数学

Civでは「数学」は、古典時代のテクノロジーです。この数学は余り人体の入出力には関係しておらず、専らCPUである0)脳と思考、心の範疇に属しています。
席亭は新たに、0)脳と思考、心という要素を追加しています。(ヤレヤレ、苦笑)

さて、Wikiで数学を調べると、「数学」ページがヒットします。また小学校の科目である「算数」、「代数」、「幾何」なども調べました。まずは「算数」ページから。

1)算数は、日本の小学校における教科の一つであり初歩的な数学を取り扱う。広義には各国の初等数学における一分野も指す。
2)この項では便宜を考慮した各国の初等教育(中でも小学校に相当する学校)における、算数に相当する教科について広く解説する。
3)類似の言葉として、初等数学(英:elementary mathematics)があり、定義は曖昧だが、こちらは日本の中学校の数学辺りまでを指す言葉である。方程式や冪乗などを含む。
算数は数学の初歩的な要約なので、数学の歴史迄は語られていません。
4)「算数」という語の由来:
5)中国、前漢時代についての史書『漢書』律暦志に「數者一十百千萬也 所以算數事物 順性命之理也」とある。次に紀元前1世紀の『周髀算經』が知られている。
6)また1983年12月−1984年1月にかけて湖北省江陵県(現:荊州市荊州区)にある前漢時代の張家山西漢墓の発掘調査から竹簡『算數書』が発見されている。
7)その内容は乗法などの問題集で後の『九章算術』に影響したのではないかと推測されている。よって「算数」はこの時代に使用が広まったものと推測される。
8)すなわち、算数、算術、数学の用語のうち、現在見つかっている最古の語は「算数」である。日本における教科名としては、算術に代わって1941年より用いられている。
9)中国では現在、「算数」とは数学の源流的なものを指す。
次は「数学」ページです。

1)数学とは、数・量・図形などに関する学問であり、理学の一種。「算術・代数学・幾何学・解析学・微分学・積分学などの総称」とされる。
理学とは、自然科学・物理学などを指す言葉、だそうです。ですが席亭などは数学は科学ではなく、哲学だと思っています。
生き物は全て、自然界からの影響を免れる事は出来ません。それに、科学が自然界からの影響よりも大きい事は有り得ません。
2)数学は自然科学の一種にも、自然科学ではない「形式科学」の一種にも分類され得る。

3)語源:
4)現代の日本語における「数学」は、直接的には英語のmathematicsの訳語ないし同義語とされる。
5)英語のmathematicsないしその単数形mathematicの直接の語源は、古フランス語mathematiqueであり、これはラテン語の(ars)mathematica、またギリシア語の・・・に由来し、原義は「学ぶこと」である。
ギリシア語部分は現行のメモ帳では書けないので、省略しています。また世の中には席亭が統計処理などで使用していた、「マセマティカ」という数学ソフトも有ります。

6)数学という熟語の起源は古い。宋の秦九韶による『数書九章』(1247年)の書名はもとは『数学』だったという。
7)明末には『数学通軌』という書物が出ていて、序文は1578年のものとなっている。
8)和算家たちも古くから数学という熟語を使っていた。関孝和の著に『数学雑著』と題するものがあり、他にも数学という熟語を題字に使っている和算書が複数ある。和算家たちは現在と同じく数学一般という広く高い意味で数学という言葉を使っていた。
9)明治維新後の一時期は漢訳数学書に見られる訳語を手当たり次第に使用したために数学という言葉が現在の算術という意味で使われ狭い意味になったが、その状態は長くは続かなかった。
10)明治15年1月7日、東京数学会社(現、日本数学会)の第14回訳語会にてUnitとMathematicsの2語について2時間以上かけて討議し、Mathematicsの訳語を数学とすることが議決された。
11)この訳語会で菊池大麓は「物の理を論する学問を物理学というように数の理を論する学問は数理学とするのがよいだろう」と意見を述べ、他には荒川重平による「算学」という訳語を推す意見もあったが、
   中川将行の原案と岡本則録の案に従って、9名の多数をもって「数学」が採用された。
12)それ以前にも「数学」という語は使われていたが、mathematicsの定訳ではなかった。例えば1814年の『諳厄利亜語林大成』では「数学」はarithmeticの訳語に用いられ、mathematicsには「測度數之学」が当てられている。

13)定義と対象:
14)数学の範囲と定義については、数学者や哲学者の間で様々な見解がある。
15)冒頭では「数・量・図形などに関する学問」としたが、数学の研究対象は、量(数)・構造・空間・変化など多岐にわたる。
16)19世紀のヨーロッパで集合論が生まれてからは「数学とは何か」ということがあらためて問い直されるようになり(数学基礎論)、数学の対象・方法・文化史的な価値などについて研究する数理哲学も生まれた。
勿論整理は大切ですが、雑多な方が活力は有りますよね?(笑)

17)歴史:→詳細は「数学史」を参照
とあります。ですから、「数学史」ページもこの後参照します。
18)「数学の起源は人類が農耕を始めたこととの関連が大きい」とも。
これは数学に限らず、ほぼすべての学問に対しても言える事です。何しろ定住が無ければ、長時間の深い思考も有り得ませんから。
19)農作物の分配管理や商取引のための計算、農地管理のための測量、そして農作業の時期を知る暦法のための天文現象の周期性の解明などである。
第三者と交易を行えば、平等な取引という事で、数の学問、代数学が発達します。また測量は三角測量で、幾何学が発達します。これらは小学校で習う初等数学、算数です。
暦法は言わば時間の学問ですから、これは物理学にも通じていますよね?

20)これら三つの必要性は、そのまま数学の大きな三つの区分、構造・空間・変化のそれぞれの研究に大体対応しているといえよう。
21)この時点では、例えば土木工事などの経験から辺の比が3:4:5である三角形が直角三角形になることは知られていても、一般に直角三角形の辺の長さの比がc^2=a^2+b^2(c、b、aは辺の長さ)になること
   (ピタゴラスの定理)は知られていなかった。
22)数学が独立した学問ではなく純粋な実用数学であった時代には、あたかも自然科学におけるデータのようにこれらの関係を扱い、例を多数挙げることで正しさを主張するといった手法でもさして問題視されなかった。
23)しかし数は無限に存在するため、沢山の数を調べても完全に証明することはできない。
ここでは直角三角形の三辺の長さを問題としているので、無限に有るのは数ではなく、三角形の個数です。
24)数学が一つの学問として研究されるようになって以降は、論理を用いて真偽を判定する「数学的証明」が発達した。
25)現代の数学でも数学的証明は非常に重視されている。
26)→「数学の年表」も参照

27)各国での歴史:
28)ユークリッド原論(古代エジプト)/アラビア数学/インドの数学/中国の数学/中国の余剰定理/和算/
以下には§分類・分野、§数学の応用、§数学教育、§数学に関する賞、§競技、§脚注、§参考文献、§関連項目、§外部リンクが記述されていますが、その前に「数学史」ページを当たる事にします。

1)数学史(英語:history of mathematics)とは、数学の歴史のことである。
2)第一には、数学上の発見の起源についての研究であり、副次的な興味として、過去の数学においてどのような手法が一般的であったかや、どのような記号が使われたかなども調べられている。
3)概要:
4)数学史は、文明が起こる以前に遡って説明することができる。そこには、狩猟や採集、また生活を維持するために必要だった計数の概念などが含まれる。
つまりは、在庫数の確認です。(笑)
5)また、文明成立後は各地で様々な水準の数学の発展が興るが、やがて文明の交流によって現代の数学に繋がっていく。
勿論ピタゴラス教団の様に知識を一人占めする様な集団も居りましたが、やはり数学などの基礎的な学問は共有が望ましいですよね?(笑)

6)原始時代から古代の数学的概念
7)数の概念、計数:
8)有史より遥か古い時代の線画にも、数学の知識や、天体観測に基づいた測時法があったことを示すものがある。
9)古生物学者による例では、南アフリカの砂岩洞窟の中に、幾何学的模様で彩られた線刻画が発見され、紀元前7万年頃のものと推定されている。
ですから、出アフリカ時代です。
10)他にも、アフリカやフランスで発見されている紀元前3万5千〜2万年頃の先史時代遺物の中に、時間を表現しようとした形跡がある。
時間を動画ではなく静止画で表現しようとするのですから、工夫が必要となる訳です。(笑)
11)古代、記数法は、女性が生理の日を記録するために必要とされていたという証拠がある。
何の為に必要なのでしょうか? 妊娠、避妊の為でしょうか? あるいは生理の回数から、1年の長さなどを見積もっていたのでしょうか?(〜365/28=〜13.03)
誤解を恐れないで言うならば、この13という数はキリスト教にも(ユダヤ教にも?)登場します。
12)また、28〜30のキズがついた石や骨が、複数見つかるという事例がある。
13)さらに、ハンターたちは獣の群について考慮する際には、「1」「2」「多数」、さらに「無」や「零(れい、ゼロ)」の概念を使っていたということも分かっている。
14)整数や実数といった数の集合の要素の一つとして零を見出したとは言えないものの、零の概念はこの時期からすでにあったということもできる。
つまりは、釣果ゼロ、ボウズです。(笑)

15)算術、幾何学の始まり:
16)イシャンゴの骨といわれる遺物が、ナイル川源流地域(コンゴ民主共和国北東部)で発見されており、紀元前2万年頃のものと推測されている。
17)この骨が表現している内容は、最初期の素数列や、古代エジプトのかけ算であると考えられている。
18)また、紀元前5000年代のエジプト先王朝時代のエジプト人は幾何学的・空間的デザインの絵画表現を残している。
19)紀元前3000年代以降のイングランドやスコットランドにおける巨石記念物には、円、楕円、ピタゴラス数、などの数学的概念が織り込まれているとの指摘がある。
ピタゴラス数とは先の、a^2+b^2=c^2となる、自然数の組(a,b,c)の事です。

20)古代インド数学で知られている最古の史料は、紀元前3000〜2600年頃の、北インドおよびパキスタンに位置したインダス文明(ハラッパー文化)にある。
ですから、かなり最近の事です。
21)ハラッパー文化は十進数を使った重量・距離の計測法を発達させ、驚くほど精密で数学的な比率の寸法をもったレンガを作っていた。
例の黄金比(〜1.618)の事でしょうか?
22)また、道は完全な直角をなして敷設されている。彼らが用いたデザインには立方体・樽型・円錐・円柱などを含む幾何学的形態や、同心あるいは交錯する円や三角形などの意匠がある。
23)発見された数学用具には、十進目盛が刻まれ、細かく精細な目盛りの付いた正確な定規や、地平座標における角度を40度あるいは360度法で測るために用いられていた貝のコンパス、天球を8ないし12分して計測するための貝製の計測器、
   航法のために星の位置を計測する計測器などがある。
24)インダス文字はまだ解読されていないため、ハラッパーの文字による数学についてはほとんどわかっていない。
25)考古学的な証拠によれば、この文明は、8を基数とする記数法を使っており、円周率πの値を知っていたとの説がある。
26)中国の殷王朝時代(紀元前1600年頃〜1046年)には、現在も使われる漢数字の初期のものが、亀甲に彫られている。
27)周王朝の時代にすでに用いられていた算籌(さんちゅう)記法は竹の棒を並べて数を表した方法を字写したものだが、これは位取り記数法の歴史上最も古い現れだと見なすことができる。
28)例えば「123」を(縦書きで)表す場合は以下のようにする。まず「1」を表す数字を書く。次に「100」を表す数字を書く。次に「2」を表す数字を書く。次に「10」を表す数字を書く。そして「3」を表す数字を書く
   (要するに「一百二十三」と書く)。これは、算盤での計算を可能にした。
29)算盤が発明された時期は不明だが、西暦190年頃に劉徽により書かれた『九章算術』の注釈の中に記述が存在する。
ゲーム、セーリング・エラでも、この算盤は登場していました。

30)法則性の発見:
31)近代においては知識が全世界に拡散したが、それ以前の時代では、数学上の発見についての記録があるのは限られた地域のみである。発見されている古い数学文書として、
   ・プリンプトン322−バビロニア数学、紀元前1900年頃
   ・モスクワ数学パピルス−エジプト数学、紀元前1850年頃
   ・リンド・パピルス−エジプト数学、紀元前1650年頃
   ・シュルバ・スートラ−インドの数字、紀元前800年頃
   などがある。
32)これらの文書はすべてピタゴラス数について述べており、ピタゴラスの定理の内容は最も早く最も広まった数学の法則の一つであると見なせる。
33)これらの例は、ピタゴラス数のうちのいくつかの振る舞いを調べたり、その法則性に注目しているに過ぎない。
34)普遍性を仮定する定理(証明された真なる命題)という概念は、ギリシア文明以降で見られるようになる。
現段階では「土地の測量→数学」という流れですから、年代的にはギリシア文明以前だけで良いと思います。

35)古代から中世における数学の発展
36)概要:
37)エジプトおよびバビロニア数学は、古代ギリシアにおいてさらに発展した。
38)古代ギリシアの数学は、手法と内容の両方を革新したという点で、非常に重要であると考えられている。
39)これら古代文明で発展した数学は、イスラム数学でさらに大きく発展した。多くのギリシア語とアラビア語の数学の文献が中世のヨーロッパでラテン語に翻訳され、さらに発展した。
ヨーロッパでもこうなのですから、日本も欧州や米国に対して卑下する必要は有りません。(苦笑)

40)紀元前にも数学や文化の地域間の相互作用の証拠はいくつも見られるが、古代・中世の数学史の特徴は、大発展の後しばしば何世紀もの停滞が起きたり、地域ごとに特色を持って発展していることである。
41)文化の交流が蓄積し、14世紀にイタリアでのルネッサンスやヨーロッパの大航海時代が始まると、数学上の新発見が他の科学上の発見と顕著に相互作用を持ちながら進歩し続けるようになった。
Civでも、この表現は完全には成されていません。残念ながら「男子がワクワクする様な、時代の潮流、隆盛」といった様な感覚が、ゲームプレイ上からは殆ど得られないのです。(〜黄金時代が有るだけ)

42)この傾向は現代まで続いている。本節では、地域ごとに特色を持って発展した初期の数学の発展について述べる。
これは楽しみですが、ゲーム上での表現は難しそうです。情報の遮断によって、各地域の数学の特徴→科学技術の各分野での発展に差が生じる、などでしょうか?

43)中東での数学の発展
44)メソポタミア:→詳細は「バビロニア数学」を参照
45)バビロニア数学は、初期シュメール人からヘレニズム期初期のメソポタミア(現代のイラク)の人々の数学を示す。
46)バビロンが研究場所の中心的役割を果たし、ヘレニズム時代に終えたことからバビロニア数学と呼ばれた。
47)この時点から、バビロニア数学はギリシアおよびエジプト数学と融合し、ヘレニズム数学をもたらした。
48)その後イスラム帝国のもと、イラク/メソポタミア、特にバクダードは再度イスラム数学の研究の重要な中心となった。

49)散在した文献しか残されていないエジプト数学と対照的に、バビロニア数学は1850年以降掘り出された400以上の粘土板で知ることができる。
50)粘土板は湿っている間に楔形文字で書かれ、釜で焼くか日光で熱して硬くする。これらの幾つかは、宿題を採点したものと思われる。
51)数学が記述された最も古い証拠は、メソポタミア最古の文明を興した古代シュメール人までさかのぼる。
52)シュメール人は、紀元前3000年から複合的な測定システムを開発した。
53)紀元前2500年頃以降、シュメール人は粘土板に乗算表を書き、幾何学の学習と除算問題に利用した。バビロニア文字の最古の形跡もまた、この時代にさかのぼる。

54)復元された粘土板の大部分は紀元前1800〜1600年の時代であり、分数、代数、二次および三次方程式、およびピタゴラス数の概念が扱われている(プリンプトン322参照)。
55)粘土板にはまた、乗算表、三角法および一次と二次方程式の解法が含まれている。
56)バビロニアの粘土板YBC7289は、2の平方根の小数点第5位まで正確な近似値を出している。
57)円周率の値として、実際的な計算のためにはしばしば3が用いられていたが、22/7などのより精確な近似値も知られていた。(円周率の歴史も参照のこと)

58)バビロニア数学は、六十進法(60を底とする)の位取り記数法を記述していた。ここから、現在1分が60秒、1時間が60分、および円が360度(60*6)の用法が由来している。
59)60には多くの約数があるという事実により、バビロニア数学の進歩が促進された。
60)また、エジプト、ギリシア、ローマ数学とは異なり、バビロニア数学は正しい位取り記数法を持ち、左の列に書かれる数学が、十進法より大きな値を示す、しかしながら、小数点に相当するものが欠けているため、
   数学によって実際に表されている数値はしばしば文脈から推論しなければならなかった。

61)エジプト:→詳細は「エジプト数学」を参照
62)エジプト数学は、エジプト語で書かれた数学を示す。ヘレニズム時代から、エジプト人学者の記述言語としてギリシア語はエジプト語に代わり、この時点からエジプト数学はギリシアおよびバビロニア数学と融合し、ヘレニズム数学となった。
63)エジプトでの数学研究は後に、イスラム帝国のもとイスラム数学の一部として続き、アラビア語がエジプト人学者の記述言語となった。
64)今まで発見された最古の数学の文書は、エジプト中王朝の紀元前2000〜1800年のパピルスである、モスクワ数学パピルスである。
65)他の古代数学文書と同様に、今日でいう「単語問題」または「文章問題」からなり、明らかに娯楽を目的としたものであった。
66)注目するべきものには、切頭体の体積を求めるための方法を表している以下のようなものがある。:
   「ピラミッドを切断し、高さ6、低辺4、上辺2である。4を二乗すると16。4を倍にすると8。2を二乗すると4。16と8、および4を加えると28。6の3分の1を得るので2回。28を2回取るので56。結果は56。正しい結果である。
文章の意味が良く分かりません。題意は、以下の通りでしょう。
ここで、底面が正方形である四角錐を考えます。底面の一辺の長さが4、高さが12である大四角錐の体積は、(1/3)*S*h=(1/3)*4^2*12=64。
底辺の一辺が2、高さが6である小四角錐の体積は、(1/3)*S*h=(1/3)*2^2*6=8。切頭体の体積=大四角錐の体積−小四角錐の体積=64−8=56。QED。

67)リンド・パピルス(紀元前1650年頃)は、もう一つの主要なエジプト数学のテキストであり、整数論と幾何学のマニュアルになっている。
68)また、乗算、除算、および単位分数の公式の解法や、合成数と素数、整数論、幾何学、と調和平均、エラストテネスの篩と完全数(とくに、6に関する記述)について一定の数学的知識が得られていたことの証拠もえられている。
合成数とは、1より大きい整数であって、素数以外の自然数です。調和平均とは、各値の逆数の平均を取り、再び逆数に戻した値です。エラストテネスの篩は素数を求める際に使います。完全数とは6の様に、約数の和が自身と等しくなる数です。
69)また、簡単な一次方程式の解法が示されており、等差数列と幾何級数も扱っている。
70)また、リンド・パピルスでは、1パーセント未満の誤差で円周率の近似値を得る方法や、円積問題への過去の取り組みが述べられ、さらに余接関数の一種について、知られているかぎり最古の使用例を見いだすことができる。
円積問題とは、「円と同じ面積を持つ正方形を、定規とコンパスで(有限回の操作で)作図できるか?」という問題です。また余接関数とは、コタンジェント/三角関数の事です。
71)これらの知見は解析幾何学に関わる基礎的な体系がこの時代に確立されていたことを示している。

72)さらに、ペルリン・パピルス(紀元前1300年頃)は、古代エジプト人が簡単な二次の連立方程式の解法を知っていたことを示している。

73)イスラム数学(西暦800〜1500年頃):→詳細は「アラビア数学」を参照
年代が浅い為、省略します。
74)インドでの数学の発展:→詳細は「インドの数学」を参照
同上。

75)中国での数学の発展:
76)中国では古代から算籌(さんちゅう)と呼ばれる小さな木っ端や竹などを用いた計算が行われていた。この計算方法では、算籌によって表した一から九までの基数を位取り式に並べることで様々に数を表した。
77)これを用いて、加減乗除から求根、方程式を解くに至るまで様々な算術が扱われ、中国数学はこの計算術の下で発展した。
78)なお漢字の「算」は、音を表す「具」と意味を示す(算籌を暗示させる)「竹」とを組み合わせた形声文字である。
79)紀元前212年に、秦の始皇帝が秦国外の書物をすべて燃やすことを命じた。この命令が完全に遂行されることはなかったが、結果として古代中国数学に関しては僅かしか知られていない。
80)周(紀元前1046年〜)以降、焚書を免れた最古の数学書は『易経』であり、哲学、数学、および神秘的目的で、8種3組(三重)および64種6組(六重)が使用される。各組は分割した、または切れ目の無い直線で構成され、
   それぞれ陰「女性」陽「男性」と呼ばれる。(六十四卦参照)
81)中国の幾何学の現存する最も古い書物は、紀元前330年頃の墨家の哲学原理で、墨子(紀元前470〜390年)の後継者により編纂された。
82)『墨経』は、物理化学に関する様々な分野を記述し、数学について僅かながら書き示した。
83)焚書の後、漢(紀元前202年〜西暦220年)は、現在失われた書物を拡張したと推定される数学書を生み出した。
84)最も重要な書物は『九章算術』であり、全編が完成したのは遅くとも西暦179年だとされている。
85)しかし、一部は別の書名の下にそれ以前から存在した。この数学書は、その名の通り九つ、すなわち方田・粟米・衰分・少広・商功・均輸・盈不足・方程・勾股の章に分けて、農業、商業、幾何学、工学、測量に関する246語の問題で構成され、
   特別な直角三角形および円周率の要素を含んでいる。また、体積におけるカバリエリの定理を、西洋でカバリエリが提案する1,000年以上前に使用していた。
   ピタゴラスのピタゴラスの定理の数学的証明、およびガウスの消去法の数式も含まれている。方程(連立方程式のこと)の章では、益の数・損の数を表す正算・負算という赤と黒の算籌の区別を用いて連立方程式を解き、
   正負計算の法則までも述べている。この書は中国や朝鮮では長い時期にわたって重要な数学の教科書の一つとして扱われた。この書の研究としては西暦3世紀に劉徽による論評と問題や解法の数学的考察が行われた。
体積についてのカバリエリの定理とは、「切り口の面積が常に等しい2つの立体の体積は等しい」です。積分の原理を知っていれば、これは納得されるでしょう。
またガウスの消去法とは連立一次方程式を解くためのアルゴリズムで、行列を変形して行くアレ(〜掃き出し法)です。
86)さらに、漢の天文学者、発明家である張衡(西暦78〜139年)の数学書には円周率の公式化があり、劉徽の計算と異なっていた。張衡は、球体の体積を求めるために円周率の公式を使用した。
87)また、数学者で音楽理論家の京房(紀元前78〜37年)は、ピタゴラスコンマを用いて53の完全五度が31オクターヴにほぼ等しいことを述べた。
1オクターヴは2倍なので、この式は2^31〜=(3:2)^53を表しています。詳細は「音楽」ページでご説明致します。試しに電卓で両辺を計算すると、左辺=2,147,483,648、右辺=2,151,972,563.22となります。
88)これは後に、ドイツのニコラス・メルカトルが17世紀に53平均律を発見するまで、正確に計算されることはなかった。
以下は省略します。

89)ギリシアおよびヘレニズム数学(紀元前550年〜西暦300年頃):
90)ギリシア数学は紀元前6世紀頃から西暦450年の間にギリシア語で書かれた数学を示す。
91)ギリシア人数学者は東地中海全体、イタリアから北アフリカに広がる都市に住んでいたが、これらの地域は文化と言語で結びつけられていた。ギリシアの数学は、ヘレニズム数学とも呼ばれる。
92)ギリシア数学は、以前の文化で発達した数学に比べて遥かに洗練されたものであった。ギリシア以前の数学は、すべて帰納的推論を示している。すなわち、繰り返した観測で経験則を証明した。ギリシア数学は、対照的に、演繹法を使用した。
   ギリシア人は、定義および原理から結論を得る論理を使用した。
93)ギリシア数学はタレス(紀元前624〜546年頃)とピタゴラス(紀元前582〜507年頃)が始めたと考えられる。影響範囲について異論はあるものの、彼らはエジプト、メソポタミア、および恐らくインドの知識に影響を受けた。
   伝説では、ピタゴラスはエジプトに旅行し、数学、幾何学、および天文学をエジプトの指導者から学んだと言われている。
94)タレスは、幾何学を使用して、ピラミッドの高さや岸から船までの距離を計算する等の問題を解決した。ピタゴラスの定理について、ピタゴラス以前からその主張には長い歴史があるものの、定理に最初の証明を与えたのが彼であるとの名声をもつ。
95)エウクレイデス(ユークリッド)によるピタゴラスの論評において、プロクロスはピタゴラスが彼の名を冠する定理を述べ、幾何学的でなく代数学的にピタゴラス数を構成したと述べている。
96)アカデメイアは、「幾何学に精通しない者はここに入るべからず」とのモットーを持っていた。

97)ピタゴラス学派は無理数の存在を発見した。エウドクソス(紀元前408〜355年頃)は、現在の積分法の先駆である、取り尽くし法を開発した。
98)アリストテレス(紀元前384〜233年頃)は最初に論理学の法を書いた。
99)エウクレイデスは今日の数学でも使用される形式である、定義、原理、定理、証明の最も初期の例である。彼はまた円錐曲線の研究も行った。彼の本、『ユークリッド原論』は、20世紀の中頃まで、西洋で教育を受けたものすべてに知られていた。
100)ピタゴラスの定理などの幾何学のよく知られた定理に加えて、『ユークリッド原論』には2の平方根が無理数であることや素数が無限に存在することの証明が記述されている。素数の発見にはエラトステネスの篩(紀元前230年頃)が使用された。
101)ギリシア数学の、あるいは全時代の最も偉大な数学者は、シラクサのアルキメデス(紀元前287〜212年)であると言われている。プルタルコスによると、75歳のとき、地面に数式を書いている最中にローマの軍人に槍で刺されたとされている。
102)古代ローマは純粋数学への関心の証拠をほとんど残していない。
民族の気質、という物なのでしょうか? 以下は省略します。

103)関連項目:数学の年表、円周率の歴史、算道、和算

次は「代数学」ページです。
1)代数学は、数学の一分野で、数の代わりに文字を用いて方程式の解法などを研究する学問。
2)現代の代数学はその研究範囲を大きく広げ、半群・群・環・多元環(代数)・可換体・束などの代数系を研究する学問(抽象代数学)となった。
席亭も抽象代数学は知りませんでした。
3)代数学の考え方は、解析学や幾何学等にも浸透しており、数学の諸分野に共通言語を提供する役割を果たしている。
4)以下に示す代数学の諸分野の名に現れる半群・群・環・多元環(代数)・体・束は、代表的な代数的構造である。
5)群・環・多元環・体の理論はエヴァリスト・ガロアなどによる代数方程式の解法の研究などに起源を持ち、束論はジョージ・ブールによる論理学の数学的研究などに起源を持つ。
6)現代の日本の大学では1、2年次に微分積分学と並んで線形代数学を学ぶが、線形代数はベクトル空間という代数系を研究する代数学の一分野である。

7)歴史:
8)プラトンの時代までに、古代ギリシアの数学は大きな変化を遂げた。
9)ギリシア人は線で描いた幾何学図形のそれぞれの線に文字を添え、その文字を式の項として使用する幾何代数の考え方を生み出した。
10)ディオファントス(紀元3世紀)はアレクサンドリアの数学者で『算術』という著書の作者であり、時に「代数学の父」とも呼ばれる。その書は代数方程式の解法に関するものである。
11)algebraという語はアラビア語のal-jabr(アラビア文字表記:〇"reunion of broken parts"(バラバラのものの再結合))に由来し、近代数学はアラビア数学から発展したもので、その起源を遡ると古代インドの数学にたどり着く。
アラビア文字は当メモ帳では表現できないので、省略しています。
12)9世紀のバグダードの数学者フワーリズミーが著作した『イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ("Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』(820年)を、
   チェスターのロバート(あるいはバースのアデラード))が、"Liber algebrae et almucabala"としてラテン語に翻訳した。この書によってフワーリズミーは代数学を幾何学や算術から独立した一分野として確立した。
13)これが後500年間にわたってヨーロッパの大学で教えられたという。al-jabr は、アラビア語では「al」(阿:〇)が定冠詞、「jabr」(阿:〇)が「バラバラのものを再結合する」「移項する」という意味であることから、インド数学のことである。
14)それ以前にフワーリズミーはインドの数学から学んだことを『インドの数の計算法』として著し、イスラム世界に広めた。
   これは二次方程式、算術、十進法、0などの内容でラテン語に翻訳され、著者の名は「アルゴリズム」の語源であるといわれている。

15)代数学の起源は古代バビロニアとされており、古代バビロニア人はアルゴリズム的に計算する高度な算術的体系を生み出した。
16)古代バビロニア人は、今日線型方程式や二次方程式、ディオファントス方程式を使って解くような問題を計算するための公式を開発した。
17)一方同時代(紀元前1千年紀)のエジプトやギリシアや中国では、そのような問題は幾何学的に解かれていた。例えば、「リンド数学パピルス」、エウクレイデスの『ユークリッド原論』、『九章算術』などである。
18)『原論』に代表される古代ギリシアにおける幾何学では、個別の問題を解くだけでなくより一般化した解法の枠組みを提供していたが、それが代数学へと発展するには中世アラビア数学がヨーロッパに紹介されるのを待つ必要があった。

19)ヘレニズム期の数学者アレクサンドリアのヘロンとディオファントスやインドの数学者ブラフマグプタらはエジプトやバビロニアの伝統に則って数学を発展させ、
   ディオファントスの『算術』やブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』といった成果が生まれた。例えば、二次方程式の(ゼロや負の解を含む)完全な解法を初めて記したのが
   ブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ:』である。
20)その後、アラブ世界(イスラム世界)の数学者が代数学的手法をより高度なものへと洗練させていった。
21)ディオファントスや古代バビロニア人は方程式を解くのに場当たり的な技法を使っていたが、アル=フワーリズミーは一般化された解法を初めて使用した。彼は、一次不定方程式、二次方程式、二次不定方程式、多変数の方程式などを解いた。

22)1545年、イタリアの数学者ジェロラモ・カルダーノは40章からなる『偉大なる術』を著し、世界で初めて四次方程式の解法を示した。
23)ギリシャ人数学者ディオファントスは昔から「代数学の父」と呼ばれてきたが、最近ではアル=フワーリズミーの方がその名にふさわしいという議論がある。
24)ディオファントスを支持する側は、フワーリズミーの著作は『算術』よりも扱っている内容が初等的であり、フワーリズミーの著作が修辞的で冗長なのに対して『算術』は簡潔に記述してある点を指摘する。
25)一方フワーリズミーを支持する側は、彼が左右の辺の間での項の移動や打消しといった手法を導入した点(al-jabr の本来の意味とされている)、幾何学的証明を証拠としつつ二次方程式の解法を徹底的に解説し、
   代数学を独立した分野にまで高めたという点を指摘する。
26)フワーリズミーの代数学はもはや一連の問題と解法を示すのではなく、単純な式からそれらを組み合わせた複雑な式まで全ての可能性を網羅し、今後の真の研究対象が何であるかを示している。
   そして、無限に存在する問題のクラスを定義するためにのみ必要な一般化された形で方程式を研究した。
以下は省略します。

次は「幾何学」ページです。
1)幾何学は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である。
2)もともと測量の必要上からセジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシアにて独自に発達し、これらのおもな成果は紀元前300年以降のヨーロッパでユークリッド幾何学を
  発端とする様々な幾何学が登場した。
エジプトでは氾濫農法を使用していたせいで、土地の管理に注意が必要だったのでしょう。
3)単に幾何学というと、ユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学をさすことが多く、一般にも馴染みが深いが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、
  位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。

4)語源:
5)クリストファー・クラヴィウスの門下生のイエズス会マテオ・リッチと中国明の徐光啓は、1607年に、クラヴィウスによる注釈付きのユークリッドの『原論』(“Euclidis elementorum libri XV”)の前半6巻を『幾何原本』に翻訳した。
6)また1680年頃にジョアシャン・ブーヴェとジャン=フランソワ・ジェルビヨンはIgnace-Gaston Pardies(英語版)の”Elements de geometrie”を同様の名前の『幾何原本』に翻訳した。
7)一般に「幾何学」という語は、マテオ・リッチによるgeometriaの中国語訳であるとされるが、本文中では「幾何」は「量」という意味で使われている。
8)また以前はgeometriaの冒頭のgeo-を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている。
9)「幾何」という漢字表記そのものは「幾らであるか」といった程度の意味であり九章算術や孫子算経には多くこの表現が見られる。
10)訳語としての「幾何」は元はアリストテレス哲学にでてくる10の範疇うちの一つ「量」の訳語であり、「幾何学」についてはmathemathicaの訳語であった。
11)このことはジュリオ・アレーニの『西学凡』の中で明文化されて説明されている。
12)この語がgeometryにのみ関連付けられる習慣が定着したのは19世紀半ば以降であると思われる。
これは席亭も全く知りませんでした。

13)歴史:
14)以下では様々な幾何学の発展とその概要を、歴史にのっとって時系列順に述べることとする。
15)起源:
16)幾何学(ジオメトリー)の語源は「土地測量」であり、起源は古代エジプトにまで遡ることができる。
ですから、土地の測量→数学(幾何)は、とても自然な訳です。(笑)
17)古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録では、エジプトでは毎年春になるとナイル川が氾濫し、エジプトの砂漠に農耕を可能にする河土を運んでくるが、去年の畑の境界線はすべて流れてしまう。
18)そのため、印をつけた縄でまっ平らになった土地を元どおり区割りする「縄張り師」と呼ばれた測量専門家集団が現れ、土地測量術が発達した。
19)現在、ピタゴラスの定理として知られている数学定理が、古代エジプトではすでに5000年前に経験則として知られ、縄張り師たちは3:4:5の比率で印をつけた縄を張って、畑の角の直角を取ったという。

20)古代ギリシャの幾何学:
21)幾何学が大きな進歩を遂げた最初は、他の数学の分野と同じように古代ギリシアにおいてであった。
22)初期のギリシャ幾何学:
23)人物としては、タレス、ピタゴラスなどが有名である。タレスは三角形の合同を間接測量に応用し、ピタゴラスらはこれらを証明により厳密に基礎づけた。彼らはそこで多くの定理を発見し、幅広くそして深く図形を研究したが、特に注記すべきなのは、
   彼らが証明という全く新しい手法を発見したことである。

24)数学的意味での証明の誕生と原論の成立:
25)とくにピタゴラスは後のギリシャ数学者達に影響を与え、ユークリッドもその一人であった。自明な少数の原理(公理など)から厳密に演繹を積み重ねて当たり前とは思えない事柄を示していくやり方は、
   ユークリッドの手により『原論』において完成され、後の数学の手本となった。ユークリッドの手により証明をもとに体系化されたギリシャ数学は、曖昧さが残るエジプトやバビロニアのものより圧倒的に優位であったといえる。
26)曖昧な経験の集積ではなく、それらを体系化された理論にまとめあげ少数の事実から全てを演繹するという手法は長らく精密科学の雛型とされ、後世ではニュートンの古典力学なども同様の手法で論じられている。
   このような手法は古代ギリシャにのみ誕生したが、それは何故かという問題は科学史の重大な問題である。
つまりは数学が、普遍的な科学的手法を提供した訳です。ですから皆は科学の祖として、この数学を科学に入れたいのでしょう。(笑)ですが、思考>>科学ですよね? 下手な考え休むに似たり。(笑)
27)ユークリッド原論はB.C.300年ごろに出版され、全13巻からなり、幾何学以外にも量や数論なども記述があるが、これらも幾何学的に取り扱われた。また原論は幾何学のバイブルとしてその後2000年以上にも渡って愛読され続けた。

28)後期のギリシャ幾何学:
29)その後前三世紀ごろにペルガのアポロニウスによって円錐曲線論(コニカ)がまとめられ、天文学の発達により前一、二世紀ごろに三角法も誕生した。
30)パップスは300年ごろに幾何学を中心とする古代ギリシャの数学の成果を「数学集成(Synagoge)」にまとめあげた。
31)とくにアポロニウスは初歩的な座標の概念をも導入し、二点からの距離の和・差・積・商が一定である曲線の集合を研究した。彼の円錐曲線の理論は、カッシーニの卵形線は17世紀に入ってから開拓されたものの
   他の分野のほぼ全てはアポロニウスの手によって研究された。
以下は省略します。

32)関連項目:哲学、ギリシア哲学、古代エジプト哲学、古代ギリシア、古代エジプト、数学、測量、幾何学構成的絵画、幾何学模様、人工知能
数学は以上です。土地の測量に戻ります。

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