東海道バーチャルトリップ

58)連尺町と東海道岡崎城下二十七曲り案内板/左側歩道:(道に迷いタイムロス)、左折から少し歩き、左側歩道、車道側、徒歩73分、道路南側

この案内板も更新されています。以前は岡崎宿二十七曲り案内板でした。案内板の左下には周辺図が、右下には連尺商人と旅人の浮世絵が描かれています。上部の説明文には、
連尺町のはじまり、連尺町は岡崎城大手門前の街道筋に形成された町で、菅生川(すごうがわ、現在の乙川)の流れに沿って出来た河岸段丘上に位置します。松平清康(在城1530−1535年)(徳川家康の祖父)は16世紀の前半から城下の整備を始め、
16世紀の半ばに、この地に「岡崎市場」を発足させました。この市場は商人に課せられていた税金が免除されたため、物を背負う入物の「れんじゃく」を背負う「連尺商人」と呼ばれる行商人が遠方から集まりました。後に、連尺町の道筋は「連尺通り」
と呼ばれ、東西約440m、平均幅約5mの規模に発展しました。道に面して酒・油・穀物・木綿など主に武士の生活物資や用品を売る町家が軒を連ね、商業の中心として賑わいました。連尺町は家康出陣の際に城門の守りを任されたこともあったので、
有力商人は城内に出入りする御用商人となりました。明治6年(1873)、廃城令によって城郭は取り壊されましたが、商業の中心として連尺の町は繁栄を続けました。

東海道岡崎城下二十七曲りの整備、岡崎城主田中吉政(在城1590−1600年)は、城下町整備の一環として菅生川南岸の明大寺町あたりを通っていた東海道を城下に引き入れて、城と城下町を堀や土塁で囲む「総構え」を造りました。城下町の整備は
江戸時代にも引き継がれ、東海道の道筋は慶長14年(1609)頃までに定まりました。道筋な何度も折れ曲がることから「二十七曲り」と呼ばれ、岡崎城下の特徴の一つとなりました。
戦災復興を遂げた連尺、昭和20年(1945)7月20日未明、太平洋戦争時の空襲によって市街地は一夜にしてほとんどを焼失してしまいました。戦災復興の大規模な道路整備により、連尺通りは北側が拡張されました。往時のまちなみは変わりましたが、
連尺という名は時代が流れてもなお、通り名として受け継がれています、とあります。

また図には河岸段丘ラインも白い線で描かれており、岡崎城の本丸はその先端に在りました。

59)直進地点/本町通1丁目交差点:案内板の先

旧道は此処を直進します。ガイドは前回曲がり間違えて、此処を右折してしまいました。(苦笑)
此処で横断歩道を二つ渡り、交差点の右奥に出ます。右側歩道には例の歩道表示(タイル表示)、「岡崎城下二十七曲り、連尺通り」が有ります。

60)右折地点/シビコ前、ト字路:(道を間違え)、交差点直進すぐ、右手、徒歩80分、道路北側

旧道は此処を右に折れます。交差点右手前には黄金の草鞋ポスト〇(〇+と)、交差点右奥には道標が在ります。そしてここが、27曲りの10回目なのです。
ポストの正面には|→80m〇(〇+と)これより次の材木町口角〇(〇+ち)まで、左側面には↑−80m、→370m〇(〇+と)東海道・・・、右側面には←370m〇(〇+と)これより次の連尺町角まで、
裏面には←|80m、↑370m〇(〇+と)東海道・・・、とあります。
道標の正面には岡崎城下二十七曲、岡崎城対面所前門、裏面には天正十八年岡崎城主田中吉政は城下の東海道を二十七曲にし防備堅固を図った、ここに標識を建て郷土再見の一翼とする、昭和五十六年三月、岡崎中央ライオンズクラブ建之、〇〇〇、
とあります。

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