東海道バーチャルトリップ
16)お茶壺道中:石碑の先、左側歩道、車道側、徒歩42分、道路南側
石像の左には、SUS製の説明板が建っています。石像には茶壷が彫られており、その胴にはお茶つぼ道中の文字も有ります。説明板の説明文には、
寛永九年(一六三二)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壺道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせた。宿場では百人の人足を出す定めがあり、
多いときにはお茶壺奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていた。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の
家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている、とあります。
17)朝鮮通信使:お茶壺の先、同、徒歩43分、道路南側
石像には朝鮮通信使二人が彫られており、胴には朝鮮通信使の文字も有ります。説明文には、
江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向けて全十二回の使節の派遣をした。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・福使。従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人
が加わった平均五百人からなる大使節団であったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は
一大行事であった、とあります。
18)助郷:通信使の先、同、同分、道路南側
石像には人足が彫られており、胴には助郷の文字も有ります。説明文には、
大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立てする人馬の基準数、人七十人、馬八十匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの
元禄七年(一六九四)に正式に実施されている。人馬を供出するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々によっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも
及ぶこととなった、とあります。
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