東海道バーチャルトリップ

37)東海道道標:交差点右奥、徒歩200分、道路北側

道標の正面には東海道、左側面には是より北よびつき、右側面には是より東かさてら、とあります。よびつきは呼続(よびつぎ)です。

38)直進地点/富部神社参道、変形十字路:道標の先

旧道は此処を直進します。交差点の右手前と左奥には、東海道道標が在ります。左奥の道標は、正面が東海道、左側面が富部神社 塩付街道、右側面が宿駅制度制定四百年です。
右手前の道標は、正面が東海道、右側面が宿駅制度制定四百年、左側面が桜神明社 塩付街道です。塩付街道は旧道の北、東西ではなく南北に走る街道です。また桜神明社は、この十字路交差点の北東に在ります。
ガイドは富部神社に立ち寄る為、此処を左折します。

39)富部神社:参道を行くと、右手、道路西奥

境内は石柵で囲われており、旧道側から順に、金毘羅社、国指定重要文化財富部神社説明板、「現在、重要文化財富部神社本殿の修復修理を実施しています。」説明板、「南区史跡散策路東海道周辺めぐり、←富部神社・戸部新左衛門の碑|→」道標、
参道先に富部神社額付、注連縄付石鳥居、参道左手に郷社式外富部神社社碑、その左に秋葉社。神社説明板の裏には石灯籠が置かれており、その右には明治天皇御駐蹕之處石碑も建っています。注連縄はさして太くもなく、三本の房がぶら下がっています。
神社説明板は更新されており、以前は富部神社説明板でした。ですがその内容は同様です。神社説明板の説明文には、

当社は慶長八年(一六〇三)、津島神社の牛頭天王の眷属ともいわれる蛇毒気神を勧請したもので、天保十二年(一八四一)『尾張名所図会』をみると「蛇毒神社」または「蛇毒天王社」などと呼ばれていたことがわかる。牛頭天王はインド・中国・日本と伝播
するに従って習合を重ね、インドでは祇園精舎の守護神とも、チベットの牛頭山の神だったともいう。これが中国に入って密教・道教・陰陽思想と習合し、日本においてさらに陰陽道との関わりを深めた。主祭神である蛇毒気神は、明治元年(一八六八)に
素戔嗚尊と同体とされ、社名も富部神社と改称され現在に至っている。また明治十一年(一八七八)には田心姫命・瑞津姫命・市杵島姫命・菊理媛神の四柱の神を合祀した。慶長十一年(一六〇六)、清洲城主松平忠吉(徳川家康の四男)が病気平癒の祈願
をしたところ快方に向かい、日ならずして回復したことからその報恩のため、本殿・祭文殿・廻廊を寄進し、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を建立した。(明治元年神仏分離令により廃寺となる)その後、江戸時代を通して代々の尾張藩主により
黒印地として毎年百石が寄進された。

本殿は一間社流造、檜皮葺で正面の蟇股・手挟・脇障子等、桃山時代の建築様式を伝えるものとして、昭和三十二年(一九五七)、国の重要文化財に指定された。また平成八年(一九九六)には祭文殿・廻廊が名古屋市文化財に指定された。摂末社として、
八王子社、居森社、秋葉社、金毘羅社を祀る。また、中世期の戸部城主戸部新左衛門の慰霊碑を祀り、毎年四月二十九日には全国から戸部家の子孫が集まり慰霊祭が執り行われている。境内の山車蔵には、享保十二年(一七二七)作といわれる高砂山車
が収められている。高さ八メートル・横幅四メートルの大きな車体は、三階の上に更に屋形を据え、尉と姥の人形が置かれており、車輪が本体から外に出ている外輪形態の山車である。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日に東海道を曳行したが、現在では
十月の例祭日に二階造りの屋根までの状態で公開され、祭りの象徴となっている。

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