東海道バーチャルトリップ
4)治水史U−明治時代、明治改修:説明板の先、散策路左手
説明板の左上には説明文が、左下には洪水被害回数の移り変わりが、右側には明治改修の主な工事が示されています。説明文には、江戸時代には、宝暦治水をはじめ数々の工事が行われましたが、当時の財政、河川行政、河川技術では木曽三川の
完全な分流を行うことができませんでした。明治時代になると鎖国がとかれ、外国の技術が次々と入ってくるようになりました。明治政府は、すぐれた水工技術をもっていたオランダから10人の技術団を招き、河川・港湾事業を進めました。オダンダ技術団
のひとりヨハニス・デ・レイケは、木曽三川の流域を詳しく調査・測量し、改修計画を策定しました。この計画をもとに明治20年(1887)、明治改修に着手しました。明治24年(1891)の濃尾大震災や度重なる洪水などにより工事は難航しました。
政府は、明治29年(1896)に河川法、同30年に砂防法、同33年には土地収用法を定め、工事の進捗を図った結果、着工から26年後の明治45年(1912)にすべての工事が完了しました。この明治改修により、木曽三川の流れは大きく姿を変え、
以後の流域の洪水被害は大幅に少なくなりました。ガイドも三川の基本的な整備が明治時代既に行われていたのは、知りませんでした。
ガイドも東京下町の出なので、良く分かります。ガイドの子供時代には、ガイドが一人で筏に乗った写真(〜床下浸水)も撮られていました。そこで実家は地上げをしたのですが、その後はサッパリ洪水は生じなく成りました。(苦笑)
ですから名古屋地方の人々も、親明治政府、親日本国的な人(愛国者?)が多いのでは無いですかね? 旧尾張藩の貢献も有ったのでしょうか?(笑)
5)治水史T−宝暦治水:説明板の先、散策路左手
説明板の左上に説明文が、左下に宝暦治水の総奉行平田靭負を祭神として建立した治水神社の写真と油島閉切図(明治以前)が、右側には宝暦治水の主な工事箇所跡が示されています。説明文には、木曽三川は、木曽、長良、揖斐川の順で河床が低く
なっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていたため、木曽川の洪水は長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り返していました。徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤の寛政(1609)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます
多くなりました。その後、徳川幕府は宝暦3年(1753)、美濃郡代伊沢弥惣兵衛為永が立てた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩(現在の鹿児島県)に命じました。宝暦4年2月(1754)、薩摩藩家老の平田靭負を総奉行として工事が
始められ、油島締切、大榑川洗堰、逆川洗堰締切などの大工事(宝暦治水)を1年3ヵ月で完成しました。しかし、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、
幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。宝暦治水では、三川の完全分流はできませんでしたが、近代治水工事の先がけとなったものといえるでしょう。
これも天下普請の一つなのでしょうが、それでも幕府のシブチンには困ったものです。この薩摩藩は、治水工事には良く駆出されます。(西軍ですものね)またこの後薩摩藩は幕府と密接な関係を築きますが、家斉改名は1781年の事です。(〜べらぼう)
この薩摩藩(〜重豪時代)の幕府接近は勿論藩政の一つなのでしょうが、この力関係、パワーバランスの変化は何やら後の幕末時代や政権の交代を暗示させています。(笑)
6)蟠龍櫓/水門統合管理所と水門統合管理所説明板:説明板の向い、散策路右手
説明板には「水門統合管理所の概要」と「蟠龍櫓について」について、説明が成されています。前者の説明文には、管理所周辺は、城跡や名所旧跡・レクリエーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場となっています。
揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側および川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した構造物をなくして景観に配慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。
これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるよう統合管理所を設置しました。管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計に
あたってこの櫓の外観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われていることなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿になるべく近づけるよう推定
復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。天守焼失とありますから、桑名にも大火が有ったのでしょう。
蟠龍櫓についての説明文には、桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。
歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。蟠龍櫓がいつ建てられていたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644〜48)
作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡し付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形は
ともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、
航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの
瓦を挙げています、とあります。その下には2枚の絵が飾られており、左が東海道五十三次(桑名)(初代広重による)、右が幕末〜明治頃の蟠龍櫓のようす(三代広重による)、です。
→次の頁