遠距離の交易(貿易)
Wikiで地中海貿易を調べると、「地中海」、「貿易史」ページがヒットします。まずは「貿易史」ページから。
1)貿易史(ぼうえきし)は、歴史上に存在した貿易や貿易制度の歴史である。
2)日本語の貿易は国家間の取引を指し、国際貿易という表現が用いられる場合もある。
3)交易という語は、国内と国外の双方に用いられる。本記事では、これらの歴史について記述する。
4)歴史的に有名なものとしては、シルクロードの由来にもなった中国の絹貿易、古代ギリシアの頃から地中海で行われていた穀物貿易、15世紀の陶磁器貿易、16世紀の香辛料貿易、奴隷貿易、砂糖貿易、17世紀の毛皮貿易、
18世紀の茶貿易、20世紀の石油貿易などがある。
これらの分類と詳細は、席亭も知りませんでした。
5)貴金属では、アフリカのサハラ交易で金が地中海にもたらされ、16世紀以降のアメリカ大陸と日本からは銀と金が産出された。
当時の日本は、金銀の傑出した産出国でした。また金銀交換比率の悪さから、大量の金が盗み取られ(輸出され)ました。
6)ヨーロッパでは、アメリカからの銀によって価格革命とも呼ばれる現象が起きて商工業が促進され、19世紀にはブラジルのゴールドラッシュがイギリスの金本位制の成立にもつながる。
当時はデフレーションを解消しインフレーションに向かうには、大量の金銀が必要でした。
7)1492年にはじまる東半球と西半球のあいだでの広範な交流は、貿易にも多大な影響を与えており、これをコロンブス交換とも呼ぶ。
8)プランテーションは大量の労働力を必要としたため、奴隷貿易を含む人口移動をもたらした。
9)16世紀以降でアフリカからアメリカへ運ばれた奴隷は、1250万人にのぼった。
10)貿易ルートを開拓する過程で運ばれたトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、キャッサバは食料事情の改善にも影響して、18世紀には砂糖、コーヒー、茶の消費が急増して食習慣に大きな変化が起きた。
11)20世紀初頭までは、農産物や鉱物性生産品などの一次産品が貿易で重要だったが、工業製品が世界貿易の大半を占めるようになり、近年ではサービス貿易の比重が増加している。
12)また、中国の急成長や2003年のイラク戦争の影響で資源価格が高騰して、特に2003年から2008年にかけてサブサハラ・アフリカの経済成長につながった。
13)貿易の拡大による商品や取引の増大は、投機や金融恐慌の原因にもなった。たとえば、1636年オランダのチューリップ、1763年オランダの砂糖、1799年ハンブルクの砂糖やコーヒー、1825年イギリスの綿花などの輸入商品、
1830年代のイギリス・アメリカ・フランスの綿花、1848年の小麦、1893年アメリカの銀・金、1907年アメリカのコーヒーなどがある。
以下は§概要ですが、その前にまず§古代を当たる事にします。
14)古代
15)アフリカ
16)エジプト:
17)ナイル川に沿って、紀元前5200年頃からエジプト北部、紀元前4200年頃には南部で系統の異なる農耕・牧畜文化が存在した。
18)ナイル下流にナカダ文化が栄えると、南のヌビアとの交易が行われるようになる。ナカダからはビール、油、チーズ、ヌビアからは象牙、黒檀などが輸出された。
ヌビアは、エジプト南部のアスワンあたりからスーダンにかけての地方です。
19)交易用の土器は、紀元前3200年頃になるとパレスチナ産も含まれており、交易の長距離化が進んでいた。
20)古代エジプトの王朝が統一されて古王国時代になると、官僚や神官によって遠征隊が組織されて、砂漠での採石や採鉱、ミイラの製作に必要なナトロンの採集を行った。
ナトロンは、炭酸ナトリウム10水和物と約17%の炭酸水素ナトリウム(重曹)を主成分とする、天然に産出する鉱物だそうです。
21)貿易においても同様に遠征隊が派遣されて、金や乳香をプント国に求め、象牙や黒檀はヌビア、銀はメソポタミア、木材は東地中海のグブラから輸入した。
プント国の位置は不明(エジプトの南東?)ですが、ソマリア、ジブチ、エリトリア、スーダンなどに比定されているそうです。
22)エジプト王朝が弱体化した時期にはヌビアに遊牧民が生活して交易を行ったが、紀元前2040年以降の中王国時代には、エジプト王朝がナイル川の第2瀑布まで進出して金を採集するようになる。
23)採掘やプント国との貿易で得た金は神殿や王宮に蓄蔵され、地中海やメソポタミアとの貿易にも用いられた。
24)紀元前17世紀から異民族のヒクソスが建国した第15王朝や第16王朝では、クレタ島で栄えたミノア文明などとの貿易が行われた。
25)マケドニアのアレクサンドロス3世の征服後には、ナイル川の河口にアレクサンドリアが建設され、政治と貿易の拠点となる。
26)穀倉地帯に恵まれていたエジプトは、ギリシア向けの穀物輸出も行った。やがて、世界最古の価格が変動する国際穀物市場が成立して、ナウクラティスのクレオメネスが運営した。
27)クレオメネスは飢饉時に穀物の輸出を規制して、国内の食料を確保した。また、貿易担当者を4つのグループに分けて、本土の輸出、航海の輸送、ロドス島での交渉、ギリシア各地での情報収集を担当させて、価格の最も高い都市へ穀物を運んだ。
これらは市場経済や、国際貿易のヒナ型です。
28)この政策は国庫に8000タラントンという巨額の富をもたらす一方で、穀物の安定供給を求めるギリシアには批判された。
穀物相場は他の相場とは違い、民衆の飢餓、死活にも影響します。
29)クレオメネスの貿易政策は彼の死後にプトレマイオス朝に引き継がれ、ローマがエジプトを属州としてアエギュプトゥスとなるまで続く。
このアエギュプトゥスは、国名エジプトの語源です。
30)そののちも、アレクサンドリアは地中海貿易で栄えた。
31)プトレマイオス朝時代には紅海を経由したインド洋との貿易も行われ、アデンが中継地として繁栄した。
後述する様に、ナイル川と紅海とを結ぶ運河も存在した様です。
アデンは南イエメンの首都でした。紅海の出口、アラビア半島の先端に在り、ゲーム、セーリング・エラにも登場しています。
32)北アフリカ:
33)紀元前10世紀から8世紀にかけて、地中海の沿岸にそってフェニキア人が植民都市を建設した。
34)その中で最も繁栄したのが、ティルス人がチュニジアに建てたカルタゴだった。
35)フェニキアはイベリア半島のタルテッソスから東へ銀や錫を運んで利益を得ており、その帰路に位置するカルタゴは、良港と農地にもめぐまれて発展した。
36)カルタゴは西地中海のサルデーニャ島やイベリア半島に進出したほか、東方のアケメネス朝とも貿易や協力関係を築いた。
37)また、西アフリカやサハラにも関心をもち、航海者ハンノはコートジボワール近辺まで航路を開拓している。
38)貿易ルートの確保をめぐってはギリシアやローマと対立し、紀元前5世紀にはシチリアにおいてギリシアと戦い、紀元前3世紀にはローマと戦った。
貿易ルートは自動的に確保される訳ではなく、その維持にはやはり軍隊(〜海軍)が必要です。
39)カルタゴがポエニ戦争でローマに破れたのちの北アフリカはアフリカ属州となり、穀物を輸出してローマの人口を支えた。
→軍艦
40)東アフリカ、中部アフリカ:
41)中部アフリカでは5000年前から乾燥化が進み、カメルーン西部からバントゥー系の農耕民が東方へと移住して、紀元前3世紀にはヴィクトリア湖に達した。
42)この移動は技術や生計が異なる民族集団が共存するきっかけをもたらした。
43)コンゴ川の流域では、5世紀以降に東南アジア原産のバナナが持ちこまれて農耕が拡大して、焼畑農耕民、狩猟採集民、漁労民のあいだで交易が行われた。
コンゴ川は中部アフリカのコンゴ盆地を蛇行しながら流れ、大西洋に注ぎます。太平洋側でなく大西洋側なのは、意外ですよね?
44)紅海では、紀元前5世紀から紀元後1世紀にアクスム王国が貿易で栄え、ヌビアのメロエ、ローマ帝国、アラビア半島、インドと取り引きを行った。
45)アクスムは現在のイエメンからエチオピアへ移住したセム系の人々が建国したと言われ、金、象牙、奴隷の貿易を行い、2世紀にはアラビア半島に出兵してササン朝と貿易ルートの支配をめぐって争った。
46)4世紀にはキリスト教を国教として栄えたが、7世紀以降はイスラーム帝国に貿易ルートを奪われて衰退した。
アフリカには欧州/キリスト教だけでなく、イスラム勢力も進出しています。
47)地中海、黒海:
48)地中海東岸では紀元前3千年紀には都市国家があり、レバノンスギが建築や造船に用いられる優れた木材として有名だった。
49)レバノンスギはエジプトやメソポタミアにも輸出され、グブラでは紀元前2680年にはすでにエジプトから遠征隊が訪れて伐採を行っていた。
50)紀元前23世紀以降に最盛期を迎えたエブラには、紀元前2250年頃の粘土板文書があり、アナトリア、パレスティナ、キプロス島、メソポタミア、エジプトと貿易をしていた記録がある。
51)東岸の諸都市は古くから貿易で栄えており、その富はしばしば周辺国の紛争の原因にもなった。レバノンスギの他にも良質の木材に恵まれていたが、伐採によって森林は減少していった。
52)紀元前20世紀にはクレタ島にミノア文明が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。
53)やがてミノアはペロポネソス半島のミケーネ文明と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀にクレタ島を占領した。
54)金属貿易としてタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を扱うウガリトが紀元前14世紀を頂点に繁栄した。
55)ウガリトの商人は東岸やメソポタミアで取り引きをしつつ、王の使節に同行して管理貿易をする者のほかに私的な商人もいた。
56)ウラの商人は、ヒッタイトから貿易を委託されてウガリトに滞在したが、次第にその経済力が警戒されて、土地の購入を禁じられるようになった。
57)海上では当時から海賊の被害が深刻であり、ウガリトとキプロスが海賊対策で協定を結んだこともあった。
58)フェニキア:
59)東地中海は前1200年のカタストロフとも呼ばれる大変動によってヒッタイトが滅亡し、エジプトやミケーネも衰退する。
60)青銅器時代にカナンと呼ばれていた地域の人々は、この変動の影響を受けて海岸部に集中して住むようになる。
61)それまで農耕を中心としていたカナン人は、居住地の減少のために商工業へと生業を変えて、紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて西地中海へ進出した。
62)こうして、カナンは鉄器時代にはフェニキアと呼ばれるようになる。カナンやフェニキアという名は自称ではなく、特産物であるシリアツブリガイから作った貝紫色の染料を由来とする。
これは席亭も知りませんでした。またカナン/約束の地は、旧約聖書でも有名です。
63)東地中海では金属が不足しており、フェニキアは金、銀、銅、鉄、鉛、錫などを求めて西方へ航海した。
64)フェニキアが各地で得た金属を西アジアへ送り、海上貿易によってグブラやテュロス、シドンといった都市が栄える。
65)輸出品としては金属の他に特産である貝紫色の染料や木材、そして象牙、ガラス、貴金属などを使った工芸品や奴隷があった。
66)テュロス王のヒラムはイスラエル王のソロモンと協定を結び、テュロスは木材と職人、イスラエルは小麦とオリーブを贈り、エルサレム神殿が完成した。
67)ヒラムとソロモンが協力した紅海の貿易については『旧約聖書』の「列王記」、テュロスの貿易による繁栄は「エゼキエル書」に記されている。
68)テュロスからはイベリア半島やアフリカへの植民が始まり、キプロス、シチリア、マルタ、サルデーニャに拠点を建設した。
69)フェニキア人は、紀元前8世紀から9世紀にギリシア、紀元前6世紀にはローマと接触して、地中海をめぐって対立する。
70)北アフリカのフェニキア植民都市であるカルタゴは、東地中海のフェニキア都市が他国の支配下となったのちも繁栄を続けた。
71)ギリシア:
72)ギリシアの都市国家であるポリスは、エジプトやメソポタミアのように大規模な穀倉地帯がなく、地中海や黒海で穀物の輸入と植民をすすめた。
73)紀元前5世紀から4世紀にはアテナイがギリシアの商業の中心地となり、小麦、木材、鉄、銅、奴隷などを輸入して、陶器、オリーブ油、ワインなどを輸出した。
74)貿易のための港はエンポリウムと呼ばれ、アテナイではペイライエウスにエンポリウムが建設され、その他にミレトス、ナウクラティス、アイノス、ビュザンティオン、テオドシア、パンティカパイオンなど各地に存在した。
75)ルートの安全を保障するための軍事力も整備され、デロス同盟で海上支配を強めた。
都市国家同志が同盟を組み、国家へと成長する訳です。
76)貿易商人は、商船を所有するナウクレーロスと、商船に同乗したり陸上で貿易をするエンポロスに大きく分かれており、ポリス内の市場で取り引きをするカペーロスとは区別された。
77)土地を所有できない外国人居留者であるメトイコスが、ナウクレーロスやエンポロスに従事した。
78)メトイコスには、ミケーネ文明の崩壊でアテナイに住み着いた難民が多かったとされる。
79)アテナイに届いた穀物には2パーセントの関税がかかり、エンポロスが3分の2を市内に運び、それをカペーロスがアゴラで販売した。
80)戦争に付随するかたちで奴隷貿易も行われており、従軍商人によって戦利品や捕虜が競売にかけられ、エンポリウムへ送られた。
81)トゥキュディデスの『戦史』や、クセノポンの『アナバシス』には、戦争と結びついた貿易が記されている。
82)ローマ:
83)ギリシアののちには、ローマが地中海沿岸の貿易を独占した。
84)ローマはラティウム地方の交易地であり、北のエトルリア人を征服して拡大してゆく。
85)共和政末期から帝政初期に貿易が盛んとなり、ローマ人のほかにギリシア人、シリア人、ユダヤ人の商人がいた。
86)また解放奴隷の多くは商工業で働いたため、ローマ商人のなかには解放奴隷が多かった。
87)ローマ街道をはじめとする輸送網は軍事と貿易に活用され、大理石や穀物は国家管理に置かれつつも、実際には民間業者が請け負った。
88)ローマの商人はメルカトルと呼ばれ、その中でも貿易商はネゴティアトルと呼ばれた。
地図では、メルカトル図法が有名です。地理学者ゲラルドゥス・メルカトルが、1569年に発表しました。(笑)
89)遠距離交易では調味料のガルム、ワイン、オリーブ油、陶器、穀物、塩、金属、奴隷などが運ばれ、ネゴティアトルにとって多額の現金を持つ各地の兵士は魅力的な顧客だった。
90)商人には組合組織があって相互扶助が行われたが、企業のような組織とはならなかった。
91)ローマには商業に対する蔑視もあり、紀元前218年のクラウディウス法(英語版)で元老院議員が所有する船の大きさに制限を設けた。
まるで日本の武士階級の様です。(笑)
92)海上輸送は紀元1世紀から2世紀にかけて最盛期を迎え、その後は徐々に衰退した。
93)ローマ帝国は西アジアでパルティアと絹貿易を行い、紅海からインド洋にかけては南インドのサータヴァーハナ朝と季節風を利用した貿易を行った。
これらの詳細は、海のシルクロードで語られるでしょう。
94)インドとの貿易はアウグストゥス時代に急増し、当時の様子はストラボンの『地理誌』や、紀元1世紀に書かれたとされる『エリュトゥラー海案内記』に記されている。
95)2世紀頃の扶南国の交易港であるオケオではローマの金貨も見つかっている。
96)166年には後漢の桓帝が治める洛陽を、大秦王安敦の使節が訪れており、ローマ帝国からの使節とされる。
97)ヨーロッパ:
98)紀元前10世紀には、イベリア半島南部のタルテッソスがフェニキアと銅や銀の貿易をした。
99)タルテッソスはイギリスのコーンウォールなどから錫を運ぶ貿易を独占して繁栄したが、やがて大西洋側にフェニキア人が建設したカディスとの競争が起きて衰退した。
100)ローマ帝国はゲルマン人との間にリーメスと呼ばれる壁を建設し、その長さはスコットランドから黒海までの5000キロにもおよんだ。
万里の長城の、ヨーロッパ版です。
101)ローマ人とゲルマン人はリーメスをはさんで居住し、戦闘のほかに人の往来や交易もあった。
102)ローマの物産が交易や略奪によってゲルマンに浸透するにつれ、その財をめぐってゲルマン人同士の争いも起きるようになる。
103)ゲルマン人はマルコマンニ戦争を起こし、やがて勢力を拡大した西ゴート族は4世紀からイタリア半島やガリアへと移住した。
ガリアとは、ガリア人(ケルト人の一派)が居住した地域の古代ローマ人による呼称で、現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部、だそうです。ガリア戦記は有名です。
以下は§西アジアですが、こちらは海のシルクロードの方でご紹介します。
次はローマの道路と行きたい所ですが、その前にまず、遠距離交易、貿易を実現させる、「運河と灌漑」です。
→「運河と灌漑」