東海道バーチャルトリップ

37)熱田湊常夜燈と同立札/宮の渡し公園:

この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。常夜灯は寛永二年(一六二五)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。
その後風害で破損したために、承応(じょうおう)三年(一六五四)に現在地に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政三年(一七九一)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを
昭和三十年復元した。名古屋市教育委員会、とあります。焼失と言っても、石と金属なので、復元はたやすそうです。(笑)

38)松尾芭蕉と七里の渡し説明板、宮の宿とシーボルト立札、VRで復元東海道の様子案内板、七里の渡し石碑、手づくり郷土賞ブロンズ板/同公園:鐘の先、左手、徒歩67分

正面入口側から順に、同説明板、同立札、同案内板、同石碑、同ブロンズ板が立並んでいます。写真右側は舟付場です。同説明板の説明文には、松尾芭蕉(一六四四〜九四)は、日本を代表する俳人で、「野ざらし紀行」「おくの細道」や
「古池や蛙飛び込む水の音」などの句が有名です。旅の初期に熱田に度々訪れ林桐葉(現熱田神宮南門付近)の計らいで、名古屋、鳴海の門人達と交流。七里の渡しから舟遊びで、あゆち潟(愛知の語源)を楽しみ、熱田三歌仙を残しました。
「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」妙安寺石碑、「海暮れて 鴨の声 ほのかに白し」妙安寺石碑五・五・七、「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」宮中学校石碑、この舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する
「芭蕉の時代」となるきっかけが生まれました。後に名古屋が「蕉風発祥の地」と言われる由縁です。また、熱田神宮が「蓬莱宮」と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、書状などに度々使っています。
平成二十六年十一月吉日、寄贈〇名古屋熱田ライオンズクラブ、とあります。林桐葉(はやしとうよう)は芭蕉の門下生で、江戸時代前期の俳人です。

立札の説明文には、ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。名古屋の本草(ほんぞう)学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師
シーボルトが、文政九年(一八二六)二月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、四月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。名古屋市教育委員会。
同案内板は、前回来た時は有りませんでした。説明文には、江戸時代、東海道の中で宮宿(熱田宿)と桑名宿は唯一海路で結ばれており、熱田側の船着場は「宮の渡し」と呼ばれていました。そのため、船の出発を待つ旅人などが多く集まるこのあたり
には、旅館や商店が立ち並んでいました。熱田は、多くの旅人が行き来する活気あふれる宿場町だったのです。そんな当時の賑わいの様子を、VR(バーチャルリアリティ)で再現しました。二次元コードにスマートフォンをかざすと、江戸時代の熱田の
にぎわいを体験することができます、とあります。しかし「宮の渡し」とは、(熱田湊〜桑名湊間の)航路の事だと思います。(笑)

ブロンズ板には、建設大臣天野光晴書、水辺の風物詩三十選、昭和六十一年七月、寄贈(社)中部建設協会、とあります。

39)舟着場跡/同公園:ブロンズ板の先

此処では舞阪宿や新居宿で見られた様な雁木は、設けられていませんでした。

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