東海道バーチャルトリップ

7)水門と上陸用の階段:櫓の西側

先に住吉水門・川口水門・三之丸水門と有りましたから、これは川口水門なのでしょう。マピオンには、七里の渡跡の南側に川口町の表記が有ります。水門の内側は堀となっており、この日も3隻のボートが停泊していました。

8)東海道五十三次案内板と上り階段/七里の渡跡:階段の右側

上陸用の階段の右側(東側)には東海道五十三次案内板と、先の散策路へ上る為の階段が有ります。案内板は更新されていましたが、その内容は以前とほぼ同一です。案内板の左側には周辺図が表示され、右側には七里の渡跡の説明が為されています。
周辺図には旧東海道も表示されており、現在地、七里の渡跡、六華苑、鎖国守国神社、九華公園、桑名宗社、仏眼院、大円寺、法盛寺、楊柳寺、徳光寺、十念寺、寿量寺、長円寺、顕本寺、天武天皇社、本願寺跡、八重垣神社、神館神社、などが
表示されています。
説明文には、桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約二八キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入り口にあたるため、伊勢国の「一の鳥居」が
天明年間(一七八一〜一七八九)に建てられました。七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣、駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には船会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
昭和三三年(一九五八)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和三四年(一九五九)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は江戸時代とは異なる
表情を見せています、とあります。説明文の下には、桑名渡口の浮世絵が描かれています。文化財を大切に、桑名市・桑名教育委員会。

9)七里の渡跡:階段を上り散策路を戻ると、左手(北側)

公園に成っていますが、名前は付いていない様です。この公園の北方には桑名七里の渡し公園が、南方には三之丸公園が在ります。石段の手前右側には東海道道標、短い石段を上ると木製鳥居が在ります。この鳥居が伊勢国の一の鳥居なのでしょう。
鳥居を潜ると、両側には松の木、その先左手には石灯籠が在ります。灯籠の胴の正面には両神主、右側面には安政三・・・、と彫られてます。実はこの灯籠は、他の場所から移された物なのです。桑名市教育委員会文化財ページには、
1)なお現存する常夜燈は江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、元は鍛冶町の東海道筋にあったが、交通の邪魔になるので、ここへ移築された。(〜台座に寄進者の人名多数)
2)元は天保4年(1833)建立のものであったが、昭和37年に台風で倒壊。
3)台石は元のままであるが、上部は多度神社から移したもので、安政3年(1856)銘。(〜胴以上と台座とでは、石の色と風化具合が違う)
とあります。ですから胴の右側面の彫は、安政三丙龍(辰)〇正月、なのでしょう。

石灯籠の右側には先の上陸用の階段と水門、その先右奥には東海道五十三次案内板と上り階段が有ります。

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