東海道バーチャルトリップ

55)直進地点/御厨(みくりや)神明神社参道:道標の先、徒歩213分

旧道は此処を直進します。写真は旧道右手、西方向を撮っています。参道右側には御厨神明神社社碑、飛出し坊や、↑−宝性寺P道標、左側には蒔田観音龍王山宝性寺寺碑、その下に伊勢西国三十三所観音、第二八番、宝性寺木片、寺碑の裏には
手作りの←東海道→道標、東海道五十三次説明板、四日市まで7KM100分、桑名まで7.5KM110分道標、読めない道標、龍王山宝性寺説明板。ですから、今日の道程は半ばを過ぎています。
その後ろに西国伊勢三十三所観音霊場幟、みんなでつくろう安心のまち幟、と盛沢山です。

社碑の左側面には、津市 市川進書、とあります。また寺碑の右側面には、四日市市有形文化財指定、昭和五十二年十月六日、とあります。五十三次説明板の右上には浮世絵、東海道五十三次桑名富田立場之図が飾られており、説明文には、
徳川家康が慶長6年(1601)から7年を費やして東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道を整備しました。これらは全て江戸日本橋を基点としており、途中には一里塚が築かれ、宿には諸設備が整えられました。東海道は江戸日本橋
から京都三条大橋までの126里で、江戸時代は一日9里、13泊14日で歩いておりました。宿は近隣には42次桑名宿、43次四日市宿、44次石薬師宿があり、桑名と四日市の間には小向>松寺>富田>羽津>三ツ谷の立場があり、富田立場の
焼き蛤は有名で「桑名の焼き蛤」と言われ「蛤の焼かれて鳴くやホトトギス」と詠まれた。また一里塚は江戸より97里縄生一里塚、98里富田一里塚、99里三ツ谷一里塚、100里日永一里塚がありました。大作です。

五街道が7年で完成ですから、かなりの突貫工事です。年寄りはせっかちなのです。また同句はWikiによれば、(富田立場の?)旅籠尾張屋の店先で詠まれた(〜蛤は富田浜?)、とあります。御厨とは、神宮に捧げる食べ物の供給地です。(納得!)
宝性寺説明文には、お寺の歴史、奈良時代聖武天皇が天平12年(740)朝明行宮の際、摩伊多(蒔田)の里に御野立された地で勅願により建立されたのが当寺の創建とされる。創建時は、うっそうとした敷地8500坪の中に七堂伽藍
[塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂]の荘厳なお堂が立ち並んでいたと伝えられる。また、本尊として江州(滋賀県)石山寺を開基した良弁僧正(689〜773)による一刀三礼の彫刻になる十一面観世音菩薩像を安置して〇(ネ+巳)り、
長く隆盛をみた。時代は下がって、永禄11年(1568)の春、織田信長の家臣滝川一益の長嶋一揆攻略の戦火に遭遇して焼失した。その後現在地に小堂を建立したが、正徳元年(1711)の冬、再度の火災により焼失した。享保4年(1719)6月、
第六代桑名藩主松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂であり、ご本尊とともに「蒔田観音」と愛称され、今日まで広く信仰されている、とあります。ガイドは宝性寺に立寄る為、此処を右折します。

56)傳説ヨリ見タル蒔田及長明寺説明板(旧):道標の下

以前道標の下には、同説明板が掲げられていました。この図によれば、旧朝明川は宝性寺観音と長明寺との間を流れていました。図では宝性寺観音は旧川の右側(東側)、長命寺は左側(西側)に在ります。鏡ヶ池は寺の南西です。

57)龍王山宝性寺:参道の先、右手、道路西奥

参道を進むと左右に優美な石灯籠一対、その先は石柱門で、門の先に石灯籠一対、ポール一対、細い注連縄が飾られた石鳥居。房の数は五つである。これは神仏習合の跡(神明神社の神宮寺?)なのでしょう。
鳥居を潜ると、奉燈一対、左手に手水、奉燈一対、見慣れない石灯籠一対、参道正面にお堂です。左側石灯籠の左手前には、伊勢四国三十三所霊場、第二十八番宝性寺、十一面観世音菩薩立札。立札には英訳も付いています。
お堂の右手前の柱には伊勢西国三十三所観音、〇(才+、)二十八番霊場の札が、右奥の柱には四日市市有形文化財の札が、左奥の柱には十一面観世音菩薩の御真言、おんまかきゃろにきゃそわか、の札が、各々貼られています。
その後ろお堂の壁には龍王山宝性寺御詠歌、しののめの光と仰ぐ宝性之 千歳の炎深き恵みを、が掲示されています。その左に、撫で佛木片が置かれています。またお堂の左手ポールの脇には、龍王山宝性寺説明板も建っています。説明文には、

四日市市指定有形文化財(建造物)昭和52年10月6日指定、宝性寺には、享保4年(1719)の棟札が残っているが、鬼瓦には「文化十一年正月吉日」の刻銘があるので、現在の本堂は同年(1814)頃に建立され、棟札はおそらくそれ以前に
あった堂のものと考えられている。本堂は重層で、主屋の規模は三間四方の四周に縁庇を付け、正面に一間向拝を付設した入母屋造・本瓦葺の建物である。向拝周り、内外陣境の細部、彫刻などは派手なもので、建立の時代の好みをよく反映しており、
比較的均整のとれた力作で、大工あるいは彫物師の技量の良さがうかがえる。言い伝えによると、宝性寺は天平12年(740)に聖武天皇の勅願によって創建されたのが始まりであるが、永禄11年(1568)に織田信長の家臣滝川一益の
伊勢長島一揆攻略の戦火に遭い焼失した後、小堂が建立され、正徳元年(1711)に再び焼失したという。平成二十五年三月、四日市教育委員会、とあります。ガイドも参拝をします。神明神社は境内の北側に在るそうです。

→次の頁