東海道バーチャルトリップ

52)各種展示物/正保絵図が置かれた広場:広場の右側

手前から順に、白い懸河旧址(かけがわきゅうし)ポスト、周辺案内図、松尾池跡案内板が有ります。白いポストの説明文には、
東から流れてきた逆川が城山に当たり、川は深い渕となり、崖をつくった。鎌倉時代から懸河と呼ばれていたこの場所が、掛川の地名の由来となった。江戸時代に、掛川城の歴代の城主が記念として
〇(木+傍の右側)示を立てた場所である。(『掛川誌稿』をもとに作成)、とあります。

53)松尾池跡案内板/同広場:展示物の一番奥

案内板には、本丸を囲む南側の堀は、松尾池と呼ばれていました。(かなり大きい)調査では、堀の一部と江戸時代の瓦や陶器などが見つかりました、とあります。

54)正保絵図(しょうほえず)/同広場:広場中央

写真右側が左側歩道です。広場中央の石造りの左手前に、小さな正保絵図説明石板(写真左外)が有ります。そこには、
正保元年(1644)、徳川幕府は全国の城郭管理の一環として、諸大名に城絵図の提出を命じました。これが正保絵図と呼ばれるものです。堀の幅・深さ、土塁の高さ、石垣の高さ、櫓・塀の状況、城下町の町割り、街道などの
軍事に関わる施設が詳細に記入されています。この絵図と実際の城の様子とが違っていると、その大名家は幕府により所領が没収されたり、お家断絶とされたことからも当時の城の様子が正確に描かれたと考えられます。
登城路、三日月堀などの発掘調査によっても、絵図の正確さが確認されました、とあります。

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