帝政
帝政は民を束ねる政治の事ですから、12)個人の集積、社会に関する技術です。
Wikiで帝政を調べると、「帝国」ページがヒットします。また最初の帝国を調べると、「アッシリア」や「アッカド帝国」ページがヒットします。また、アケメネス朝ペルシア帝国の名も挙がります。
席亭はローマが帝政に移行した理由を知りたいので、これら古代帝国を先に調べる事にします。まずは「アッシリア」ページから。
1)アッシリア(Assyria, 古典シリア語:〇、ラテン文字転写:〇、アラビア語:〇)は、現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。アッシュル市を中核とし、帝国期にはニネヴェやニムルドが都として機能した。
2)歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。
席亭もアッシリアとバビロニアの違いは知りませんでした。
3)最終的にメソポタミア・シリア・エジプトを含む世界帝国を築き、その遺産はハカーマニシュ朝(アケメネス朝、ペルシア帝国)に受け継がれてその王権や社会に影響を与えた。
アッシリアはキリスト教とも関係するので、とても疎かには出来ません。歴史を学ぶ事で、現在のイスラム勢力との対立原因も分かるでしょう。(苦笑)
4)概要:
5)アッシリアの歴史は、主に言語の変化、即ちアッカド語北方方言であるアッシリア語の時代変化に基づいて4つに時期区分される。
6)初期アッシリア時代は、基本的に文字史料の無い時代である。主に土器の様式の変化によって更に細かく区分されるが、政治史の復元はほぼ不可能と言って良い。
7)末期になると僅かに、シュメール語やアッカド語による文字史料が現れる。後世のアッシリア社会の原型は、この頃既に形成されていたと考えられる。
8)古アッシリア時代は、アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代で、主に紀元前1950年頃から紀元前15世紀頃までを指す。アッシリア商人や、シャムシ・アダド1世の台頭によって多くの文書史料が残り、
アッシリアの政治史が初めて具体的に復元されうる時代である。
9)便宜上アッシュル・ナディン・アヘ2世までが古アッシリア時代とされるが、イシュメ・ダガン1世以降のアッシリア史は史料の欠落によってほとんどわかっておらず、政治史的には別時代である。
10)中アッシリア時代は、アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代で、紀元前14世紀初頭あたりから、紀元前10世紀の末頃までの時代を指す。
11)アッシリアの君主達が、旧来の「アッシュルの副王」ではなく、「偉大な王、アッシリアの王」を称するなど、大国としてのアッシリアが台頭した時代である。
12)新アッシリア時代は、アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であった紀元前10世紀の末頃から、アッシリアの滅亡までの時代を指す。
13)この時代アッシリアは、全オリエントを覆う世界帝国を打ち立てた。有名なアッシュルバニパル王の図書館が作られたのもこの時代である。
14)なお、「アッシリア帝国」と「新アッシリア時代」は混同するべきではない。
ですからアッシリアが帝国と呼ばれる時期は、紀元前10世紀の末頃からです。
15)名称:
16)「アッシリア」はアッシュルの地を意味するギリシア語表記に由来するヨーロッパにおける呼称で、本来のアッカド語北方方言であるアッシリア語による名称はアッシュル(Asshur)。
17)アッシュルの名はチグリス川上流にあった国土とその中核となった首邑の名であり、かつそれらを神格化した神の名でもあった。
18)アッシリアの名称はアッシュルの意味する意味空間のうち、アッシュルの地、及びそこに成立した古代国家、さらにはその国家がオリエント一帯を征服して成立した大帝国を指す。
19)地理:
20)アッシュルの地はバビロニアの北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯であり、クルディスタンやアルメニアの山岳地帯を北の背に、メソポタミアの低地をはるか南方に望む場所に位置している。
21)この土地はバビロニアのようなメソポタミア低地域と異なり、年間降水量が200mm以上あり、農業に灌漑を必要としない。いわゆるドライファーミング(天水農業)地帯である。
22)そのため、バビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁であり、年毎の降水量に左右されて収量が不安定な側面は否めないものの、塩分に弱い小麦を豊富に産した。
23)また、いわゆる肥沃な三日月地帯の中央部でもあるため、メソポタミアとアナトリア半島、シリア、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあった。
ですから、最初から恵まれた土地な訳です。
24)民族:
25)アッシリア人はセム語族に属するアッカド語の北方方言、アッシリア語を用いた集団であるが、非セム語を用いた集団もアッシリア人の形成にかかわっていたと考えられる。
26)また、その民族形成の背景となった上記の地理条件もあって、アッシリア商人は特に古アッシリア時代の200年間はオリエント各地で活躍し、アナトリア半島のカネシュ(現キュルテペ)など現地の都市に隣接してカールム(港の意)と呼ばれる
商業拠点集落を数多く形成していた。
27)アッシリア、すなわちアッシュル国家は本来はアッシュル市を中心とする狭い範囲を版図とした。
28)歴史の初期にはウル第三王朝の覇権下にあり、またその長い歴史の中で何度も周囲に覇権を拡大してはまた、その覇権を失って新たに台頭した大国、例えばバビロン第一王朝やミタンニなどの覇権下に屈した。
29)しかし諸民族と国々の興亡の激しいオリエント世界で例外的な一貫性をもってよくその中央集権的な国家体制を維持し、鉄器時代に入った紀元前千年紀前半、いわゆる新アッシリア王国と呼ばれた時代にオリエント全域を征圧・支配する
大帝国を打ち立てた。
ですからアッシリア王国、帝国の裏には、鉄の技術が有った訳です。
30)しかし、この大帝国が衰退、解体すると共に滅亡し、その1400年間に及ぶ長い歴史に終止符を打った。
31)しかし、この大帝国を統治する制度的な技術はこの後オリエントの広域に覇権を打ち立てた新バビロニア王国や、アケメネス朝ペルシアに受け継がれた。
そしてこれが、帝国の歴史な訳です。
32)国家体制:
33)アッシリアの制度上の君主は神格化された国土、あるいは主邑であるアッシュル神で、人間の君主はアッシュルの副王を名乗った。
政治と宗教の近さが窺えます。
34)伝統的なアッシリアの国家体制の中核機関はアールムと呼ばれた市民会であり、国家運営の重要事項をここで審議、決定し、この決定は母国から遠く離れたアナトリア半島などの商業拠点の植民市にも伝えられた。
35)アールムの議長を務めたと考えられる公職にリンムがあり、毎年アッシュル市の有力者の中からリンムが選ばれ、年代の記録はその年のリンム職の人物の名前をもって行った。
36)この紀年法は、その年のコンスル職の人名をもってした古代ローマの制度に似ている。
37)アッシリアの歴史の初期にはアッシリア王(アッシュルの副王)の権力はアールムとリンムによって制限されたものであった。
ですから、この時代アッシリアは帝国では有りません。
38)アールムとリンムが職務についた施設が「市の館」で、行政上の署名捺印に用いられる市の館の円筒印章はアッシュル神の印章をも兼ねており、アールムとリンムが伝統的に所持した権威がここにもうかがえる。
39)やがて王権の拡大と共に王がリンムを兼ねることも行われるようになってアッシリア王は強大な権力を振るうようになり、アールムとリンムの権限も形骸化したが、この制度自体はローマ帝国の時代にも
コンスルと元老院の制度を維持し続けた古代ローマと同様に、大帝国に発展した新アッシリア王国期を経てアッシリア滅亡まで維持された。
帝国化した様子も、ローマと似ています。以下は§初期アッシリア時代、§古アッシリア時代、§中アッシリア時代ですが、これらは省略致します。
40)新アッシリア時代:→詳細は「新アッシリア帝国」を参照
41)アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。
42)占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表、リンム表(概要を参照)、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが
分野の偏りがあるものの大量に残存している。
43)アッシュル・ダン2世、アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。
44)いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた(シリア・エフライム戦争、バビロニア遠征(フランス語版))。
45)被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。
46)アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。
47)強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。
48)特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。
この強制移住は日本でも行われています。俘囚/鎌倉時代などは強制移住されました。また封建社会でも移封、国替は珍しく有りませんでした。
49)後世にはこうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、アッシリアの支配を特徴付けるものと言われてきたが、アッシリアの帝国統治は単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する
情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた対応をとったことが同時代記録の分析から明らかになっている。
50)こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのような広域統治を行った帝国に継承され、その統治技術の基礎となったと考えられている。
51)またその国家は、本国たるアッシュルの地と周辺の征服地域は強く区別された。
52)本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、土地が神格化されたアッシュル神の元に国があるという宗教イデオロギーで結びついていた。
53)各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。
54)バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。
ですから、官僚制度は帝国化にとって必要不可欠なのでしょう。Civでは官吏は中世のテクノロジーですから、これも修正する必要が有ります。
55)ティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュルバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。
56)この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。
57)ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラム(フンバンタラ朝(ロシア語版))の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。
58)ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。
59)紀元前722年にシャルマネセル5世がイスラエル王国へ侵攻し占領したが、直後に死去。
60)サルゴン2世は即位直後にバビロニアに離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争やバビロニア再征服が続く中で死去し、センナケリブが後を継いだ。
61)エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がり、紀元前671年に全オリエント世界を初めて統一した。
62)この時代のシリアにおけるアッシリアの行動はヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。
63)アッシュルバニパルがエラムを滅亡(スーサの戦い、アッシリアによるエラム攻略戦)させたものの、アッシュルバニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。
64)この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。
65)北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニアが独立してその勢いはさらに増した。
66)紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した(ニネヴェの戦い)。
67)亡命政権がハランに誕生し、アッシュル・ウバリト2世が即位、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。
68)だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、アケメネス朝ペルシアはアッシリアの行政機構の多くを取り入れた。
69)社会・経済:
70)史料豊富な新アッシリア時代ではあるが、この時代の経済に関する情報は王や高級官僚などに関係したものに偏っており、民間経済の実態は不明点が多い。
71)帝国の主な収入源となったのは各州からの税収、属国からの貢納、そして遠征の際の略奪で得た戦利品であった。
72)税は主に農産物と藁が徴収されたほか、一定期間の労役義務(軍務の場合もある)が課せられ、最も基本的な税源となった。
73)都市間の流通に対しては帝国内の各都市で関税をかけたが、その規模はよくわかっていない。
74)戦争による戦利品獲得は、特に奴隷の供給と言う面で重要であり、歴代のアッシリア王が行った大規模建築の数々は奴隷労働力の存在を抜きにしては語り得ないものである。
経済が奴隷に依存している訳です。現代のヨーロッパの様ですね。(苦笑)
75)相次ぐ強制移住は古代オリエント社会に甚大な影響を及ぼしたが、その例の一つがアラム人に関する影響である。
76)アラム人はシリア地方を中心に幾つかの国家を作っていたが、アッシリアは彼らを征服した後、帝国各地に強制移住させた。
77)自然移動と相まってアラム人はオリエント全域に居住することになり、アラム語が国際商業言語となる下地となった。
損して得取れ、です。(笑)§文化は省略します。
78)軍事:
79)時代による変化はあるが、アッシリア帝国の時代、アッシリア軍は中央軍と地方軍からなっていた。
80)地方軍の指揮権は各州の長官にあり、兵の補充や補給も各州の権限で行われた。この地方軍には被征服国の軍も編入されたが、当然反乱の温床ともなり、それに対応するために一つ一つの州は非常に細分化されていた。
81)中央軍は王の直属とされ、「王の結び目」と呼ばれたが、そのトップにいたのは宦官の長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。
席亭はこの王の結び目も、聞いた事が有ります。
82)中央軍の編成は10人を最小単位とし50人隊、100人隊という編成を取る古代のセム系民族に一般的な部隊割りを採用している。
83)王は儀式として閲兵式を取り行ったことも知られており、閲兵のための砦も建設され、平時の武器の貯蔵庫としての役割も果たした。
84)兵科は歩兵(槍兵、弓兵、盾兵)、戦車(チャリオット)、騎兵などで編成された。
85)この他に現代でいうところの工兵に相当する部隊も存在し、渡河や城攻めで大きな役割を果たした。
先の知恵泉/NHKの番組で、秀吉は工兵をかなり活用した、とありました。
86)特にアッシリア軍は弓兵を多く用いたという。
つまりは、攻撃力を重視した訳です。攻めるは守るなり。
87)盾兵は敵の弓矢から味方の兵士を守るために大型の盾を装備した部隊であり、弓兵とセットで運用された。
88)戦車部隊は中アッシリア時代に恐らくミタンニのそれを参考にして採用されたと考えられ、アッシリア帝国期でも重要な兵科であった。
89)特に「足の戦車」と呼ばれた王直属の戦車部隊は親衛隊とも言うべき役割を担う部隊であった。
90)鉄の武器を使用し、東方高原から輸入した軍馬を用いた騎兵はこの時代に新たに導入された兵科である。
この時代既に騎兵の優秀さが使用されています。これも必要な、ゲームの変更点です。
91)当時はまだ鞍、鐙などの馬具が発明されておらず、後の時代の騎兵に比べて運用は困難だったと予想されるが、重要な兵科としてすぐに広まった。
92)アッシリアの浮き彫りの中には馬上から弓矢を射る弓騎兵や、槍を構えて突撃する騎兵の姿を写したものがあり、当時の戦争の様子を知ることができる。
日本では騎射は鎌倉時代ですから、かなり差が有ります。
93)兵員数は最も多い時で200000人と当時の記録にはあるが、誇張であるとの説も根強い。しかし考古学者の予想する兵員数は数の開きが多く、最も少ない見積もりでは50000人程度とする説もある。
94)正確なところは不明であるがしかし、シリア地方の諸国家の軍が時に数十人から数百人規模で記録されていることを考えれば、少なく見積もっても当時としては圧倒的な兵員数を誇ったことは間違いない。
95)『旧約聖書』とアッシリア:
96)『旧約聖書』はアッシリアについて著述された文献のうち後代まで継続して受け継がれた数少ない文献の一つである。
97)『旧約聖書』の中でアッシリアは外敵として描かれる。
98)取り分け『列王記』の中の記述では、アッシリアがイスラエルに攻め込んだ様、そしてイスラエル王国やユダ王国がそれにどのように対応したかが、宗教的修飾を伴うものの詳しく叙述されている。
99)概略はプル王(ティグラト・ピレセル3世)がイスラエルに侵攻して以来、イスラエルとユダの王が時に貢物を贈って災禍を免れたことや、アッシリア統治下でイスラエル人達が各地に強制移住させられたこと、
そして元の土地には入れ替わりにバビロニアなど各地の人間が入植させられたことが記述されている。
ですからこの時代既に、土地問題、領土問題が生じている訳です。
100)また、『イザヤ書』の中では主がアッシリアに罰を下すであろうこと、そしてアッシリアを恐れてはならないことが主張される他、『ナホム書』と『ゼファニヤ書』では将来のアッシリアの滅亡が預言される。
101)これらからは当時の被征服者達の対アッシリア感情の一端を垣間見ることができる。
102)さらに、『ヨナ書』では被征服者から怨嗟のまなざしを投げかけられるアッシリアの都ニネヴェですら、ヤハウェ神の愛が及ぶことを説くことで、イスラエル人部族連合体の神から全世界を統べる唯一神への、ヤハウェ神概念の拡張が表現されている。
103)『旧約聖書』のアッシリア観は近現代の研究者達にも多大な影響を与えた。
104)現在、アッシリア学においては、信仰的な理解で『旧約聖書』を扱うことは一般的ではないが、古代の記録としての『旧約聖書』が極めて重要な史料であることに関しては疑いを入れる余地はない。
105)またアッシリア王の名前は『旧約聖書』のヘブライ語表記に基づいたものが広く普及している(例えばセンナケリブはアッシリア人自身の用いたアッカド語ではシン・アヘ・エリバ、となる)。
イスラエルは強敵アッシリアと戦う過程で、より強力な統一神、唯一神(某マンガでは全能神)を必要としたのでしょう。
次は「アケメネス朝」ページです。
1)アケメネス朝(アケメネスちょう、古代ペルシア語:〇、ハカーマニシュ、古代ギリシア語:〇、アカイメネース)は、古代オリエントのペルシアに存在した王朝・帝国・遊牧国家。アケメネス朝ペルシアまたは単にペルシア帝国とも呼ばれる。
2)インド・ヨーロッパ語族の民族であるペルシア人が建設し、4王国(メディア、リュディア、新バビロニア、エジプト第26王朝)に分立していた古代オリエント世界を統一した。
3)ダレイオス1世の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な世界帝国となったものの、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされた。
この説明は歴史の流れが良く分かります。ですからCivでは、ペルシアよりもギリシアの方が新しい訳です。
4)名称:
5)アケメネス朝の名称は、この家祖であるアケメネスに由来する。
6)海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従ったハカーマニシュ朝か、古典ギリシャ語の発音に従ったアカイメネス朝のどちらかを用いている。
7)この王朝の君主は称号として大王、諸王の王(〇、〇)を称した。
8)単にペルシア王国、ペルシャ王国、またはペルシア帝国、ペルシャ帝国といった場合は、この王朝か、3世紀に興ったサーサーン朝を指すことが多い。
9)歴史:
10)紀元前7世紀の後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。
11)テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族とペルシアに残った一族の2つの系統に分岐した。
12)アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。
13)紀元前550年に、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人(英語版)とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。
14)イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアのリュディア、エラム、メソポタミアの新バビロニアを滅ぼした。
15)ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。
16)しかし後年アルゲアス朝マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、
ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。
17)紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)はエジプト(エジプト第26王朝)を併合(英語版)して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。
18)カンビュセスは弟のスメルディスを殺した。
19)カンビュセスの死後の2年間はメディア人のマゴス、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。
20)ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。
21)寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。
そしてこれが、帝政のメリットなのでしょう。君主も僭称ではなく、選択されています。
22)最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニア・トラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。
23)なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある。
24)ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)は古代ギリシア征服を計画してペルシア戦争(紀元前492年−紀元前449年)を起こしたが、失敗した。
25)紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦やプラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。
26)その後は紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世は紀元前449年のカリアスの和約で講和した。
27)ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431年−前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、
ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(紀元前395年から紀元前387年のコリントス戦争がその典型である)。
28)その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱(紀元前372年−紀元362年)に悩まされていた。
29)紀元前404年に、ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世と小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。
30)ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。
31)宦官で大臣のバゴアス(英語版)によりアルタクセルクセス3世とアルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。
32)ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王とのガウガメラの戦いに敗れて紀元前330年に滅んだ。
33)ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラ、パリュサティス(英語版))と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。
34)なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。
35)統治
36)概要:
37)アケメネス朝は全国を36の行政区画に分け、各州ごとに行政官としてサトラップ(総督や太守などと訳される)を置いた。
この辺り、日本の都道府県制度にもよく似ています。
38)また、そのサトラップを監察する目的で、年に一度、中央政府から「王の耳」・「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。
39)さらに「王の道」と呼ばれる国道を建設して駅伝を整備し、通貨制度を創設した。
国道は伝令や軍隊の移動に必要です。
40)そして、フェニキア人とアラム人の商業を保護する政策も取った。
41)アッシリアが武力で支配したのに対し、アケメネス朝は各地方の民族の文化に対して寛容な政策を取ったため、アッシリアと比べ長期間の支配を行えたと言われる。
寛容な支配、ですね。(笑)
42)文化:
43)楔形文字を表音文字化した古代ペルシア楔形文字を発明した。
44)公用語は古代ペルシア語と、帝国アラム語(Imperial Aramaic)ないし公用アラム語(Official Aramaic)と呼ばれる標準化されたアラム語だった。
45)エラム語やアッカド語(バビロニア方言)の記録も残されている。
46)ゾロアスター教、またはそれに近い宗教が王族達の間で信仰された。
47)関連項目:アフラ・マズダー、楔形文字、ゾロアスター教、ベヒストゥン碑文、ペルシア戦争、メソポタミア、歴史(ヘロドトス)、イラン建国二千五百年祭典、サーサーン朝
アフラ・マズダーはゾロアスター教の善神です。ヘロドトスは有名なハリカルナッソス(〜トルコ)の歴史家です。歴史の父と呼ばれ、歴史書『歴史』を書しました。次は「帝国」ページです。
1)帝国(ていこく)は、皇帝の支配・統治する国家、または自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家、軍事力で広大な領域を支配している国や侵略主義的な大国。
2)「帝」という漢字の意味は最高の神、天下のきみであり、「エンパイア」(empire)という英語の原義は皇帝の統治に従う領域。
3)→「皇帝制(帝国主義)」、「王の中の王」、「神の帝国」、「千年帝国」、および「君主制」も参照
普通の認識では、複数の国家を従えている、でしょう。(笑)
4)語源
5)ヨーロッパ:→詳細は「ローマ帝国§名将」、および「インペリウム」を参照
6)ヨーロッパにおける「帝国」(英語:empire, ラテン語:imperium dominion)の概念は、共和制ローマ以降のローマの命令権、統治権(ラテン語:imperium Romanum(インペリウム・ローマヌム))が及ぶ領域を指す概念に由来する。
ですから、領土範囲を意味していた訳です。
7)この「インペリウム」という語は、後の帝政ローマやフランク王国、神聖ローマ帝国などでも使用された。
8)英語で「帝国」を意味するエンパイア(Empire)の語源でもある。
9)この命令権、統治権を共和制ローマから託された統治者・軍司令官をラテン語でインペラトル(ラテン語:imperator)と呼ぶ。帝政ローマ以降は君主であり「ローマ皇帝」と訳される。
10)ドイツ:→詳細は「ライヒ」を参照
11)一方、ドイツ語ではインペリウムに相当する固有の語がなく、個々の「州」(land)や「領域」(state)より広い「国」を意味するライヒ(Reich)の語が、空間的インペリウムを意味する語としても代用された。
12)しかし、ライヒはラテン語のレックス(rex、王)・Regnum(王国)から派生した語であり、したがって「王」が統治する「王国」が本義であり、ラテン語でもインペリウムとは区別される。
13)したがって英語のエンパイアとも意味に差異がある。
14)東アジア:→詳細は「皇帝§東アジアの皇帝」を参照
15)「帝」の意味は宇宙の最高の神、最大最高の神靈、上帝、天下を治めるきみ。
16)「帝国」という二字熟語は和製漢語である。現代の中国語で用いられている「帝国」の語は、19世紀頃に日本より輸出された語であり、例えば清を最初に大清帝国と呼び始めたのも日本であった。
17)中国において「帝国」(中国語:帝國(ティグォー))の語は、隋の王通とその弟子による『文中子』の中に「戦国の強国は国を兵で治め、春秋五覇は国を智恵で治め、三代の王は国を仁義で治め、五帝は国を恩徳で治め、三皇は国を無為に治めた」
と現れるが、これは現代に伝わる「帝国」とは明らかに異なる語である。
18)中国では「国」の本義は都市国家であり、また概念上、皇帝が治めるのは国ではなく天下(世界)であり、国を傘下に収める。
19)日本:
20)日本における「帝国」の用語は、上記の中国の『文中子』の和刻本が江戸時代中期に出版されたことより、日本の蘭学者が訳語として使用した可能性が高い。
21)1713年(正徳3年)の新井白石による『采覧異言』の時点では、「インペラトル」を「一級王」や「帝」と表記しているが、「帝国」という用語はまだ見られない。
22)1789年(寛政元年)の朽木昌綱による『泰西輿地図説』には、オランダ語の「Keizerdom」(現代オランダ語ではkeizerrijk)に対して「帝国」という訳語が使用された。
23)オランダ語の「Keizerdom(Keizerの国)」は「Koningdom(Koningの国)」と対比される語で、帝国を「皇帝の国」とする意味も、この時に生み出されたものと考えられる。
24)まもなく「帝国」の語は「Keizerdom」とは由来も概念も異なる英語の「Empire」の訳語としても用いられるようになり、ここに「Keizerdom」と「Empire」という二つの異なる意味の語が融合し、日本独自の「帝国」なる概念が誕生した。
25)ただし、西洋における帝国および皇帝の概念は日本における帝国や皇帝の概念とは根本的に理念が異なり、帝国あるいは皇帝といった訳語には議論がある。
§用語以下は省略します。古帝国は、現在の帝国の定義とは必ずしも一致しないと思います。
26)歴史上の帝国:→「帝国の最大領域一覧」も参照
27)古代の帝国:
28)「帝国」は古代より、皇帝の支配する統治体や、複数の政治単位を統治する広域的支配を指した。
29)歴史的現象としては古代中国の帝国、シュメール・バビロニア帝国、エジプト王朝、アレクサンドロス大王の野望、ローマ帝国などに帝国主義的傾向がある。
30)15〜18世紀の領土獲得や19世紀後半以降の植民地政策も帝国主義的と見なされているが、しかし理論的には古代から現代にいたるまで多くの学説があり、一致した見解はないとされている。
31)オリエントの帝国 アッシリア・アケメネス朝など:→詳細は「アッシリア帝国」、「ヒッタイト帝国」、「アケメネス朝」、「バビロニア帝国」、「パルティア王国」、および「サーサーン朝」を参照
32)アッカド帝国:→詳細は「アッカド」を参照)
33)紀元前2300年ごろ、サルゴンがアッカドを創始した。少なくとも最初期の強国であったと考えられるが、ここでいう帝国とは資料から読み取れる領土を指してのことであり、アッカドがどういう国であったかは詳しいことはわかっていない。
世界最古の帝国といった場合は、アケメネス朝ペルシア帝国、もしくはアッシリア帝国を指すことが多い。
34)ウンマのルガルザゲシが覇権を握り、下の海から上の海まで(それぞれペルシア湾、地中海)の領土を獲得していた。
35)サルゴンはウル・ザババ王に仕えていたが反乱を起こし、やがてはルガルザゲシを破り覇権を握った。
36)サルゴンは世界の王を称し、後のサルゴンの孫ナラム・シンは遠征を繰り返し、領域を最大に広げ、四方領域の王と名乗ったことが知られている。
37)サルゴン登場後からアッカド語が歴史に登場するようになり、ナラム・シンの遠征の記録が残っていることから、アッカドが強大な国であったことは確実だが、正確な領土の範囲はわかっていない
(サルゴンが倒したルガルザゲシ王の領土も議論があり、下の海から上の海までの範囲が本当ならば、サルゴンが仕えたウル・ザババ王は彼の属王ということになる)。
38)後に、グティ人が侵入し、シャル・カリ・シャッリ王を最後に滅亡した。
39)グティ人侵入後は、「誰が王で、誰が王ではなかったか」といわれる暗黒の時代を迎える。
40)だが、近年の研究により、アッカド滅亡の原因は内部崩壊によるもので、グティ人の侵入は事実であるが誇張を含むという説が一般的になりつつある。
41)バビロニア帝国:→詳細は「バビロニア」を参照
42)アッカド滅亡後のメソポタミアはグティ人の王が支配していたが、ウトゥ・ヘガルが反乱を起こし、グティ人の追い出しに成功する。
43)この後、再び都市国家間の戦争が活発化する。
44)時は流れ、紀元前1800年ごろ、アムル人のスムアブムがバビロンで王朝を開く。
45)その後、彼から数えて6代目の王であるハンムラビが全メソポタミア地域を統一する。
46)アッシリア帝国:→詳細は「アッシリア」を参照
47)歴史的にイスラエル王国と関わりがあったため、『旧約聖書』にも敵として名が登場する(ソロモン王死後に北南に分裂したイスラエル王国は、紀元前721年にアッシリア王サルゴン2世によって北イスラエル王国が滅ぼされている。南はユダ王国)。
48)当時のメソポタミア地域では強国が乱立していたが、やがて、優秀な指導者の下に成長したアッシリアは周辺諸国を侵略し、当時の国家群の中では最大の領域を誇るまでに至った。
49)特に、アッシュールバニパル王は領土拡大とともにニネヴェ図書館(またはアッシュールバニパルの図書館)と呼ばれる巨大図書館を建造し、数万点に及ぶ粘土板を保管した。
50)それらは、当時の神話、歴史、文化などを知る上で絶大な貢献を果たしている。
51)紀元前612年、新バビロニアとメディアの攻撃をうけて滅亡した。
52)アケメネス朝ペルシア帝国:→詳細は「アケメネス朝」を参照
53)アッシリア帝国が滅亡した後のメソポタミア地域は、新バビロニア、メディア、リディア、エジプトなどの強国が乱立することとなった。
54)当時はアケメネス朝アンシャンという小国の一つであったが、アッシリア帝国の時代から存在していた。
55)アケメネス朝ペルシアにおいて最も重要な人物はキュロス2世(紀元前600年頃−紀元前529年)である。
56)彼はエジプトを除くメソポタミア地域を統一し、2代目のカンビュセス2世がエジプトを征服した。
57)このころは中国も統一国家が現れていない春秋時代のころであり、ローマも大規模な都市を形成する以前の段階であった。まさしく世界最大の国家として君臨した。
58)4代目のダレイオス1世はギリシア遠征を計画し、その後に続くペルシア戦争の火蓋を切るが、近年の研究によって、王朝の創始者である大キュロスの直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したことが
ほぼ明らかになっている。
59)つまり、連綿と続く王朝ではなく、キュロスの王朝とダレイオスの王朝に二分されているというのが実相であった。
60)この後に登場するアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼすことになる。
61)アレクサンドロスの帝国:→詳細は「マケドニア王国」を参照
62)古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王は紀元前336年に20歳で王位に就いた。
63)父ピリッポス2世が活用したファランクス戦法を受け継ぎ東方遠征を開始し、エジプトを占領し、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いなどでペルシア最後の王ダレイオス3世と激戦を繰り広げ大勝した。
64)アケメネス朝滅亡後、メソポタミア全域を征服したアレクサンドロス大王は、紀元前326年、さらに東方を目指し、インド遠征に乗り出し、インダス川を越えてポロス王らと戦うが、その後、兵士の疲労により退却した。
65)帰還したアレクサンドロス大王はさらにアラビア遠征を計画するも、紀元前323年、スーサで病に襲われ急死した。
66)大王の東方遠征は、数々の逸話、伝説として後世に残され、マケドニア、ギリシャ、エジプト、ペルシア、インド西域にまたがる大帝国を築いた。
67)大王は異なる民族を一つにまとめ上げようとし、例えば、ペルシアの兵士はマケドニア式の訓練を行なったり、オリエントの女性と結婚した上、部下にもオリエントの女性との結婚を奨励したりした(ヘレニズム文化)。
68)しかし、大王の早すぎる死後、王位継承権を巡って内戦が起き、ディアドコイ戦争が始まった。
69)ディアドコイ戦争後、分裂した帝国は、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝、マケドニアのアンティゴノス朝にわかれたが、これらは皆、後のローマの拡大に呑み込まれていくこととなる。
70)ローマ帝国:→詳細は「ローマ帝国」を参照
71)ローマ帝国は以後のヨーロッパにおける「帝国」の概念の基礎・規範となった。
72)ローマの場合、共和政時代後期からギリシア・北アフリカ・シリアなどを支配し、既に帝国として成立していた。
73)ユリウス・カエサルが、いわゆる帝政ローマの基礎を作り、アウグストゥスが初代「ローマ皇帝」となったとされる。
74)つまり、まず先に「ローマ帝国」があり、それを治める統括者として後に「皇帝」が生まれた。
これは分かり易いたとえです。
75)また、皇帝の誕生後も名目的には帝国の政体は共和制のままで、ローマ皇帝とは「ローマの元老院と市民に忠誠を誓い、法を遵守し、元老院と市民の利益を保護する義務と職務」を請け負った「市民」のことであった。
76)すなわち「ローマ帝国」の存在は「ローマ皇帝」の存在を前提としないのであって、ローマ帝国の「帝国」を「皇帝の国」と誤解させうる「ローマ帝国」や「ローマ皇帝」との和訳には異論がある。
これは席亭も初耳です。
77)ローマ帝国は、支配地域に、ローマ法・ラテン語(東方ではギリシャ語併用)などローマ(ラテン)民族の諸文化を優れた建築技術を始めとした先進技術と共に行き渡らせ、複数の民族を同化・統合して強大な勢力を作り上げた。
78)その支配は、本土たるイタリアを始め、北アフリカ・ガリア(現フランス)・ブリタニア・イベリア半島・バルカン半島・アナトリア半島・シリア・エジプトに及び、「地中海世界」とも称される文明圏を作り出すことに成功した。
地中海世界は、フェニキア時代でもそうだと思います。
79)さらに、その最盛期には広大な領土の隅々に至るまで平和と繁栄をもたらし、俗に、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」とも「人類が最も幸福だった時代」(エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』)とも評される安定を創出した。
日本では、これは江戸時代です。
80)212年には、カラカラ帝によって、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、さまざまな宗教・文化を持つ民族が「ローマ人」として統合されるが、これは結果としてラテン系ローマ人の民族的結束を失わせ、帝国弱体化の遠因となった。
81)3世紀後半になると、ローマ帝国の政治的混乱は頂点に達し、インペラートルを名乗る者が同時に何人も出現するような事態となった。この事態を収拾した4世紀の皇帝ディオクレティアヌスは、共和政の「元首」の延長であった皇帝を、
サーサーン朝ペルシャ帝国のシャーのような完全な専制君主とすることで帝国の統合を強化しようと試み、自らをドミヌス(主人)と呼ばせた。
82)彼の思想を受け継いだコンスタンティヌス1世は専制君主制を強化する一方で、313年にキリスト教を公認し、自らも改宗することによってキリスト教を帝国の統合の柱に据えようとした。
83)ここに、共和制以来の「インペラトル」に、キリスト教の思想と東方的な君主制とが結びつき、「元老院・市民・軍隊の推戴」をうけた「神の代理人」である皇帝が「全世界の主」として統治するという体制が築かれた。
84)この体制はローマ帝国の後継国家である東ローマ帝国にも受け継がれ、さらに発展した。
85)この強固な政教一致体制によって、東ローマ帝国は1453年まで生き続けた。
キリスト教が想定する社会とは先のアッシリア時代のそれでしょうから、体制としてはかなりオールドファッションです。ギリシアや古ローマの理想は、潰えました。そしてこれが、暗黒の中世の原因でしょう。(苦笑)
86)中華帝国:→詳細は「中華帝国」を参照
87)秦に先立つ中華王朝としては、殷と周等が存在するが、どちらも現在中国と呼ばれる地域よりも遥かに領土は小さく、そもそも都市国家連合であり領域国家ではない。
・秦王朝
はじめて中国を統一した王朝(帝国)は、秦王朝である。中国史上において秦の始皇帝がはじめて皇帝を称し、また分裂した諸国を統一して広大な領域国家を成立させた。
・漢王朝
ただし秦はわずか15年の短命政権に終わり、その後は漢王朝の時代となる。現在の中国の大多数を占める漢民族は、この王朝の名に由来する。
・元王朝
1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた中国の征服王朝である。
88)その他の古代の帝国:
・カルタゴ
フェニキア人が地中海沿岸に築いた都市国家の中で最強勢力。他のフェニキア人系都市国家や北アフリカの土着勢力を支配下とし、その他地中海の諸島やイベリア半島にも進出し、西地中海の覇者となった。
・アテナイ海上帝国
元来はアケメネス朝ペルシアの脅威に備えての、アテネを中心とする古代ギリシアの各ポリスの軍事同盟(デロス同盟)であった。ペルシアの脅威が薄れるにつれて、最大のポリスであるアテネが、他のポリスを支配する機関へと変貌していった。
後世において、アテネが各ポリスの支配者として君臨するこの体制を、アテナイ海上帝国と称する。
・スパルタ
古代ギリシアのポリスの中でも、特異な軍事国家となった。その軍事力でアテネに勝利し、一時的にギリシアに覇を唱えるが、各ポリスの支配者として君臨する能力は持ち合わせておらず、短い間の覇権に終わった。
§中世の帝国以下は省略します。次は帝政に必要な、「官吏、官僚」です。
→官吏、官僚