東海道バーチャルトリップ

76)手作り道標(旧):道標の先、右手、徒歩242分、道路北側

旧道の右手に手作り道標、間野宿富田一里、四日市宿←東海道→二里半・桑名七里の渡し、道標が在ります。写真は、道標が風化していない前回のそれを掲載しておきます。今日の道程も既に1/3を切りました。

77)富田の東海道マップ:道標の先、右手、同分、道路北側

このマップは更新されています。旧道を中心とした周辺図に、5箇所の名所、旧跡が写真と記事で案内されています。それらの説明文を列挙すると、
1、茂福城跡、応永28年(1421)摂津守政平が当地に来て城を築き、戦国時代には茂福合戦がありました。永禄10年(1567)城主茂福掃部輔盈豊は織田信長による伊勢攻めの折、信長家臣滝川一益により長島城で謀殺され、その翌年に茂福城も
落城しました。城跡は近鉄富田駅・霞ヶ浦駅間の東に位置し、明治37年(1904)には記念碑が建立されました。
2、富田の力石、富田の力石は東海道沿いに北から西町八幡神社、北村町若宮八幡神社、茂福町證圓寺北新設用水道碑横の3カ所に保存されています。西町、北村町どちらも100kg程で北村町は本殿前に、西町は手水石横に保存してあります。
茂福町の力石の由来は、明治中期に村の2ヵ寺を再建した折に、土台石の中から体力を競い合うために選ばれたもので、大120kg、小19kgあります。(写真は茂福町の力石です→)

3、明治天皇御駐輦跡の碑、明治天皇が明治元年9月24日東京へ行かれる途中四日市に宿泊され、翌25日に富田一丁目(富田茶屋町)の廣瀬五郎兵衛方(現在の冨田小学校正門付近・赤れんが塀が昔の面影を残している)にご休憩され、富田
名物焼き蛤をご賞味されました。その後も3度休憩に立ち寄られています。現在、富田小学校正門南側にその記念碑があります。
4、島出神社、富田の氏神として親しまれ、その名前は日本武尊が没後白鳥となり熱田に飛び立ったことに由来すると言われ、富田という地名は鳥出が訛ったものだとも言われています。本社の造営に当たっては天正13年(1585)以来伊勢神宮の
式年遷宮ごとに建造物を拝領し、現在の本殿、神門、瑞垣、鳥居、社務所などはいずれも伊勢神宮の古材により営繕されています。
5、富田の一里塚跡、富田の一里塚は織田信長が36町歩を一里(4km)として塚を建てた事が始まりで、江戸時代初期に整備されました。富田の一里塚にはかつて道路両脇の塚の一方には榎と松が1本ずつ、もう一方には榎木が1本植えられ、
行き交う旅人の目印とされ休憩場所となっていました、とあります。

78)真新しい東海道道標、明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡立札と史蹟明治天皇富田御小憩所阯石碑、古い明治天皇御駐輦跡石碑/四日市市立富田小学校:マップの先、右手、校門左側、徒歩244分、道路西側

右手に旧道から近い順に、東海道道標、同立札、同小憩所阯石碑、同駐輦跡石碑と並んでいます。道標の正面には東海道、右側面には東海道四〇〇周年記念、平成十三年建立、とあります。立札の説明文には、
維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。明治元年(一八六八)九月二十日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。二十四日には四日市に御駐輦、翌二十五日富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を
ご賞味になられ、十月十三日東京に入られた。その年の十二月八日、京都へ帰られる途中、十九日に再度五郎兵衛方に御少憩になられた。翌明治二年三月七日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都されるとき、三月十五日、またもや
五郎兵衛方に御少憩になられた。明治十三年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、七月三日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の冨田小学校正門付近から富田地区市民センターに
かけてであった。明治天皇御駐輦跡の碑は、公爵近衛文麿の筆である。富田地区文化財保存会、とあります。

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