東海道バーチャルトリップ

58)直進地点/長命寺参道:寺の先

寺を罷り旧道を行くと、旧道右手には石柱門が建っています。此処が長命寺の参道で、ガイドは長命寺に立寄る為此処を右折します。

59)浄土真宗本願寺派朝明殿長命寺:参道の先、右手、道路西奥

参道を行くと、門前には川が流れており、橋の右親柱には長命寺の文字。橋を渡ると瓦葺の山門で、文化三年丙寅二月と彫られた石柱と、その右に朝明殿長命寺立札と蒔田館(城)立札。長明寺立札の説明文には、
当寺は浄土真宗本願寺派の寺である。創立年代・開基など不明であるが、寺誌によれば、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(現三重郡川越町豊田)に字長恩寺があり、この地を当寺の旧地と伝える。文明十七年(一四八五)画像本尊を下付
されたというから、この頃に真宗に改宗したのであろう。下って、慶長九年(一六〇四)現在の寺号を公称し、寛永元年(一六二四)に木仏の許可を得て寺院化したようである。のち慶安四年(一六五一)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり、翌年
に寺基を移し今日に至っている。境内は濠と築塀がめぐり、参道正面入口に文化三年(一八〇六)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が建つ。山門をくぐると、正面中央に、昭和三一年(一九五六)再建された入母屋造の
大規模な本堂がある。山門左脇に建つ鐘楼は寺誌では延宝年間(一六七三〜八〇)に建立したと伝える。御丁寧な説明です。蒔田館(城)立札の説明文には、

寿永年間(一一八二〜一一八五)に、伊勢平氏の一族の平家資が、富田館と同時期にこの地に築城。四方を素掘りの堀で囲み、外堀は南の鏡が池まであった。平氏が壇の浦(一一八五年・山口県)で滅亡すると、源頼朝は各地の平氏掃討を行い、鎌倉幕府方
の大内氏に攻められ富田館・蒔田館ともに落城する。その後、この地は後白河院の領地となり、都より守護職として、藤原宗勝が蒔田に居館し、蒔田相模守宗勝と名乗る。宗勝は深く仏教に帰依し、この地にお堂を建立し、長命寺の基となる。現在、宗勝の
お墓は、西富田の三光寺本堂南側にある。戦国時代になると、蒔田城として萱生(かよう)城の春日部氏の一族である春日部家春が城主となるが、永禄年間、織田信長の北勢侵攻で本家萱生城とともに降伏、帰順した。
大矢知地区まちづくり構想推進委員会、大矢知歴史研究会、四日市市大矢知地区市民センター、とあります。

山門を潜ると参道左右に石灯籠一対、正面は本堂で、堂の右には修行僧(〜親鸞)銅像、左には倶會一處(くえいっしょ)と彫られた石碑が在ります。倶会一処とは浄土宗における言葉で、死後阿弥陀如来の極楽浄土で再会できるという希望を表しています。

60)関西本線西富田踏切と三岐(さんぎ)鉄道ガード:参道の先、徒歩219分

寺を罷り旧道を行くと、目の前には同踏切と同ガードが在ります。二つの鉄道が同じ場所で旧道と交差する、不思議な場所です。

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