東海道バーチャルトリップ

34)作法触れ:茶屋の先、右側歩道、車道側、道路北側

石像には定高札に跪く町人二人が彫られ、胴には作法触れの文字も有ります。説明文には、
勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくると宿場全体に、町奉行から出迎えのための通達が出た。「作法触れ」とは街道や宿場内での諸注意で、道路に盛り砂を行うこと、手桶・箒を出しておくこと、決められた場所に提灯を出すこと、ほら貝、鐘、太鼓、
拍子木など鳴らさないこと、街道では通行の前日から田畑などで下肥を施したり、ごみ焼をしないこと、通行に際し土下座をすることなど細かい点まで指示された。また、応接接待の作法についての「御馳走触れ」も出され、出迎え支度はたいへんなもの
であった、とあります。流石にこれでは大変ですよね? 御同情致します。

35)往来手形:触れの先、同、道路北側

石像には跪いた旅人が彫られ、胴には往来手形の文字も有ります。草鞋でも交換しているのでしょうか? ちなみに草鞋の交換頻度は、一日一足(〜十里程度)だそうです。説明文には、
江戸時代、街道、橋、宿場などが公用旅行者向けに整備されたが、物資の流通や庶民の旅行もそれによって発展していった。一般庶民の旅行では通行許可証となる往来(通行)手形を発行してもらわなければならなかったが、信仰のための旅ならば往来手形
を容易に受けられたので、庶民の間には伊勢まいりなど、娯楽的要素も加えた寺院神社参詣の旅が広まった。斡旋業者も現われ、旅行のための積立をする「講」と呼ばれる組織ができるなど、旅行は徐々に民衆のものになってゆき、観光旅行の原点となった、
とあります。

36)一里塚:手形の先、同、道路北側

石像には松の木と一里塚石碑、その下で休む旅人が彫られ、胴には一里塚の文字も有ります。説明文には、
徳川秀忠は家康の発案により、東海道、中山道、北陸道の三街道に一里(約四キロ)ごとに行程の目印となる、一里塚を設けた。岡崎の一里塚は東より本宿、藤川、大平、矢作にあったが、現在、大平に南側の一里塚が残っていて国指定史蹟となっている。
他の一里塚同様、大平の一里塚にも榎が植えられており、この榎は、家康が総監督大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言った言葉を「えのき」と聞き違えたという話が残っている。参勤交代で大名の通過があると藩の使者が送迎の礼をした場所でも
あったとされる、とあります。この里程標は中国などにも先例が有ります。また西洋ではこれはマイルストーンでしょうが、マイルストーンという言葉は現代のプロジェクト管理にも登場します。

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