車輪と道路
次は「車輪と道路」ですが、これらは交通手段ですので、11)手足とその力学的な出力に関係しています。
先にWikiで車輪を調べると、「車輪」ページがヒットします。
1)車輪(しゃりん、英;wheel)とは、車の輪。
2)乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの。
車輪の前には明らかにコロが在りますが、残念ながらWikiにはコロの説明は有りません。分類ページが有るだけです。
3)概要:
4)小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。
5)車輪は最古の最重要な発明とされており、重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷くころから発展したと考えられている。
6)やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった。
コロが無くとも、橇は実用に成ります。石垣の石を運ぶのに、海藻を利用した話は先に紹介されていました。
7)車輪が無いと、1.物を持ち上げつつ移動させるか、2.あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。
8)1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、すべり摩擦よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。
9)一方、車輪にはたらく摩擦は「転がり摩擦」で、これはすべり摩擦よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。
これらは力学効果ですから、つまりは同時代にはそれなりの力学が存在した訳です。
10)たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。
11)もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。
12)また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。
13)また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して回転可能にした構造は、人類の発明の中でも偉大なものの一つであるといわれる。
14)一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地しているタイヤ(ゴムや軟質の鉄などで出来ている)やチューブまで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。
15)自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の空転を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。
16)また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説空飛ぶタイヤなど)。
17)Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。
18)アメリカのミニカーのHotWheels(ミニカーの商標)は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。
19)なおピラミッドの石材は、丸い材木(ころ。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したとされているが、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている。
ここに記述が有りました。(苦笑)
20)歴史
21)起源と伝播:
22)車輪の起源は、古代メソポタミアのシュメール人にあり、時期としては(一説では)紀元前3500年ころとされる。
23)シュメールの車輪は、木製の円板に軸を挿したものだった。
24)発明の時期に関しては、メソポタミア・ウバイド期の遺跡から轆轤から発展した車輪が出土していたり、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する。
25)なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある乗り物」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」Bronocice potに描かれたものだ』と主張された。
26)Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり、紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達した、といい、中国では紀元前1200年ごろには車輪を使った戦車が存在
していたことがわかっている、という。
27)一方、Barbieri-Low(2000)によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。
28)ヌビアの古代遺跡では轆轤や水車が使われていた。
29)ヌビアの水車は水汲み水車であり、牛を使って回していたと見られている。
30)またヌビアではエジプトから馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている。
チャリオットでしょうか?
31)オルメカや他の西半球文化では、インカ文明まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの子供用の玩具と思われる岩石製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている。
32)これはマヤ文明においても同じで、車輪付きの動物土偶が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった。
33)新大陸において車輪が実用化されなかったのは輓獣となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている。
34)車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。
35)メソポタミアにおける荷車の出現はロバの家畜化とほぼ同時期である。
36)やがて紀元前24世紀に入ると、ドン川やヴォルガ川流域でロバに代わり馬に荷車を引かせはじめるようになった。
37)車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だった。
38)でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。
39)日本では平安時代に牛車が使用されていたが、平安京のような平地の都市部のみの普及だった。
坂道では、牛車が彫った?溝の上を車輪が通過していました。(〜車石)
40)地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する駄賃馬稼が一般的であったが、江戸時代に入ると人力による大八車やベカ車も使用されるようになった。
41)馬車や人力車の普及は道路網が整備された明治以降だった。
以下は省略します。
42)車輪が得意とする場所、苦手とする場所:
43)車輪はものを移動させる方法として広く使われている。ただし、向く場所(得意とする場所)、向かない場所(苦手とする場所)がある。
44)舗装された面、鉄道の上面、硬い地面、平らでなめらかな床面などはよく転がり、車輪に適している。
45)車輪の向かない場所というのは、雪原(積雪地)・湿地・泥道・砂漠・不整地・障害物がころがっている道、などである。
46)車輪が苦手な場所で、車輪の代わりに使われるものには次のようなものもある。
・不整地 : 徒歩、ウマ(乗馬)、無限軌道(ただし実際には機構の一部として車輪が使われている)。ホバークラフトも。
無限軌道とは、戦車のキャタピラです。
・近年では、四足歩行ロボットも(たとえばボストン・ダイナミクスのSpotなど)。あるいは二足歩行ロボット。
・雪原 : ソリ(手押しの橇、犬ぞりなど)。スノーモビル(ただしゴムの無限軌道が使われていて、車輪も組み込まれている。)
次は「道路」ページです。
1)道路(どうろ、ラテン語:strata、フランス語:route、ドイツ語:Stra〇(ss)e、英語:road、スペイン語:calle)とは、人や車両などが通行するための道、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。
2)概要:
3)英語のroadは道全般を指す言葉である。streetは都市部の道路(街路)を意味する言葉として用いられるので、roadのほうが街と街を結ぶ道(街道)を指すことが多い。
4)「道路」が漢語として初めて使用された記録は、紀元前1000年頃の古代中国王朝である周の時代の経典『周来』である。
5)『論語』でも使われている。
6)日本では、江戸時代の俳人で知られる松尾芭蕉の『おくのほそ道』の一節に「道路」が使われ、明治時代の文明開化期以降には多く使用されるようになった。
7)道路は、交通の要となる公物で、誰でもいつでも通行することができる日常生活に不可欠なものであり、多くの人々が共同で使用するものである。
8)また、交通上の特徴としては、単に公共施設という物理的な概念にとどまらず、道路どうしが交わりネットワークを形成しており、多くの場合は目的地まで複数の経路を選択することができることにある。
9)つまり、道路は安全で円滑な交通路の確保と、交通ネットワークとしての機能が重要視されている。
10)歴史:→日本の道路については「日本の道路§日本の道路の歴史」を参照
11)「道」の起こり:
12)人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている。
まあ最初に獣道が有りましたから、人間もそれに倣ったのでしょう。
13)狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。
14)そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、
地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった。
15)人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、
生活していく中から自然発生的に発展していった。
16)現在発見されているなかで最古の道路整備跡とされることのあるもののひとつには、イングランドにあるSweet Trackの土手道があり、紀元前3800年頃に遡る。
人一人が通れる位の道幅の道は、容易に改変が可能です。(笑)それに、箱根の山道などは崩落によって、道筋が絶えず変化します。
17)舗装路のはじまり:
18)土の道は晴天時に特に不自由は無いが雨天になるとぬかるんで泥道になってしまい歩くことが困難になってしまう。それを防ぐために舗装が行われるようになった。
19)人の手による舗装の最古のものとしては紀元前4000年頃のものが発見されている。
20)古代のエジプト人は、ピラミッドの建設で、構築用資材となる大きな石塊を遠方より運搬するために、小石などを取り除いて石畳の道を整備してコロを用いて人力で運搬したと考えられている。
21)バビロンでは、紀元前2000年頃までには舗装された道路があったという記録が残されている。
22)古代の中国人は紀元前1100年代頃以降、大規模な街道を整えたが、その一部は石畳として整備した。
ですから中国の方が、ローマ街道よりも古い訳です。
23)紀元後20年までには、その距離を40,000キロメートル(km)にまで伸ばした。
24)日本列島では、縄文人の縄文時代前期中頃から中期末葉(今から約5900−4200年前)の遺跡である三内丸山遺跡に幅12メートルの舗装された道路があったことが、2000年に発見された。
どんな舗装なのでしょうか?
25)古代国家による道路網の整備と発達:
26)古代文明が発達し、国家が誕生すると道は計画的に作られていくようになり、道路網の整備は時の権力の象徴にもなった。
中国の様に、治水事業が喫緊では無かったのでしょう。(笑)
27)中でもローマ帝国が建設したローマ街道は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万 km、うち主要幹線は8万6000kmにもおよんだ。
28)当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず!」と豪語したと言われており、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、ローマ市を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、
都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた。
29)中でも有名なのは、紀元前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスの命令で建設が始まったアッピア街道で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった。
30)このほか地中海のクレタ島やマルタ島の残る古代道路は、紀元前2000年頃のものといわれ、またアケメネス朝ペルシア帝国の王の道は、紀元前約500年頃のダレイオス1世の時代に、メソポタミアの首都スーサ(現イラン国内)から
小アジアのサルディス(現トルコ国内)へ至る約2500kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた。
31)東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに秦の始皇帝によって馳道(ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。
32)建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481km、秦時代の1里は417.5m)とされ、
『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70m)、路側に3丈(約7m)ごとに青松を植えた」とされる。
33)始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都咸陽(かんよう)から北へ延びる幅約30m程度の直線的な軍事道路を造っている。
34)その目的は、北方からの匈奴侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている。
高速道路と呼ぶからには、あるいは騎乗に対応した道路なのでしょうか?
35)また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。
36)北ヨーロッパで産出された琥珀を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる琥珀の道は、紀元前1900年頃から存在した。
37)始皇帝を倒して打ち立てられた中国の漢帝国の時代からは、国家統一と経済産業の発展のため関所を廃止して道路建設が全国的に進められたことにより、中国の長安から中央アジアを横断して西南アジア、ヨーロッパを結ぶ絹の道(シルクロード)
が登場する。
→シルクロードと海のシルクロード
38)シルクロードは、貿易のための地上通路として最もよく知られ、紀元前130年前後の漢の時代から武帝が西域に派遣した張騫(ちょうけん)によって西域の商品や文化が東方へもたらされたことに始まり、
7世紀頃の唐の時代になると中国特産の絹と、ヨーロッパから宝石と織物が運ばれた。
39)また、シルクロードは、東西文化の伝達路として大きな役割を果たし、東洋と西洋の双方異なる優れた互いの文化を吸収しながら発展していった。
40)中国の唐の時代では全国的な道路網が造られており、5里(約3 km)ごとに土堆(どたい、土で築かれた道標)が築かれ、駅路が整備された。
41)中国唐代の道路制度は、日本の道路にも影響を与えており、駅伝制度などは中国から駅制を導入したものである。
42)南米ではインカ(12世紀前半−)の人々(インカ人)たちは伝令たちがアンデス山脈を伝っていけるようなインカの街道を張り巡らせた(→インカ道)。
43)マヤ人たちもヨーロッパによる新世界発見以前にメキシコで石畳の道路網を張り巡らせていた。
以下は省略します。次は「ローマ街道」ページです。
1)ローマ街道(ローマかいどう、ラテン語:Via Romana)は、古代ローマ時代に主要都市を結ぶように作られた道路のことである。
2)紀元117年頃には、主要幹線道路は約8万6千キロメートル、全ての道路の総延長は29万キロメートル(資料によっては15万キロメートルとするものもある)にも達した。R>
3)ローマ街道全図:
紀元117年頃のローマ帝国の主要街道 概略図
地中海を中心として、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、東欧、ギリシア、トルコ、中近東、エジプト、アフリカ、のそれが描かれています。
4)概要・歴史:
5)ローマ街道の歴史は、紀元前312年にローマのケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により敷設されたアッピア街道(Via Appia)に始まる。
6)それまでも、サラリア街道(Via Salaria、「塩の道」の意)などの街道は存在したが、軍隊の迅速な移動を目的とした舗装されたローマ街道は、アッピア街道が最初である。
7)以後、敷設されたローマ街道には、その街道を敷設したケンソルや属州総督などの名前が冠せられることとなる。
8)初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけであった。しかし戦争を重ね、領土が広がるにつれ、ローマ以外の都市から都市へ結ばれるようになる。
9)最終的にはイタリア半島のみならず、ガリアやブリタンニア、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなどローマの属州にも敷設され、地中海全域に網の目のように敷設されることとなった。
10)また、軍事目的で敷設されてはいるが、軍事に関係のない帝国官吏や巡礼者などの一般市民でも利用することが出来たため、物流などの経済面でも大きな影響があった。
11)アウグストゥス帝が帝国全土に整備した郵便制度「クルスス・プブリクス」の急使が馬を交換し、休憩するための交換所「ムーターティオー」(mutatioまたはmutationes)が10ローマ・マイル程度毎に、
4〜5箇所程度のムーターティオーに1箇所は大きな規模の宿駅「マンシオー」(mansioまたはmansiones)と呼ばれる施設が整備された。
これらの国営施設は帝国官吏や特別な証明書(ディプロマ)を持った者のみが利用を許されており、それ以外の一般人は民間の宿屋や軽食堂を利用した。
12)1597年に神聖ローマの帝国郵便が領邦郵便を禁じてから、学生をふくむ法学界とジャーナリズムを巻き込んで数世紀にわたり、帝国が「クルスス・プブリクス」を継承するのかという問題が論じられた。
13)街道を移動する速度は、徒歩で旅する者は1日に20キロメートルから30キロメートルを、馬車では35キロメートルから40キロメートルであった。
14)政府の急使は馬を休ませる時間を含めても1日に70キロメートル進んだという。
15)これは、ローマからアッピア街道の終点ブリンディジまで7日、更に遠くのコンスタンティノポリスまで25日、アンティオキアまで40日、アレクサンドリアまで55日で到達したという。
日本の東海道は2週間(14日)程度で歩きましたから、距離的にはそんなには違いません。日本列島は結構細長いのです。(苦笑)
また飛脚は3〜4日で走りました。(〜徒歩の3〜5倍の速さ、継飛脚)土の道ならば20kmは何でも有りませんが、舗装路は足に堪えます。(苦笑)
16)道路の構造:
17)標準的なローマ街道の道幅は4メートルで、2台の馬車が行き違える車道幅であった。
日本の現在の車道も、道幅は4.5mです。ですから余り変わらない大きさです。
18)その両脇には幅3メートルの歩道が作られていた。
19)車道部分は最大で深さ2メートル程度まで掘り下げられ、3層構造の路盤となっていた。
昔から車道なのが、東海道とは違う所です。(苦笑)
20)下層路盤が大きな石で、中層路盤が中くらいの大きさの石、上層路盤が粘土と砂利を混ぜた層であった。
21)路面となる表層石は、大きな石を亀甲形等に組み合わせたもので、薄くて平らな敷石ではなく重量のある分厚い石を敷くことで道路の安定性を高めていた。
22)道路は中央部が少し膨らむよう勾配が付けられて舗装されていて、3層構造の石で造られた路盤で排水すると共に、この勾配により路肩にもスムースに排水するように設計されていた。
23)このような道路の構造は全ての街道の全区間で実現されていたわけではなく、幹線道路以外の支線では市街地を出れば砂利道となっていることもあった。
24)共和政ローマの政治家であったキケロは「焼けつくようで埃っぽい」(アッティクス宛書簡集 V,14,1より)と記している。
江戸時代のケンペル記などを見ても、日本の街道は評判が良かった様です。(笑)
25)ローマ街道は、渓谷や山、岩場などがあってもそれらを迂回するのではなく、架橋やトンネル、切通しを設けることでできる限り直線となるよう建設された。
26)グラン・サン・ベルナール峠など、標高2,500メートル近くある峠に道路を通す技術や、陸橋やアーチ橋などを利用して道路の傾斜を8から9度以内の勾配に保つことで、比較的短時間で谷や峠を通行できるようにする技術も保有していた。
財力には問題が無かったのでしょう。
27)降雪地帯や水害の危険があるところでは、道路は周囲の地面より少し高めに嵩上げして造られた。
28)例えばヴェネト州では道路が地面から4メートルから7メートルも高い土手の上となるよう造られていた。
29)また、道路は谷底を避けると共に丘陵地帯では中腹を通るようルートが工夫されていた。
谷底を避けるのは分かりますが、中腹を通る理由とは何でしょうか?
30)街道には1ローマ・マイル毎に円筒形の石柱「マイルストーン」が設置され、道路の起点からの距離や、道路を建設・補修した執政官の名前などが刻まれていた。
31)ローマを発する街道は、フォルム・ロマヌムの黄金の里程標(ミリアリウム・アウレウム)が象徴的なゼロ・マイル地点となっていた。
これは日本でも同じです。
時代はローマ時代(〜Civでは古典)ですが、同時代でのCivのテクノロジーは光学、騎乗、数学、建築学、哲学、演劇と詩、通貨、工学、鉄器です。
席亭は既に、数学、建築学、哲学、通貨、鉄器に関してはご紹介済みです。ですから残るは光学、騎乗、演劇と詩、工学の4つですが、
光学はルネッサンス以降、騎乗はモンゴル帝国の所で、工学は用水路と万里の長城ですので、灌漑と運河、建設の所でご紹介する事にします。
ですから次はギリシア時代に特徴的な、「悲劇(演劇)」と「音楽」です。(笑)
→悲劇(演劇)