運河と灌漑
Civに於いてはこの「運河」は形成する事が出来ません。精々都市の位置を工夫する位です。また「灌漑」に関しては、特に触れられていません。
この様に何かと冷遇されている水技術ですが、これらは11)手足とその力学的な出力や4)飲水と飲食、排便に関した技術です。
さて、Wikiで「運河」を探すと「運河」ページが、「灌漑」で探すと「灌漑」ページがヒットします。ですがもう少し詳しい情報も知りたい所です。
そこで「水路」で探すと、「水路」ページがヒットします。まずは此処から。
1)水路(すいろ、英語:waterway)とは、人工的に造られた水を流すための構造物である。広義には河川や湖沼、ため池、調整池なども含む総称として使われる場合がある。
2)また、船舶が航行する水面のことも水路という。
3)種類
4)水を流すための人工的な構造物
5)用水路:
6)灌漑、発電、産業用動力などのために、他の水源から水を引く目的で造られた水路のこと。疏水(そすい)とも呼ばれ、日本の代表的な用水は「疏水百選」として選ばれている。
7)放水路:
8)主に河川等の洪水を排水する目的で造られる水路のこと。
9)捷水路(しょうすいろ):
10)河川の屈曲を直線化して流下能力を増加させた水路のこと。
席亭もこれは初耳でした。
11)溝渠(開渠、暗渠、側溝、クリーク):
12)主に給排水を目的として人工的に造られる水路のうち、比較的小規模なもの。蓋がされていないものは開渠、地下水路化したものは暗渠と呼ばれる。
側溝、暗渠以外は耳慣れません。クリークは、ゴルフ用語でしょう。(笑)
13)カナール(英:canal):
14)造園設計上の修景手法の一種。静水をたたえた水路で、ヨーロッパの平坦部につくられた整形庭園で大いに発達した。フランスのヴェルサイユ宮苑の十字形のグラン・カナールは有名。
また国土のほとんどが低地であるオランダの庭園では、カナールが多用されている。
15)なお、用水路または放水路のうち、主に地下に埋設された管状・トンネル状のものについて導水路(どうすいろ)または導水管(導管)とも呼ばれる。
16)また、三重県・岐阜県・愛知県ではマンボと呼ばれる地下水路が存在する。
これは席亭も知りませんでした。三川が合流する愛知県では、大規模な治水構造が存在しそうです。
17)船舶が航行する水面:→「航路」および「澪」も参照
18)澪筋:川や海において底が深く船が通れる水路となっている部分を澪筋という。
19)運河:主に船舶の移動のために造られた水路のこと。
近代以降に造られた疏水と呼ばれる水路の一部は、輸送以外に上記目的を兼ねている場合がある。
20)関連項目:用水路、堰、ダム、灌漑、上水道、水車、水力発電、運河、航路、船舶、放水路、調整池、溝渠(開渠、暗渠、側溝)、ヒューム管、シールドトンネル、レヴァダ(英語版)−ポルトガルの水路、川、湖、ため池
次は「運河」ページです。
1)運河(うんが、英語:Canal)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。
2)鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬らばなどが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。
これは運河の幅が狭い為に、タグボートの様な牽引手段を他に頼るのでしょう。
次は§概要ですが、§歴史を先に調べる事にします。
3)歴史
4)近代以前:
5)エジプトでは紀元前2000年頃には地中海と紅海とを結ぶ運河建設が計画されていたとされ、紀元前480年頃それに代わるナイル川と紅海とを結ぶ運河が開かれることとなった。
6)中国でも紀元前1000年頃から各地で小運河が開かれていたが、7世紀に隋が中国を統一すると積極的に運河を建設していくようになり、煬帝によって華北と江南を結ぶ大運河が完成するに至った。
7)この運河は中国の南北を結びつけるまさしく大動脈となり、唐の繁栄の一因となるとともに、五代から宋にかけては黄河と大運河の結節点である開封に首都がおかれ、またこの運河の北端である北京に元代以降の歴代中国王朝の首都がおかれる
ようになるなど、中国の歴史を大きく変えた。
中国では運河が発達していました。またナイル川の運河も有名です。
8)ヨーロッパにおいては、12世紀ごろより北イタリアで運河が盛んに建設されるようになった。
9)1378年にオランダで閘門が発明されたが、この時はいまだ片扉のものであった。
10)14世紀中盤には北イタリアで閘室が登場し、17世紀中盤以降はドイツやフランスなどヨーロッパ大陸西部で盛んに運河が建設されるようになった。
11)1681年にはフランス南西部を走るミディ運河が完成し、これによってフランスは国内のみで大西洋から地中海までを結ぶ大量輸送ルートの確保に成功した。
年代が下がりましたので、以下は省略します。
先のナイル川の運河は、「スエズ運河」ページに記載が有ります。
1)古代の運河:
2)古代エジプトには、ナイル川から紅海まで達する東西方向の淡水運河があり、「ファラオの運河」と呼ばれている。現在も同様のルートを、カイロ市からスエズ市への灌漑用水路が通っている。
3)これは、センウセルト2世もしくはラムセス2世の拠出によって細い運河が開削されたというもの、もしくはこの運河を組み込みながらネコ2世の時代に取り組みが始まり、ダレイオス1世の頃に完工した運河を指すものである。
4)紀元前2千年紀:
エジプト第12王朝ファラオのセンウセルト2世やセンウセルト3世など伝説的セソストリスらは、紀元前1897年から紀元前1839年にかけてナイル川と紅海を繋ぐ運河の建設に乗り出したと言われる。
5)これは、当時の紅海は現代よりも北まで海進しており、現在のグレートビター湖やティムサーハ湖(英語版)も海域にあった。
6)アリストテレスは『気象論』にて以下のように記述している。
One of their kings tried to make a canal to it (for it would have been of no little advantage to them for the whole region to have become navigable; Sesostris is said to have been the first of the ancient kings to try),
but he found that the sea was higher than the land. So he first, and Darius afterwards, stopped making the canal, lest the sea should mix with the river water and spoil it.
訳:王のひとりは、王国の海運に計り知れない優位さをもたらす運河建設に乗り出した。セソストリスはこれに取り掛かった古代最初の人物と言われる。しかし、彼は海面が地面よりも高いという事実に行き当たった。
そのため、彼、そして後のダレイオスも、海水が川に混じり、利水性を損ねることを恐れて運河建設を諦めた。
「海面が地面よりも高い」は、何かの誤解でしょう。
7)ストラボンは、セソストリスが運河建設に取り掛かったと記した。
8)ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは『博物誌』に、エジプト王セソストリスが船舶用運河で紅海の港とナイル川デルタを結び、その延長距離は60マイルであった事、後にペルシアの王ダレイオスが同じ発想を持ち、またプトレマイオス2世も
幅100フィート、深さ30フィートの溝をグレートビター湖に至る長さ100マイルに渡って設けた事を書き残している。
9)19世紀後半、フランスの地理学者は、ティムサーハ湖の東側を通ってグレートビター湖の北端近くまで達する、南北を結ぶ古代の運河を発見した。
10)この運河は前述のものと異なり、ティムサーハ湖付近まで海進していた紅海沿岸を航行した船がそのまま北進する運河だったと考えられる。
11)20世紀には、ティムサーハ湖からバッラ湖(現在のバッラ・バイパス付近)まで延長する工事の跡が発見され、これは運河沿いに建てられた古代遺跡からエジプト中王国以降のものと推測された。
12)これがセソストリス時代の古代運河と同じか否か判明しておらず、東方に対する塹壕の可能性も消されていない。
13)紀元前1470年のハトシェプスト在位時に行われたプント遠征譚を描いたレリーフには、遠征軍がプントからの帰路が航海だったことを表現している。
14)この事から、当時紅海とナイル川を結ぶ航路が存在したという提言がある。このレリーフから、運河はラムセス2世在位の紀元前13世紀頃まで存在したと想像される。
15)ネコ2世、ダレイオス1世、プトレマイオスの運河:
16)東西を結ぶ運河の遺構は、古代エジプトのブバスティス、アヴァリス(ペル・ラメセス、英:Pi-Ramesses)、ビション(英語版)を結び、これは1799年に技術者や地図製作者を率いたナポレオン・ボナパルトが発見した。
これは『エジプト誌(英語版)』にまとめられた。
17)ギリシアのヘロドトスが著した『歴史』によると、紀元前600年頃にネコ2世はブバスティスとピション(ヘリオポリス)を東西に貫きワジ・トゥミラートを通る運河建設に着手したとあり、
それをヘリオポリス湾(英語版)と紅海まで延長したと考えられる。
18)しかし、彼の事業は完遂されなかったとも伝わる。
19)ヘロドトスの記述によると、数字には疑わしい点もあるがこの事業で120,000人が死亡したという。
20)ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの言では、ネコ2世の運河拡張は57マイルにおよび、これは谷を通りながらブバスティスからグレートビター湖へ至る距離に相当する。
21)ヘロドトスが述べた距離1,000スタディオン以上(114マイル以上)とは、当時のナイル川と紅海を完全に繋げる距離である。
22)ネコ2世が死去すると事業は中止された。ヘロドトスはその理由を、運河の完成は他国に利すると警告する神託があったためという。
23)実際には、ネブカドネザル2世との戦争が事業継続を不可能にした。
24)ネコ2世の運河は、古代エジプトを征服したペルシアのダレイオス1世によって完成された。
25)当時、ヘリオポリス湾と紅海の間にはグレートビター湖のちょうど南に位置したシャルーフ(Shaluf、Chalouf、Shaloof)の町近郊を通る自然の水路があった。
26)しかしこれはシルトで埋まっていたため、ダレイオス1世は浚渫させて船の通行を可能にしたと言われる。
27)こうして造られた運河は、ヘロドトスによると2隻の三段櫂船がオールを出した状態ですれ違うことが出来る程に広く、全長を進むのに4日間を有した。
28)ダレイオス1世はこの事業を記念し、スエズ市から数マイル北にあるカブレット(Kabret)近郊などナイル川の土手に数多い花崗岩製の石碑を据えた。
29)この『大ダレイオスのスエズ碑銘(英語版)』は以下のように伝える。
聖なる王ダレイオス:ペルシアの王たる朕は故国を発ちエジプトを征した。朕はエジプトを流れるナイルの川よりペルシア領の端にあたる海まで運河を築くことを命じた。開かれた運河は、朕の意図のままにエジプトからペルシアへ海路を繋げた。
30)運河はナイル川のブバスティスに繋がっていた。
31)ピションにある記念柱の碑文によると、紀元前270年もしくはその翌年にプトレマイオス2世は、紅海のヘリオポリス湾にあるアルシノエ(英語版)に閘門つき水門を設置し、海水が運河に流れ込まず淡水が維持されるように工夫して
運河を再開させたとある。
スエズ運河には現在閘門(かんもん)が有りませんが、これは紅海と地中海の水位差が最大2.5mしかないためだそうです。
32)紅海の海退とナイル流域面積の減少:
33)歴史家の研究によると、紅海の海岸線は徐々に後退し、数世紀後にはティムサーハ湖やグレートビター湖の位置より遥か南の、現在の位置まで下がったと考えられている。
34)さらに、ナイル川で堆積する泥の存在も、運河が通る国々にとって維持補修することを困難なものとした。
35)プトレマイオス2世から約100年後のクレオパトラ7世の頃には、ナイル川デルタのペルシウム支流に溜まったシルトによって、東西を結ぶ運河はどれも航行不能な状態になってしまった。
折角作っても、維持出来ませんでした。シルトとは、砂と粘土の中間の大きさの砕屑物で、泥の一種だそうです。
36)オールドカイロから紅海への道:
37)8世紀までの時期、オールドカイロと紅海を結ぶ運河が存在した。ただし、誰によって建設されたかは複数の説があり、トラヤヌス、アムル・イブン・アル=アース、ウマル・イブン・ハッターブのいずれかではないかと考えられている。
38)この運河はナイル川沿いのオールドカイロと現在のスエズ近郊を結んでいた。
39)地理学者のディクイルは、8世紀前半に聖地を巡礼したイギリスの僧フィデリスが、道中にナイル川から紅海へ運河を航行したと話した内容を報告した。
40)767年には、アッバース朝のカリフであるマンスールがアラビア半島の敵対勢力に対抗するため、運河を閉鎖したと伝わる。
41)1000年頃、ハーキムはオールドカイロと紅海間の運河修繕に乗り出したという意見もあるが、それはごく短い期間にとどまり、再び運河は砂に埋まったという。
42)ただし一部の構造は残り、年1度のナイル洪水の際にそこは水で満たされる。
43)ナポレオンの古運河発見:
44)ナポレオン・ボナパルトは運河の遺構発見に熱心で、1798年後半に考古学者や科学者および地図学者や技術者らの集団に調査をさせた。
45)この結果は『エジプト誌』に纏められ、そこには、紅海から北へ伸び、そしてナイル川を目指して西へ転じる古代運河の発見について説明する詳細な地図が添付された。
46)イギリスが牛耳っていたインド貿易へ干渉するため、ナポレオンは地中海と紅海を南北に結ぶ近代的な運河の建設を真剣に検討した。
47)しかし、事前調査を行ったところ紅海の水面が地中海よりも10メートル(33ft)高いことが判明し、閘門を用いた運河建設には多額の費用や長い期間がかかるため、この計画は頓挫した。
48)ただしこの調査結果は誤っており、これは戦時下で測定を行わざるをえなかったことが影響し、計算の間違いが積み重なった結果であった。
49)現在でも明瞭になっていないが、ブバスティスから紅海まで繋がる古代の運河ルートは、1861年頃までは所々に水を湛える場所があった。
調べる場所は分かっていますから、これから徐々に明らかと成るのでしょう。
運河はこの位にして、次は灌漑です。「灌漑」の前に「用水路」を調べると、「用水路」ページがヒットします。
1)用水路(ようすいろ)は、農業用灌漑や上水道、工業用水道などのために水を引く目的で造られた水路である。
2)名称に井路(いろ、せいろ、いじ)、分水(ぶんすい)、疏水(そすい)がつくことがあり、地下を抜ける暗渠は水路隧道などとも呼ばれる。
以下は§概要ですが、§概要の前に§歴史を調べます。
3)歴史
4)日本以外の農業用水路:
5)太古の灌漑農業では主に河川の洪水を利用していたが、紀元前30世紀頃のメソポタミア文明ではチグリス・ユーフラテス川から引水しての灌漑農業が行われていたといわれており、そのための用水路が築かれ利用されていたと推定されている。
6)また、この用水路は生活用水の供給や治水のための放水路も兼ねていたと考えられている。詳しくは「灌漑#灌漑の歴史」を参照。
7)ヨーロッパや中東の平野では、地形から自然引水による灌漑が難しかったり、水が溜まりやすかったりする地域がある。
8)たとえばシリアの都市ハマでは、そばを流れるオロンテス川は水量が多く流れも速いが河床が低いために自然引水が難しく、水車などの動力により用水路まで水を汲み上げてから農業・生活用水を引いている。
9) 逆に、世界遺産に登録されているオランダのキンデルダイク村にある風車群(The Mill Network at Kinderdijk-Elshout)などのように、河川より土地が低いために滞水しやすい地域に用水路兼排水路を巡らせ、水が不足する時は川から用水路へ取水し、
10)逆に余剰となった時は風車で汲み上げて排水することで、かつての湿地を牧草地や花卉栽培等に利用している地域もある。
揚水には水車や風車の様に、動力が必要です。
11)北米・南米などに近年多く造られるプランテーション(大規模農園)では、サイフォンの原理を用いた手法や、圧力導水路(管)とスプリンクラーを用いて散水させる方法などが多く使われている。
以下は省略します。次は「灌漑」ページです。
1)灌漑(潅漑、かんがい、英:irrigation)とは、農地へ水を人工的に供給すること。農作物の増産、景観の維持、乾燥地帯や乾期の土壌で緑化する為に実行される。
2)他にも農業生産において、作物を霜害から守る、穀物の畑で雑草を抑制する、土壌の圧密を防ぐといった用途もある。
3)対照的に直接的な降雨のみで行う農業を乾燥農業と呼ぶ。
4)灌漑システムは、塵の飛散防止、下水処理、鉱業などにも使われる。灌漑と排水は組み合わせて研究されることが多い。
5)なお、「灌」「漑」は二文字とも常用漢字の表外字のため、報道では新聞常用漢字表により「かんがい」とひらがなで表示されるのが一般的である。学校の教材等も同様である。
幸いにも、メモ帳ではこの漢字二文字は使用可能と成っています。(笑)
6)概要:
7)技術的には、作物・土壌・水の間に適切で有機的な関係を保証する農学的側面、各種の施設・機器を用いて耕地に水を供給し管理する狭義の灌漑技術、水源から水を引く土木工学的側面などがある。
8)農地に対する水管理という点で排水(農地排水)とセットで灌漑排水として扱われることが多い。
9)また大きなくくりとして畑に水を供給する畑地灌漑と水田に水を供給する水田灌漑に分けられる。
10)また、耕地内で作物に給水することや圃場内で植物に給水することは灌水もしくは水遣りという。
11)この灌漑が社会発展に果たす役割は非常に大きい。
12)灌漑により、農地の生産性は著しく高まるために、余剰生産物が発生する。
13)余剰生産物は、農業以外で価値を生み出す職業を支え、商工業者や軍隊、王権貴族の生活を支える。
14)このように、灌漑による生産性向上は社会に変革をもたらす。
15)灌漑の「灌」と「漑」の漢字は共に訓読みで「そそ(ぐ)」と読め、また「水を注ぐ」という意味である。
16)灌漑の歴史:
17)農耕の開始によって人口が増加し、国家が形成されるようになると、人々を安定的に統治するために必要な農耕生産の向上が必須課題となり、開墾や干拓、灌漑などさまざまな公共事業が行われ始める。
18)そこでは、常に治水問題と灌漑問題の解決が重要であった。
19)治水問題では洪水などによる水害を防ぐための築堤などの河川整備が、灌漑問題では水源確保のためのため池、堰堤やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの農地整備が相互に関連しながら行われてきた。
20)中でも灌漑技術は概して水資源の少ない地域において開発され発達してきた技術である。そこでは、主に畑作用水資源の安定的供給による農耕生産の安定性と生産性自体の向上を目的としていた。
21)考古学調査の結果、紀元前6千年紀ごろからメソポタミア、エジプト、イランといった中東で灌漑が行われていた証拠が見つかっている。それらの地域で自然な降水量だけでは生育できない大麦が栽培されていたことがわかっている。
22)紀元前800年ごろの古代イラン(ペルシャ)で発達したカナートは、今日も使われている最古の灌漑技法の1つである。
23)この技法はアジア、中東、北アフリカに広まっている。
24)このシステムは多数の井戸と緩やかに傾斜したトンネルで構成され、地下水を灌漑に使用する。
25)粘土製の壷を周囲につけた水汲み水車(ノーリア)は、水流の力で駆動され(水流がない場合は畜力を使用(サキア))、中国の漢やシリア・イラク・ペルシャ地域で最初に使い始められたとされている。
畜力とは、家畜の力の事です。水車は、良く牛が引いています。
26)紀元前150年ごろにはその壷に弁がつけられ、水を汲み上げる効率を向上させた。
27)エジプト:
28)古代エジプトにおいては麦類を中心とした畑作農業が行われており、紀元前3500年ごろに灌漑が始まっていたと考えられている。
29)その灌漑はナイル川の氾濫を利用した畑作灌漑であった。青ナイル川から流れ込む春季の多量の雨水によってナイル川下流では夏季にはゆっくりと水位が増水し、氾濫を起こす。
30)この氾濫は日本で見られるような濁流で家々を押し流すような氾濫ではなく、ゆっくりと次第にナイルの水が堤防を超え外部に漏れ出るような様子の氾濫である。
31)この氾濫を耕地に誘導することによって耕地の土壌中に十分な水分が保水されるという湛水灌漑であった。
32)また、ナイルの氾濫水は上流の肥沃な土壌を含んだ泥水で、氾濫によって肥沃な表土が供給された。このため、湛水することによって十分な水が供給されることと流水によって肥沃な表土が運搬されてくることが定期的にあったため
乾燥地にもかかわらず塩類集積が起こりにくかったと考えられている。
33)エジプト第12王朝のファラオアメンエムハト3世(紀元前1800年ごろ)は、ナイル川の氾濫した水を毎年引き込んでファイユーム・オアシスの天然の湖に貯水し、乾期に使用する水とした。
34)メソポタミア:
35)新石器時代以降メソポタミア北部の山麓の傾斜地で天水依存の農業(天水農業)が行なわれていたとされる。
36)しかし、紀元前3000年ごろ、気候の変化によって水源を求めてチグリス・ユーフラテス河の下流平地部へと移住した。
37)しかし下流の平地部は、上流の山岳地帯での春の雪解け水に起因する、突然の洪水や河川氾濫に見舞われる氾濫原であった。
38)そのため、溢流を制御し、溢流した河川水を蓄えるため池を作り、各耕地に配分する用水路を作る公共事業を行なうことが都市国家の宿命であった。ただし、この水は飲料水等の生活用水にも使用された。
39)この地域は降水量は少ないものの温暖なため、用水が確保されれば多くの収量を得た。
40)この灌漑も氾濫水を使用する灌漑であるが、貯水池(ため池)を作り水路で配分する点がエジプトと異なる。
41)そして、ため池や用水路などの農業生産基盤は農地と共にしばしば収奪の対象とされ、騒乱のたびに灌漑排水システムは破壊、そして再建された。
42)また、乾燥と暑熱による水分蒸発によって耕地の塩類集積を招き、生産力が低下して文明の衰退を招いた。
この塩類集積は土壌破壊の源です。客土が必要でしょう。(エジプトは水と泥が一緒)
43)南米:
44)ペルーのアンデス山脈山中の Za〇(n+~)a Valley では、紀元前4千年紀ごろから灌漑用用水路があったことが放射性炭素年代測定により示されたと主張する考古学者もおり、紀元前3千年紀および紀元9世紀ごろの用水路も見つかっているという。
45)これらは新世界では最古の灌漑と主張されている。
46)その下からさらに古い用水路の痕跡も見つかっており、紀元前5千年紀にまで遡ると調査者は主張している。
47)インド亜大陸:
48)パキスタンおよび北インドのインダス文明は洗練された灌漑と貯水のシステムを発展させ、紀元前3千年ごろのため池や紀元前2600年ごろの用水路などが見つかっている。
49)大規模農業が行われ、灌漑用の用水路のネットワークが張り巡らされていた。
50)近世になり英領インドでは、1842年から12年の歳月をかけ上ガンジス運河を開削し、ドアブ地方を一大穀倉地帯へと発展させた。
51)このガンジス川を利用した大規模灌漑用水路はインド独立後も継承され、現在でも新規プロジェクトが展開されている。
52)ガンジス用水路は北インド主体で行われたが、南インドでは1898年に来日したマイソール藩王国の大臣モークシャグンダム・ヴィシュヴェーシュヴァライヤがインド初の計画経済開発を唱えた『インドのための計画経済』に基づき
独自に灌漑事業を実施した。
53)スリランカでは紀元前300年ごろから灌漑が始まり、その後千年以上に渡って開発が行われたため、古代世界でも最も複雑な灌漑システムとなった。
54)地下水路(ビソーコトゥワ)だけでなく、シンハラ人は貯水のための人工的なため池(パタハ)も作った。
55)灌漑の面では非常に優れた技能を発揮しており、アヌラーダプラやポロンナルワでは古代からの灌漑システムが今も機能している。
56)中世の王Parakrama Bahu (1153−1186)の時代に灌漑システムの修復と拡張が行われている。
57)西欧:
58)西ヨーロッパでは長らく灌漑設備を設けるほど技術が発達しなかった。
59)しかし、土地の大半が農耕可能かつ降水量が比較的豊富な気候に恵まれていたため、農業適地の広大なヨーロッパでは農業生産力を上げず、耕地を二つに分け半分を耕作し半分を休閑地とする、二圃式農業と呼ばれる粗雑な農業による
広大な農地の使用を行い、休閑地は一年かけて降水を土壌中に保水して翌年の耕作に使用した。
60)これによって、灌漑農業やギリシャ、北アフリカ、イラン、華北などで行われた乾地農業より遥かに低い単位当り収量だったものの技術的制約から解き放たれ、農業技術の未熟なローマ人にも耕作可能な土地が増加、生産量が向上した。
61)18世紀にイギリスで産業革命が起こると、蒸気機関を用いた揚水ポンプなど灌漑機械が普及、同時に灌漑水路と水運を兼ねた運河が発達し、運河時代と呼ばれるようになった。
用水なのに、運河と呼ぶのですね。勿論、船は通れますけど。(笑)
62)これらの技術はイギリスの植民地経営にも導入され、各地で近代化を推進する原動力となった。
63)国土が海面下のオランダでは干拓事業に伴う排水灌漑が行われ、オランダを代表する景観の風車やD.F.ヴァウダ蒸気ポンプ場のような灌漑設備が世界遺産になっている。
ローマの水道橋(すいどうきょう)にはちっとも触れられていないので、ここで紹介しておきます。
→水道橋
64)中国:
65)中国の長江中下流域では紀元前8000年頃から水稲作が行われていたが、稲作においては当初から灌漑によって栽培がなされていた。
66)中国最古の水理学技師として春秋時代の孫叔敖(紀元前6世紀)と戦国時代の西門豹(紀元前5世紀)がいる。どちらも大規模な灌漑事業を指揮した。
67)紀元前256年、戦国時代の秦国は現在の四川省にあたる場所に都江堰という灌漑施設を建設した。この施設は今も周辺の農地に水を供給し続けている。
68)漢代にあたる紀元0年頃には水を低いところから高いところに運ぶチェーンポンプが使われるようになっている。このポンプは人力、水力、畜力などで駆動した。
69)水の供給は公共事業として都市部や宮殿に対しても行ったが、大部分は灌漑用に使われていた。
飲料(水道)よりも灌漑の方が、当然量は多いでしょう。
70)中国は黄河・揚子江などの大河が多いものの、内陸部は乾燥地帯が広がり、大河川は氾濫が頻発するなど問題を抱えていた。
71)隋の大運河建設以後、治水・灌漑・水運を一体化して考える水学(すいがく)が発達した。特に北宋以後は増大する人口と食料生産・輸送の観点からさまざまな灌漑・治水方策が提案された。
72)日本:
73)日本の灌漑は、神話伝説では神功皇后が造らせた裂田の溝が最古の農業用水路とされるが、考古学的に確認されたものとしては唐津市の菜畑遺跡で検出した水路が
縄文時代後期(約2500〜2600年前)まで遡れる最古の灌漑稲作の痕跡である。
74)続く弥生時代に水稲栽培が普及拡大し、大和時代の頃にはため池や配水路など計画的な用水施設の設置が行われている。
75)新田の開発と灌漑施設の設置は表裏一体であり、農業土木技術が進歩するにつれて灌漑施設も大規模なものへ変遷した。
76)律令制の下では国家及びその地方官が河川の独占的利用を規制して遠江の荒玉河(現在の天竜川)の堤の修築など大規模な治水・灌漑工事が実施されたが、地方官に対して勧農よりも徴税の実績が求められるようになると次第に衰退していった。
77)中世に入ると大規模な灌漑事業は減少したが、個々の荘園あるいは大名領国、同一水系・荘園領主を持つ複数の荘園を単位とした灌漑が活発に行われるようになる。
78)また、複数の荘園や惣村において灌漑の時期や水量などを巡る争い(水論)が発生し、番水などの制度ができあがった。
79)社会が安定した江戸時代には見沼代用水などを始め、各地で大規模な長距離の農業用水路が開発されている。
80)こうした水路開発はそれまで灌漑の主要な地位を占めてきたため池の役割を低下させて河川灌漑が主体となるきっかけとなった。
81)第二次世界大戦後には、治水などとの目的にも合わせた多目的ダムの建設も進み、全農地の3分の2が公共事業により建設された農業用水の恩恵を受ける状況となっている。
82)米国:
83)北アメリカでは、先史時代からいくつもの灌漑システムが作られてきた。
84)例えば、アリゾナ州ツーソンを流れるサンタクルーズ川付近でも灌漑施設の遺構が見つかっている。約4000年前の集落跡と共に見つかった。
85)サンタクルーズ川の氾濫原は紀元前1200年ごろから紀元150年ごろまで農業が盛んだった。
86)現在はセンターピボットなどの大型灌漑により、世界の穀物倉となっている。
以下は省略します。
87)関連項目:農業工学、ダムー日本のダム、人造湖−日本の人造湖一覧、アセキア(英語版)−スペインの灌漑用水路、オアシス−砂漠緑化、U字溝−溝渠、圃場整備−開墾、環境破壊−塩水くさび、蒸発散、ゲジラ計画、日本住血吸虫、
集約農業、竜骨車−踏車
ゲジラ計画とは、スーダンの灌漑計画です。竜骨車とは、中国から伝来した日本の揚水機の事です。また踏車とは文字通り、足で踏む人力の揚水機の事です。
次はローマを代表する、「車輪と道路」です。全ての道はローマに通ず、と言われました。
→車輪と道路