職業の専門化
Civでは、この職業の専門化については語られていません。また社会における個人作業の分担ですから、これは明らかに12)個人の集積に関係しています。
職業の専門化をWikiで調べると、「専門職」「職業倫理」ページなどがヒットしますが、これらは使えません。そこで改めて職業を調べると、「職業一覧」、「職業」ページがヒットします。
席亭はご不満ですが、まずは「職業」ページから。(笑)
1)職業は、生計を維持するために、人が日々従事する仕事。
2)社会的分業の成立している社会において生活を営む人々が、それにつくことによって、その才能と境遇に応じた社会的役割を分担し、これを継続的に遂行し実現しつつ、その代償として収入を得て生活に必要な品々を獲得する、
継続的な活動様式。
3)生業(すぎわい、せいぎょう、なりわい)とも。短く職(しょく)とも。
4)人間の社会の中では、まず食料の収集・栽培・収穫に携わる、狩猟・農業・漁業といった第一次産業が職業として誕生し、そして食品の加工から、その運搬・交換として経済活動に関係した職業が始まり、工場制手工業などの
産業革命により、工場労働(製造業)、労働管理といった新たな職業(第二次産業)が近代の職業を彩った。
5)19世紀から20世紀にかけては、さらに各種サービス業や知的専門職といった第三次産業に属する職業がさらに発展した。
第一次〜第三次産業についてコメントしてます。
席亭は先の国家の形成の所で語られた様に、集団や国家のヒエラルキーが知りたいのです。(笑)
6)関連項目:使用者−役職−管理職−上司、業種、ホワイト企業−ブラック企業、職業一覧、職業訓練−キャリア教育、職業指導−求人情報誌−公共職業安定所−職業訓練指導員、職業紹介事業、産業−産業革命−搾取、
職業病、専門家−職業としての学問、アルバイトーフリーター、サラリーマンー企業戦士、キャリアウーマン、仕事中毒−過労死
次に職業の分化で調べると、「職人」、「社会階級」ページがヒットします。まずは「社会階級」ページから。
1)社会階級、階級社会あるいは単に階級とは、社会科学や政治哲学における社会的成層モデルに基づく概念であり、社会構成員が集団ごとに互いにピラミッド型の上下関係(ヒエラルキー)による概念に分類されたときの
各社会集団のことをさす。
2)最も普及している階級分けは、上流階級、中流階級、下流階級の分類である。
まあこの辺りは指摘にも有る様に、危うい議論です。
3)Classという語句はラテン語のclassisに由来し、国勢調査において兵役義務決定のため市民を資産でカテゴリ分けする際に用いられた。
このページでは先に階級有りきで、職業の分化をまるで説明していませんので、この辺りで調査を止めます。また「職人」ページの方は引用されている歴史が浅く、参考には成りません。困りました。(苦笑)
先のゲームCivには、「官吏」というテクノロジーが有りました。そこでダメモトでこれを調べると、Wiktionaryに「官吏」ページが有ります。
1)官吏(かんり):
1.役人。官僚。官人。官員。:中国において、「官」は皇帝直属の役人、特に科挙官僚を指しており、「吏」は科挙などを経ず官衙に雇われた役人を指す。
2.明治憲法下の日本で、国家に対して忠順に職務に服するために、政府から特に選任された者。第二次大戦後の日本における国家公務員とほぼ同じ。
2)関連語:貪官汚吏、上官下吏
官衙は、かんがと読みます。官庁、役所の事です。席亭も官と吏の意味は知りませんでした。現在の公務員でも、キャリアとノンキャリアの階層は有りますよね?
ヒエラルキーに関しては官僚以外にも、軍隊が重要、代表的でしょう。戦場では、ウダウダ議論している時間的な余裕は無いからです。それに、昔は政権〜=軍隊でした。そこでWikiで「軍隊」ページを調べると、
1)軍隊は、兵器およびそれを扱う兵士からなる、戦闘力を備えた軍人の集団。広義には軍事組織であり、狭義には後述する戦時国際法で定められたそれである。
2)警察と並ぶ国家の実力装置であり、主に敵への対処を目的としているが、非常時の治安維持も目的のひとつである。
3)原始社会においては、集落における男性が戦闘員の役割を担っていたが、今日のような常備軍や職業軍ではなかった。
4)古代において、人口の増加と共に国家体制が組織化または階級化されていき、それに従って軍隊組織の合理化が進んだ。
5)古代ギリシアにおいては市民には兵役が課せられており、例えばスパルタにおいては、20歳から60歳の男性市民は軍事教練を受け、都市の防衛力の維持に努めていた。
6)同時に古来より職業的な戦闘技術を習得した傭兵も登場しており、エジプト等の諸地域で活躍している。
西洋式軍隊では士官、下士官、兵卒のヒエラルキーが有名です。また東洋では将軍、参謀、兵士ですよね?
どうやら席亭が知りたいのは、官位と官職の関係の様です。官位と官職の関係は、日本では「官位相当制」と呼ぶ様です。そこで「官位相当制」ページを調べると、
1)官位相当制とは、日本の律令制において、官人に付与する位階と官職との間に一定の相当関係を設定した官僚序列システム。
2)日本律令の官位制は大宝令、養老令いずれも官位令において規定されているが、この規範となったのが唐官品令である。
3)両者とも位階(唐では品階)と官職との対応関係を定めているが、その根本原則においては大きな差異があった。
4)唐律令制では、官人の序列を決定するのは官職という原則が通底しており、品階は官職の等級を表す指標に過ぎなかった。
5)官人には官職とそれに対応する品階が与えられる建前であったが、実際の官職には限りあったため、名目だけの官職があてがわれたり、散位(品階のみで官職を持たないこと)となる者も少なくなく、実質を持つ官職を得る
ことでよううやく官僚序列の中に参加することができたのである。
6)ここでは品階は大きな意味を持たず、官職のみが官僚機構の中で序列機能を果たしていた。
7)一方、日本律令制では、官人はまず位階によって序列化され、そして位階に応じた官職が与えられることとされていた。
8)日本では律令制定以前から氏族制的序列が存在していたため、律令導入時に官人制を布く際、従前の序列を温存しながら各氏族を官人として再編成する必要に迫られた。
9)これにより、日本では唐とは異なり、位階を主として官職を従とする官位制が導入されたのだと考えられている。この日本独自の官位制度を官位相当制という。
官位と官職が世襲され名家が誕生すると、それが階級となって固定化するのでしょう、きっと。(笑)
この政権、政府が行う作業は、各文明でも余り違わない筈です。そこで先の文明のゆりかごや世界四大文明でその仕事内容を調べて見ると、
(1)肥沃な三日月地帯(メソポタミア文明)
1)シュメール文明:天水農業が可能な周辺地域と異なり、乾燥した南部メソポタミアへの人類の定着は遅れ、紀元前5500年頃に始まるウバイド期に入って初めて農耕が開始された。
2)暦:暦は太陰太陽暦を用いたが、太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが紀元前3000年紀にはすでに知られていたため、調整のため適宜閏月が挿入されていた。
3)その後、バビロン第一王朝時代にはバビロニアで暦が統一され、のちに周辺地域にも広まった。
4)六十進法(数学)もメソポタミアで生まれたものであり、現在の時間の単位に用いられている。
5)一週間を七日(七曜)にしたのもシュメール時代である。
6)暦と共に占星術(天文学の雛形)も発達し、「カルデア人の智慧」と呼ばれた。
7)紀元前8000年から西アジア一帯で簿記のためのしるしとして使われていたトークンと呼ばれる道具が印章へと変化し、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市において最古の文字とされる
ウルク古拙文字が誕生した。
8)この文字は象形文字・表語文字であったが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた楔形文字が誕生した。
9)楔形文字は周辺諸民族にも表音文字として借用され、紀元後1世紀頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用された。
これは日本/漢字でも同様でした。
10)各都市には学校が設立され、文書を扱うための書記が養成されたが、識字能力は彼らの特殊技能であり、一般市民のほとんどは文字の読み書きができなかった。
つまりは、Civで言う所の教育も行われていた訳です。
11)降水量が少ないため天水農耕は不可能であり、このためメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となった。
12)灌漑用水の確保のために運河やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われた。
運河というと物流ですが、この頃は用水の働きがメインの様です。また播種(はしゅ)とは、種まきの事です。
13)主穀は大麦で、その反収は高く、紀元前24世紀頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されている。
14)ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い小麦の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった。
15)大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれたビールの原料ともなった。
16)農作物としてはナツメヤシも重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他、樹木の少ないメソポタミアにおいて建材などにも使用された。
農耕は主に民の仕事で、政権の仕事では無いのでしょう。
17)菜園ではタマネギなどの野菜が栽培されたほか、家畜としては羊やヤギ、牛やブタなどが飼育され、また魚も広く食用とされた。
18)メソポタミアには資源が非常に少なく、金属資源や木材・石材といった基本的な資源さえ不足していたため、周辺地域との交易によって資源を確保することは不可欠であった。
19)貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明とも交易を行っている。
この長距離貿易の話は、何処かで遣る必要が有ります。
20)交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河であり、また河口からペルシャ湾を通ってディルムン(現在のバーレーン)などにも交易船を送り込んでいる。
船が必要な交易は、やはり政権に近い側の仕事なのでしょう。
21)貨幣としては古代を通じて銀が基本であり、初期王朝時代から秤量貨幣として使用されたが、他に銅などの金属も貨幣として使用されることがあり、物々交換も盛んに行われた。
22)シュメールやバビロニアでは食物を始めとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。
23)タムカルムと呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。
タムカルムは身分型の商人に属し、生計は身分にもとづく収入で保障されていた、王に仕える形で交易に従事、とあります。昔の交易とは、冒険そのものですものね。(笑)
24)また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。
法の成立に関しては、後述します。
25)これらの都市には環濠が張り巡らされ、日干しレンガによる高い城壁で他都市からの防御をおこなっていた。
都市と言うと、やはり城壁のイメージが有ります。日本では城壁は天守閣/城にしか有りませんから、やはり風景は違いますよね?
26)また都市の中心には神殿が建設され、基本的に移転することはなく都市の建設から消滅まで同じ位置に存在していた。
この神はきっと、支配者の祖神なのでしょう。
27)神殿は基壇上に建てられており、その都市のランドマークとして機能していた。さらにウル第三王朝期に入ると、基壇は多層化して巨大化し、上に神殿を載せたジッグラトと呼ばれる聖塔となった。
バベルの塔は有名です。人が天に届く様な塔を建てて、神の怒り(妬み?)を買いました。(笑)
28)メソポタミアに集落が発達し始めた時期は金石併用時代にあたり、銅と銀の利用は知られていた。すでにウバイド期の遺跡において、銅器や銅の工房が多く発見されている。
29)やがて錫と銅の合金である青銅が発明され、メソポタミアは青銅器時代へと移行する。その時期には諸説あるが、おおよそ紀元前3000年から2500年頃の初期王朝時代であろうと考えられている。
30)鉄器の利用が一般化したのはずっと遅れ、紀元前1190年頃にヒッタイトが滅亡して鋼の製造法が周辺諸国に伝わってからのこととなる。
Civで言う所の、銅器、青銅器、鉄器のテクノロジーが開発されています。
31)交通手段としては、すでにウバイド期には船が河川交通に用いられて、水上交通が主力となっていた。紀元前3500年頃になると家畜化されたロバが出現し、またほぼ同時に車輪の実用化がなされて、
荷車を利用する陸上交通もはじまった。
船よりも荷車/車輪の方が後なのですね。席亭は、裸馬への乗馬時期にも興味が有ります。
32)都市国家が成立し社会が複雑化していく中で、もめ事を仲裁し規範とするための法が成立していった。現存する最古の法典であるウル・ナンム法典は、ウル第三王朝を建国したウル・ナンム王によって紀元前2100年頃に制定された。
33)その後各王朝によってこうした法典が制定されるようになり、紀元前1930年頃にはイシン第1王朝の第5代王リピト・イシュタルによってリピト・イシュタル法典が、紀元前1780年頃にはエシュヌンナ市において
エシュヌンナ法典が制定され、そして紀元前1750年までにはメソポタミアの法典の中で最も名高いハンムラビ法典が制定された。
34)楔形文字ではさまざまな神話や物語も編まれるようになり、なかでもウルクの伝説的な王であるギルガメシュの物語であるギルガメシュ叙事詩はシュメールのみならず周辺諸民族にも翻訳され伝えられた。
法律だけでなく、文学も誕生しました。
35)ギルガメッシュ叙事詩の文字の傍らには、音楽に関する記号や指示が見られれる。このことから、弦楽器リラの調弦法・音階理論も整備され音楽が芸能として扱われていたことが示される。
しかし音楽を示す語が存在したかは不明。
音楽の記録は難しいですよね? 何しろ文字ではなく、音ですから・・・。(苦笑)次は長江文明です。
(2)長江文明
1)長江文明は、中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。
2)文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年ごろまでが範囲に入る。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。
3)しかし1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余桃県の河姆渡遺跡(かぼといせき)により、この説は覆される。
4)河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年ごろのものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床建物であった。
5)このように河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった。
黄河文明のページには、粟といった畑作農業、とあります。
6)更に、東北の遼河周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。
7)初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。
8)長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
9)中流域の屈家嶺文化(くつかりょうぶんか、紀元前3000年?−紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年?−紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、
中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果とも考えられている。
10)河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年?−紀元前1000年?)からは磁器が発見されている。
11)中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。
12)四川盆地では長らく文明の発見が無かったが、1986年に四川省徳陽市広漢県の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)から大量の青銅器などが見つかり、一気に注目されるようになった。
13)四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていた。そこで四川文明と分類されることもある。
蜀の桟道は有名です。
14)三星堆の特徴として怪異な面が多数発掘されることがあり、青銅の人像の顔に被せられた黄金面も発掘された。古代にあったとされる蜀の国だと考えられる。
15)この蜀国は『史記』ではほとんど登場せず、まだ中華文明の視野の外の地域であった。唯一、秦の恵文王の紀元前316年に司馬錯によって滅ぼされて、秦の版図に入ったことが記される。
16)なお、蜀地域の地域史書である『華陽国志』ではこの古代蜀についての詳しい記述があったが、黄河文明中心史観の時代にあってはこれらの文献は想像の産物だと思われていた。
しかし、三星堆遺跡の発見で一躍現実味を帯びたものとなった。
17)2004年現在、長江文明・四川文明とも体系化された文字は見つかっていない。ただし、文字様の記号は見つかっており、その年代は紀元前2000年から紀元前600年とされている。
現在出土している最古の甲骨文字が紀元前1300年くらい(武丁期)のものなので、これが文字だとすれば甲骨文字に先んじた文字ということになる。
以前NHKの番組で、漢字(表意文字)を異なる民族間で使い合っていた(発音は違う)、とありました。
18)イ族は元来涼山には定住しておらず、ピモと呼ばれる祭祀を務める者が死者を弔う際に唄を歌うが、これは魂が先祖の居た地へ戻る道程を表しており、唄われている地名や地理的特徴を遡ると長江周辺へと帰結する、
この事から太古は長江流域に住んでいたが漢民族の侵入によって散り散りになりその末裔が現在の涼山へたどり着いたとされる。
19)その古い成り立ちから文化は古代に多く見られる儀式が主体で、家畜や民族の安泰を祈願し木で組んだ門を家畜に潜らせ魔を祓うものや、鶏を処しその結果で占いをするという日本の弥生初期に通ずるアニミズムが残っている。
日本の歌は長唄の様に切らずに伸ばすので、席亭は元の民族は山岳民(〜ヨーデル)か海女(人)だと勝手に思っています。(笑) 次はメソアメリカです。
(3)メソアメリカ文明
1)メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、
パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでであるが、
この境界線は歴史的に一定していたわけではない。
2)下記のように壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残すメソアメリカ文明が繁栄した地域であるメソアメリカでは、定住農村村落の成立(紀元前2000年以後)・・・などが興亡した。
3)これらの文化はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の文明との交流を経験せず、地理的に孤立した環境で発展した。
4)また、南米のインカに代表されるアンデス文明との関係性もないと見られ、その意味で、古代中国、メソポタミア、アンデスとこのメソアメリカが「世界の四大一次文明」と呼ばれることもある。
5)製鉄技術を知らなかったものの、巨大な建造物や都市を造営できるほどの建築技術や天体観測による暦、独自の文字体系を有し、宗教においても独自な体系を成立させるなど、他大陸の文明とは際立った特徴を有していた。
6)神殿文化は紀元前二千年紀の末に起こり、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けた。
7)ところが15世紀の末、コロンブスに率いられたスペイン人が突然侵入してきた。スペイン人は政治的に住民を征服したばかりでなく、キリスト教化が図られる中で、神殿等は破壊、高度な技術・文化部分を担っていたと思われる
旧来の王や貴族等の支配者、聖職者等の層が弾圧されたこと、スペイン人らによって持ち込まれた伝染病によって人口が激減したことにより、その内容が十分に理解・継受されることのないまま滅亡することとなった。
スペイン人は未来永劫に、糾弾される訳です。(笑) 次はアンデス文明です。
(4)アンデス文明
1)アンデス文明とは、1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。
2)メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない。その担い手は、1万2千年前に、ベーリング海峡を渡ってアジアから移動してきたモンゴロイドの中の古モンゴロイドとされる。
3)メソアメリカ文明との関係性についてはよく分からず、現時点では、独自に発生した文明とされ、全く独自に生まれたオリジナルな文明を意味する一次文明として、メソポタミア、古代中国、メソアメリカ文明と並んで、
「世界の四大一次文明」と呼ばれることもある。
4)アンデス文明の中心地帯は、主に、海岸部、山間盆地、高原地帯に分かれる。山間部と高原地帯は一緒に扱われることも多い。
5)アンデス文明の大きな特徴としては次の7点が挙げられる。
1.文字を持たない。
2.青銅器段階。
3.金や銀の鋳造が発達していた。
金や銀の鋳造には水銀でも使わない限り、かなりの高温が必要です。
4.家畜飼育が行われていた。
5.車輪の原理を知らなかった。
これは地形や、人口や交易が小さかった事も影響しているのでしょう。
6.塊茎類を主な食料基盤とする。
7.アンデス特有の生態学的環境と文化・文明の発展に深い関係が見られる。
6)このほか、アイリュ(またはアイユ、Ayllu)と呼ばれる地縁・血縁組織の存在、双分制、トウモロコシ酒チチャの利用、コカの葉などを利用した儀礼などもアンデス文明圏、特に山間盆地や高原地帯で見られた特徴である。
7)また、チリ北部からペルー南部には硝石が豊富にあるが火薬の製造も行われなかった。
人口もそうですが、相手が敵対的で無い場合には、武器の発達も促されないのでしょう。(笑)
8)鉄鉱石が豊富な地域が多いが鉄の鍛造は行われることはなく、武具もあまり発達せず、石製の棍棒や弓矢程度であった。
9)一方で、棍棒の武器によるものであろうか、陥没した頭蓋に対して、脳外科的手術を行い血腫などを取り除く技術が存在していた。形成期といわれる紀元前の社会の遺跡から見つかった頭骨の中には、
陥没した痕が治癒していることを示すものがある。これは、頭蓋が陥没したあとも生き延びたことを示している。
10)これらの外科的手術は、儀礼的な面から発達した可能性も否定できない。アンデスに自生するコカが麻酔として利用されていたという。
かなり高度な外科手術です。
11)さらに世界最古の免震装置であるシクラが発見されている。
南米でも地震は起こる様です。日本の塔にも、免振装置は付いてます。お待たせしました。次はエジプト文明です。
(5)エジプト文明
1)古代エジプトは、古代のエジプトに対する呼称。具体的に、どの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマ
によって滅ぼされるまでの時代を扱う。
2)エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年夏のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河で行われた。
3)ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。
4)このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って
国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。
ですからエジプトとは、細長い国だった訳です。
5)ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に
統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。
6)毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。
7)また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。
8)ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源となったとされる。
9)エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、
部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。
ですから、エジプトの方が国家規模は大きかったのでしょう。文明の進化の度合いも速そうです。(笑)
10)エジプト文明が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており、紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心に
ナカダ文化が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、上エジプトに22、
下エジプトに20、合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。
11)紀元前3500年頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの統一国家が成立したと考えられている。
12)紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。
文字と暦の両方が開発されています。Civでは、文字技術は有りません。あるいは筆記の事でしょうか?(笑)
13)紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。
14)古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。
15)このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。
これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。
16)このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。
ピラミッドを建てられる程、建築技術が進歩しました。またその設計には、数学も必要だった筈です。
17)紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。
18)スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。
19)スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。
20)その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。
21)この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。
22)この後、エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。
23)続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2278年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、
中央政府の統制力は失われていった。
24)紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。
エジプト文明はこの位で良いでしょう。最後はインダス文明です。
(6)インダス文明
1)インダス文明は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。
2)これら各国の先史文明でもある(インドの歴史、パキスタンの歴史、アフガニスタンの歴史も参照)。
3)崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。
その親しみ深い名前で、日本でも有名です。(笑)
4)狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500km、南北1800kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。
5)そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。
6)メヘルガルT期(紀元前7000年−紀元前5500年)は、土器をともなわない新石器時代である。
7)この地域での初期の農業は半遊牧民が行ったもので、コムギやオオムギを栽培する傍らでヒツジやヤギやウシを飼っていた。泥製の住居群は4つの区画に分けられている。
8)多数の埋葬跡も見つかっており、副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどがあり、時折動物の生贄も見つかっている。一般に男性の方が副葬品が多い。
9)装飾品としては、貝殻(海のもの)、石灰岩、トルコ石、ラピスラズリ、砂岩、磨いた銅などが使われており、女性や動物の原始的な像も見つかっている。
10)海の貝殻や付近では産出しないラピスラズリ(アフガニスタン北東部で産する)が見つかっていることから、それらの地域と交流があったことがわかる。
交易先はかなり遠距離にあり、我々を驚かせます。
11)副葬品として石斧が1つ見つかっており、もっと地表に近いところからも石斧がいくつか見つかっている。これらの石斧は南アジアでは最古のものである。
12)メヘルガルU期(紀元前5500年−紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。メヘルガルV期(紀元前4800年−紀元前3500年)は、銅器時代後期である。
13)メヘルガルW期(紀元前3500年−紀元前2600年)で集落が放棄された。
14)インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行したという説もある。
15)しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、
「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。
林業、牧畜?、農業、土木、建築などが行われていました。
16)ヴェーダ期(紀元前1700年−紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化(英語版)となった事を示す墓地が発見されている。
この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年−紀元前500年)が形成されたと考えられている。
火葬が発明されています。この火葬は、伝染病と関係が有るかも知れません。宗教や葬儀に関しては、後述します。
17)ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化(英語版)は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。
18)城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。
19)「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。
20)インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。
21)周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。
22)インダス文字は現在でも解明されていない。統計的分析ができる長文や、ロゼッタ・ストーンのように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。
23)一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている。
24)信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場
と考えられている。
25)一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような
再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガム(英語版)と呼ばれる石製品が出土しない。
26)また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
27)埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。
28)足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。
29)ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。
30)副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、
その場合は銅製の柄鏡も出土している。
31)重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。
あるいは、文明の歴史が短かかったのかも。つまりヒエラルキーが発達する程、文明が長続きしなかった、です。(笑)
32)インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、
印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などにも現れている。
33)宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。
34)排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。
35)土器やビーズなどの主だった出土品に均質性が見られる。
36)インダス文明の都市は、信仰・宗教世界を運営・統括する人々の宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかという説がある。
37)インダス文明は、夏作物、冬作物、夏と冬の混合作物の3地域に大きく分かれる。インダス川の流域は冬作物地域であり、氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。
38)河川から離れた地域では、地形を利用した一種の堰を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。
39)夏作物地域では、モンスーンを利用した農耕を行っていた。
40)現在でも家畜として飼育されているコブウシは、インダス文明の土器の模様、印章、土偶などのモチーフにも多数使われている。
41)コブウシよりは少ないがコブのないウシも描かれており、系統の異なるウシが飼育されていた可能性がある。
この系統の違いとは、つまりは飼育する民族の違いなのでしょうか?
42)水運を広く利用し、装飾品などがメソポタミアまで輸出されて盛んな商業活動が行われていた。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。
43)メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行い、メソポタミアではインダス文明はメルッハ(英語版)と呼ばれていたと推定されている。
44)メソポタミア地域やペルシア湾でも、インダス式印章が発見されている。
45)工芸品の交易ルートには原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、インダス文明の経済基盤の1つだったと考えられている。
現在のカンバートのように各工程の職人や商人が全体を把握しなくても運営されるようになっており、王や神官のような行政による強力な統括がなくとも成立していたのではないかとも考えられている。
つまりは、重要産業が民間の手に渡っていた訳です。文明度の高さが窺えます。
46)鉄は知られず、青銅器を使った。
47)都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比が4:2;1で統一された焼成煉瓦が広く使われている。
レンガとは、つまりは標準化の最初の例、製品なのでしょう。
48)服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。
染色には、デザインと染料が必要です。これも後述します。
49)装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造が有名である。腐食ビーズとも呼ばれる紅玉髄製ビーズに白色の文様を入れる技術を持っており、樽型ビーズはメソポタミアへの主要な輸出品の1つでもあった。
確か正倉院の御物にも有った筈です。
50)その他に腕環、足環、ペンダントなどが見つかっている。
51)高い加工技術を要する極小のマイクロビーズも作られており、絹の糸で連結させていた。これは中国での最古の絹の利用と同時期とされ、前2世紀以降のシルクロードより前にインダス文明で別個に絹の利用が発達していたとされる。
52)工芸の素材としては、金属の他に貝、動物の骨や歯、テラコッタ、ファイアンス、瑪瑙、ラピスラズリ、ジャスパー、アマゾナイトなどが使われていた。
53)動物の骨や歯は、ヤギ、ヒツジ、コブウシ、レイヨウの他に少数ながら象牙やサイの角も使われている。
54)都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。凍石製で、印面は3−4cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。
動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。
55)一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。
56)商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。
これだけ例示すれば、皆様も職業の専門化をイメージされる事でしょう。席亭は職業だけに留まらず、各文明の社会をも説明してしまいました。(苦笑)ここで一度、国家の形成に戻ります。
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