ローマ帝国の分裂
Civにおいては残念ながら、この「国の分裂」は表現されていません。ゲーム終了時迄1国体制が続きます。勿論、12)個人の集積(社会)に関係しています。
Wikiで「ローマ帝国の分裂」を調べると、「ローマ帝国」、「西ローマ帝国」、「ビザンツ帝国」などがヒットしますが、残念ながら「帝国の分裂」ページは存在しません。
まずは「ローマ帝国」ページから。§歴史、混乱と分裂から記載します。
1)混乱と分裂:→詳細は「3世紀の危機」を参照
2)いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持ったため、反乱が増加し皇帝の進退をも左右した。
3)約50年間に26人が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。
独裁体制は、権力の継承がとても困難なのです。息子が自動的に権力を掌握する事も無いでしょうし。
4)パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。
5)この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。
統治を維持する為には、交通手段の確保が必要不可欠です。命令の伝達や軍隊の派遣には、つまりは道路と高速な移動手段(〜騎馬)が必要な訳です。
6)284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年−305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。
7)元首政と呼ばれる、言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。
8)これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。
9)またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。
10)強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。
11)テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。
帝国の大きさが、統治を困難にしていた訳です。
12)ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。
この方法では一時は安定を取戻しても、やがては衰退へと向かうでしょう。(cf.江戸時代)
13)ディオクレティアヌスが305年に引退した後、テトラルキアは急速に崩壊していった。混乱が続く中、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力となり、324年には唯一の皇帝となった。
14)コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブール)に遷都して国の立て直しを図った。
次のページはこの「サーサーン朝」となるでしょう。ですがその前に、古代中国を片付ける必要が有ります。(笑)
15)この街はコンスタンティヌス帝の死後にコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの街)と改名した。
16)コンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。
17)378年には皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でゴート族に敗死した。
18)キリスト教の浸透:
19)帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。
20)ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年−、正帝324年−337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、313年にミラノ勅令を公布して
キリスト教を公認した。
21)その後もキリスト教の影響力は増大を続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後のテオドシウス1世(在位:379年−395年)のときには国教に定められ、異教は禁止されることになった(392年)。
席亭などはこの異教禁止は必要ないと思うのですが、これはローマ帝国側の思惑なのでしょう。
22)394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。
これは象徴的な出来事でした。つまりはギリシア系の?勢力を排除したのでしょう。
23)帝国の衰退
24)帝国の分裂:
25)コンスタンティヌス1世の没後、帝国では再び分担統治が行われるようになった。
26)テオドシウス2世も、395年の死に際して長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。
27)当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れなかった。
28)もっとも3世紀後半以降、東西の皇帝権が統一されていた期間は僅かに20年を数えるのみであり、経済的な流通も2世紀前半以降はオリーブなどのかつての特産品が各地で自給され始めるにつれ乏しくなり、
また自由農民が温存された東方に対して西方ではコロナートゥスが増大するなど、東西の分裂は早い段階から進行していた。
つまりは、両国の支配体制には差が生じた訳です。
29)今日では以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼び分ける。
30)ただし、史料などからは当時の意識としては別々の国家に分裂したわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国だった事が窺える。
例証、実体が知りたい所です。
31)西ローマ帝国:→詳細は「西ローマ帝国」を参照
32)ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地は首都ローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。
33)西ローマ帝国の皇帝政権はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され西方正帝の地位が消滅した。
34)その後もガリア地方北部にはシアグリウスが維持するソワソン管区がローマ領として存続したが、486年にゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世による攻撃を受け消滅した。
35)旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって、全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官として統治を行った。
36)したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、
ゲルマン系諸王はローマ帝国の官人としてローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。
つまりはローマの手法に則って、国を奪ったのでしょう。下剋上です。(笑)
37)東ローマ帝国:→詳細は「東ローマ帝国」を参照
38)東ローマ帝国の最大進出域、550年(ユスティニアヌス1世)、1025年(バシレイオス2世)
550年には地中海をほぼ囲んでいましたが、1025年ではその領土は沿岸北部、バルカン半島とアナトリア高原周辺だけとなっています。
39)東ローマ帝国(395年−1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。
40)中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
41)この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが、完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていった。
席亭もローマ帝国の正統な後継者はこの、東ローマ帝国、ビザンツ帝国だと思います。ギリシア化は、あるいは先祖返りなのでしょうか?
42)東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。
43)西ローマ帝国における西方正帝の消滅後、東ローマ帝国の皇帝が唯一のローマ皇帝として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。
44)東ローマ帝国による帝国の再建は何度か試みられ、実際に5世紀のレオ1世や12世紀のマヌエル1世の様に、アフリカやイタリア征服を試みた皇帝もいた。
前述した様に広大は領土を統治するには高速な移動手段が必要不可欠ですが、騎馬以外の発明は有りませんでしたのでこれは画餅でしょう。(cf.モンゴル帝国)
45)6世紀のユスティニアヌス1世によるものは一定の成功を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ皇帝領となった。
46)ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成であるローマ法大全の編纂でも知られている。
47)ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7〜8世紀にかけイスラム帝国やスラヴ人などの侵入により領土が大幅に縮小した。
48)統治体制は再編を余儀なくされ、テマと呼ばれる軍閥制が敷かれた。
49)ラテン語が使用されていた帝国西方との隔絶は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。
50)一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。
51)9〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。
52)帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。
53)しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領された。
キリスト教国が同じ教国を占領した訳です。
54)13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、オスマン帝国等に領土を侵食されていった。
55)1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。
56)最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスは戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。
ですから、ヨーロッパはトルコが嫌いなのでしょう。(苦笑)このトルコには、ヨーロッパとアジアのあいの子の様な所が有りますから。
57)この東ローマ帝国の滅亡は、中世の終わりを象徴する大きな出来事の1つではあったが、通常「ローマ帝国の滅亡」として認識されることは少ない。
58)これは、東ローマ帝国がその長い歴史の中で性質を大きく変化させ、自らの認識とは裏腹に古代ローマとは異なる国へと変貌したことに起因している。
59)中期以降の東ローマ帝国は、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。
60)このため、特にローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いて西ローマ帝国の「滅亡」をもってローマ帝国の「滅亡」とすることが一般的である。
61)コンスタンティノープルを領有した東ローマ帝国の滅亡後、まだ東ローマ系の国家はいくつか存在したが、それも長くは持たなかった。
62)モレアス専制公領が1459年に、トレビゾンド帝国も1461年に、やはりオスマン帝国によって滅ぼされた。
63)最終的に、クリミア半島にトレビゾンド帝国と関係の深かった小国家・テオドロ公国が残されたが、この国も1475年にオスマン帝国の攻撃を受けた。
64)モルドバやクリミア・ハン国からの援軍も加えて激しい戦いが行われたが、約6ヶ月間の防戦の末、1475年12月にマングプが陥落し滅亡した。
65)継承国家:
66)西方正帝の消滅後に西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命されたローマ帝国の官僚の資格で統治を行った。
67)したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人の認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、
住民達も自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。
68)しかし、フランク王国がカロリング朝の時代を迎え、800年にカールが教皇レオ3世によりローマ皇帝に戴冠されたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実ともに離脱し、
ローマ帝国は東西に分裂した。
キリスト教にとっても、その方が都合が良かったのでしょう。(笑)
69)ここに後世神聖ローマ帝国と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年のライン同盟結成まで継続した。
70)東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国の君主(スルターン)であるメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。
71)もともと東ローマ帝国においては帝国を征服した辺境の異民族が帝国そのものとなったり帝位簒奪者が定着することは幾度となく繰り返されてきた歴史でもあり、このことについて吉村忠典は
「第三のローマとしては、モスクワよりイスタンブールの方が本家のように思える」とする感想を述べている。
72)ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化をオスマン帝国へ導入することを嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。
73)その他にも、ロシア帝国(ロシア・ツァーリ国)はローマ帝国とギリシア帝国に続く第三のローマ帝国としてローマ帝国の後継者を称した。
74)ただし、君主はロシア皇帝を自称するも、当初は国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。
75)その後、国際的に皇帝として認められるようになるが、ローマ皇帝の継承者としての皇帝という意味合いは忘れ去られていた。
ロシアは田舎なのです。
76)現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しないが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味である。
77)そのルーマニア国歌「目覚めよ、ルーマニア人!」とイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分がある他、それぞれトラヤヌスとスキピオの名(正確には、スキピオは家名)が歌詞に入っている。
以下は省略します。
78)関連項目:SPQR、ローマ軍団、ローマ帝国の人口学、ローマ帝国時代の服飾、古代ローマの通貨、ローマ帝国初期のゲルマニア戦役、ローマ帝国支配下のギリシャ、ローマ帝国の国境線、
ローマ帝国以外で2世紀前半に存在した他国、パルティア、クシャーナ朝、後漢
SPQRとは、ローマの元老院と人民(市民)の略で、古代ローマの国家全体の主権者を指します。また東ローマ帝国やビザンツ帝国は、必要に応じて記述されるでしょう。
パルティアはペルシアの国家(安息)で、クナーシャ朝はイラン系のインド国家です。
次は古代中国の歴史と、同発明です。
→古代中国の歴史と発明