東海道バーチャルトリップ

37)関宿屋並図/百六里庭:建屋に入ると、右側、徒歩41分

建物に入ると、右側の壁上部全幅に大きな関宿屋並図が貼られています。副題には関宿重要伝統的建造物群保存地区(三重県関町)、とあります。また、文久3年(1863年)の文字も。

図の中央上に、関宿重要伝統的建造物群保存地区(三重県関町)、関宿家並図、文久3年(1863年)とあります。図の中央には家並図が、左下には説明文が、右下には年表が記されています。
家並図には左から順に、京都、西の追分、大和街道、新所、町境、郵便局、関宿旅籠玉屋歴史資料館、現在地・百六里庭(眺望亭)、町並み文化センター、関まちなみ資料館、中町、百五銀行、町境、木崎、一里塚、東の追分、江戸、とあります。
説明文には、東海道関宿、鈴鹿山脈の東麓に位置するこの町は、東西に東海道が貫き、大和街道や伊勢別街道が合流・分岐する交通の要衝でした。古代には日本三関の一つ「伊勢鈴鹿の関」が置かれ、江戸時代には東海道五十三次の
宿場町として、参勤交代の大名や社寺詣りの庶民などで賑わい、大いに発展しました。この家並図は、文久年間(1861〜1863)の関宿の様子を描いていますが、賑わう旅人を相手に様々な商売屋が軒を並べていました。宿泊のための施設と
しては、本陣2、脇本陣3、旅籠90余軒を数え、夕方ともなれば雑踏の中から景気の良い客引きの声も響いていたのではないでしょうか。

明治時代以降、鉄道や国道1号線が開通して交通が便利になると、ここは通過する場所となり往時の賑わいはなくなりますが、交通網が町並みをさけて建設されたため、宿場の面影は保たれることになりました。昭和55年に東西追分の間約1.8
キロメートル、25ヘクタールを町並み保存地区に指定し、昭和59年には国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。現在、旧東海道に面して約400戸の町屋が建ち並んでいますが、この家並図の文久年間にはすでにあった町家
も多くあります、とあります。また年表には、
1592(天正20)徳川家康、関地蔵宿の御茶屋御殿屋敷を訪れる、1600(慶長5)関ヶ原の役、1601(慶長69徳川家康、東海道伝馬の制を定め、関地蔵宿に伝馬朱印を公付す、1632(寛永9)お茶壺道中始まる、1635参勤交代の
制確立す、1643(寛永20)このころ御茶屋御殿屋敷が廃され、川北本陣創立す、1663(寛文3)中町二番町味噌屋小三郎方より出火、105戸焼く、崩し家5戸、亀山藩米456俵交付す、1671(寛文11)関より柘植までの大和街道に
並木松4762本植栽す、1681(延宝9)この年の関宿戸数、表通、新所117、中町119、木崎86、裏通、新所40、中町24、木崎67、計、新所157、中町143、木崎153、合計453軒、1691(元禄4)関宿西の追分の道標を
京都谷口長右衛門建立す、1692(元禄6)日光門跡、関に宿泊、1711(正徳元)関・阪ノ下両宿に高札掲出さる、@一般道義的なもの、A切支丹宗門禁制、B毒薬・にせ薬の売買、にせ金売買禁止ほか、C火付け重罪ほか、D伝馬関係、
E駄賃・人足賃銭、1770(明和7)関・阪ノ下両宿に徒党・強訴にかかる高札掲ぐ、1782(天明3)夜、関町二番町萩屋より出火、8軒焼失す、です。

当時の消火方法は、延焼を防ぐ破壊消防です。

38)展望台への出口/百六里庭:階段を登ると、同分

建物の左側手前と奥には展望台に上る階段があり、上ると関宿の街を展望する事が出来ます。階段の上に青空が覗いてます。

39)坂下方面の眺望/展望台:階段を昇ると、展望台左手

今日も天気には恵まれました。しかし高度が無いので、展望台からの眺めはイマイチです。左側京方には、鈴鹿山脈も窺えます。

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