)道教の寺院−道観を参照。
4)ヒンドゥー教の寺院−マンディル(mandir)と呼ばれる。
5)ユダヤ教の寺院−シナゴーグを参照。
・エルサレム神殿
6)キリスト教の寺院−聖堂を参照。
・修道院、・教会、・サン・ピエトロ寺院や聖ワシリイ大聖堂(聖ワシーリー寺院)は、日本では「・・・寺院」と称されることもある。
7)イスラム教の寺院−モスクを参照。
・マドラサ、・カアバ神殿
以上から「神殿」ページに合わせて、ユダヤ教の神殿、キリスト教の神殿、ゾロアスター教の神殿、シーク教の神殿、ヒンドゥー教の神殿、仏教の神殿、ジャイナ教の神殿、道教、神道、メソアメリカの順に説明する事にします。
Wikiでユダヤ教の神殿を調べると、「エルサレム宮殿」、「神殿の丘」ページがヒットします。エルサレムはユダヤ教だけでなく、キリスト教、イスラム教の聖地なのです。まずは「神殿の丘」から。
1)神殿の丘(しんでんのおか)は、エルサレム旧市街にある、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地。
2)ユダヤ教においてはヘブライ語で〇(ハー ハバイッツ・ハー ハバイト、「神殿の丘」の意;英語:Temple Mount)、イスラム教においてはアラビア語で〇(アル=ハラム・アッシャリーフ、
「高貴なる聖所]、(聖域)」の意;英語:Noble Sanctuary)と呼ばれる。
3)ただし礼拝が許されているのはムスリム(イスラム教徒)だけで、他の宗教の信者は訪問のみが認められている。
4)そのムスリムも、東エルサレムを支配するイスラエルの国際法で違法とされる併合によって、年齢や性別、居住地、法的身分の所属で長年入域を制限されている。
5)擁壁に囲まれた14ヘクタールの境内には、イスラム教の聖地である岩のドーム(西暦690年)、鎖のドーム、昇天のドーム、アル=アクサー・モスク(西暦710年)が建っている。
6)かつて境内に建てられていたが現存しない第一エルサレム神殿(紀元前957年−紀元前586年)と第二エルサレム神殿(紀元前515年−西暦70年)を最も神聖な建物とするユダヤ教では、現在では教徒が擁壁境内では宗教活動ができないため、
神殿が立っていた場に最も近づける西側外壁(Western Wall、通称「嘆きの壁」)で祈りを捧げている。
7)1187年以降はイスラム教信託基金団体である様々なワクフが境内の維持管理を担っていたが、1948年以降はヨルダンのワクフが資金提供を含めた維持管理の運営を担っている一方で、警備はイスラエルが行っている。
8)歴史:
9)この場所には紀元前10世紀頃、ソロモン王によりエルサレム神殿(第一神殿)が建てられた。しかし、紀元前587年、バビロニアにより神殿は破壊される。
10)その後、紀元前515年に第二神殿が再建されるが、西暦70年に今度はローマ帝国によりエルサレム攻囲戦が行われ、再び神殿は破壊された。
11)神殿が健在だった時代は、中庭への立ち入りを異邦人(非ユダヤ教徒)は禁止されていたのはもちろん、ユダヤ人の立ち入りも「死体の不浄_(ユダヤ教)(英語版)」の禁忌により制限され、浄化には「赤い未経産牛(英語版)」の灰が必要とされた。
12)イスラム教王朝の時代に、残されたエルサレム神殿の石壁の上に更に石垣を築きその上に岩のドームなどが築かれた。現在も残るエルサレム神殿の外壁(神殿の丘の西側外壁の一部)がユダヤ教の聖地「嘆きの壁」である。
13)ヨルダン支配下の東エルサレム(1948年〜1967年)では、ユダヤ人は旧市街への立ち入りを禁じられていた。
14)1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東エルサレムを占領すると、神殿の丘もまたイスラエルの実効支配に置かれた。しかし、国際法上イスラエルの占領が認められていない状況で、アラブ・イスラム世界との外交関係や国際世論の動向に
配慮する形で、「現状維持(エルサレム・ベツレヘム)(英語版)」の妥協が成立した。管理はイスラム教指導者により行なわれ、ヨルダン政府のワクフ管理局の権限を認める。礼拝など宗教的な行為はムスリムのみ行え、
ユダヤ教徒とキリスト教徒は禁止される)。ムスリムの礼拝中は、他宗の教徒は入場しない。イスラエル政府は安全保障にのみ介入し、内部への部隊展開は有事に限るとした。
ユダヤ教の首席ラビ庁は、「赤い未経産牛」が入手できないなどの理由から、従来通りユダヤ教徒の礼拝は禁止し、入場も非推奨とした。
15)1993年にオスロ合意が結ばれると、イスラエルの宗教シオニストなどから、神殿の丘がパレスチナ(ムスリム)支配下になるかも知れないという危機感が生まれた。相前後して、従来のラビ見解と異なり、
積極的な礼拝で宗教活動の復興とイスラエル主権貫徹を行わなければならないという主張が盛んになった。イスラエル政府も、パレスチナ自治政府(パレスチナ国)の域内活動を原則として認めなかった。
16)1996年、ユダヤ人入植地管轄のイエシャ・ラビ評議会は、神殿の丘への入場は、「特別な儀式による浄化」の条件付きながら、「許容されるどころかむしろ推奨される」との決定を下した。
17)2000年9月28日、イスラエルの右派政党リクードのアリエル・シャロン党首が神殿の丘を訪問。これに反発したパレスチナ人によりアル=アクサ・インティファーダ(第2次インティファーダ)が勃発し、
この暴力の応酬によりキャンプ・デービッド合意は事実上、破綻している。
18)2015年から2020年まで公安相を務めたギラド・エルダン(英語版)(国民自由運動)により、ユダヤ人の入場はさらに増加した。礼拝も目立たない形なら黙認されるようになった。そして従来とは逆に、テロ対策などの名目で
「40歳未満の男性」などに当てはまるムスリムの入場を規制するようになった。
19)さらに2019年8月11日、従来はユダヤ人の入場が禁止されていたムスリムの礼拝中に、右翼閣僚や議員などの要求で入場する事件が発生。投石などを行ったムスリムとイスラエル治安当局の衝突が起こり、双方あわせて65人が負傷した。
エルダン公安相は、従来の「現状維持」は「不正義」であり、ユダヤ人の礼拝を外交努力で認めさせる必要があると主張した。また、エルダン公安相によると、8月11日のユダヤ人入場者は1729人と一日あたり過去最高を更新した。
20)また、「赤い未経産牛」の品種を特定し、現在に再興する活動も行われている。
21)2022年、米国で育てられた「赤い未経産牛」がイスラエル(厳密にはイスラエル占領下のヨルダン川西岸地区)に輸入され、ガッシュ・エツィオン地域評議会(英語版)のラビであるヨセフ・ズヴィ・リモン・ラビによって、
「コーシャ(適正)」と認定された。
22)2023年1月3日、イスラエルの右派政党「ユダヤの力」党首であるイタマル・ベン-グヴィル国家治安大臣が訪問し、パレスチナ自治政府やイスラム諸国、イスラム協力機構が非難し、アントニオ・グテーレス国連事務総長も
「聖地で緊張を高める行為は控えてもらいたい」と批判した。アメリカ合衆国やイギリス、フランスの大使館も現状変更への懸念を表明し、イスラエル首相府は同3日、閣僚の訪問は従来もあったとしたうえで、
「いかなる変更も行なわない」と声明した。
23)同5日には国際連合安全保障理事会緊急会合が開かれて各国から懸念が表明されたが、イスラエルは「訪問は認められている」と回答した。ベングビールは神殿の丘でのユダヤ教徒の礼拝容認を要求してきた。
ハタから見れば滑稽ですが、当人達は至ってマジメです。次は、「エルサレム神殿」ページです。
1)エルサレム神殿(エルサレムしんでん)は、古代エルサレムに存在したユダヤ教の礼拝の中心地。唯一の神ヤハウェの聖所であり、アロンの家系の祭司とレビ人と呼ばれるレビ族出身の非祭司階級が祭祀に当たった。
2)概要:
3)歴史的には、
・紀元前10世紀にソロモン王が建設した神殿(ソロモン神殿)
・バビロン捕囚からの解放後の紀元前515年にゼルバベルの指揮でほぼ同じ場所に再建された神殿(第二神殿)
・紀元前20年にヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿(ヘロデ神殿)
がある。 しかし、紀元70年、ユダヤ戦争において、ローマ帝国軍、並びにその同盟軍であったハスモン王朝の母系子孫でありヘロデ大王の曾孫にあたるアグリッパ2世は、13のトーチカを3日で作ってシオンを包囲し、
ユダヤ人を兵糧攻めにし、投降してくるユダヤ人を磔にし、ユダヤでは真夏に相当する第6月8日、9日、10日の3日間に渡って聖所に火を放ち、立て篭もったユダヤ人を虐殺して、その後に神殿を破壊した。
4)現在「嘆きの壁」と呼ばれる部分は、このヘロデ神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分とされ、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる。この部分を含め外壁はその基礎部分がほぼすべて残されている。
5)歴史:
6)旧約聖書の『列王記』、『歴代誌』によれば、初めソロモン王により創建された。これは紀元前10世紀のことと推定される。
7)ユダ王国がバビロニアにより滅亡したのち衰微するが、ペルシア帝国のもとでユダヤ人の帰還が許され、神殿も再建された。この再建の背景にはキュロス2世が征服民に寛容な政策を取り、かれらに文化上・信仰上の自由を許すことが
帝国の安定に寄与すると考えたことが関わっている。
8)再建された第二神殿はユダヤ人の信仰の中心であったが、祭司出身者によるハスモン朝が成立してユダヤが独立するとユダヤの神権政治の中心ともなった。
9)神殿は紀元前1世紀にイドマヤ出身(エドム人の改宗者)のヘロデ大王によって拡張され、その王宮と回廊で結ばれた。ヘロデ大王により拡張された神殿は、それ以前と区別してヘロデの神殿とも呼ばれる。
10)新約聖書によれば、イエス・キリストはここで「宮清め」を行なったとされる。生け贄用の家畜を持ってきても祭司や長老に傷物と断られ、結託した商人が金儲けを計っていたのだが、これに激怒して商人たちを神殿から追い出した。
11)ユダヤ戦争においては紀元70年のエルサレムにおける最後の攻防戦の舞台となった(この戦争におけるエルサレム神殿の様子はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい)。
12)戦争が終わると神殿はエルサレムの市街ともどもローマ帝国によって破壊され、エルサレムと神殿はもはやユダヤ教の信仰生活の中心ではなくなった。
13)ローマ皇帝ハドリアヌスはもとのエルサレムに植民市アエリア・カピトリーナをおいたが、そこにユダヤ人が入ることは禁止された。
14)皇帝ユリアヌスの治世に再建が図られたが実現せず、再建の計画は放棄されて今日に至る。
15)なお、現在のイスラエルのユダヤ教の右派には、岩のドームを壊しての神殿の再建を計画しているグループがいる。
16)関連項目:幕屋、契約の箱、神殿の丘、至聖所、嘆きの壁、ヤハウェ
ユダヤ教の神はヤハウェと言います。インディー・ジョーンズなどに登場します。次にゾロアスター教の神殿を調べると、「ゾロアスター教」、「拝火神殿」ページがヒットします。後者には、
1)拝火神殿(はいかしんでん、Fire Temple)は、ゾロアスター教において、ゾロアスター教徒が祈祷を行う場所。
2)ゾロアスター教では、火(アータルを参照)と清浄な水(アープを参照)が儀式の純正さを成立させる。
3)2019年現在、世界には167の拝火神殿が存在し、その内の45がムンバイに、105がインドの他の場所に、17がそれ以外の国にある。
4)インドには、ゾロアスター教徒の女性がゾロアスター教徒以外の人と結婚した場合、拝火神殿と沈黙の塔に立ち入ることが許されないという宗教的慣習がある。
ですからゾロアスター教では、男尊女卑なのでしょう。
5)画像:シャープール2世、ホルミズド1世、アルダシール1世、バハラーム拝火神殿(英語版)の写真。、エスファハーンの拝火神殿(英語版)。、バクーの拝火神殿(英語版)で祈るイラン系ゾロアスター教徒、メイボド郡の拝火神殿
Wikiでシーク教の神殿を調べると、ページがヒットしません。そこでシーク教で再検索すると、「シク教」、「シク教徒」ページがヒットします。前者の§教徒、寺院は、以下の通り。
1)シク教の寺院はグルドワーラーと呼ばれ、小規模な寺院はダルバールと呼ばれる。
2)シク教寺院に入るには靴を脱いで頭の上にハンカチをのせて髪の毛を隠さなければならない。これはターバンを巻くカールサーのメンバーへの配慮と思われる。
3)グル・グラント・サーヒブを歌い、1時間程の礼拝の後にカラーパルシャードと呼ばれる砂糖菓子の神前の供物を恭しく食べるが、これは日本で神社・仏壇の供えものを有難く頂戴するのと同種の習慣である。
4)さらにランガルと呼ばれる食事が皆に振舞われる。これは無料で、内容はインド料理(チャパティー、パコラ)である。これはヒンドゥー教徒がカーストが違う者と食事を共にしないことに対する批判である。
ですからシーク教は、ヒンドゥー教とは対峙している訳です。
5)日本にあるシク教寺院としては、文京区と神戸市にグル・ナーナク・ダルバールがあり境町にシク教寺院がある。礼拝は毎週日曜日の午前11時半頃より行われ、午後1時頃に昼食が終わる。
寺院内ではカールサー派に敬意を表して頭にハンカチをかぶって髪の毛を隠さなければならない。日本人のシク教徒もいる。
髪を隠すのは、イスラム教の影響でしょうか? ゾロアスター教やシーク教の神殿ページには残念ながら、余り建造物に関しては触れられていませんでした。
さて、Wikiでヒンドゥー教の神殿を調べると、「ヒンドゥー教の遺跡一覧」、「ヒンドゥー教寺院の一覧」ページがヒットしますが、これらは解説ページではなく単なるリストページです。
そこでヒンドゥー教も調べると、「ヒンドゥー教」ページがヒットします。此処には、
1)インドやネパールで多数派を占める民族宗教。
2)キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教。
3)時にインド教と呼ばれることもある。
4)キリスト教やイスラム教のような、特定の開祖によって開かれたものではなく、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化。
5)多神教、バラモン教からヒンドゥー教へ。
とあります。席亭も疎かったこのヒンドゥー教に関しては、後の宗教ページでより詳細に記述されるでしょう。先の「多神教」ページでは、このヒンドゥー教(と仏教)にも軽く触れられています。
先の「・・・遺跡一覧」ページには、§10世紀以前という章があり、此処には幾つかの建造物が紹介されています。これを「・・・寺院の一覧」ページでフィルタリングすると、以下の結果が得られました。
1)マハーバリプラムの建造物群(6世紀−8世紀、インド・タミル・ナードゥ州):石窟寺院、岩壁彫刻、石彫寺院(ラタ)、石造寺院が紹介されています。
2)パッタダガルの寺院群(6世紀−8世紀、インド・カルナータカ州):階段状ないしピラミッド形をした南部の様式と砲弾形ないしトウモロコシ形をした北部の様式が混在し、現在、9寺院が残っており、東に向かって建てられ、シヴァ新を祀る。
3)エローラ石窟群(7世紀以降、インド・マハーラーシュトラ州、仏教・ジャイナ教との複合遺跡):第16窟はカイラーサナータ寺院、あるいはカイラーサ寺院と呼ばれ、アテネのパルテノン神殿の倍ほどの規模があり、高速建築物にしか見えない。
4)ミーソン聖域(7世紀−13世紀、ベトナム):チャンパ王国の宗教(ヒンドゥー教シヴァ派)の聖域であり、聖山マハーパルヴァタを望むミーソン圏谷にある。
5)アンコール遺跡(9世紀以降、カンボジア):アンコール・ワットはかなり有名で、建設時はヒンドゥー教寺院として作られたが、16世紀後半に仏教寺院に改修された。
6)バンテアイ・スレイ(10世紀、カンボジア):アンコール・ワットの北東部に位置するヒンドゥー教の寺院遺跡。
7)プレループ(10世紀、カンボジア):アンコール遺跡の一つで、プレは変化、ループは体を意味し、かつて境内で行われたと伝わる火葬を名の由来とする、とあります。ですから火葬発祥の地なのでしょうか?
8)プランバナン寺院群(10世紀、インドネシア):インドネシア、ジャワ島中部にあり、ヒンドゥー教寺院と仏教寺院から成ります。
Wikiで仏教寺院を調べると、先の「寺院」ページがヒットします。
8)寺院(じいん、梵、巴:〇〇)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。
9)キリスト教や神道などを除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている(ごく稀に神社にも用いられることがある)。
10)概要:
11)「寺」という漢字は、本来、中国漢代においては、外国の使節を接待するための役所であったが、後漢の明帝の時にインドから訪れた2人の僧侶を鴻臚寺に泊まらせ、その後、この僧侶達のために白馬寺を建てさせ、住まわせたことが、
中国仏教寺院の始まりである。
席亭も、寺=役所は知りませんでした。
12)寺院の建造物は、礼拝(らいはい)の対象を祀る「堂塔」と、僧衆が居住する「僧坊」とに区分される。
13)「堂塔」は、釈迦もしくは仏陀の墓を指すものであって、祖形は土饅頭型であったが、暑さを避けるために傘を差し掛けたものが定着して、中国などで堂塔となった。
14)日本にも中国様式が入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられ、土饅頭の痕跡を残した多宝塔などが出現する。日本庭園に十一重や十三重の石塔などの多層塔を建てているが、これも同意のものである。
15)「僧坊」は、インドではヴィハーラと名づけられて、僧侶が宿泊する場所であり、祇園精舎(jetavana-vih〇(a+-)ra)のように釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、次第に僧坊が建設されたり、石窟に住んだりした。
16)中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設されたので、寺院というと、堂塔と僧坊が同所にあることが普通となる。
17)最初期の出家者の一時的定住地は〇(a+-)v〇(a+-)sa(住処)または〇r〇ma(園、おん)と呼ばれた。都市郊外の土地が僧伽に寄進されたものを僧伽藍摩(そうぎゃらんま、samgh〇r〇ma)・僧伽藍、略して伽藍(がらん)といわれた。
18)出家者の定住化に伴って僧院が形成された。精舎(しょうじゃ、vih〇ra)・平覆屋・殿楼・楼房・窟院の5種がある。精舎や窟院では広間と房室を中心として諸施設が整備された。
19)信仰の対象としての「仏塔」は、はじめ在家信者によって護持されたが、起塔供養の流行に伴って僧院中に建設され、塔を礼拝の対象とする支提堂(しだいどう、祠堂のこと)と支提窟が造られた。
20)やがて塔の崇拝は仏像の崇拝に代わり、中国・日本の金堂(こんどう)の原型となった。
崇拝の対象が塔(〜仏舎利)から仏像に変化したのは、あるいは僧側の意向が有ったのでしょうか?
21)「寺(じ)」は、「役所・官舎」の意(前述書)。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。
ですから鴻臚や白馬には、特別な意味が有るのです。
22)以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。「院」は、寺中の別舎を指している。
23)日本語の「寺」の訓読みである「てら」というのは、パーリ語のthera(長老)の音写であるともいわれるが明らかではない。
24)中国や日本の寺院では、寺院の名称に山号を加えることがある(「比叡山延暦寺」など)。詳しくは記事「山号」を参照のこと。
§日本の寺院以下は省略します。
Wikiでジャイナ教の神殿を調べても、ページはヒットしません。ジャイナ教はインドの宗教で「ジナ教」とも呼ばれ、世界全体で500万人の信徒が居るそうです。
そこでジャイナ教で改めて検索すると、「ジャイナ教」ページがヒットします。其処にはジャイナ教寺院が紹介されており、
1)ジャイナ教寺院:
2)ジャイナ教の聖地シャトルンジャヤ山のパーリターナ寺院。(グジャラート州パリタナ)863もの寺院からなる山岳寺院都市でジャイナ教白衣派最大の本山である。
3)聖地アーブ山のデルワーラ寺院
4)ハティーシング寺院 グジャラート州アフマダーバード
5)アーディナータ寺院 ラジャスタン州ラーナクプル
6)聖地シュラバナ・ベラゴラ山 ゴマテーシュワラ像
7)聖地サンメッド・シカールジ
8)サンメッド・シカールジ寺院
9)聖地ギルナール山は山岳寺院都市を形成している
10)関連項目:ダルマ(ジャイナ教)、マハーヴィーラ、アヒンサー、ジャイナ教のアヒンサー、菜食主義(ベジタリアニズム)、ヴィーガニズム、群盲象を評す−相対主義の考えに基づく説話。
次は道教ですが、道教の神社は先にも述べた様に、「道観」でした。
1)道観(どうかん、〇(手偏+併の右側)音:〇ダオグアン)とは、道教教団において、出家した道士が集住し、その教義を実践し、なおかつ祭〇(酉偏+焦)を執行する施設である。
道教寺院。道教宮観の略。宮観(きゅうかん、〇音:〇ゴォングアン)とも呼ばれる。
2)道観の「道」は道教のという意味であるが、「観」は中国語でgu〇(a+-)nと読む「みる」の意味ではなく、「館」(gu〇(a+チェック)n)の言い換えで作られた語で、gu〇nという特殊な読みをする。
3)道観も、仏教の場合の仏寺と同様に、その別称が多い。道館・治館・玄壇・観舎・道院・叢林・精舎・道場・靖治・治・廬など、或いは、観・庵・廟・宮・殿・閣・堂・洞・祠・院などの名称も用いられる。
4)それぞれ規模、機能、歴史的な用法などの違いがあるが、現在では区別が曖昧となっている。
5)歴史:
6)天師道の置いた「24治」が、その起源とされる。但し、伝承上では、関令尹喜の楼閣や、漢の武帝の益延寿観などを、その起源とすることもある。
7)南北朝時代の南朝では、「館」字を用いるのが一般的であった。崇虚館・簡寂館・興世館・華陽館などが、その例である。一方、北朝では、北周にも玄都館などが存在したことが知られるが、武帝が道教を廃させ、「館」を「観」と呼びかえ、
研究機関としての通道観を設置した。
8)唐代になると、「治」は高宗の諱であるので、「化」と言い換えられた。
9)唐代から宋代には、「観」字を用いるのが一般的になった。唐代の龍興観や開元観が、それである。大規模な道観は「宮」と称するようになった。太清宮・玉清照応宮などである。
10)金代に、河北地方で新道教が興起し、元代に淘汰された結果、旧道教である天師道系統の正一教と、新道教の主流となった全真教とが、道教の二大教派として定着し、明清代に至った。
11)全国の道観は、この二教のもとに編成された。正一教の総本山は、竜虎山(江西省貴渓市)であり、全真教の本部は、北京の白雲観である。また、天下の全真教の道観は、十方叢林と小道院とに二分される。
十方叢林とは、大道観であり、道士の出家資格を付与し得る道観を、こう言う。全国に20ヵ所存在する。対して、小道院とは、一般の道観のことである。
12)著名な道観・祀廟
省略します。関帝廟は横浜の中華街にも有ります。
次は神道ですが、神道の寺院とは「神社」の事ですね。(笑)
1)神社(じんじゃ・かむやしろ、旧字体:〇〇)とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが神として祀られる。
2)文部科学省の資料によれば日本全国に約8万5千の神社があり、登録されていない小神社を含めると10万社を超え、宗教法人格を有さない小さな祠等を含めると日本各地には20万社の神社があるといわれている。
3)祭祀対象:
4)祭祀対象は神道の神であり、「八百万(やおよろず)」と言われるように非常に多彩である。神聖とされた山岳や河川・湖沼などから、日本古来の神に属さない民俗神、実在の人物・伝説上の人物や、
陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神も含まれる。また稲荷や猿、鯨、鮭など動物を祭神とする神社、子孫繁栄の象徴として男根の像を祀る神社もある。
5)古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。
6)現在の社殿を伴う「神社」は、これらの神々が祀られた祭殿が常設化したものとされる。神は目に見えないものであり、神の形は作られなかった。神社の社殿の内部のご神体は神が仮宿する足場とされた御幣や鏡であったり、
あるいはまったくの空間であることもあり、さまざまである。
7)施設・設備:
8)鳥居の内の区域一帯を、「神霊が鎮まる神域」とみなす。神社の周りには鎮守の杜という森林があることが多い。御神木といわれる木には、注連縄を結ばれているものもある。神社の入口には、境内と俗界の境界を示す鳥居があり、
社殿まで参道が通じる。参道のそばには「身を清める」手水舎、神社を管理する社務所などがある。大きな神社では神池や神橋もみられる。
9)社殿は本殿(神殿)や拝殿からなる。人々が普段参拝するのは拝殿で、神体がある本殿は拝殿の奥にある。本殿と拝殿の間に参詣者が幣帛を供えるための幣殿が設置されることもある。
10)神社の敷地(境内)には、その神社の祭神に関係のある神や本来その土地に祀られていた神を祀る摂社や、それ以外の神を祀る末社があり、両者をあわせて摂末社という。境内の外にある摂末社は境外社と呼ばれる。
11)また、神仏習合が始まる奈良時代以降は神社の境内に神を供養する神宮寺(別当寺、宮寺)が建てられたり、神社内に寺院が建てられたりしたが、明治初期の神仏判然令(神仏分離令)により、神社と寺院は分離され、
神社の境内の五重塔や仏堂などは撤去され、神職と僧侶も区別された。
12)参道にある灯籠、常夜灯はもともとは仏教寺院のものであり、平安時代以降、神社にも浸透したものである。参道に敷かれる玉砂利は、玉が「たましい(魂)」「みたま(御霊)」「美しい」という意を持ち、砂利は「さざれ(細石)」の意を持ち、
その場を清浄する意味を持っている。敷くことによってその場所を祓い清める意味があり、なお参道を進み清浄な石を踏みしめることによって、身を清め心を鎮めて、最高の状態で祈りが出来るようにしてある。
13)建物:→詳細は「神社建築」を参照
以下は省略します。
14)歴史
15)起源:
16)神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。
17)例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
18)創建が古い神社には現在も本殿がないものがあり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿があるのみの神社、社殿が全く無い神社がある。
19)「神社には常に神がいる」とされたのは、社殿が建てられるようになってからだと言われる。
席亭は、神社に神が居るとは理解していません。神社は依代なのでは?
20)古代中国にも土地神などを祀る「社」が存在したが、屋根が付いた社を建てるのは「喪国の社」(『礼記』郊特性)とされ、日本の社とは異なる。そのため、多くの神社に社殿が造営された背景について諸説が述べられた。
21)社会の発展により自然から人格神へと信仰の対象が変わったためとする説、仏教寺院の影響を相互に受けたとする説、武器や貢納物を納めた神庫(ほくら)が先行して存在したとする説、7世紀後半以後に国家が一部の社にのみあった神庫を
全国に建設したとする説などがある。
やはり祖先神から統治神への変質なのでは?
22)古社はそれぞれの縁起により御神体の近くに社殿を構える事が多い。新しく神社を造営するときは、適当な場所に分霊や氏神を祀った。
23)場所の選定の仕方は様々で、縁起から選ぶ、清浄な場所を選ぶ、参拝のしやすさで選ぶなどがある。社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。
以下は省略します。
最後はメソアメリカです。Wikiでメソアメリカの寺院を調べると、「テオカリ」、「Category:メソアメリカの遺跡」ページがヒットしますが、イマイチです。
そこでメソアメリカの神殿で再検索すると、「メソアメリカ」、「太陽のピラミッド」ページがヒットします。「メソアメリカ」のページには、以下の8つの文明が紹介されています。これらの文明毎に神殿や寺院を調べた方が早そうです。
1)オルメカ文明(メキシコ湾岸;紀元前1250頃−紀元前後)
2)テオティワカン文明(メキシコ中央高原;紀元前後−7世紀頃)
3)マヤ文明(メキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラなど;紀元前3世紀−16世紀)
4)トルテカ文明(メキシコ中央高原;7世紀頃−12世紀頃)
5)サポテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;紀元前10世紀−16世紀)
6)ミシュテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;)
7)タラスカ王国(メキシコ西部地域、ミチョアカン州など;)
8)アステカ帝国(メキシコ中央高原;15世紀前半−1521年)
まずは「オルメカ文明」から。
1)オルメカ(Olmeca)は、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、先古典期のメソアメリカで栄えた文化・文明である。
2)アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。
3)概要:
4)「オルメカ」とは、ナワトル語で「ゴムの人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。
5)巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有していた。その美術様式や宗教体系は、マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。
6)オルメカの影響は中央アメリカの中部から南部に広がっていたが、支配下にあったのは中心地であるメキシコ湾岸地域に限られた。その領域はベラクルス州南部からタバスコ州北部にかけての低地で、雨の多い熱帯気候のため、
度々洪水が起こった。しかし、河川によって肥沃な土地が形成され、神殿を中心とした都市が築かれた。
7)オルメカの文化は、出土する様々な石像に現れている。人間とジャガーを融合させた神像は、彼らにジャガーを信仰する風習があったことを物語っている。
8)祭祀場では儀式としての球技が行われ、その際には人間が生贄として捧げられた。また、絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど、数学や暦が発達していた。
以下は省略します。次は「テオティワカン文明」です。
1)世界遺産の一つであるテオティワカン(ナワ語群:〇、スペイン語:Teotihuacan)とは、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡。
当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、メソアメリカの中心的都市として機能していた。
2)概要:
3)テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で、太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。
4)この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。
5)社会についてはあまり知られていないが、規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に階層が分化し、発達した統治組織があったものと推測されている。
6)市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった。
7)テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、これは12世紀頃にこの地にやってきて、すでに廃墟となっていた都市を発見した、メシカ人(アステカ人)が命名した。アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした。
8)古代都市テオティワカンとして、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
9)歴史:
10)この地は形成期後期にすでに集落があったが、紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコ(ナワ語群:Cuicuilco)がシトレ火山(英語版)(ナワ語群:Xitle)の噴火によって埋まり、またポポカテペトル山も噴火した。
11)このために人々がテオティワカンの地に移住し、テオティワカンは都市として急速に発展した。テオティワカンは西暦紀元前後から7世紀なかばまで都市として使用され、その時期は4期に分けられる。
12)ツァクアリ相(1年−150年):この時期にテオティワカンははじめて都市として成立し、太陽と月のピラミッドが作られた。
13)ミカトリ相(150年−200年):南北を結ぶ道路(死者の大通り)が建設された。
14)トラミモルパ相(200年−350年):交通・水利・祭祀・住宅・産業などのシステムが整備された。
15)ショロパン相(350年−650年):この時期に人口がもっとも増えた。
16)テオティワカンは国際的に大きな勢力を持っており、1000キロメートル離れたマヤ地域にも影響は及んだ。378年にはテオティワカン系のシヤフ・カックがエル・ペルーとティカルに侵入し、ティカルの古い石碑を破壊して新しい王朝を建てた。
17)426年にコパンとその衛星都市のキリグアを建設したのもテオティワカン系の人間だったらしい。テオティワカン様式の芸術は古典期マヤ文明に大きな影響を及ぼした。
18)都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。しかしながら人口の集中に伴い7世紀にはいると急激に衰退し、やがて滅びを迎えた。
19)衰退の主要な原因としては、火事の発生、漆喰の生産のために木材を大量に燃やして森林破壊が起きた、旱魃による農業の衰退、およびそれらに伴う内乱の発生とメスキタル(イダルゴ州)の狩猟採集民の侵入などがあげられる。
20)また、「古典期後期のプレート沈み込み型大地震によって被災したテオティワカンの古代文明」と題された論文によれば、西暦100年から650年の間に5度におよぶ(東太平洋にある中央アメリカ海溝を震源とする)大地震が発生し、
そのため、西暦650年頃にテオティワカンの住民たちが安全な土地を求めて去ってしまい、文明全体の崩壊に至ったとされる。
21)主な遺構及び建造物:
・太陽のピラミッド(高さ65m、底辺222m×225m)
・月のピラミッド(高さ47m、底辺140m×150m)
・死者の大通り(南北に貫く都市のメインストリート 長さ4km、幅45m)
・ケツァルコアトルの神殿
・ケツァルパパロトルの宮殿
太陽のピラミッドは此処に在りました。次は「マヤ文明」です。
1)マヤ文明(マヤぶんめい)は、メキシコの南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。
2)セノーテという淡水の泉に育まれたため、他の古代文明とは違い、大河の流域でない地域に発達したという特徴がある。
3)地理
4)三つの地域:
5)マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。
6)マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。
7)マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、ウシュマルやチチェン・イッツァ、マヤパンなどの都市が繁栄した。なかでももっとも乾燥している北西部においては塩が塩田によって大量に生産され、この地域の主要交易品となっていた。
8)現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。
9)気候としては熱帯雨林気候に属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。
10)交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。
11)現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。
12)マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石はマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。
この建築材料はかなり特殊でしょう。
13)カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い。
14)歴史
15)先古典期前期(紀元前2000年−紀元前1000年):→詳細は「en:Early human migrations」、「オルメカ」、および「形成期」を参照、→「クエリョ(Cuello)(スペイン語版、英語版)」;「ラマナイ」;「コパン」;および「カル・ペチ」
も参照
16)この時期、マヤ高地においては土器が使用されていたものの、マヤ低地においてはいまだ土器が使用されない程度の文化水準となっていた。
17)先古典期中期(紀元前1000年−紀元前350年):→詳細は「先古典期マヤ文明(英語版)」を参照
18)紀元前1000年以降になると、いわゆる「中部地域」で土器が使用されるようになり、間もなく文明が急速に成長し始めた。ナクベやティカルなどの都市に居住が始まったのもこのころである。
19)先古典期後期(紀元前350年 - A.D.250年):
20)紀元前400年以降、先古典期後期に入ると都市の大規模化が起こり、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル(Tikal)、ワシャクトゥン(Uaxactun)、
エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)、カラクムル(Calakmul)などの都市が大きく成長した。
21)先古典期マヤ文明の衰退:→詳細は「先古典期マヤ文明の衰退(英語版)」を参照
22)100年から250年ごろにかけては大変動期に当たり、エル・ミラドールやナクベといった大都市が放棄され、ほかにも多くの都市が衰退していった。こうした変動の中でティカルとカラクムルは大都市として生き残り、
次の古典期における大国として勢力を拡大していった。
以下は省略します。
23)建築:
24)マヤ文明の多くの都市にはピラミッドが建設されていた。ただしエジプトのものとは違い、上部に神殿が建設されており、その土台としての性格が強かった。
25)最古のマヤのピラミッドは、紀元前1000年ごろのセイバル遺跡で確認されたものである。こうしたピラミッドはウィツ(山)と呼ばれていたように、山岳信仰の影響のもとで人工の山として作られたものだった。
こうしたピラミッドは、古いピラミッドを基礎としてその上に新たなピラミッドを作ることが常であり、2016年11月にはチチェン・イッツアで、2層のピラミッドの下に3層目のピラミッドが発見されたと報じられた。
26)建築技術も進んでおり、セメント、漆喰、焼成れんがなどを使用し、持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた。
歴史の浅いトルテカ文明は省略し、次は「サポテカ文明」です。
1)サポテカ(またはサポテック、サポテカ文化、サポテカ文明)は、メキシコ南部、オアハカ州のモンテ・アルバンを中心として栄えていたとされる文明。
2)その開始時期については、先古典期前期末のサン・ホセ・モゴテのティエラ・ラルガス相(Tierra Largas:1400B.C.〜1150B.C.)の時期と考えられる。
3)この時期にサン・ホセ・モゴテは、7.8haほどの集落となり、その規模は、オアハカ盆地の他の集落の5〜8倍であった。
4)この頃、メソアメリカでは最古の部類に属する5.5m×4.5mほどの長方形を呈する6号建造物をはじめとした公共建造物が築かれるようになった。
5)ロサリオ相(Rosario:700B.C.〜500B.C.)になると人口は1300〜1400人ほどになり、サン=ホセ=モゴテの首長は、翡翠の装飾品を身につけるようになり、頭蓋変形や黒曜石の短剣を用いた放血儀礼(Bloodletting)
などが行われていたこともわかっている。
6)首長は、生前は、中庭のある日干し煉瓦の家に住み、死後には、その遺体は豪華な墓に埋葬された。
7)ロサリオ相の終末期には、神殿と思われる公共建造物の入り口の敷居部分から発見された石碑3号にみられるように、象形文字を刻んだ石碑が建てられるようになる。
8)石碑3号に刻まれた犠牲にささげられた捕虜の名前の「一の地震」は、現在のところ確認可能なメソアメリカ最古の文字の使用例であるとともに、最古の260日暦の使用例であることで知られる。
9)サン・ホセ・モゴテは、500B.C.頃放棄されたと考えられる。
10)その契機となったのは、先古典期中期から後期にかけてのオアハカ盆地での抗争の激化であり、盆地北部のエトラ(Etla)谷のサン・ホセ・モゴテと、盆地東部のトラコローラ(Tlacolula)谷地域の勢力と盆地南部の
バジェ・グランデ(Valle Grande)又はサアチラ(Zaachila)谷地域の勢力がオアハカ盆地の覇権を争い、モンテ・アルバンが建設される直前の時期には、丘の上に防御機能を持った集落が次々と建設された。
11)この争いの終結は、前500年頃とされるモンテ・アルバンの建設により終息したが、その起源については、トラコローラ、バジェ・グランデの連合体が、サン・ホセ・モゴテに対抗して、モンテ・アルバンを築いたという説と、
サン・ホセ・モゴテが前二者に対抗してモンテ・アルバンを築いたという二つの説があり、後者の説がいまのところ有力とされている。
12) モンテ・アルバンI(前500年〜前100年)で知られているのは、中央広場南西部隅にある「踊る人々の神殿」(Temple of the Danzantes)で、神殿の周囲におかれた石彫には、あたかも踊っているように見える人物像「Danzante」や
未解読のサポテカ文字とともにマヤにも受け継がれることになる点と棒表記の数字が暦と思われる表記とともに刻まれている石碑が建立された。
13)「踊る人々」の石彫は、140以上見られ、モンテ・アルバンの支配者によって捕虜にされて拷問にかけられたり、殺害された首長や王たちを刻んでいると推定されている。
14)このような石彫を刻むことによってモンテ・アルバンの支配者の権力、軍事力を誇示し、正当化する意味があったと考えられている。
15)人物像の脇に刻まれたサポテカ文字は犠牲になった人物の名前を示していると考えられる。
16)モンテ・アルバンU期(前100年〜200年)にかけて、都市の西部と北部に約3kmにわたって防御壁が築かれ、ダムと約2kmにわたる用水路が建設された。
17)モンテ・アルバンの人口は紀元前100頃には1万7000人、オアハカ盆地全体では、5万人に達したと推定される。
18)その後、テオティワカンとの交流を受けつつ、モンテ・アルバンV期(200年〜750年)には、最終的にモンテ・アルバンに集中した人口は、2万5000人を数えるまでになり、規模も6.5km2に拡大した。
19)盆地全体の人口は、一時期11万人を超えたと考えられている。モンテ・アルバンの中央広場が完全に建物で囲まれたのがこの時期である。
20)V期の後半、すなわちVb期は、広場の出入り口が3ヶ所に限られ、防御性が増したことから、貧富の差が拡大し、庶民層の不満が高まって不安定になっていったとも考えられる。
21)モンテ・アルバンW期(750年〜1000年)には、モンテ・アルバンは、人口4,000人ほどのセンターに衰退した。
22)盆地全体の人口は、7万人に減少し、盆地南部のハリエサが人口1万6,000人をかかえる盆地最大の集落となった。しかしモンテ=アルバンに見られるような大建造物に囲まれた中央広場は築かれず、
小センター同士が争う分裂抗争の時代となった。
23)また、特筆すべきなのは、このころから、美しい階段文様や雷文の建物で知られるミトラが盆地南部のトラコローラ河谷に興り、本格的に活動し始め、また、サアチラも発展し、墓地の壁画やレリーフには見るべきものが多い。
24)これらのセンターは一部を除いて後古典期まで続くこととなる。
25)関連項目:メソアメリカ文明、モンテ・アルバン
年代の記述が無いミシュテカ文明は省略します。また「タラスカ王国」と「アステカ王国は歴史が浅い為、これも省略します。一度「建築」ページに戻ります。
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