東海道バーチャルトリップ

34)熱田湊の風景、熱田区まちかど発見!案内板/宮の渡し公園:トイレの右奥

案内板は熱田湊と東浜御殿について解説されています。左側に熱田湊について、右側に東浜御殿について、とあります。各々上部には絵が飾られており、前者のそれは熱田湊之図内藤東甫18世紀後半名古屋市蓬左文庫所蔵、
左に東浜御殿、中央に浜鳥居、右に常夜燈、西浜御殿が描かれている、とあります。その下には説明文があり、江戸時代、熱田は東海道の渡津(わたづ、わたつ)として尾張における最大の港となった。商品流通の拡大とともに、江戸・大坂通いの
回船の泊地として一段と繁栄を極めた。そこで尾張藩は熱田奉行所を置き、さらに船舶の取締りをする船奉行、その下に船番所・船会所などをおいて、旅人や貨物の検察・保安にあたった。熱田湊は、明治に近代港が出現するまで、名古屋の経済発展
に大きな役割を果たした、とあります。

後者の絵は左は独座対風景図巻(一部)鈴木君樵、明治35年(1902)熱田区歴史資料館所蔵、右は熱田御殿指図17世紀、徳川林政史研究所所蔵、とあり、説明文には、東浜御殿は、一説によると、寛永元年(1624)に初代尾張藩主徳川義直の命で
神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島をつくり、そこに造営された。寛永11年(1634)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な
仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚楼といった。御殿の姿を示す資料は乏しいが、2018年に徳川林政史研究所(東京)
において詳細な間取図が発見された。東浜御殿の位置は、現在の内田町付近であったと推定される、とあります。

35)時の鐘/同公園(旧):案内板の西

今回時の鐘の良い写真が撮れなかったので、前回のそれを使用しています。写真は正面入口側(西側)から撮っています。鐘の右手前にブロンズ製の時の鐘説明板が在ります。
説明板の説明文には、延宝4年1676尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていた。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、
鐘は損傷を受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。昭和58年3月名古屋市、とあります。
江戸時代に使われていた鐘は、浄土宗西山禅林寺派宝亀山蔵福寺/熱田神宮南交差点に今も保存されています。

36)左側瓦塀の裏側/同公園:鐘の北、道路南側

瓦塀の裏には左に七里の渡し舟着場跡説明板が、右に浮世絵が貼られています。説明板の説明文は、江戸時代東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていました。
昭和58年に復元されて往時の名残りをとどめています。歌川広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができます。名古屋市、とあります。
版画は隷書版のそれで、東海道四十二、五十三次宮、広重画、とあります。(〜日本橋が一)浮世絵には七里の渡し、熱田鳥居、寝覚めの里が描かれています。

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