東海道バーチャルトリップ

61)広瀬鋳物工場跡モニュメント:右曲りの先、右手、徒歩81分、道路北側

旧道右手に、同モニュメントが建っています。説明文には、江戸時代をはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品を造り、
鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。現在は個人の住宅となっている、とあります。

62)天武天皇社:工場跡の先、右手、徒歩82分、道路北側

境内はかなり改変されていました。境内を囲む石柵は撤去され、石鳥居の手前に有ったポール一対も撤去されています。左側ポールの左には天武天皇社モニュメントと、その左に天武天皇社由緒高札が在りましたが、これも有りません。
参道前はかなりスッキリとしました。駐車場でも作るのでしょうか? モニュメントの説明文には、壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ、建立された神社。古くは新屋敷の地にあったといわれるが、
寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転。のち鍋屋町北側の現在地に移る。市指定文化財として固山備前介藤原宗次銘の刀がある。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社、とあります。
藤原宗次は奥州白河生まれの刀匠です。また高札は前回の時点でかなり傷んでいましたが、御祭神、天武天皇、持統天皇、高市皇子、・・・行政官、とありました。持統天皇は天武天皇の皇后で、高市皇子は彼の息子(母は尼子娘)です。

注連縄はなく榊が飾られた石鳥居の右側に、天武天皇御〇〇(舊蹟?)石碑。独特の形をした文字ですが、篆書なのでしょうか? 石碑の左側面には、正三位松平定敬謹書、とあります。松平定敬は江戸時代後期の大名(桑名藩主)です。
鳥居を潜り鳥居の裏に回ると、左の柱の裏には奉建、右の柱の裏には明治三十五年十一月、とあります。鳥居の先参道左右には屋根が設けられていますが、工事中なのでしょう。参道左右に常夜燈二対。その先奉献灯籠一対にポール一対。
参道右手の常夜燈と奉献灯籠の間には、「あわすはし」と彫られた石碑(橋の親柱)が在ります。参道先には石製の冠木門があり、門を潜ると右手に手水、左手に赤い鳥居が建並ぶ正一位稲荷神社。参道正面は拝殿です。
拝殿手前に石灯籠二対、狛犬一対、石灯籠一対。拝殿には細い注連縄と榊が飾られ、房の数は五本です。手前の賽銭箱には、金色の菊の御門が飾られています。拝殿には天武天皇社由緒と彫られた木板が置かれていました。
この板は、先の高札に掲げられていたそれです。これも何かの縁、由緒の文章を読取ると、

当社ハ壬申ノ乱ニ天武天皇皇后ト共ニ吉野ヨリ潜幸、桑名郡家ニ御宿泊アリシ深キ由縁ニヨリ創立セラル、明治天皇御東幸ノ際当社ノコトヲ聞召サレ特別ノ思召ヲ以テ明治二年六月十四日左ノ如キ御沙汰アリ。伊勢國桑名郡本願寺村地内、鎮座
天武天皇社ヘ御由緒ノ義ニツキ永世湮滅無之様ナサレタキ思召ニ付同所取締中其藩ニ於テ取計ルベキ旨御沙汰候事、行政官、とあります。句読点はガイドが入れています。平安京を開いた桓武天皇は天武系ではなく、天智系なのです。
また拝殿の左には石玉垣記念碑が建っています。説明文には、天武天皇社 石玉垣は明治三十九年十二月に日露戦争戦捷記念として奉納される。平成二十三年二月に神社境内の樹木枝打ちの際、事故により石玉垣の一部倒壊する。
同年十月吉日水谷石材店に依頼し左右を再建する。尚、倒壊前の石玉垣に刻まれていた文字を左記に記す。記、戦捷記念 明治三十九年十二月建、奉納・・・(人名十名)・・・、平成二年十月修復 加藤一男、とあります。
境内を囲む石柵は、石玉垣と呼ぶのでしょう。また戦勝ではなく戦捷なのは、日本がポーツマス条約を受けたからでは有りません。(笑)

63)あわすはし石碑/天武天皇社(旧):参道右手

参道の右手、常夜燈と奉献灯籠の間に有ります。写真は写りの良い、前回のそれを採用しています。先の日新小学校南側に在る道路は元は城の外堀(埋立てられた)で、泡州橋はこの場所に架かっていました。

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