治水と利水

Civの古典テクノロジーには、「建築学」と「工学」が有ります。工学の取得によって用水路などが建設可能と成りますが、治水に関しては言及が有りません。
これは治水に重きを置かなかった西洋人の歴史観で、「治水は国家なり」の東洋人にとっては物足りないですよね? この治水の稚拙は直接、社会の人口減少に繋がります。ですからこの技術は、12)個人の集積に関係しています。
さてWikiには「治水」と「利水」ページが含まれますが、後者は取るに足りません。利水に関しては「灌漑」ページの方が詳しい様です。そして、これらは後述されるでしょう。さて「治水」ページを最初に調べてみると、

1)治水とは、洪水・高潮などの水害や地すべり・土石流・急傾斜地崩壊などの土砂災害から人間の生命・財産・生活を防御するために行う事業を指し、具体的には、堤防・護岸・ダム・放水路・遊水地などの整備や、河川流路の付け替え、
  河道浚渫による流量確保、氾濫原における人間活動の制限、などが含まれる。
2)治水の概要と必要性:
3)水は人間生活にとって不可欠な資源であると同時に、水害や土砂災害などの危険ももたらす。
4)水の持つ危険性を制御しようとする試みが治水であるが、一方で水を資源として使用するための制御、すなわち利水も必要となってくる。
5)水の制御に取り組むという点において、治水は利水との共通性を持ち、両者に不可分な関係が生じるのである。そのため、広義の治水には、利水をも含むことがある。
ご尤も。

6)治水に当たる英語はflood controlであるが、これは単に洪水調節のみを意味する。
7)日本語における治水は、洪水調節のほか、土砂災害を防ぐ砂防や山地の森林を保安する治山をも含む、意味範囲の広い用語である。

8)いかなる治水対策を講じたとしても、全ての水災害を防ぐことは不可能である。どの水準の水災害までを防御するか、換言すれば、どの水準の水災害までを許容するかが、治水対策を行う上での立脚点となる。
まあ、神ならぬ人の身、予算も有りますし・・・。

9)治水の始まりは、文明の始まりと強い関連性がある。
10)世界四大文明に代表される多くの文明社会ではその草創期に氾濫農耕が行われ、農耕の発展により生産物余剰が蓄積されて都市が発生し、都市住民の維持を目的として安定した農耕体制を確立する必要に迫られた。
農耕には大量の人口が必要ですが、エジプトの様に氾濫農耕を行う積もりならば、高い堤防を作る訳には行かないですよね?(笑)

11)安定した農耕を確立するためには、治水と灌漑の導入が不可欠であった。治水・灌漑の導入には労働力の集約を要したが、この労働力の集約を通じて初期国家が形成されたと考えられている。
ですから次は、「国家の形成」です。
12)また、文明が発祥した地域の多くでは洪水が毎年定期的に発生したので洪水時期を推測するための暦法や天文学が発生し、治水構造物を作るための土木技術や度量衡なども発達した。
これらの暦法、天文学、土木技術、度量衡などは、後述します。

13)歴史上における治水技術は主に台風・モンスーン地帯にあたる東アジアで発達していったが、近代的な治水技術はヨーロッパの中でも低地に国土を拡げてきたオランダで著しく進展を見せた。
中国では、「黄河を制する者は中国を制す」でした。
14)19世紀−20世紀以降は、高度に発達した土木技術を背景に成立した近代的治水技術によって水害による被害が著しく軽減されたものの、20世紀末期頃からヨーロッパを中心にそれまでの治水技術が自然環境に大きな負荷を
   与えていたことへの反省がなされ、自然回帰的な治水を指向する動きが強まっている。
15)一方、多くの発展途上国ではいまだ十分な治水対策がなされず、繰り返される水災害に悩まされている地域も少なくない。

16)メソポタミア・西アジア:
17)最古の治水の歴史を有する地域の一つがメソポタミア(シュメル)である。メソポタミアでは、紀元前5000年までに2本の大河−ディグリス川・ユーフラテス川の氾濫源で農耕(氾濫農耕)が始まったとされている。
18)同地域での治水・灌漑の開始時期は高貴ウバイド文化期の紀元前4300年−紀元前3500年頃と考えられている。この時期の治水は洪水時に河川から溢流した水を人工のため池に貯水するものであり、
   人工池の水はその後用水路を通って農耕地へと供給された。すなわち治水は灌漑と表裏一体の関係にあった。
溢流は、いつりゅうと読みます。
19)紀元前18世紀頃にメソポタミアを統一したバビロン第1王朝のハンムラピ王の時に、ティグリス・ユーフラテス両河の治水体系が整備された。両河川の流域では毎年5月に上流の雪解け水に由来する洪水が発生していたが、
   洪水時の溢水を収容するため両河川を結ぶ数本の大運河と大運河を連結する無数の小運河の大運河網が作られた。これにより洪水の被害が軽減されるとともに、運河に溜められた水は灌漑に利用された。
20)ハンムラピ王期に建設された治水体系はその後、アケメネス朝(紀元前6世紀−紀元前4世紀)・サーサーン朝(3世紀−7世紀)に継承され、アッバース朝前期(8世紀−9世紀)には運河網が再整備されるなど、
   非常に長い間命脈を保った。
21)しかし、10世紀以降は政治体制の混乱に伴ってメソポタミア地域の治水は次第に衰退していき、イルハン朝(13世紀中期−14世紀中期)およびオスマン帝国(14世紀−20世紀前期)において治水体系の再建
   が試みられたこともあったが、バビロン王朝盛時の高度な治水体系が再び復活することはなかった。
この様に、時代が下がっても先の世に負けている事も有ります。同時代の人はかなり情けないですよね?(苦笑)

22)エジプト:
23)古代エジプトもメソポタミアと同じく、ナイル川という大河川の氾濫源に農耕が発生した。
24)ナイル川上流域(エチオピア・ウガンダ周辺)では毎年6月に雨季が訪れ、多量の降水がナイル川に注がれる。多量の雨水はナイル川の長い流路を下っていき、9月−11月に下流域のエジプトへ洪水となって押し寄せる。
25)この定期的な洪水は氾濫原に肥沃な土壌を残すとともに土中の塩分を洗い流したため、ナイル川下流域における高い収穫率をもたらした。このため、エジプトでは古代以来洪水を防御するための治水はほとんど行わず、
   もっぱら灌漑技術が発達していった。

26)インダス・南アジア・インド:
27)インダス川河畔でインダス文明が興ったのは紀元前2600年頃のことと考えられている。
28)インダス川流域では、毎年6月−7月の時期にモンスーンの到来によって雨季が訪れる。
29)雨季の降水はインダス川の氾濫を起こしたが、氾濫原には肥沃な土壌と農耕用水の水源となる湿地が残された。
30)インダス文明期には洪水期前になると川に沿って低い土手が作られた。この土手は洪水を防ぐものではなく、洪水によってもたらされた肥沃な土壌を耕地に貯め込むためのものだった。
31)そのためメソポタミアやエジプトのように灌漑が発達することはなく、灌漑農耕に依存していたと考えられている。
32)インダス文明の農耕は洪水を前提としていたので、水害を防ぐ治水はほとんど行われていなかった。

33)ヨーロッパ:
34)ヨーロッパは安定した地質の構造平野が広がり、河川は構造平野を掘り下げるように流れるため洪水時の氾濫原となる沖積平野はあまり広く形成されていない。
席亭は沖積平野は海の近く、と誤解していました。扇状地などもこれに含まれる様です。
35)台風やモンスーンによる多量の降水もないので、水害が発生する頻度は例えば東アジア地域と比較すると高くはない。
ヨーロッパは水害に関しては優秀な土地なのでしょうが、森林伐採→耕地化は、後世に禍根を残しそうです。(笑)
36)ヨーロッパで治水が特に発達したのはオランダである。

37)中国:
38)中国の治水は3つの大河、すなわち華北の黄河・華中の淮河・華南の長江を中心に行われた。
39)特に多量の黄土を含み急速に河床が上昇する黄河は容易に氾濫を繰り返しており、この黄河の治水が最も古い歴史を有している。
40)史記には、帝堯のときに黄河の洪水が止まらなかったので鯀に治水を行わせたが9年経っても成果が上がらず罷免され、その子の禹が事業を引き継ぎ河水の分水によって治水を成功させ、
   その功績を元に夏王朝の始祖となったことが記されている。もとより禹の治水は伝説であるが、黄河の治水が王朝にとって最重要課題であったことを物語っている。
41)中国の治水史は最初の段階では河川付近での居住・農耕を避けることから始まった。当時「河川から25里以上離れた場所に居住すること」という伝承があったように、殷・周の時代は河水による小規模な灌漑事業が始まってはいたものの、
   河川から離れて生活することがほぼ唯一の治水策であった。
この「離れる」は、日本の東海道沿いの都市でも採用されています。
42)春秋時代(紀元前8世紀−紀元前5世紀)になると河川の氾濫域に農地が進出し、河川堤防の建設が見られるようになる。黄河の大堤が建設が始まったのは春秋時代である。
43)戦国時代(紀元前4世紀−紀元前3世紀後期)には李冰(りひょう)・西門豹(せいもんひょう)・鄭国(ていこく)などの治水技術者が現れ、多くの治水事業を成し遂げたことが『史記』河渠書に記されている。
   この時代に本格的な治水事業が行われ始めた。当時の治水は分水路や運河を設けて河水を分散させ、堤防は高くせず、河床を浚渫したり河流障害物を除去したりする方策が採られていたと考えられている。
44)秦・漢期(紀元前3世紀中期−2世紀末)は統一王朝のもとで運河・灌漑水路の建設が盛んに行われ、流通や農業生産の向上に大きく貢献した。新朝期には黄河が堤防決壊により流路を大きく変え、その後も堤防決壊が相次いだ。
   後漢期の70年前後に黄河治水にあたった王景は、数十万人を動員し黄河に長大な堤防を築くとともに黄河を分流させることで黄河の流路安定に成功した。
45)三国時代以降、長江流域から淮河流域にかけて稲作が普及し灌漑水路が増築されたが、そのためかえって洪水が増えた。

46)日本:
47)日本の治水は、次に挙げる理由により多大な困難性を有している。
48)まず、日本列島が3−5枚の大陸プレートが複雑に衝突し合うその上に立地していること。ゆえに急峻な地形が多く、安定した地質帯が存在せず、国土は脆く不安定な地質に占められている。
49)さらに台風・モンスーン地帯に当たるため、河川や崩壊による侵食が著しい。また、河況係数(=多水期の河川流量/渇水期の河川流量)が非常に大きく(ヨーロッパ河川の概ね10倍以上)、出水期に洪水が発生しやすい。
50)日本では人間活動・生活の大部分が沖積平野上で営まれているが、元来沖積平野は河川洪水の氾濫原であり、洪水被害を受けて当然の地域なので治水が非常に難しい。
51)また比較的安定している洪積台地も農地や住宅地などの拡大・開発が進んだため、土砂災害が発生する確率が増大している。
52)そのため、日本では水害や土砂災害による被害を非常に受けやすい地理的条件が生まれており、ここに日本における治水の特殊性・困難性がある。
川の長さが短くまた標高差も大きい為、「日本の川は滝の様だ」と良く言われます。
53)以下、日本の治水史を概観する。

54)先史・古代の治水:
55)日本の治水の歴史は弥生時代に遡るといわれている。この時代は、洪水を避けるため扇状地や河川から離れた地域で水田が営まれる例が多かった。また、氾濫から集落・耕地を防御するための排水路や土手の遺構が発見されている。
56)本格的な治水事業は古墳時代(3世紀中期−6世紀中期)に始まった。畿内に成立したヤマト王権は、4世紀後期から5世紀にかけて統一政権としての政治力を背景として主に河内平野の開発に着手した。
57)当時、河内平野東部には河内湖(草香江)が広がっており、淀川や大和川の氾濫流が流入してしばしば洪水が発生していた。
58)この洪水を防ぐため河内湖から河内湾へ排水する難波の堀江が開削され、淀川流路を固定する茨田堤が築造された。これらの治水事業は仁徳天皇の事績に仮託されている。
59)この時代に多数営まれた前方後円墳を築造するための土木技術と河内平野を中心に行われた治水との関連も指摘されている。
60)当時の代表的な治水遺跡として岡山市の津寺遺跡がある。足守川の旧流路に沿って約90mにわたり6000本以上の杭が打ち込まれており、堤防・護岸の跡だと推定されている。
   これが最古の治水遺跡の一つであるが、成立は古墳時代末期から奈良時代にかけてと見られている。
以下は省略します。

61)治水の基礎概念:
62)水彩被害の3要素:椎貝・土砂災害(総称して水災害と呼ぶ)による被害(水災被害)は、次の3つの要素から構成される。
63)被害ポテンシャル:水災害によって被害を受ける対象物の量・金額。例えば、河川の氾濫源に住宅地が形成されると、被害ポテンシャルは高まる。
64)外力規模:水が人間生活圏へ与える力の大きさ。雨量、河川流量、水位などの指標で表される。
65)治水容量:河川や遊水地の流下能力・収容能力。
66)水災害による被害は、被害ポテンシャルまたは外力規模が大きくなると増加し、治水容量が大きくなると低減される。外力規模は、降雨量など自然のはたらきに左右されるものであり、人間の力によって増減されることが
   ほとんど不可能であるため、所与条件と考えることができる。
しかしながら、最近の気候変動は地球温暖化と強い相関が有るものと思われます。どちらが人間社会、文明の維持費が高くなるかについては、吟味する必要が有ります。(放射能利用も、笑)

総合的な治水対策には表が掲げられており、その中の洪水対策の項目には以下のものが含まれています。
67)洪水対策:
68)洪水防御:堤防、防潮堤、河川改修、貯水池、遊水地、放水路
69)流域処理:侵食対策、河岸補強、砂防対策、治山対策、地下河川
東京などでは地下に、大型河川や遊水地が設けられています。次は「国家の形成」です。

→国家の形成