東海道バーチャルトリップ
1)揖斐川:蟠龍櫓先
水門統合管理所先から同川の下流、南方向を写しています。この後揖斐川は長良川と合流し、伊勢湾へと注ぎます。木曽三川とはこの揖斐川、長良川、木曽川ですが、木曽川は二川とは別に伊勢湾に注いでいます。
宮の渡し(七里の渡し)は宮宿から、この揖斐川を遡上して来ます。(海岸線の形状は、昔とは異なります)
2)小橋と蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)/水門統合管理所、散策路:七里の渡し跡の東方、揖斐川堤防上
写真は蟠龍櫓を東方から撮っています。同櫓は復元建築で、お城に在ったそれを模しています。桑名城はこの地点の南方に在りました。写真手前の小橋が渡る水路は、そのお城の堀に汽水を供給しています。
また散策路の左手には掲示板も窺えます。
3)治水史V−現在、伊勢湾台風以降の治水整備説明板:散策路、左手
説明板の左上には説明文が、左下には伊勢湾台風による一般被害が、右側には伊勢湾台風における浸水状況図が示されています。説明文には、明治改修以降も、洪水は数々の被害をもたらしました。その中でとくに忘れられないのが昭和34年9月26日
に上陸し、台風災害として最大の被害をもたらした伊勢湾台風です。被害のほとんどが東海地方に集中し、愛知・岐阜・三重3県下で死者・行方不明者4,637人、負傷者約6万5千人という大惨事になったのです。被害の大きな原因は、高潮の発生でした。
当時の小さな堤防は次々と壊され、村や町は泥の海にのみこまれてしまったのです。水との闘いは台風が過ぎ去った後も長く続きました。なぜなら、木曽三川下流部では、海面よりも低い土地が多かったため、なかなか水がひかず一般国道1号、当時の
国鉄関西本線、近鉄名古屋線などの各交通機関もいたるところで分断されてマヒ状態となりました。衛生状態も悪くなり、赤痢患者も多数発生しました。伊勢湾台風の教訓はその後、地下水利用制限などの地盤沈下対策や、高潮対策事業にいかされ、
堤防の高さや構造などが見直されました、とあります。
東名自動車道に関しては言及されていませんから、高架道路である?同自動車道は東日本大震災の時と同様に有効で、復興に貢献したのでしょうか?(笑)
→次の頁