シルクロードと海のシルクロード
Wikiでシルクロードを調べると、「シルクロード」ページがヒットします。
1)シルクロード(絹の道、英語:Silk Road, ドイツ語:Seidenstra〇(ss)e, 繁体字中国語:絲綢之路, 簡体字中国語:〇)は、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。
2)全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした。
流石に大陸、スケールが違います。(苦笑)
3)概要:
4)シルクロードの始まりは、紀元前114年頃に漢王朝が中央アジアに進出したことに端を発する。
5)張騫は、この地域の向こう側にある未知の土地を探検し、貿易相手や同盟国の候補を探すよう命じられた。
6)この探検で得た情報や物資は、中国の関心を呼び、外交や商業の正式な派遣を促し、兵士や万里の長城の拡張によるルートの保護に力を入れた。
7)アナトリア東部からアフガニスタンにかけてのパルティア帝国の拡大は、東アフリカや地中海、特に新興のローマ帝国への架け橋となるものであった。
8)紀元1世紀初頭には、中国の絹はローマ、エジプト、ギリシアで広く求められた。その他、東洋からは茶、染料、香水、磁器などが、西洋からは馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、利益をもたらした。
9)紙や火薬の普及は、新興の商人層に大きな富をもたらしただけでなく、世界史とまではいかなくとも、さまざまな地域の歴史を大きく変えることになった。
10)シルクロードは約1500年の歴史の中で、数々の帝国の興亡や黒死病、モンゴルの征服などの大きな災厄に見舞われた。
11)しかし、モンゴル帝国やその分派である元王朝を経て、シルクロードは以前よりも強くなっている。
12)しかし、シルクロードは分散型のネットワークであるため、治安は悪く、旅人は常に盗賊の脅威にさらされていた。
接続詞しかしの使い方は、おかしいです。
13)山賊や遊牧民の襲撃に常にさらされ、人を寄せ付けない地形が長く続いた。途中の様々な中継地点を拠点とする一連の仲介者に頼らずにシルクロードの全行程を踏破する者はほとんど居なかった。
14)シルクロード貿易は、中国、韓国、日本、インド、イラン、ヨーロッパ、アフリカの角、アラビアとの政治的・経済的関係を開く上で重要な役割を果たした。
朝鮮半島や日本迄、このシルクロードに含める事が有ります。
15)シルクロードでは、物資だけでなく、思想、宗教(特に仏教)、哲学、科学的発見なども交換され、その多くはそれらに遭遇した社会で融合され、新たな形が生み出された。
16)また、移民、難民、宣教師、職人、外交官、兵士など、さまざまな人々がこのルートを利用した。
17)また、ペストなどの病気もシルクロードを経由して広まり、黒死病の一因となった可能性もある。
18)しかし、1453年にオスマン帝国が勃興すると、シルクロードは突然終わりを告げ、東西の貿易は途絶えた。
19)これを機に、ヨーロッパは東方の富を得るためのルートを求め、大航海時代、ヨーロッパの植民地主義、そしてシルクロードから始まったといえるグローバリゼーションをさらに加速させた。その影響は21世紀に入っても続いている。
20)マルコ・ポーロは中世のベネチア商人であり、西洋人として最も早く東洋を訪れ、記述した人物である。
21)新しいシルクロードという名称は、この歴史的な交易路を通じた輸送の拡大を目指すいくつかの大規模なインフラプロジェクトを表すために使われており、代表的なものとして、ユーラシア・ランドブリッジや中国の一帯一路構想(BRI)などがある。
22)2014年6月、ユネスコはシルクロードの長安−天山回廊を世界遺産に指定したが、インド側の回廊は暫定リストに掲載されたままである。
23)名称:
24)シルクロードの名は、ほぼ中国で生産される絹織物の貿易に由来している。
25)「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstra〇en;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、
リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタンを東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。
26)リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった。
27)一部の現代史家の間では、東アジア、東南アジア、インド亜大陸、中央アジア、中東、東アフリカ、ヨーロッパを結ぶ複雑な陸路・海路をより正確に表す「シルクルート」という名称も使われるようになった。
28)交易路:
29)シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。
30)日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあるが、特定の国家や組織が設定したわけではないため、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
31)草原の道:→詳細は「草原の道」を参照
32)中国西安から北上してカラコルムに渡り、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海北側の南ロシア草原に至る、「オアシスの道」よりも古いとみなされている交易路。
33)この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
近年は彼らの文化面での貢献が、見直されつつあります。
34)現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。
35)モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている。
36)オアシスの道:
37)東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路は「オアシスの道」と呼ばれる。このルートをリヒトホーフェンが「シルクロード」と名づけた。
38)洛陽や長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。
39)ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン以西は多数のルートに分岐している。
40)このルート上に住んでいたソグド人が、唐の時代のおよそ7世紀〜10世紀頃シルクロード交易を支配していたといわれている。
41)西域南道(漠南路):
42)タクラマカン砂漠の南側を通るルート。敦煌からホータン、ヤルカンドなど崑崙山脈北側のオアシスを辿って、カシュガルからパミール高原に達する。
43)オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。5世紀に法顕は西域南道を通ってインドに渡った。
44)このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、
4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。
45)距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので、
前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。
45)13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。
46)現在のG315国道は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。
47)天山南路(西域北道、 漠北路、Northen Silkroad):
48)天山山脈の南側を通るルート。敦煌からコルラ、クチャ、アクスを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至る。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。
49)このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。
50)現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、おおむね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。
51)天山北路:
52)天山山脈の北側を通るルート。敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てスイアブに至る。
53)紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。
54)現在のG312国道や蘭新線、北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。
55)東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。
56)海の道:→詳細は「海のシルクロード」を参照
57)中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路は「海のシルクロード」とも呼ばれる。海のシルクロードの起点は福建省泉州市。
58)すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドのサータヴァーハナ朝との交易のために
港湾都市アリカメドゥ(英語版)(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。
59)このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。
60)しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天や海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。
61)7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。
62)中国のイスラム教徒居留地は、唐末に広州大虐殺や黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退した。
63)宋代になると再び中国各地(泉州市、福州市など)に進出し、元代まで続いた。
64)元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本(元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。
65)この時期にはアフリカのイブン・バットゥータも泉州、福州を通って大都(北京)を訪れた。
66)明は朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、海上交易路を海賊から保護した。
67)鄭和艦隊はアフリカのマリンディまで航海しており、この艦隊は軍事侵略・占領を目的とはしていなかったが、明・コーッテ戦争(中国語版、英語版)でセイロン(ライガマ王国(英語版)、現在のスリランカ)から攻撃を受けた際は
首都まで攻め入って武力制圧し、王アラカイスワラ(英語版)とその家族を中国に連れ去ったこともあった。
鄭和(ていわ)艦隊は(某マンガでも)有名です。
68)その後インド洋は、オスマン帝国・マムルーク朝・ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀に喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年のディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。
69)1622年、イングランド王国・サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。
70)また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。
71)19世紀に、ペルシャ湾戦役(1809年)(英語版)の結果、イギリスが制海権を握った。
72)中華人民共和国は真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。
海のシルクロードについてはこの後「海のシルクロード」ページなども参考にします。
73)茶馬古道:→詳細は「茶馬古道」を参照
74)中国南西部から、ミャンマー北部、ヒマラヤ山脈南部を経て、インド亜大陸に至るルート。西南シルクロードともされ、主な交易品は茶であったため茶馬古道とも呼ばれる。
75)通過する地名を取り「川〇(サンズイ+真)緬印古道」とも。
76)南アジアルート:
77)このルートは「ヒマラヤルート」や中国では「蔵印路」「南西印路」などと呼ばれ、名称も定まっていない。
78)これまで中国と南アジア間でもチベットを介しヒマラヤ山脈を抜けての交易があったことは、中国側の文献資料や個別の遺跡の出土遺物から確認されていたが、その点と点を繋ぐ交易路の痕跡が発掘調査や人工衛星測量などから明らかになってきた。
79)その一方で開発の波が押し寄せ、遺跡の破壊が深刻化していることもあり、インド・ネパール・ブータンの交易路を「シルクロード南アジアルート」としてユネスコが直接顕彰と保護に乗り出すことになった。
80)ベンガル地方の宝石や珊瑚が絹と交換され、後にインドに養蚕・絹生産技術がこのルートを経て中国から伝播したことは、限られた桑の自生環境と重複していることから推測されている。
81)インドでは英領時代に綿糸生産が奨励され、ヒマラヤ山間部では羊毛生産が主であり、伝統的にシルクシャンタン(インドシルク)の生産が行われてきたのはインド北東部(7姉妹州)のような辺境域であるため検証作業が困難になる。
82)また、インドの養蚕は毎回森林から捕ってくる野蚕で、桑も中国や日本の品種とは全く違い、蚕を煮沸しないアヒンサー(不殺生)であることから絹としての質感が異なり、従来のシルクロードを行きかった絹とは一線を画したものであるため、
シルクロードとして一括りにしてよいものかという疑問も呈されており、このような根本的な議論から始めるとしている。
生産されたシルクは輸送されず、地元で消費されたのでしょうか?
§宗教の伝播以下は省略します。
83)関連項目:
・カルラエの戦い(紀元前53年)
・桓帝(166年)−ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウスからの使節が後漢に送られた。
・タラス河畔の戦い(751年)−紙の製法がイスラム圏に伝わり、1144年にヨーロッパで初めての製紙工場がムワッヒド朝支配下のイベリア半島のシャティヴァに作られた。
・コンスタンティノープルの陥落#滅亡の影響
・シルクロード鉄道
・中央アジア横断鉄道
・中国の夢
・シルクウェイ・ラリー
・シルクロードステークス
次は「海のシルクロード」ページです。こちらの方はかなり少量です。
1)海のシルクロード(うみのシルクロード、英語:Silk Road of the Sea, Maritime Silk Road or Maritime Silk Route)とは、2世紀ごろから16世紀ごろまで存在した海上交易路の呼称。
2)ただし、その中で南のインド洋などを通る道のりのことを主に指す。
ですから、インドの影響が強かった海路なのでしょう。
3)海のシルクロードは主に東南アジアのオーストロネシア語族の船員、インドと東南アジアのタミル商人、東アフリカ、インド、セイロン、インドシナのギリシャローマ商人そしてアラビア海とそれ以降のペルシャとアラブの貿易業者によって
設立され運営された。
4)沿革:
5)海のシルクロードの歴史は古く、バビロニアやエジプト王国の古代オリエントは などをいたと いわれている。
6)また、帝国王朝と記す。
この辺りは文章がおかしいです。
7)そのため、本格的に「海のシルクロード」の交易路が開始されるのは、紀元後のことであった。その主な主役はムスリムの商人たちであった。
8)しかし、ムスリムの商人たちは、貿易を活発に行い、その活発な海洋交易は、のだったし、マルコ・ポーロもこの道を通っている。
9)海のシルクロードは、スリランカと南インド(紀元前1000年から600年に設立)との島民東南アジア人初期のオーストロネシアの香辛料貿易ネットワーク、および南シナ海フィリピン・リンゴアーティファクトの翡翠などの産業貿易から
発展(紀元前500年頃)しその歴史の大部分において、オーストロネシア語族が制海権特にマラッカ海峡とバンカ海峡、マレー半島、メコンデルタ周辺の政体を支配してきた。
10)中国の記録はこれらの地域のインド化をみて、これらの王国も「インド人」であると誤認していた。
11)またこのルートは、ヒンドゥー教と仏教の東への初期の広がりに影響を与えていったが、外洋での航海が可能になる前、中国との貿易の多くはトンキン湾を通過していた。
12)この地域にはいくつかの貿易港が発展し、特に交趾地域(ベトナム北部)には莫大な富が蓄積されていく。
13)元王朝が滅びると、中国では、明王朝が勃興した。そのため、鄭和艦隊で知られるように、この大艦隊の真の目的は朝貢貿易にあったのであり、貿易が行われていたとも言われている。
14)その事実は、インド南部の商人やヴェネツィアの商人たちの貿易や、それ以降は、キリスト教徒達(ポルトガル海上帝国やスペイン海上帝国)の植民地支配を背景とした経済活動が中心となっていった。
15)しかし、植民地支配を背景とした経済活動が中心となっていった。
16)関連項目:シルクロード、ムスリムの商人、オーストロネシア語族の拡大、一帯一路構想、真珠の糸(インド洋)
これだけでは物足りないので、以前「遠距離の交易(貿易)」ページで紹介し忘れた、§西アジア以降をご紹介する事にします。
104)西アジア
105)メソポタミア:
106)メソポタミア文明が栄えた平原は灌漑農耕や牧畜に適している一方で、特に南部メソポタミアは金属、石材、木材に不足していた。
107)そこで、アナトリアやイラン高原から銅、銀、錫などの鉱物、レバノンからは木材を輸入した。
108)メソポタミアからの輸出品には、大麦、羊毛や毛織物、胡麻油などがあった。
109)装飾品としてラピスラズリが珍重され、紀元前4千年紀には中央アジアのバダフシャーン地方で産するラピスラズリがメソポタミアやエジプトまで運ばれていた。
110)シュメル時代にはペルシャ湾方面の海上貿易も活発で、マガンで銅鉱山を開発したり、ディルムン経由でインダス文明と貿易をした。
111)紀元前2千年紀には、キプロス島など地中海からも金属が運ばれた。
112)都市国家が競合して、エラム、エシュヌンナ、シッパル、アッシュールなどの都市は交易が盛んになり、古バビロニア時代からは広い領域を統治する国が出現する。
113)都市国家の后妃のあいだでは外交の一環で贈与交易も行われて、贈り物には装身具、家畜や家具が選ばれた。
114)王室や神殿の物資調達は商人への委託が進み、交易者にはアッカド語のタムカルムやシュメル語のダムガルと呼ばれる役職があり、王に仕えて取り引きをした。
115)ディルムンで銅貿易をしたウルエンキや、后妃に仕えたウルエムシュといった商人の名前が記録に残っている。
116)私的な取り引きを行う商人も活発になり、アナトリアのキュルテペ遺跡で発見されたキュルテペ文書には、北部メソポタミアのアッシリアの商人の活動が記されている。
117)アッシリア商人は紀元前1900年から紀元前1750年にかけて、ヒッタイト支配下のアナトリアにカールムと呼ばれる居留地を作り、織物や錫との交換で貴金属を調達した。
118)アッシリアの文化はアナトリアに影響を与え、ろくろを使った土器、金属加工技術、文字などが伝わった。
119)アッシリア商人はヒッタイトの鉄に関心を示して、粘土板には鉄が金の40倍の価値があるといった記録も残している。
国を富ます戦略物資、という訳です。(笑)
120)交易の増加にともなって、共同出資や債権管理の法体系が整った。
121)ペルシア:
122)紀元前7世紀のアケメネス朝は、西はエジプトから東はガンダーラにわたって領土として、公道として王の道を整備する。
123)そして徴税を担当する総督、軍事を担当する司令官、皇帝直属の監察長官を各地に派遣した。
124)紀元前6世紀にはエジプトからインドに至る海上貿易で各地の産物も取り引きされた。
125)王都だったスーサには、木材がガンダーラやカルマニア(英語版)、瑠璃と紅玉がソグディアナ、金はバクトリア、象牙がエチオピアやインドからもたらされた。
126)その他にもインドの香辛料、北ヨーロッパの琥珀、カルタゴの織物などがあった。
127)謁見の間であるアパダナには朝貢図の壁画があり、各地からアケメネス朝を訪れてくる民族と、その貢物が描かれている。
128)アラビア半島:
129)アラビア半島では、乾燥した気候のもとで遊牧・牧畜と農耕が行われ、対照的な生業が交易の原因にもなった。
130)都市は遊牧民と農民を交易で結びつけ、遠距離交易と市場の仕組みも発達する。
131)661年にアラビア半島で成立したイスラーム帝国のウマイヤ朝は、ダマスカスを首都としてローマ帝国の制度を取り入れ、中央アジアからイベリア半島にいたる地域を征服した。
132)商業を重んじるイスラームは貿易に影響を与え、のちのアッバース朝の時代に急速に拡大する。
イスラムが貿易を重視したのは、幸いでした。イスラム教が普及するのにも、理由が有る訳です。(笑)
133)インド洋、ペルシア湾:
海のシルクロードです。
134)紀元前27世紀頃には、メソポタミア文明とインダス文明が海上貿易を行っていたとされる。
135)貿易品はインド洋やペルシャ湾を経由して運ばれ、インダスの名産だったカーネリアンのビーズがメソポタミアで発見されている。
136)アッカド語でメルッハ(英語版)と呼ばれた土地が、インダス文明を指すのではないかという説がある。
137)一方でインダス側にはメソポタミアとの交渉を示す証拠が少なく、インダス文字が解明されていない点も調査を困難としている。
138)インダスとメソポタミアの貿易の中継地としてディルムンが知られ、インダスの装飾品の他にメソポタミアの大麦、青銅、木材が取り引きされていた。
残念ながら、ディルムンの位置は確定されていません。
139)アッカド期のメルッハからは、砂金、銀、ラピスラズリ、カーネリアン、青銅といった鉱物のほかに、珍しい生き物としてクジャクなどがもたらされている。
140)紀元前13世紀からは、アラビア半島南部のサバア王国をはじめとする国が、インドの香料をエジプトやシリアに運んでいた。
141)インド洋の西部では、季節風が4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月にかけては北東から南西に吹く。
142)1世紀から2世紀には、アエギュプトゥスに住むギリシア人が、貿易商人のための案内書として『エリュトゥラー海案内記』を書いている。
143)この書では、エリュトゥラー海を指す紅海だけでなく、アラビア海、ペルシア湾、インド洋も含んでいた。
144)案内記によれば、ギリシア人の船乗りであるヒッパロス(英語版)が季節風を利用する航路を開拓したためにヒッパロスの風とも呼ばれた。
要するに、季節に依存した貿易風です。
145)季節風の利用で貿易が活発となり、インドからアラビア半島、東アフリカまでをつないだ。
146)モカをはじめとするアラビアと東アフリカの港町をつなぐ航路ではダウ船が用いられ、タンザニアからオマーンまでの約4000キロメートルの直行には3週間から4週間かかった。
ページにはダウ船の写真が掲載されています。単帆(三角帆)の、小さな船です。「アラビア商人は三角帆を使う」、と某ゲームソフトに有りました。(笑)
147)東アフリカから輸出されたのは シナモン、乳香、象牙、サイの角、鼈甲などで、アラビアからアフリカへ輸出されたのは武器、ガラス製品、ワイン、麦などであった。
148)地中海とインド洋のあいだの貿易は1世紀末には衰退するが、インド洋とアフリカを結ぶルートは貿易以外にも用いられ、4世紀から5世紀にかけては東南アジアのマライ系や太平洋のオーストロネシア系の人々が東アフリカへ移住する。
149)移住者によって、米、バナナ、サトウキビ、イモ類がアフリカに伝わった。
確か、マダガスカル島の住人は東南アジア系な筈。また紅海+陸送で、地中海も目と鼻の先な筈。スエズ運河の全長は193.3kmです。
150)南アジア、東南アジア
151)インダス文明:
152)インダス文明が最盛期を迎えた紀元前2600年から紀元前1900年には、海水面が現在よりも約2メートル高く、内陸部に海岸線があった。
153)インダス川の流域から離れているグジャラート地方やマクラーン地方(英語版)の集落や都市の多くは当時の海岸線に近く、大河を利用した大規模な灌漑農耕ではなく海上貿易で生活していたとされる。
154)グジャラート地方では良質のカーネリアンを産出して、重要な貿易品にもなった。
155)ドーラビーラはインドと西アジアをつなぐ貿易都市として繁栄して、カーネリアン製ビーズの工房もあった。
156)ロータルには巨大なプール状の施設があり、海洋生物の痕跡やメソポタミアの産物が発見されたことから、交易港のドックだったとする説もある。
157)ドーラビーラやロータルでは、ペルシャ湾沿岸に多い円形の印章も発見されている。
158)メソポタミアに輸出されていた装飾品やインダス式印章の原材料は、インド内陸の各地から遠距離交易で都市へと集められて加工された。
159)陸路には牛車を運搬に用いたほかに、カッチ湿原の周辺では家畜ロバとインドノロバとの雑種を交易に利用していた説もある。
車輪+道路、ですね。(笑)
160)十六大国時代:
161)コーサラ国やマガダ国の時代には、チャンパー、ウッジャイニー、ラージャグリハ、ヴァイシャーリー、ヴァーラーナシー、シュラーヴァスティーなどの都市が栄え、グリハパティと呼ばれる有力者が経済の中心だった。
162)グリハパティは家長を意味する語で、その中でもシュレーシュティンと呼ばれる富裕者やサールタヴァーハ(交易商)らが交易を行い、隊商で国境を越えて活動した。
163)交易品にはヴァーラーナシーの織物、象牙、ガンジス川の高級土器である北方黒色磨研土器、貴金属や宝石、資材や食料が扱われ、この時期に金属貨幣の使用も始まっている。
164)ガンジス川中流の新興都市の商工業者は、シュレーニーやプーガと呼ばれる同業者団体を作った。
165)ヴァルナ制度において商人は第3階級とされ、司祭階級のバラモンからは軽視され、商人がのちの仏教やジャイナ教を支持する一因ともなった。
166)シュラーヴァスティーの祇園精舎も、王侯や商人の寄進によって建てられている。
階層によって、信仰する宗教が違う訳です。
167)マウリア朝以降:
168)マウリヤ朝は官僚制度を整え、その経済政策は『実利論』にも記されている。
169)整備された交易路や交易港は、マウリヤ朝の滅亡後も利用された。
170)北方のクシャーナ朝はシルクロードの一部を押さえ、ガンジス川流域ではグプタ朝の建国までにいくつもの王国が成立した。
171)デカン高原のサータヴァーハナ朝は西方との貿易が盛んで、1世紀頃にはギリシア人やアラビア人が訪れた。
172)中国の絹はガンジス川河口からの海上ルートでも運ばれた。南インドのチョーラ朝は海上貿易でローマに胡椒、絹、綿布、宝石などを輸出し、ローマからワインを輸入し、傭兵にはギリシア人がいたとされる。
173)当時の港湾都市のアリカメドゥ(英語版)では、ローマの商館跡からアンフォラやガラス製品が発見され、南インド沿岸各地からはローマの金貨も発見された。
174)ギリシア人などの西方人はヤヴァナ(英語版)と呼ばれた。
175)グプタ朝の時代にはローマが紅海のルートを押さえられたため来航が減るが、グプタ朝はベンガルを支配下におき、西アジアや東南アジアとの貿易は続いた。
176)6世紀にはグプタ朝末期の混乱で大都市間の交易が減り、海上貿易もアラブ人やペルシア人に代わられていった。
177)東南アジア:
178)東南アジアでは、自給的な山地と外部と交流をする港市は異なる経済圏だった。
179)香辛料は山地の森林で産するものが多く、山地の住民は王国への賦役や人頭税として産物を納めていた。
これは席亭も知りませんでした。海の近く、と思っていました。
180)その産物が海岸へ運ばれて、管理貿易で輸出されるようになる。
181)港市には首都を兼ねているところもあった。
182)メコン川やチャオプラヤ川の下流に建国された扶南国は中継貿易の中心地となり、ボルネオやスマトラの金やモルッカ諸島のクローブを集め、オケオを中心として港湾都市が栄えた。
183)モルッカ諸島の香辛料であるクローブや、コショウ、 シナモンは、紀元1世紀頃には知られていた。
モルッカ諸島はインドネシアの群島で、スラウェシ島の東、ニューギニア島の西、ティモール島の北に位置しています。
184)クローブは釘に似ている形から丁子と呼ばれてマライ系民族が運び、コショウやクローブは唐まで輸出されていた。
185)6世紀の梁の『梁書』には、モルッカとされる馬五国の記述がある。
186)インドと中国を結ぶ貿易ルートとしてマラッカ海峡が重要であり、7世紀からはスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国が海峡を支配下に置いた。
187)中央アジア、北アジア
188)遊牧民とオアシス都市:
189)現在シルクロードと呼ばれているルートは、最古は玉(ぎょく)の道だったとも言われている。古代中国では軟玉と呼ばれる翡翠を用いた玉製品が珍重され、紀元前2000年には玉器の貿易が行われていた。
これは席亭も知りませんでした。
190)軟玉はタリム盆地のホータンで産出され、紀元前1500年には楼蘭が中継地となって蘭州や藍田に運ばれた。
191)中央アジアや西アジアのオアシスでは灌漑農耕が行われ、用水路や地下水路のカナートの建設が進み、紀元前1000年にはオアシス都市が成立して貿易の拠点になった。
192)軍事面に優れた遊牧民と、経済面に優れたオアシス都市とは互恵的な関係を持つようになる。遊牧民は軍事的な庇護を提供して、オアシス都市は食料や人畜を提供した。
193)遊牧民の使節は隊商も兼ねるようになり、オアシス都市や使節に同行する商人にとって遠距離交易の機会が増えた。
194)紀元前7世紀には南ロシアの遊牧民であるスキタイが、メソポタミアやエジプトへ進入を繰り返した。
195)スキタイは東西交易を行い、黒海のアゾフ海から中央アジアのイッセドネスまで、ステップ地帯を横断するルートが伸びた。
196)スキタイではギリシアの影響を受けた工芸品も作られ、素材には黄金や金銀の合金であるエレクトラムが用いられた。
197)絹馬交易:
198)紀元前4世紀からは遊牧民の匈奴が西域を支配した。
199)中国では翡翠と交換するための絹の輸出が増え、交易を行っていた月氏は絹の民族とも呼ばれたが、匈奴に征服される。
200)匈奴は河西回廊の貿易ルートに軍を置き、華北で秦と交戦する。その一方で東方とも盛んに交易をして、絹を入手するために馬を送ったため、のちに絹馬交易とも呼ばれた。
201)匈奴は東の中国から入手した絹を用いて西のパルティアと貿易を行い、西方の絨毯や装飾品と交換した。
202)匈奴は紀元前2世紀にはタリム盆地を支配して、西域進出をする前漢と対立した。
203)両者は和平し、前漢は匈奴に絹を貢納するとともに、王族の女性(公主)を匈奴王に嫁がせた。
204)紀元前1世紀には匈奴が内紛で影響力を弱めたために漢の西域経営が安定して、東西貿易が活発となる。
205)漢からの輸出品では絹が最も重要であり、漢とパルティアが直接に取り引きを行うようになると流通が増加し、絹は西方ではセレスの名で知られた。
206)ローマ帝国の博物学者プリニウスや、天文学者・地理学者のプトレマイオスもセレスについて記しているが、絹の製法はビザンツ帝国のユスティニアヌス帝の時代までヨーロッパでは知られていなかった。
ユスティニアヌスは6世紀の東ローマ帝国の皇帝です。ですから、かなり遅い年代です。
207)東西貿易はオアシス諸国の技術や文化の向上につながり、人口も増加して55カ国となった。5世紀頃からはソグド人がモンゴル高原や華北での貿易に進出して、交易拠点にコロニーを建設した。
208)ソグド人は漠北、高車、突厥、ウイグルなどの王国でも働き、隊商の指導や官僚として重用された。
209)青海地方では遊牧民の吐谷渾が青海路を支配して5世紀から6世紀にかけて東西貿易で利益を得たが、隋が吐谷渾を攻撃して西域四郡を設置した。
210)6世紀から遊牧民の突厥が中央アジアを領内に収め、7世紀には唐が突厥にかわって進出して、駅道や通行許可証の制度を整えた。
211)北方の交易圏:
212)北方のオホーツク文化とコリヤーク文化の交易では、工芸品になるセイウチの牙、毛皮、青銅や鉄に金属製品が取り引きされた。
213)オホーツク北岸のコリヤーク文化圏は夜叉国とも呼ばれ、夜叉国ではカムチャッカ半島で狩ったセイウチの牙を送って流鬼国から金属製品を入手した。
夜叉とは普通はインドの鬼神ですが、席亭もこう呼ばれていた国が有る事は知りませんでした。
214)オホーツク文化圏に属する流鬼国はサハリンに住むニヴフであり、地元で狩ったテンの毛皮や、夜叉から入手したセイウチの牙を送って、黒水靺鞨から金属製品を入手した。
215)黒水靺鞨は中国の唐に朝貢をしており、流鬼から入手したテンの毛皮やセイウチの牙を唐へ送って回賜を受け取っていた。のちには流鬼国も唐へ朝貢を送るようになる。
216)中国の北方では営州が異民族との交流で栄え、契丹や靺鞨が住んでおり、毛皮のほかに薬用人参やジャコウなどの物産も運ばれた。
217)東アジア:
218)軟玉の翡翠を用いた玉器は、jや璧と呼ばれるものが紀元前22世紀から作られていた。
中国では代々、璧が大切にされて来ました。
219)殷の時代には装身具に用いる軟玉や、貝貨として貨幣にも用いられたタカラガイが遠方から運ばれていた。
220)『禹貢』、『水経注』、『山海経』などによると、翡翠は中央アジアのほかに揚州、浙江、陝西といった中国各地でも産出した記録がある。
221)タカラガイは熱帯や亜熱帯の海で生息しており、南方から運ばれていた。
222)玉製品は秦や漢の時代に入るとさらに普及した。
223)冊封と朝貢貿易:
冊封は、さくほう、さっぽうと読みます。
224)冊封とは、中国皇帝が周辺国と結ぶ外交関係であり、周辺国の君主は形式的に中国皇帝の臣下となるかわりに自治を認められた。
225)中国の統治原理では、中央と地方の外には、少数民族の指導者を地方官に任命する間接統治があり、さらに外には異民族統治の藩部、朝貢による統治、相互関係の強い互市国、そして教化が及ばない化外という分類がされていた。
226)冊封を結んだ国とは朝貢という形式で管理貿易を行い、周辺国は貢物として方物(礼物)を送り、中国は貢物よりも高価な回賜(褒美)を送った。
えらそうにするには、それなりのお金が必要なのです。(苦笑)
227)朝貢をする国が遠方にあるならば、一定の周期で朝貢するように取り決める場合が多く、年期制と呼ばれた。朝貢は中国側にとって不利な貿易であったが、安全保障として役立った。
228)冊封の体制は前漢の時代に整い、朝貢の制度は中国の周辺国でも行われた。たとえば奈良時代の日本は渤海国から朝貢を受けており、内モンゴルから華北にかけてを領土とした遼は、西夏などの国から朝貢を受けた。
大国の辺境に在った日本はなるべく朝貢を避けて、独立を保ったのです。(〜遣隋使、遣唐使、元寇、苦笑)
229)西域経営:
230)漢の武帝は、中央アジアの遊牧民である匈奴対策のために、月氏への使者として張騫を送る。
231)張騫は当初の目的を果たせずに帰国するが、彼は西方の情報を武帝に伝えて、漢の西域進出のきっかけとなった。
232)隋は6世紀から吐谷渾を攻撃して、西域での官貿易を再開して、長安や洛陽を訪れる隊商を歓待した。
233)隋の西域経営は唐に引き継がれ、唐は都市と州府を駅道で結んで通行証にあたる過所を発行した。
234)中央アジアにおける過所は隊商の許可も兼ねており、漢人の商人が西域の貿易に参加しやすくなった。
235)唐は外来のソグド人を興胡という身分に定め、内地の商人である行客とともに課税対象とするかわりに過所を発行して通行を保証した。
236)唐の駅伝制では、駅制は国都と州府の使者や緊急の情報伝達用、伝制は公用の交通や輸送として使われ、駅道は貢納、軍事、交易を支えた。
237)絹の産地である河東、河南、剣南道から中央アジアに庸調の絹が送られ、8世紀の中央アジアでは絹が帛練と呼ばれて物品貨幣に用いられた。
租庸調とは、納税の仕組みです。中国の納税では、特定の商品が充てられていました。
238)オアシス国家や遊牧民は、貿易ルートを唐に管理されることと引きかえに唐領内の交易に参加する機会を得て、唐の首都である長安にはソグド人の隊商が西域の産物をもたらした。
239)ササン朝からはペルシアの宝石、香料、貴金属細工、織物などの物産のほかに衣食住の風俗や音楽も流入して、長安に住むペルシア系の人々は胡人と呼ばれた。
胡人の音楽は有名で、現代の喜多郎に通じています。席亭も、このシルクロードの風景には憧れます。
240)7世紀にイスラームのカリフ国の攻撃でササン朝が滅び、アラブ軍はソグディアナも占領したため、多数のペルシア人やソグド人が長安に亡命した。
241)海上貿易:
242)前漢の時代には、海賈と呼ばれる商人が日南や黄支国に進出しており、『漢書』に記録がある。
243)絹や金を運んで真珠や宝石、ガラス製品と交換し、移動には港ごとに地元の船を仕立てていたので長期の旅となった。
244)唐の後半には海上貿易が盛んになり、海商と呼ばれる商人も現れた。
245)交易港として栄えた広州、泉州、杭州をはじめとする港市には、海上貿易を管理する市舶司が設置され、イスラーム教徒の商人も訪れる。
246)イスラーム商人は蕃坊に住み、広州に滞在する外国人は住唐と呼ばれた。
247)コショウ、クローブ、蘇芳といった東南アジアやインド洋の香料や染料が唐に輸入され、朝鮮の新羅はそれを中継貿易で日本へ送った。
248)倭国時代の日本は、卑弥呼や5世紀の倭の五王が中国と冊封を結んでいるが、のちの時代の天皇は結んでいない。ただし遣隋使や遣唐使は、中国では朝貢として記録された。
249)日本は600年に遣隋使を派遣して、838年の最後の遣唐使を送るまで朝貢は続いた。
250)安史の乱ののちは唐の勢力が衰え、新羅では張保皐のように貴族や軍の指導者から私貿易を始めて富を得る者も現れる。
251)唐の商人も私貿易に参加して、唐の商船には新羅や日本の乗員もいた。
252)日本の朝貢品は〇(糸偏+施の右側)、真綿、銀など国内で納税されたものが中心で、当時は物品貨幣として使えるものが中心で、のちに和紙や砂金が加わる。
253)輸入品には漢籍や仏典などの書物、美術工芸品、薬物と香料がある。ミカンや茶のように食文化や喫茶文化に影響を与えたものもあった。
254)遣唐使が停止したのちも交流は続き、874年の入唐使では外交使節や外国商人ではない役人も香料や薬物を求めて貿易に関わっていた。
255)日本への輸入品は宝物として正倉院に収められて、唐物とも呼ばれて重宝された。
以下は§アメリカですが、これらは省略します。興味の有る方は「貿易史」ページをご参考下さい。
これでシルクロードと海のシルクロードは終了です。一度「車輪と道路」に戻ります。
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