法の起源

Civの太古、古典テクノロジーには、この法、法律の記載は有りません。この法律は明らかに12)個人の集積、社会に関するそれです。

皆様は「法の起源とはどの様な物だ」とお考えに成りますか? この法は社会を律するもので、英語ではソーシャルコントロール(直訳は社会制御)と言いますが、日本語では社会統制と訳されています。
ちなみに中国の律令とは、「律が刑法、令はそれ以外」だそうです。分かり易いですよね?(笑)

さて、Wikiで法の起源を調べると、「法の歴史」、「法律」ページなどがヒットします。しかし後者は年代が浅く、しかも日本のそれを記述していますので、前者の「法の歴史」から調べる事にします。
1)法の歴史または法制史は、どのように法が進化し、何故法が変わってきたのかを研究する学問上の一分野である。
2)法制史は、文明の発展と密接に結びついており、社会史という分類の傘下に位置付けられている。
3)法律学者や法制史学者の間において、法制史は、種々の法的概念の起源をより良く理解するための一手段であって、法の進化を記録するものであると捉えられている。
4)換言すれば、これは、知的営為に係る歴史学の一部である。
為政者は、何も良政、善政を施すだけでは有りません。(苦笑)

5)20世紀の歴史家らは、法制史を、社会史学者らの考えに立脚した上で、より序列の整えられた規範概念であるとみた。
ここで「規範」という言葉が登場しています。規範とは、「〜である」と記述される事実命題に対し、「〜べきである」と記述される命題ないしその体系をいう。法規範や社会規範がその典型、とあります。

6)彼らは、法体系を、市民社会の要請に応じて行政府、立法府が必要的に法体系中の各要素を変化させ、適用し、改廃を施すための、ある複雑な機構であると見たのである。
7)このような法制史学者らは、法の運用において複数の解釈が存立しうる中、信頼性の確保可能な方法による社会科学研究の結果を用いて事例を分析する傾向にある。
8)事例の分析等を行うことによって、法制度、判例法、民法等の詳細を分析し始めたのである。
裁判においても、過去の判例は大切にされます。

9)古代:
10)紀元前3000年頃にまで及ぶ古代エジプトの法律には、12編に分別された民法があった。それは、伝統の重視、修辞的な文言、社会的平等性の尊重、公平性の重視を特徴とする、「マアト」の概念に基づいていた。
11)紀元前22世紀頃までに、古代シュメールの支配者であるウルナムムは、平易な表現(「もし何々ならば何々」という形式)から成る、現存するうちで最初の法典を策定した。
ですからこれが、現存する最古の法です。
後世に残るには法を表現する言語と、記録媒体への転写が必要です。後者は、Civでは「筆記」でした。(笑)

→言語の起源

→転写

また国家ではなく、小グループ間での決まり事、「掟」も調べておく必要が有るでしょう。

→掟

12)ハンムラビ王は、紀元前1760年頃、バビロニア法典を発展させた。
13)ハンムラビ王は、バビロニアのいたる所でこの法典を散在させ、国民が閲覧できるように体制を整えた。これは、ハンムラビ法典として知られる。
14)この法典の全体は、19世紀に、英国の宗教学者によって発見された後、英訳、ドイツ語及びフランス語を含む様々な言語に完全に翻字され、翻訳されるに至った。
15)古代ギリシア語は、抽象的な概念としての「法律」に相当する単語を持たなかったが、神の掟(テミス)、人間法(ノモス)、慣習(ディケー)という区別をしていた。
16)しかし、古代ギリシアの法律は、民主主義の発展に伴う国制の革新を伴っていた。
接続語「しかし」の使用には違和感があるので、あるいは翻訳でしょうか?

17)南アジア:
18)古代インドと中国は、独特の伝統を持ち、歴史的に独立した法理論及びその教育機関を持っていた。
19)紀元前400年頃からの『実理論』と紀元前100年頃からの『マヌ法典』は、インドの有力な論文であり、権威ある法的参考文献とされていた。
20)後者の根底に流れる哲学的思想は、寛容、多元主義であり、東南アジアにおいて広く浸透した。
21)しかしヒンドゥー教の伝統ともいうべきこの思想は、イスラム法とともに、インドが大英帝国の一部となった際にコモン・ローに取って代わられた。
22)マレーシア、ブルネイ、シンガポール、香港も同法を採択した。
何時頃の事でしょうか?

23)東アジア:
   →詳細は「日本法制史」および「中国法制史」を参照
24)東アジアの法的伝統は、世俗的及び宗教的な影響を、独自に、法理論体系の中に織り込んだものである。
25)日本は、フランス系のものを輸入することで、率先してその法制度を近代化せんとする最初の国であったが、その法理論体系は、主としてドイツ法に依存するものであった。
そしてこの辺りが、後のドイツ接近に繋がるのでしょう。日本はドイツ帝国を、立国の手本として選びました。
26)これは、19世紀後半におけるドイツの社会的地位や影響力をその背景、その根拠として、ドイツ法を部分的に反映したものである。

27)同様に、伝統的な中国の法律は、清朝の晩年に近づくにつれ、ドイツ法を導入した日本の法体系を参考に、6編の私法の形式を以て西洋化を遂げるに至った。
28)今日、台湾における法は、逃亡した蒋介石ら国家主義者と、1949年に中国本土を支配した毛沢東の共産主義者の分裂のために、その時代の法と最も親和性を持っている。
29)また、中国は、ソビエト社会主義法の影響を強く受けており、私法の権利を犠牲にして、行政法が本質的にその法体系の大部分を占めている。
30)しかしながら、今日、急速な工業化のために、少なくとも経済的(社会的かつ政治的ではないにせよ)の面で中国は大きく変革を迎えている。
まあ、経済人で無ければ、中国法には関心が無いでしょう。
31)1999年の新しい契約法は、管理主義から離れたことを示しているとみてよい。
32)さらに、加盟交渉が15年続いた後、2001年に、中国は、世界貿易機関(WTO)に加盟したのだ。

33)教会法:
   →詳細は「教会法」を参照
34)カトリック教会の法の歴史は、カトリック教会法の歴史であり、西洋で最も古くから存在している法制度である。
35)教会法はローマ法よりもずっと後で成立することとなるが、近代ヨーロッパにおける民法の大改正よりも前に成立した。
36)世俗法と教会法の間の文化交流は、有る集団を生み出し、私法と一般法の両方に、大きな影響を与えた。
37)ラテン式教会法の歴史は、4つに大別することが可能である。jus antiquum、jus novum、jus novissimum、教会法である。
38)これら法律の区分を用いた場合、歴史上で成立した法典はすべて、分類することが可能である。
39)欧州東部の教会法は、別途発展した。

40)20世紀には、教会法が包括的に成文化された。1917年5月27日、ベネディクト15世は、1917年教会法を成文化した。
41)ヨハネ23世は、第二バチカン公会議を招集する意思と併せて教会法改正の意思を表し、1983年1月25日にヨハネ・パウロ2世によって1983年教会法として公布された。
42)1990年10月18日、東部教会の教会規範を公布することによって、東部カトリック教会23のすべてに、共通の法的規定を公布するに至った。

43)イスラム法:
   →詳細は「シャリーア」を参照
44)中世に発展した主要な法制度の一つは、イスラム法と法学であった。
45)重要な多くの法律機関は、イスラム法、法学の古典期に、イスラム法学者によって開発された。
46)このような機関の1つは、初期の非公式価値移転機構である「ハワラ」であり、これは、8世紀早くもイスラム法学の教科書に言及されている。
47)同機構自身は、後に、フランス法、イタリア法の発展に、それぞれ影響を与えた。
暗黒の中世とも呼ばれる様に、同時代ではイスラムの方に分が有ったのです。(笑)

48)欧州法
49)ローマ帝国:
   →詳細は「ローマ法」を参照
50)ローマ法は、ギリシャの教えに大きく影響された。
51)同法は、ローマ帝国の勃興と衰退の間の、何世紀にも渡り、現代の法的世界への架け橋を形成してきたといえる。
52)ローマ法は、共和制ローマ、ローマ帝国時代にはその定めるところが厳しく在り、専門的な法律上の階級はなかった。
53)その代わりとして、平等な人物、即ち裁判官が、私人間の紛争に判決を下すため、選出された。
54)この体制に係る証拠は報告されていないので、その判例法理がいかなるものであったか、知る術な存在しない。
55)各紛争に係る判決は、今日の私法制度の、判例の(論理的な)重要性を体現している国の法律を予定するものであった。
56)東ローマ帝国時代の6世紀に、皇帝ユスティニアヌス1世は、ローマに存在していた法律を成文化し、統合した結果、法文の総量は、従前のものと比較すると20分の1となった。これはローマ法大全として知られるようになった。
57)法制史学者の一人が書いたように、「ユスティニアヌスは意図的に、ローマ法の黄金時代を振り返り、ローマ法を3世紀前の最盛期に戻すことを目指していた」のだ。
中世以降は省略します。法と宗教(つまりは、神の教え)の近さが窺えます。

次は農地の造成や治水に必要な、土地の測量/土木工事です。

→土地の測量