東海道バーチャルトリップ
22)川俣神社:直進地点の先、左手、徒歩57分、道路南側
此処は二番目の川俣神社です。手前から順に、井田川つながるたみっけたマップ案内板、中冨田一里塚説明板、石鳥居、式内川俣神社社碑、中冨田一里塚説明石板、史蹟中冨田一里塚跡石碑、従是西〇(亀の旧字)山領道標が在ります。
23)井田川つながるたみっけたマップ案内板/同神社:左手、道路南側
案内板の左上には〇の中にししおくん/獅子舞が描かれ、その周囲にはマイタウン井田川まちづくり委員会、元気プロジェクト、とあります。中央には周辺図が描かれ、その周囲には19枚のかるたが置かれています。
周辺図には、現在地、中冨田町の山、中冨田町の町、西冨田町、和泉町、小田町、テクノタウンおだ、小田野町、東海道、国道1号線、JR関西本線、井田川駅、@から〇+64迄の数字が振られています。かるたは左上から順に、
ぬ、高さを示す水準点大事な情報生活に欠かせぬ、31番、西冨田町、や、井田川のここもあそこも川俣神社、46番、西冨田町、る、レールウェイ明治のレンガが支えてる、56番、西冨田町、れ、本堂の襖オープン!
明けてビックリ!あなた誰?、57番、西冨田町、ぷ、初めて見る防空壕は山の中戦争遺産と人は呼ぶ、36番、中冨田町の山、み、水神さん芥川の水を守って一人佇み、41番、中冨田町の山、ん、まほろばは
大和の国の古墳群、64番、中冨田町の山、や、疫病防ぐと頼もしや、45番、中冨田町の町、ろ、百番目の一里塚江戸から遥々400キロ、58番、中冨田町の町、る、ブロック塀の不思議なアート猿が鞠で遊んでる、54番、和泉町、
ど、水清く、和泉溢るる弘法の井戸、28番、和泉町、す、旧出張所 青空と椰子の木が南国風情を醸し出す、19番、和泉町、い、古公民館歴史感じる佇まい、3番、和泉町、い、心に残る旧和泉橋堅固な柱は今も健在、2番、和泉町、
た、ばすストップ坂の上でも坂の下、23番、小田町、せ、観音堂 跡に輝く鬼瓦昔の姿に思いを馳せ、21番、小田町、す、大御寳の灯篭に裸電球光を灯す、20番、小田町、よ、雉を助けたお爺さん八十八(88)あで長生きしたよ、
49番、小野田町、お、緑多きテクノタウン樹木の瘤はシーサーの顔、9番、テクノタウンおだ、
かるたの字は、題名の最後の文字が当てられている様です。同じ字も有ります。ですがここでは風流にいろはがるた、文章の冒頭の文字を充てたい所です。出でよかるた職人!(笑)
24)中冨田一里塚説明板:マップの先、左手、徒歩57分、道路南側
説明板には説明文と、その下に周辺図が描かれています。そして此処が、東海道103番目の中冨田一里塚なのです。同説明文には、
一里塚は 慶長九年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。江戸 日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。享和(1803年)に作成された「東海道
亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時 東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」
という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、此の屋号がつけられたと伝えられている。平成十三年十月、中冨田一里塚保存会、(東海道宿場伝馬制度四百周年記念)、とあります。
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