東海道バーチャルトリップ

19)飯盛女:助郷の先、左側歩道、車道側、徒歩44分、道路南側

石像には料理を前にした客と、三味線を弾く女が彫られており、胴には飯盛女の文字も有ります。説明文には、
飯盛女(飯売女と表すこともある)は、旅篭屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、歌や踊りも披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(一六四四〜五一)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、
旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅篭間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯売女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文
に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった、とあります。

20)田中吉政:女の先、同、同分、道路南側

石像には脇差を差し正座した武士が彫られており、胴には田中吉政の文字も有ります。説明文には、
吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜わるなど重用され、当時尾張の領主となった秀吉の甥秀次の付家老として天正十八年(一五九〇)に岡崎に入城し、以降十年間、新しい城下町づくりを行った。関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を
堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺社・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、
町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った、とあります。ですから岡崎=家康ではなく、その大元が有った訳です。(笑)

21)人馬継立:吉政の先、同、徒歩45分、道路南側

石像には荷を背負う馬と孫が彫られており、胴には人馬継立の文字も有ります。説明文には、
旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。公用旅行者は無料、半額で使用できたが、一般旅行者は相対賃金で雇う。
四十貫(約百五十キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる、
とあります。分かり易い説明です。(笑)

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