東海道バーチャルトリップ
58)日永の追分:右入の先、交差点の叉
右入交差点/追分交差点の叉に、日永の追分が在ります。緑地には木製鳥居が建っていますが、この鳥居は一の鳥居/七里の渡し、桑名宿に対して、二の鳥居と呼ばれていました。
同交差点の横断歩道を渡りコンクリート製の階段三段、石段三段を上ると、参道左手に史蹟日永の追分三重縣石柱、その先にベンチ一対、左側のベンチの裏には三重県史跡日永の追分説明石板が建っています。
参道右手には手前から順に、日永の追分立札、道標、笠付灯籠、水場が在ります。参道の先は鳥居で、鳥居には注連縄が飾られており、その右側には神宮遥拝御鳥居石柱、鳥居を潜ると永代常夜燈一対、その先は石段三段、階段二段の下りです。
水場の裏には、記念植樹も行われていました。
59)史蹟日永の追分三重縣石柱、ベンチ、二の鳥居、神宮遥拝御鳥居石柱、永代常夜燈/日永の追分:参道先
二の鳥居の根本は銅板で補強されています。また注連縄の房は三本しか残っていませんが、元は五本か七本なのでしょう。前回の写真では注連縄は有りませんでした。
鳥居石柱の正面には神宮遥拝御鳥居、左側面には神宮御式年當度奉改造之、右側面には安永三年甲午六月奉創建、一志郡須賀瀬村、寄進渡邊六・・・、裏面には第八次御造営、昭和四年九月、大字日永、と彫られています。
一志郡をWikiで調べてみると、一志郡(いちしぐん、いしのこおり)は、三重県(伊勢国)にあった郡。藩領、・・・和歌山藩・久居藩、2村、庄田村、須ヶ瀬村、とあります。これでしょう。
60)日永の追分立札、道標、笠付灯籠と水場/同追分:石段の右手、同分
参道右手に、日永の追分立札が有ります。立札の説明文には、道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分れ道である。道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮二の鳥居が立っていた。
この鳥居は安永三年(一七七四)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。
今の鳥居は平成二十八年(二〇一六)に建て替えられたもので最初の鳥居から数えて第十次の鳥居となる。また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。
そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。「日永の追分」は昭和十三年に三重県の史跡に指定され現在に至っている、とあります。
この立札は更新されています。前回来た時には「今の鳥居・・・となる。」の部分は、「今の鳥居は昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。」でした。また追分付近の町並は、水沢道標の所で紹介されていました。
詳述すると、地図は二叉から北を描いており、旧道左手(西側)に南(二叉)から順に、ますや、京口屋、浅草屋、第二次鍵屋、右手(東側)には大黒屋、鍵屋、丸屋、綿屋、野口屋、尾張屋、泉屋、万屋、でした。
道標の正面には左いせ参宮道、右側面には右京大坂道、左側面には嘉永二年己酉春二月、桑名魚町尾張屋文助建之、裏面にはすく江戸道、と彫られています。
また灯籠の胴にも文字が彫られており、ひ〇り、さん〇う〇と読めます。
その先は水場で、此処は名水で有名です。何でも近くの丘陵地から引かれた湧水だそうで、前回も今回も多くの人が水を汲みに来ていました。
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