東海道バーチャルトリップ
34)直進地点/浄土宗林光山両聖寺参道:橋の先、右手、徒歩75分、道路西側
参道右手前に浄土宗両聖寺寺碑、その奥に木目調の林光山両聖寺(りんこうざんりょうしょうじ)立札、参道左手前にSUS製の四日市市指定無形文化財、つんつくおどり、昭和三十一年二月十八日指定、立札が在ります。
寺碑の浄土宗部分は、後付けの木製です。旧道左側の壁には大宮神明社(〜鎮守)の大祓案内と、輪くぐり神事の案内が貼られていました。両聖寺立札の説明文には、
当山は昔、天台宗林光山西教院と称したが、住職の専阿(せんな)上人が浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行された縁で、宝治二年(一二四八)記主良忠禅師が当山で大いに浄土宗を宣布された。それ以来当山は浄土宗となった。
このため、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代とした。第三代道阿玄忍上人の時、前記両聖人に因んで寺号を両聖寺と改めた。その後寺院は度重なる火災に遭い、本尊の阿弥陀如来も焼失し、幾多の災厄変遷を重ねてきた。
寛永二年(一六二五)に第十八世完誉月帚上人は阿弥陀三尊仏を寺に奉納し、開眼法要を営まれた。明治四十年(一九〇七)両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀された。今でも中の瀬古の獅子を八幡獅子と言うのは
このためである。また、盆踊りには寺の境内で市の無形民俗文化財の「日永つんつく踊り」が披露される、とあります。またつんつくおどり立札の説明文には、
司馬江漢が「誠に田舎の踊りなり」(文化十二年[一八一五]刊行「西遊旅譚」)と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合わせて円陣をつくっていくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな
踊りである。その起源は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固める時に旅人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実蓮寺(じつれんじ)境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振り付けたもの
ともいわれているが、定かではない。大正時代末頃までは、八月十四日から十七日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の四町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、四日ともに唄う唄が異なる上、日によって決まっていたというが、
現在は中之瀬古町によって八月第二土曜・日曜日に両聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が唄われている。平成二十六年六月、四日市市教育委員会、とあります。
35)浄土宗林光山両聖寺:参道の先、道路西奥
山門は瓦門で、山門右側からも境内に入れる様に成っています。(車用?)参道左には鐘楼、その先に手水です。参道正面はお堂で、ガイドも参拝をします。
36)左曲り:寺を罷ると、左手、道路東側
旧道は左に少しカーブします。
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