カルタゴ
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1)カルタゴは、紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えた、フェニキア人による国家。中心となる都市(首都)はチュニス湖東岸にあった。地理的には、現在のチュニジア共和国の北側を中心とした。
フェニキアの本国は地中海東岸に在りましたから、こうなるのでしょう。カルタゴは当初は植民地扱いでした。
2)カルタゴは造船技術や水運や海上貿易のノウハウに優れ、地中海の貿易によって経済力や軍事力を誇り、地中海の西部の海上交易を支配した。
3)文化の中心地としても栄え、アフリカ北岸の広域やイベリア半島の南側を領土として支配した。地中海南岸に本拠地を持つ大国であり、地中海北側に本拠地を持つローマと競い合った。
4)概要:
5)カルタゴは元々はベルベル人が住んでいた。紀元前9世紀ころに、地中海東岸のティルスを本拠地としていたフェニキア人によって、地中海内の植民都市の一つとして建設された。
6)本国のティルスがアッシリアに支配されてからは、フェニキア人にとってはカルタゴのほうが本拠地となり、ここを拠点として西地中海の貿易を支配してゆくことになった。
7)その後、地中海北側から突き出たイタリア半島を本拠地に台頭してきたローマと、地中海の覇権を競うライバル関係となり敵対し、地中海覇権の鍵を握る中央部の島々(シチリア島など)の支配をめぐってローマと軍事的に激突。
8)カルタゴとローマの間の一連の戦争は、(カルタゴは、当時、ローマ人からは「ポエニ」と呼ばれていたので)「ポエニ戦争」と呼ばれている(紀元前264年〜紀元前146年)。
9)造船技術に非常に優れ、海軍力に優れたカルタゴに対して、ローマは陸上の歩兵戦では優れていたが海戦は苦手とし、両国の軍隊は対照的であった。
10)カルタゴからは、ハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカなど、幾人もの卓越した軍事司令官が輩出され、ローマの本拠地を攻撃する目的で「アルプス越え」を行って北側から陸伝いに攻撃を行い、歴史に残るような大勝も成し遂げた。
席亭もアルプス越えは知っていましたが、この時代だとは知りませんでした。
11)だがローマの本拠地を支配することには成功せず、強大化しつづけるローマに対して次第に劣勢になり、ついには本拠地の城塞都市もローマの大軍に包囲され、それでも3重の強固な城壁に護られた城塞都市のおかげで何年にも渡り籠城戦に耐えたが、
ついにはローマ軍に城壁を乗り越えられ都市を全て焼き払われ、もともと50万人はいた カルタゴ人は5万人になり、残ったカルタゴ人も逃亡したり奴隷になるなどし、カルタゴは滅亡した。
12)だが紀元前45年にカエサルによって再建され、ローマ帝国の都市、ローマ帝国内屈指の大都市として繁栄した。
ゲーム「セーリング・エラ」においても、このチュニスは大切な都市です。
13)現在は歴史的な遺跡のある観光地となっているほか、行政上はチュニス県カルタゴ市としてチュニジアの首都圏の一部を成す。
14)「カルタゴ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(〇=「新しい町」)に由来するとされる。
〇は、フェニキア語です。
15)地理:
16)カルタゴが建設された地形は、水深が浅く、錨を下ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが港の建設をする条件に沿っている。
17)カルタゴは地中海の東西のほぼ中央にあり、前8世紀頃にはイベリア半島のガデスからフェニキア本土のテュロス等へと貴金属を運ぶ航路の中間にあった。この位置が、カルタゴが繁栄する一因となった。
ガデスはジブラルタル海峡の西に在ります。
18)フェニキア人の地中海の航路は反時計回りであり、イベリア半島から東へ向かう船は北アフリカの海岸沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、イビサなどの島々を経由した。
これは風向きなどによって決まるのでしょう。
19)歴史
20)カルタゴ建国伝説:
21)カルタゴの建国に関して確実なのは、ティルスを母市としたフェニキア人が建設したこと、ティルスと同じメルカルト(Melqart)が町の守護神であったことなどである。
22)カルタゴは同じフェニキア系都市で先に入植されたウティカやガデスの寄港地として開かれたと考えられている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前8世紀後半のものが最も古い。
23)ティルスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン(Pygmalion of Tyre)から逃れてカルタゴを建設したとされる。ディードーは主神メルカルトの神官の妻だったが、ピュグマリーオンがディードーの夫を殺害したためにテュロスを去った。
24)ローマの歴史家グナエウス・ポンペイウス・トログスの『ピリッポス史』によれば、岬に上陸したディードーは、1頭の牛の皮で覆うだけの土地を求めた。
25)岬の住人が承知をすると、細く切った皮で紐を作って土地を囲い、丘全体を手に入れる。この丘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサと呼ばれるようになった。
26)ビュルサには近隣の人々が集まるようになり、同じくフェニキア系の都市であるウティカから使者が訪れ、都市の建設が始まる。
27)皮で囲まれた土地については、地代としてアフリカ人へ貢租を支払うことになり、前5世紀まで支払いが続いたとされる。
28)古代ローマの詩人ウェルギリウスは、上記とは異なるディードーの伝説を『アエネイス』で書いている。
29)ポンペイウス・トログスによるディードーの伝説に従えば、カルタゴはテュロスによる正規の植民都市ではなく、亡命者の土地にあたる。
30)また、神官の妻だったディードーは宗教的にはピュグマリーオンよりも正統に属しており、メルカルト信仰の中心がテュロスからカルタゴへ移ったことも意味する。ビュルサの丘は、現在のサン・ルイの丘にあたる。
31)古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争(紀元前12世紀頃)前、紀元前820年頃や紀元前814年頃にそれぞれ建国されたという記述があるがいずれも裏付はない。
32)ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814年」が一般的にカルタゴ建国年と見なされている。
この様に、チュニジアも古い国家です。
33)カルタゴ創成期:
34)地中海に面するカルタゴの初期は、農耕を営む者と海で働く者との長い闘争の歴史であった。都市は、主に交易で成り立っていたため、海運の有力者たちが統治権を握っていた。紀元前6世紀の間、カルタゴは西地中海の覇者となりつつあった。
商人や探検家たちは、広大な通商路を開拓し、そこを通って富や人が行き来した。
35)紀元前5世紀前半、海洋探検家の航海者ハンノは4回に渡る遠征を行い、「ヘラクレスの柱」と呼ばれたジブラルタル海峡を越えて、北アフリカ沿岸のシエラレオネにまで辿りついたと推測されている。
36)第1回の航海は3万人で出航し、6つの植民都市を建設した「ハンノの航海」として知られている。
37)その後、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、アフリカ内陸と沿岸一帯に領土を拡大した。
38)紀元前5世紀初頭より、カルタゴはこの地域の商業の中心地となり、それはローマによる征服まで続いた。
39)カルタゴは、フェニキア人の古代都市や古代リビュアの諸部族を征服し、現在のモロッコからエジプト国境に至る北アフリカ沿岸を支配下におさめた。
地中海においては、サルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民都市を建設した。
40)シケリア戦争:→詳細は「シケリア戦争」を参照
以下は省略します。
41)政治:
42)カルタゴの政体についての判明事項は極めて乏しい。最も有力な手掛かりは紀元前4世紀の哲学者アリストテレスの著作『政治学』の中の記述であり、それによると以下の3つの特徴を持つ。
1.クレタ、スパルタとカルタゴの政体は非常に似ていること
2.「王政」「貴族政」「民主政」の長所を併せ持っていること
3.実質的に「貴族政」「寡頭政」であること
寡頭制とは、国を支配する権力が少数の人や政党、つまり寡頭に握られる政治体制、とあります。
43)国家の代表は一般的にスーフェース(sufet、通例複数形でsufets、司法権と行政権を持った長官)と呼ばれ、ローマのコンスル同様に1年任期であった。
44)スーフェースの由来は「裁く」や「治める」を意味するセム語の「ショフェト」であり、兄弟言語であるヘブライ語:〇(shaphat:士師)と同根である。ローマの史家はスーフェースをレゲス(reges、王)と呼んだ。
45)スーフェースには軍事に関する権限はなかったが、司法と行政の権限を付与された1人か2人のスーフェースが富豪や影響力をもった一族から選出された。
46)軍事上の特別職として、将軍がある。ローマのコンスルやスパルタの王とは異なり、カルタゴでは軍事は別とされており、ハンニバルもこれに選ばれた。
47)将軍職は特定の家系の出身が多く、その権限を制限するために百人会が設立された。
48)貴族たちから選出された代議員によって、ローマの元老院に相当する機関である最高会議(元老院)を構成していた。
49)最高会議は広範囲に渡る権限を有していたが、スーフェースの選任が最高会議によるのか、市民総会(民会)によるかは論が分かれる。
50)市民たちは立法権にも影響力を持っていたようであるが、このような民主主義的な要素はカルタゴを弱体化させたため、都市の統治では寡頭政治が堅持されることとなった。
51)経済:
52)フェニキア本土の都市は、東地中海で不足しやすい金、銀、銅、鉄、鉛、錫などの金属を入手するために貿易や植民に乗り出した。そのためにフェニキア産の手工業製品を輸出し、イベリア半島や北アフリカの金属と物々交換を行なっていた。
53)カルタゴもこれにならい、フェニキア本土よりも金属の産地に近いという地理上の利点を活かして繁栄する。
54)ヘロドトスの『歴史』には、現在は沈黙交易と呼ばれる取引をアフリカの古代リビュアの人々と行なっていた記録がある。
55)交換にはフェニキア製の工芸品、染色した紫の織物などを扱った。
貝紫ですか?・・・。高く売れそうです。(笑)
56)戦争の捕虜は、農業や鉱業のための奴隷貿易の商品としても扱われた。歴史家のシケリアのディオドロスによれば、イベリア半島の鉱山では、ローマの征服前からカルタゴによって奴隷が使役されていた。
57)農業では、奴隷制にもとづいて集約的な農地経営や牧畜を行なった。その技術は『マゴの農書』に記録され、ローマの大土地経営であるラティフンディアにも影響を与えたとされる。
58)貨幣は、前410年から前390年にかけて銀貨の発行が始まった。シチリア遠征の兵士への支払い等が理由とされている。
59)ギリシアのドラクマ銀貨をモデルに作られており、シチリアで用いられていたギリシアの硬貨に近い。前4世紀には金貨等の発行が始まり、金貨はフェニキア本土の度量衡に基づいた。
この度量衡については、後述します。この度量衡は、交易には必要不可欠です。
60)宗教:
61)カルタゴでは、フェニキアから伝わったバアル崇拝やアスタルト崇拝と旧来の土着信仰に由来するタニト崇拝とが融合し、独自の宗教形態を作り出していた。これにエジプトの神々やギリシャのデメテル崇拝が加わり、ますます多様化していった。
所謂多神教、です。
62)この宗教形態はカルタゴがローマ支配下に置かれた後も引き継がれ、ローマの神々と共に信仰の対象とされた。ウマイヤ朝によってイスラム教が伝えられると急速に廃れていった
63)風習:
64)プルタルコスは、フェニキア人が子供を犠牲にして捧げ物にしていたことを記録に残している。赤ん坊が死産した場合、最も若い子供が両親によって生贄に供されていた、ということである。
わが子を犠牲にする話は、世界のそこら中に(日本にも)有ります。
65)テルトゥリアヌス、オロシウス、ディオドロス・シクロスなどもこの風習を記録に残しているが、ティトゥス・リウィウスやポリュビオスは触れていない。
66)トペテ(en、トフェトとも)と呼ばれる子供のための共同墓地は、紀元前400年から紀元前200年の間に建造されたと推定されている。
67)この墓地からは20,000個の骨壷が出土し、骨壷には新生児の黒焦げになった骨が入っており、中には胎児や2歳ぐらいの幼児のものもあった。そして火葬された子供達の名は、墓碑にも骨壷にも刻まれることは無かった。
無かったもの、とみなされたのでしょう。死んだ子の年は数えるな、ですかね?
68)現代の考古学上の発掘から、プルタルコスの記述には、疑問が持たれている。カルタゴでは火葬は新生児や死産児に限らず、成人に対しても行われていた。
69)また、羊や山羊の骨も発掘されており、この動物の犠牲の記録も発見されている。逆に子供の犠牲の記録が発見されていないことから、子供を犠牲にして捧げ物にする風習が無かったことが明らかになった。
70)だが、現在でもプルタルコスの記述が正しかったとする説も少なくないため、結論はまだ出ていない。
内海(地中海)を巡る興亡に戻ります。
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