官吏、官僚

Civでは「官吏」は、中世のテクノロジーに分類されています。ですが、これでは時代の下がり過ぎです。前述した様に、この官吏は帝国に必要なテクノロジーなのです。ですから太古のテクノロジーなのですね。
さて、Wikiで官吏、官僚を調べると、「官吏」、「官僚」ページがヒットします。まずは「官吏」ページから。

1)官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、国家機関(官公庁や軍など)に勤務する者を指す。「官人胥吏」の合成語。
胥吏はしょりと読みます。庶民でありながらも役人の仕事をする者、だそうです。
2)各国の官吏については官僚の項目も参照のこと。
3)ただし日本では官吏かどうかを区別せず「官」と呼ぶ慣用例も見られる(教官、試験官など)。
以下は§日本の官吏、§フランスの官吏、§ドイツの官吏と続きますが、時代がかなり新しいので、「官僚」ページに向かいます。

1)官僚(かんりょう、英:bureaucrat)とは、国家の政策決定に大きな影響力を持つ国家公務員。
2)「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。
3)現代の日本における「官僚」は、広義では『国家公務員試験に合格して日本の行政機関に就職した国家公務員全般』を指し、狭義ではその中でも特に『日本の行政機関の課室長級以上の管理職員』を指す。
  →「官職」、「官吏」、「指定職」、「キャリア(国家公務員)」、および「準キャリア」も参照
4)英語の「bureaucratビュラクラト」は、フランス語の「bureaucratieビューロクラシィ」(官僚制)に起源を持つ。
5)「官僚制度(官僚制)」は、ピラミッド型に整理された、権限の分担とその指揮系統に関する官僚の階層構造を意味する。
6)これは統治構造の一種であり組織は問わないが、歴史的に政治統治組織が起源であるため「官僚制」と呼ばれることとなった。
7)ヘーゲルによる定義では、「官僚」とは国家への奉仕かつ私有財産の配慮を行う者の総称となっている。

8)漢語の「官僚」「官吏」の語源であるが、「官」は上級公務員を意味し、「僚」「吏」は下級公務員や、官に雇われている者を意味し、これらの総称で「官僚」「官吏」となった。
9)歴史学、人類学的には、国家の公共事業(治水、灌漑)の拡大とともに、「官僚機構(官僚制)」が生まれたとされている。
ですから、国家の形成時期に近い訳です。
10)最初に「官僚機構」が発展したのは古代エジプトで、官僚たちはファラオの奴隷だった。
11)なお官僚には、文官(いわゆる行政官)と武官の2つがある(※なお、現行の日本国憲法下では「武官」は現役の自衛官に相当すると解されているが、明記されてはいない)。
12)また行政官には事務官と技官の2種類が存在する。
13)武官は、各国軍部の大学校卒業者を幹部候補生とする国が多い。
以下は§官僚制であり、新し目の説明が成されていますが、少し付合います。

14)官僚制:
15)官僚制には次のような特質がある。
   1.規制による規律
   2.明確な権限
   3.明確な階統構造
   4.公・私の分離
   5.文書主義
   6.資格任用制(メリット・システム)
   7.専業制
16)他に、ネガティブな特質としてはしばしば「官僚主義」が挙げられる。

17)国家公務員は世界的に、上級ポストとその候補者(キャリアと呼ぶ)、および下級職員(下級官僚)を分けて採用する国が多い。
18)広義の官僚とは国家公務員全般を指すが、狭義の官僚とは上級ポストの公務員であるため、ここでは各国の高級官僚(世界的に見て慣例的に局長クラス以上を指すが、場合によっては本省・本府審議官または課長級以上を指す場合もある)
   とその候補生の登用・昇進システムを説明する。
19)この登用・昇進システムは各国によって相違がある。
20)歴史上科挙を祖とするもので高位職の登用も内部昇格が原則のメリット・システム、政治家である任命権者の裁量により高位職が登用される政治任用制、政治任用制の一種であるがアメリカを典型とする高位職の外部登用を主とする猟官制
   (党人任用制、スポイルズ・システム)、高級官僚が貴族や一部の門閥で占められているタイプに分けられる。
スポイルズ・システムとは、選挙に勝った政党が、自党の党員や支持者を公職に任用する政治習慣、とあります。
21)総労働者数に占める官僚、公務員の数の割合は、ノルウェーやスウェーデンでは約40%、デンマークやフィンランドでは約30%と北欧諸国での高さが際立ち、またカナダやドイツ、イギリス、オーストラリアなどの国々も労働人口のおよそ20%が
   公務員である。それに対して日本は10%を下回り、これはOECD加盟国における調査対象の15カ国のうち最低の数字である。
22)その一方で日本の官僚、公務員の一人当たり賃金・人件費は、OECD加盟国調査対象の15ヶ国中で最高額となっている。
それだけ特権階級なのでしょう。以下は§日本ですが、これらは省略します。

席亭は現代ではなく、太古時代の官吏、官僚制度を知りたいのです。そこで先の「帝政」ページから、各国の官僚制度に言及した部分を抜出す事にしました。
(アッシリア)
1)バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。
2)中央軍は王の直属とされ、「王の結び目」と呼ばれたが、そのトップにいたのは宦官の長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。
この宦官は中国でも、王宮の近くに侍っています。王や皇帝は血統を心配するため、宦官がはびこるのです。男妾なのですかね?(苦笑)
(アケメネス朝)
3)最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニア・トラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。
4)その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱(紀元前372年−紀元362年)に悩まされていた。
辺境では、支配が行届かなくなるのでしょう。
5)宦官で大臣のバゴアス(英語版)によりアルタクセルクセス3世とアルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。
宦官の遣り口はかなり陰湿、悪辣です。(〜に描かれます)何しろ出世の為に息子をチョン切るのですから、その覚悟はハンパじゃ無いですよね?(苦笑)
次はローマの官僚を調べる事にします。Wikiでローマの官僚制度を調べると、「ローマ帝国」ページがヒットします。

1)ローマ帝国(ローマていこく、ラテン語:Imperium Romanum)は、古代ローマの共和制後の時代以降を指す言葉である。
2)この時代、古代ローマはイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展していった。
3)1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域
  を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していた。
そしてこれが、本来の帝国イメージです。ページの右には西暦117年当時の最大版図が記されていますが、まるで地中海を中心に抱いた、沿岸国家です。
4)カエサル・アウグストゥスの即位から3世紀の軍事的無政府状態まで、それはイタリアを中心的な領土(メトロポール)とし、ローマ市を唯一の首都としたプリンキパトゥスだった(紀元前27年-紀元後286年)。
プリンキパトゥスは元首による統治を意味し、日本語では元首政と訳されます。
5)軍事危機の間に断片化されたが、帝国は強制的に再編成され、その後、西ローマ帝国(ミラノと後にラヴェンナに拠点を置く)と東ローマ帝国(ニコメディアとアンティオキアを中心に、後にコンスタンティノープルに拠点を置く)で支配を分ける
  複数の皇帝によって支配された。
6)ローマは、オドアケルの蛮族によるラヴェンナの奪取とロムルス・アウグストゥルスの退位に続いて、コンスタンティノープルに帝国記章が送られた西暦476年まで両部分の名目上の首都のままであった。
7)西ローマ帝国がゲルマン人の王たちに支配され、東ローマ帝国がビザンツ帝国へとヘレニズム化したことで、古代ローマの終わりと中世の始まりを告げることになる。

8)名称:
9)「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味するラテン語の“Imperium Romanum”の訳語である。
10)インペリウム(imperium)は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった。
ですから、帝国範囲、ですね。(笑)
11)Imperium Romanumの語は共和政時代から用いられており、その意味において共和政時代からの古代ローマを指す名称である。
12)日本語の「帝国」には「皇帝の支配する国」という印象が強いために、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが、西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり、
   「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。
13)ちなみに、現代の日本では帝政ローマにおいてインペリウムを所持したインペラトルが皇帝と訳されているが、インペリウムは共和政ローマにおいてもコンスルとプロコンスル、およびプラエトルとプロプラエトルに与えられていた。
コンスルは古代ローマの最高公職「執政官」で、プロコンスル(前執政官)にも執政官相当の役職を付与する場合が有りました。プラエトルは「法務官」で、コンスルに次ぐ公職だそうです。
14)また、ローマが帝政に移行した後も、元首政(プリンキパトゥス)期においては名目上は帝国は共和制であった。

15)中世における「ローマ帝国」である、東ローマ帝国やドイツの神聖ローマ帝国と区別するために、西ローマ帝国における西方正帝の消滅までを古代ローマ帝国と呼ぶことも多い。

16)概要:
17)ローマ帝国の前身であるローマ共和国(紀元前6世紀にローマの君主制に代わっていた)は、一連の内戦や政治的対立の中で深刻に不安定になった。
18)紀元前1世紀半ばにガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官に任命され、紀元前44年に暗殺された。
19)その後も内戦やプロスクリプティオは続き、紀元前31年のアクティウムの海戦でカエサルの養子であるオクタウィアヌスがマルクス・アントニウスとクレオパトラに勝利したことで最高潮に達した。
20)翌年、オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトを征服し、紀元前4世紀のマケドニア王国のアレキサンダー大王の征服から始まったヘレニズム時代に終止符を打った。
21)その後、オクタウィアヌスの権力は揺るぎないものとなり、紀元前27年にローマ元老院は正式にオクタウィアヌスに全権と新しい称号アウグストゥスを与え、事実上彼を最初のローマ皇帝とした。

22)帝国の最初の2世紀は、前例のない安定と繁栄の時代であり、「パクス・ロマーナ」として知られている。
23)ローマはトラヤヌスの治世(98−117AD)の間にその最大の領土の広がりに達した。
24)また、トラヤヌスの後任であるハドリアヌスの治世では、ローマ帝国は最盛期を迎え、繁栄を謳歌した。
25)その後のアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウス・アントニヌスは先帝の平和を受け継ぎ繁栄を維持したが、アウレリウス帝の治世の後半ごろには疫病や異民族の侵入などによって繁栄に陰りが見えはじめた。
26)トラブルの増加と衰退の期間は、アウレリウス帝の息子コンモドゥス(177−192)の治世で始まった。
27)コンモドゥスの暗殺の後は混乱が続く状況となった。
28)3世紀には、ガリア帝国とパルミラ帝国がローマ国家から離脱し、短命の皇帝が続出し、多くの場合は軍団の権勢を以て帝国を率いていたため、帝国はその存続を脅かす危機に見舞われた(3世紀の危機)。
29)帝国はアウレリアヌス(R270−275)のもとで再統一された。
30)その後再び混乱は続くが、3帝国を安定させるための努力として、ディオクレティアヌスは286年にギリシャの東およびラテン西の2つの異なった宮廷を設置し、ディオクレティアヌスによって専制政治が開始された。
31)ディオクレティアヌスの退位後は複数の皇帝たちの相互の争いによって帝国は分断されたが、最終的にはコンスタンティヌス1世がその強大な権力を以て帝国を再統一した。
32)大帝とも称されるコンスタンティヌスは伝統的に最初にキリスト教を信仰した皇帝であるとされる。
33)313年のミラノ勅令に続く4世紀には一時的に危機はあったもののキリスト教徒が権力を握るようになり、皇帝の多くもキリスト教を信仰した。
34)コンスタンティヌス死後の混乱を経てテオドシウス1世によってふたたび帝国は一人の皇帝のもとに統べられた。
35)テオドシウスはキリスト教を国教として異教を禁止、彼の死後には2人の子供が東西に分割された領域をそれぞれ支配した。
36)その後すぐに、寒冷化などに端を発するゲルマン人やアッティラのフン族による大規模な侵略を含む移住時代が西方のローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退につながった。
37)ゲルマン人の勢力はローマ宮廷内で権力を握り、最終的にはローマから宮廷が移されたラヴェンナの秋にゲルマン人のヘルール族とオドアケルによって476ADにロムルス・アウグストゥルスが退位し、西ローマ帝国は一旦崩壊した。

38)東方のローマ皇帝ゼノンはオドアケルからの「もはや西方担当の皇帝は必要ではない」とする書簡を受けて正式に480ADにそれを廃止した。
39)しかし、旧西ローマ帝国の領土内のフランスおよびドイツに位置した神聖ローマ帝国は、ローマ皇帝の最高権力を継承しており、800年のローマ・カトリック教皇レオ3世によるカールの戴冠によって西ローマ帝国は復活したと主張し、
   その後10世紀以上にわたって神聖ローマ帝国は存続した。
40)東ローマ帝国は、通常、現代の歴史家によってビザンチン帝国として記述され、コンスタンティノープルが1453年にスルタン・メフメト2世のオスマン帝国に落ち皇帝コンスタンティノス11世が戦死し崩壊するまで、別の千年紀を生き延び、
   変質こそしたものの、古代ローマ帝国の命脈を保った。

41)ローマ帝国の広大な範囲と長期にわたる存続のために、ローマの制度と文化は、ローマが統治していた地域の言語、宗教、芸術、建築、哲学、法律、政府の形態の発展に深く、永続的な影響を与えた。
42)ローマ人のラテン語は中世と近代のロマンス語へと発展し、中世ギリシャ語は東ローマ帝国の言語となった。
43)帝国がキリスト教を採用したことで、中世のキリスト教が形成された。
44)ギリシャとローマの芸術は、イタリア・ルネッサンスに大きな影響を与えた。ローマの建築の伝統は、ロマネスク様式、ルネサンス建築、新古典主義建築の基礎となり、また、イスラーム建築に強い影響を与えた。
45)ローマ法のコーパスは、ナポレオン法典のような今日の世界の多くの法制度にその子孫を持っているが、ローマの共和制制度は、中世のイタリアの都市国家の共和国、初期の米国やその他の近代的な民主的な共和国に影響を与え、
   永続的な遺産を残している。

46)歴史:
47)古代ローマがいわゆるローマ帝国となったのは、イタリア半島を支配する都市国家連合から「多民族・人種・宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」へと成長を遂げたからであり、帝政開始をもってローマ帝国となった訳ではない。
48)紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政へと移行する。
49)ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。この段階をプリンキパトゥス(元首政)という。
50)ディオクレティアヌス帝が即位した285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。

51)330年にコンスタンティヌス1世が、後に帝国東方において皇帝府の所在地となるローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の町を建設した。
52)テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。
帝政と一神教は、相性が良いのでしょう。(笑)
53)395年、テオドシウス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。以後の東方正帝と西方正帝が支配した領域を、現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。
この説明からすると、東の方が西よりも正統性が有りそうです。(笑)
54)西ローマ帝国の皇帝政権は、経済的に豊かでない国家で兵力などの軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず、476年以降に西方正帝の権限が東方正帝に吸収された。
55)6世紀に東ローマ帝国による西方再征服も行われたが、7世紀以降の東ローマ帝国は領土を大きく減らし、国家体制の変化が進行した。
56)東ローマ帝国は、8世紀にローマ市を失った後も長く存続したが、オスマン帝国により、1453年に首都コンスタンティノポリスが陥落し、完全に滅亡した。

57)帝政の開始:
58)ローマ帝国の起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:テヴェレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。
59)当初はエトルリア人などの王を擁していたローマは、紀元前509年に7代目の王であったタルクィニウス・スペルブスを追放して、貴族(パトリキ)による共和政を布いた。
60)共和政下では2名のコンスルを国家の指導者としながらも、クァエストル(財務官)など公職経験者から成る元老院が圧倒的な権威を有しており、国家運営に大きな影響を与えた(共和政ローマ)。
ローマもギリシア同様共和制であった事は、余り知られていません。
61)やがて平民(プレブス)の力が増大し、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて身分闘争が起きたが、十二表法やリキニウス・セクスティウス法の制定により対立は緩和されていき、
   紀元前287年のホルテンシウス法制定によって身分闘争には終止符が打たれた。

62)都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍で紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。
63)紀元前1世紀にはローマ市民権を求めるイタリア半島内の諸同盟市による反乱(同盟市戦争)を経て、イタリア半島内の諸都市の市民に市民権を付与し、狭い都市国家の枠を越えた帝国へと発展していった。

64)しかし、前3世紀から2世紀、3度にわたるポエニ戦争の前後から、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、
   やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになる。
65)こうした中で、スッラ及びユリウス・カエサルは絶対的な権限を有する終身独裁官に就任、元老院中心の共和政は徐々に崩壊の過程を辿る。
66)紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、
   元老院に権限の返還を申し出た。
67)これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
Civなどではアウグストゥスは名前の様にも思えますが、実際は尊称なのでした。(笑)
68)以降、帝政初期のユリウス=クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。
69)彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。
   ・「アウグストゥス」と「カエサル」の称号。
   ・「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。
ですからエンペラーとは、元々は軍の指揮権な訳です。
   ・「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号。本来は元老院において、最初に発言する第一人者の意味。
   ・「執政官命令権」を持っており、最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。
   ・「プロコンスル命令権」により皇帝属州の総督任命権と元老院属州の総督に対する上級命令権を有していた。また、エジプトは皇帝の直轄地として位置づけられた。
   ・「護民官職権」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、
    歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
   ・「最高神祇官」の職。多神教が基本のローマ社会において、その祭事を主催する。
これらを見ると、皇帝=独裁者ですよね。(笑)
70)これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。
71)さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。
72)また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。
73)例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた。
74)一方、独裁的権限を所持していたにもかかわらず、ローマ皇帝はあくまでも「元老院、ローマ市民の代表者」という立場であったため、ローマ市民という有力者の支持を失うと元老院に「国家の敵」とみなされ自殺に追い込まれたり、
   コロッセウムなどで姿をみせると容赦ないブーイングを浴びるなど、官僚制と多数の文武官による専制体制が確立したオリエント的君主とは違った存在であった。
これは席亭は初耳でした。
75)また、国家の要職だけでなく最高権力者である皇帝位でさえも、ローマに征服された地域や民族の者が就くことが可能であった。例えば、セウェルス朝創始者のセプティミウス・セウェルス帝はアフリカ属州出身であったし、
   五賢帝の一人であるトラヤヌス帝はヒスパニア属州出身であった。
背後にキングメーカーでも居るのでしょうか? §ユリウス=グラウディウス朝と内乱期以下は省略します。

76)関連項目:SPQR、ローマ軍団、ローマ帝国の人口学、ローマ帝国時代の服飾、古代ローマの通貨、ローマ帝国初期のゲルマニア戦役、ローマ帝国支配化のギリシャ、ローマ帝国の国境線、ローマ帝国以外で2世紀前半に存在した他国、
   パルティア、クシャーナ朝、後漢
最後に「古代ローマの奴隷制」ページを見てみると、

1)役人・官吏:
2)古代ローマの行政官職は、ローマの貴族が自らの名誉のために行う無料奉仕であった(もちろん官職に伴う利権はあったが)。
3)当然ながら貴族が担う上級職ばかりでは国家運営はままならず、下級官吏が必要であり、それらを担ったのは貴族が個人的に所有する奴隷であった(家産官僚制)。
4)皇帝や属州総督が所有する奴隷の中には高度な行政事務に携わる奴隷もおり、権力や蓄財を恣にする奴隷も居た。
とあります。という訳で、ローマ帝国の官吏、官僚の正体とは実は、貴族とその奴隷なのでした。この下級官僚の実際は、「奴隷」ページによって明らかにされるでしょう。
次はキリスト教/ローマを想定した、「一神教」です。

→一神教