マケドニア
Wikiでマケドニアを調べると、「マケドニア」ページがヒットします。
1)マケドニアとは、東ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的な地域である。
2)67,000km^2ほどの広さに約465万人が住み、スコピエ(北マケドニアの首都)やテッサロニキ(ギリシャ領内マケドニアの中心都市)が人口や経済における2大都市である。
3)現在、大半が
1.南部およそ50%がギリシャ(エーゲ海に由来する「エーゲ・マケドニア」)
2.北西部およそ40%が北マケドニア共和国(域内を流れるヴァルダル川に由来する「ヴァルダル・マケドニア」)
3.北東部および10%がブルガリア(ブルガリア・北マケドニア国境に位置するピリン山脈に由来する「ピリン・マケドニア」)
の3ヶ国の領土に分かれている。
4)また、
1.マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド(アルバニア領)
2.ゴーラ(コソボ領〜アルバニア領(ゴーラ人))
3.プロホル・プチニスキ(セルビア領)
もマケドニアの一部と見なされる。
5)上述の「エーゲ・マケドニア」、「ヴァルダル・マケドニア」、「ピリン・マケドニア」などの名称は、マケドニア地域の統一感を好むスラヴ・南スラヴ系マケドニア人(マケドニア語)によって好んで用いられ、ギリシャ人やブルガリア人から見ると
攻撃的で不快な呼称と受け止められることもある。
6)歴史:→詳細は「en:Demographic history of Macedonia」および「en:History of the Macedonians(ethnic group)」を参照
7)マケドニア王国・古代マケドニア人:
8)古代、アレクサンドロス大王を出した、ギリシャ人の多く住んでいた故地で、大まかに
1.山地・北西部のアッパー・マケドニア
2.海沿い・南東部のロウワー・マケドニア
の2エリアに区分して認識された。
9)古代ギリシア語を話し、古代オリンピックにも参加するなど、古代ギリシア世界に含まれたと見做されている。
10)マケドニア属州:
古代ローマの属州
以下は省略します。これだけでは味気無いので、「アレクサンドロス3世」ページも参考にする事にします。Civでは、ギリシアの指導者はアレクサンドロスでした。席亭などはピンと来ません。
ギリシアと言えば、やはりアテナイ(現在のアテネ)とスパルタですよね?(苦笑)
1)アレクサンドロス3世(ギリシア語:〇、紀元前356年7月20日−紀元前323年6月10日)、通称アレクサンドロス大王(ギリシア語:〇)は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(王)
(在位:紀元前336年−紀元前323年)である。
2)また、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオを兼ねた。
ですから、彼の領土は莫大だったのです。
3)ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。
4)ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、ドイツ語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。アラビア語やペルシア語ではイスカンダルと呼ばれている。
これも席亭は初耳でした。イスカンダルは、宇宙戦艦ヤマトでは惑星名ですよね?(笑)
5)概要:
6)紀元前356年にアルゲアス朝マケドニア王国ペラで生まれ、20歳で父であるピリッポス2世の王位を継承した。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、
30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設した。
戦術・戦略の天才であり、少年のごとき純朴な野心を持っていた。戦えば決して負けることがなく、確かな戦略で領域を急速に拡大し、異民族統治においては独創的な方針をとった。彼の業績は征服戦争に成功したことだけにあるのではない。
当時のギリシア人が考える世界の主要部(ギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インド)のほとんどを一つにつないだ若き『世界征服者』であり、異文化の交流と融合を図る諸政策を実行し、広大な領域にドラクマを流通させることで
両替の手間を省いて迅速かつ活発な商取引を実現したことにある。アレクサンドロス以後、世界は一変したのである。また、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられている。
7)青年期、アレクサンドロスはプトレマイオスを学友として過ごし、16歳までアリストテレスの教えを受けた。
8)紀元前336年に父王が暗殺されると、彼はその王位を継承するとともに、強大な王国と熟達した軍隊を受け継ぐこととなった。アレクサンドロスはコリントス同盟の盟主としてマケドニア王位に就いたので、
この立場を使い父の意を継いで東方遠征に着手した。
9)紀元前334年、アケメネス朝(ペルシャ帝国)に侵攻し、10年に及ぶ大遠征を開始した。アナトリアの征服後、イッソスの戦いやガウガメラの戦いといった決定的な戦いによって強大なペルシャを打ち破った。
そして、ペルシャ帝国の王であるダレイオス3世を破りペルシャ帝国全土を制圧した。その時点で彼の帝国はアドリア海からインダス川にまで及ぶものであった。
10)紀元前326年、インドに侵攻し、ヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族に勝利する。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すこととなった。
11)紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で崩御。その崩御後、彼の帝国は内戦(ディアドコイ戦争)によって分裂し、
マケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。
彼の帝国は一代限りでしたが、家康などはあるいは彼の話を知っていたのでしょうか?
12)アレクサンドロスの征服によって生じた文化伝播とシンクレティズムはギリシア式仏教などに見られる。自分の名前にちなんで20あまりの都市を建設し、中でもエジプトのアレクサンドリアは最も有名である。
アレクサンドリアには大きな図書館が有りました。
13)アレクサンドロスによるギリシア植民地の支配とそれによるギリシア文化の東方への伝達は古代ギリシアと古代オリエントの文明を融合させ、ヘレニズムと呼ばれる新たな文明の出現をもたらした。
14)この側面は15世紀中盤の東ローマ帝国の文化や1920年代までギリシア語の話者がアナトリア半島中部から遥か東(ポントス人)にまでいたことにも現れている。
15)アレクサンドロスは古典的な英雄であるアキレウスのように伝説として語り継がれ、ギリシャと非ギリシャ双方の文化における歴史や神話に顕著に登場する。
16)歴史上の軍事指揮官は頻繁にアレクサンドロスと比較され、その業績は今も世界中の軍学校で教えられる。歴史上もっとも影響力のあった人物としてしばしば挙げられる。
17)ハンニバル、ガイウス・ユリウス・カエサル、ナポレオンなどの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。
18)旧約聖書やコーラン、ゾロアスター教、シャー・ナーメなど多様な民族の文献にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に因んだ名前をつける人は多い。
19)1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や旧100ドラクマ硬貨、1926年からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。
§生涯、は省略します。
20)崩御後:
21)アレクサンドロスの崩御後、異母兄で精神疾患のあったピリッポス3世と、アレクサンドロスの崩御後に生まれた息子アレクサンドロス4世が共同統治者となったものの、後継の座を巡って配下の武将らの間でディアドコイ戦争が勃発した。
ピリッポス3世は紀元前317年に、アレクサンドロス4世は紀元前309年に暗殺され、アレクサンドロスの帝国はディアドコイらにより分割・統治されることとなった
(プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア)。
22)アレクサンドロスの死と当時の社会情勢により民衆に不安が広がり、インフレーションが発生した。これが記録が残る最古のインフレーションである。
23)人物
24)指揮能力:
25)アレクサンドロス3世が大王と呼ばれるようになるのは、軍事指揮官として類を見ない成功を治めたことによる。たとえ数で圧倒的に凌駕されていようとも、一度も戦いにおいて負けることがなかった。
26)これは地形とファランクス、騎兵戦術、大胆な戦略、そして部下の強い忠誠心を使ったことによる。6メートルの長さを持つ槍(サリッサ)で武装するマケドニアのファランクスは、ピリッポス2世による厳格な養成によって熟練させられ、
アレクサンドロスはそのスピードと運動能力を最大限利用した。
Civのギリシアでも、この重装歩兵(槍兵)は強いです。
27)融合政策:
28)アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。帝国の公用語に古代ギリシア語を採用した。さらにペルシャ文化への融合に心を配り、
自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(この集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚する事例はなかった)、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ代官に現地有力者を任命した。
ですから、当時は父系社会(〜軍事国家)だったのでしょう。
29)ヘレニズム:→詳細は「ヘレニズム」を参照
30)ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。
エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの学者も輩出、その後古代ローマに強い影響を及ぼし、サーサーン朝などにも影響を与えた。
31)マケドニア軍の強さ:
32)純朴で質素な生活を営んでいたマケドニア人は苦難に耐える良い兵士であり、ギリシア南部の諸ポリスで伝統的であったファランクスの軽装化と盾の廃止による長槍の長大化、それに対応した編成に改良を加えたマケドニア軍は、
当時の地中海世界において精強な軍隊であり、各々の将兵は軍務に誇りを持つ練達の兵士であった。
33)また、アレクサンドロスは状況に応じて異なった兵種を組み合わせて即座に混成部隊を編成し、敵がどのような軍隊であっても柔軟に対応することができた。例えば、遊牧民スキタイとの戦いでは、敵のヒット・アンド・アウェイ戦法に対し、
投槍騎兵と軽装歩兵の混成部隊を用いてこれを敗走させた。
これは現代のタスクフォースです。
34)世界の歴史上軍事の指揮官において如何なる人間でもどのように過小評価しても、最大級の評価されるべきほどの戦術家でもあるアレクサンドロスに指揮されたマケドニア軍は、当時世界最強の軍隊であった。
35)戦術家としてだけではなく、アレクサンドロスは戦士としても有能であった。アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった。
36)数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。
猛将の下に弱卒なし、です。
37)このようなマケドニア遠征軍に対しペルシア軍は大軍を動員したが、当時は利害が絡み合う各国傭兵による混成軍であったことから士気が低く、相互に連携した行動を取る修練も欠いていた。
このため、継戦能力が乏しく、敗走を開始すると建て直しが困難であった。
38)兵站と進軍:
39)父王ピリッポス2世は、アテナイの軍人クセノポンからヒントを得て歴史的に初の戦場への馬車と牛車と家族の帯同を禁止し、歩兵と騎馬に荷(長槍、食料、道具、調理器具、毛布、建築資材、医薬品など40kg以上)を負わせることで、
余計な足枷と負担を無くし迅速で機動的な戦力の展開を行えるようにした。アレクサンドロスも地形の問題や負傷兵が多い場合を除き、父王の戦略を踏襲している。
食料は、小麦、大麦、キビなどの乾燥穀物をパンや粥として食べた。そのほかには、干肉、ナツメヤシやイチジクなどのドライフルーツ、現地調達の肉や貝、果物などである。
これらは(保存の効く)携行食です。
40)進軍では、偵察から得た情報をもとに食料の多い地域を優先し軍隊の規模を維持していた。しかし、砂漠の多いペルシャでは、水が貴重なため水源から水源へ移動を行った。
§イスカンダル伝承、§逸話、エピソード、§伝説、§創作上におけるアレクサンドロス3世も面白いのですが、省略致します。アレキサンダー大王ではなく、マケドニア、ですものね。(笑)
それに大王ファンは、書籍を購入して一気通貫、通読した方が楽しめますよね?(苦笑)
内海(地中海)を巡る興亡に戻ります。
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