東海道バーチャルトリップ

70)黄檗宗慈現山(じげんざん)観音寺:木片の先、左手、徒歩147分、道路西側

参道の突当りを右折すると、左手に黄檗観音禅寺寺碑、慈現山観音寺立札、山門が在ります。この立札は更新されています。以前の立札は今よりも文章が少なく、また灰色をしていました。
立札の説明文には、禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。戦国時代、織田信長の兵火により焼失したが、村人たちが観音堂を建て、本尊千手観音像をお祀りしていた。
その後、元文二年(一七三七)黄檗宗の僧鎮堂が旅の途中、四日市で一泊した折、夢枕に現れた老人のお告げにより、この地に新しく寺を建て観音寺とした。村人たちによって兵火から守られた千手観音像は本堂に今も安置されており、
頭体幹部は十一世紀頃の制作であろうといわれている。山門は四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「魔伽羅」(サンスクリット語で鰐)が飾られているが、これは黄檗宗特有のものである。黄檗宗大本山宇治萬福寺の諸堂にもこの「魔伽羅」
が見られる。当観音寺の「魔伽羅」は、棟札(棟上げの時に工事の年月や由緒などを記して棟木に打ち付ける札)により、寛政十二年(一八〇〇)に置かれたものであることが分かる。細部の絵様は本堂のものと一致している、とあります。

山門を潜ると参道右手には植込みがあり、左手には額が飾られたお堂、参道正面は観音禅寺の額が飾られた本堂で、本堂手前に石灯籠一対、本堂の左にも霊〇の額が飾られたお堂が在ります。お堂の左には、不許葷酒入山石碑と北辰妙見尊石碑。
そして此処が、養蚕(ようさん)観音です。

71)直進地点/小許曽神社参道:寺を罷ると、左手、道路西側

旧道右手に小許曽神社参道が在ります。旧道は此処を直進します。右側の道は、観音禅寺の参道です。参道左手前には、延喜式内小許曽神社社碑が建っています。碑の裏面には、大正五年十月御遷宮記念、寄附者河村古僊、とあります。
この河村は幕末、明治の愛棋家で、将棋は十一代宗桂と八代宗印に学んだそうです。三重の人で、腕前は四段(昔はアマプロ同段)、とあります。ちなみにガイドの囲碁は、碁会所五段(一応高段)です。(笑)

72)延喜式内小許曽神社:参道を進むと、正面、道路西奥

参道を西に進むと、正面に在ります。石段四段を上がると境内で、石柱門の先左手に小古曽神社社碑。小許曽ではなく、小古曽です。社碑の左には、手水が在ります。
参道右手には連絡板高札、その先奉燈一対、注連縄が飾られた木製鳥居。注連縄は細く、房の数は三です。鳥居の左に小許曽神社立札。鳥居を潜ると狛犬一対、奉燈四対。石段二段を上がると、ポール一対、奉燈一対、正面は拝殿です。
拝殿には注連縄が飾られており、房の数は三です。拝殿左側には、白龍大神と記された白い幟が建つ小社。その左に橿原神宮遥拝所石碑。その左は常夜燈で、常夜燈の左手前には五本の石柱(寄進者?)が建っています。
また来る時は気付きませんでしたが、参道北側、入口付近には、明治神宮遥拝所石碑も建っていました。立札の説明文には、

平安時代、醍醐天皇の延喜五年(九〇五)に編纂された延喜式(式とは律令の施行細則)のひとつに、全国の官社三一三二社を記載した神名帳があり、当小許曽神社の名もそこに記されている。このように小許曽神社は格式ある延喜式内社として
千百有余年の歴史を有しており、古くから地元民に崇拝されている。祭神には、大日〇貴命(おおひるめのむちのみこと)、天宇受賣命、布刀玉命(ふとだまのみこと)をはじめ十三の神様が祀られている。小許曽神社には元来東の宮、西の宮の
二社の他に小社、祠、山神社(やまのかみしゃ)があったが、明治三九年(一九〇六)宮内庁合祀令を受けて、西の宮(現小許曾神社)に合祀された。また、昭和一四年(一九三九)には山の上(現高塚町)に祀られていた愛宕大権現も合祀された。
当神社の神事として、粥試し(筒粥)、奉賛(宮当番に感謝する行事、当渡し(宮当番の引き継ぎ)があり、正月中旬に行われる。粥試しとは、小豆粥と細い女竹五本を使って、竹筒内に入った米粒の数で早期・早生・中生(なかて)・晩生(おくて)
の稲作と畑作の豊凶を占う神事である、とあります。

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