採集
Civには、この採集技術も記載が有りません。単に拾うだけですものね。但し、「採鉱」技術は太古時代のテクノロジーです。砂金の収集なども、立派な採鉱技術でしょう。(笑)
この「採集」は食糧調達手段ですので、明らかに4)飲水と飲食、排便に関係する技術です。キノコの採集などには、それなりの経験と知識も必要です。(笑)
さてWikiには採集のページは有りますが、関連するページのリスト、ジャンプ先だけです。「狩猟採集社会」、「コレクション」、「植物採集」、「昆虫採集」のページが置かれています。
そこで他のページを探すと、「日本列島の狩猟採集時代の食事」ページがヒットします。これをご紹介します。
1)日本列島の狩猟採集時代の食事とは、日本列島の主に旧石器時代から縄文時代を経て弥生時代に至るまでの、狩猟採集を食糧獲得手段の主体とした時代の食事である。
2)旧石器時代には、主に狩猟によりシカ、ナウマンゾウ、ノウサギなど野生の動物が食された。
3)約1万年前の縄文時代になると人々は採集することが増えた。
これは各種食物の発見などが原因でしょう。狩にはそれなりのリスク、事故や負傷、死亡が付物でしょうから。
4)食事の中心となったのは木の実やイモであり、クリ、クルミ、ドングリ、ヤマイモ、マメといったものである。
前述した様に、火の使用が無ければ食べられない食材も有ります。
5)縄文人のゴミ捨て場は貝塚と呼ばれており、貝や魚介類をふんだんに食べていたことがうかがえる。
6)ハマグリ、アサリ、カキを中心としイワシ、サバ、マグロなどを漁労によって、イノシシ、ニホンジカ、ツキノワグマなどを狩猟によって獲得していた。
7)縄文晩期になると水田で稲作をするようになる。
8)旧石器時代:
9)700万年から1000万年前、アフリカに地殻変動が起こり大きな熱帯雨林は東西に分断された。西に残ったのは果物を食べている猿であり、東の豊かな森はサバンナとなり猿にとっての楽園は失われた。
これは席亭も知りませんでした。そしてこれが、聖書に描かれる失楽園の元ネタなのでしょうか? 定住モードから移動、拡散モードへと、モードチェンジが有りそうです。(笑)
10)少なくとも3万8千年前には日本列島に人類が到達していたと推測されている。
11)群馬県の岩宿遺跡で更新世のローム層から旧石器時代の石器が発見された。
12)岩手県の花泉遺跡では約2万年前のハナイズミモリウシ、オーロックス、ヤベオオツノジカ、ヘラジカ、ナツメジカ、ナウマンゾウ、ノウサギなどの化石が大量にまとまって発見された。
13)これらの化石の骨は石器で切るなどした解体痕がある。
14)また研磨して先端を尖らせた骨角器と、敲石と思われる使用痕のある石器も発見された。
敲石は、たたきいしと読みます。
15)これらから花泉遺跡は狩猟による動物を解体し食肉を得たキルサイトと考えられている。
16)また長野県の野尻湖底に位置する立が鼻遺跡も約4万年から2万4000年前のナウマンゾウとヤベオオツノジカを主としたキルサイトと考えられている。
17)東京都の野川遺跡かどからは礫群や配石(置石)が発見されている。
18)礫群は焼けたこぶし大の意志が数十から百個ほど1ケ所にまとまったもので、動植物の有機物が付着したものも発見されている。
19)礫群は食肉を焼くのに用いたと考えられている。また木器や樹皮などによる容器に水や食品と共に礫群の焼け石を入れ煮るのに用いたとも考えられている。
20)当時の日本列島は大部分が亜寒帯性の針葉樹林が広がっていて、植物性の食品は乏しく漁撈も未発達なため、ビッグゲームハンティングと呼ばれる大型哺乳類を主とした狩猟に依存した生活だったと考えられている。
21)哺乳類などの動物はフグなどの毒のあるものが少なく、内臓や筋肉、皮膚や脂肪や血液、骨髄や脳髄など、骨や毛などを除けば、大部分が可食部である。
この文章は誤解を生じさせる事もあり、マズイです。フグは魚類です。(→哺乳類などは魚類とは異なり毒のあるもの(〜フグ)が少なく・・・)
22)寄生虫や微生物など病原体の問題もあるが、生でも食べることができる。
23)レバ刺しや膾、アルパッチョやユッケやタルタルステーキのような料理や、火が使える状況であれば礫群などを利用して、石焼や蒸し焼きやホルモン焼きなどの焼肉のような料理が考えられている。
24)またさいぼしやジャーキーのように干肉にして保存食にしたとも考えられている。
25)骨や角や歯などは骨角器に、毛は繊維や毛皮として用いたと考えられている。
26)縄文時代:
27)縄文時代は約1万3千年前から、稲作が始まる弥生時代までの約1万年間である。
28)植物性の食物を中心として余った分や穴や屋根裏に貯蔵し、肉魚は補完的に食された。
29)福井県の鳥浜貝塚の土器163サンプルからの分析から、動物の脂も検出されているが多くは魚介類の脂であり、およそ9千年間にわたり土器は主として魚介類を煮るのに使われたと考えられる。
この文には矛盾が有ります。主に煮たのは魚介類ではなく、植物性の食物なのでは?
→土器
30)縄文時代の基本料理は鍋料理であり、肉や野菜、ドングリの団子を一緒に煮た。
このドングリは、一説には主食です。ドングリとはブナ科の果実、木の実です。狭義にはクリ、ブナ、イヌブナ以外のブナ科の果実で、最狭義にはブナ科のうち、特にカシ・ナラ・カシワなどコナラ属樹木の果実を言います。
31)約1万年前に地球規模の気候変動で氷期から間氷期に変わり完新世が始まる。
32)日本列島では温暖化に伴い針葉樹林は北海道や高山帯に限られ、本州の東側にブナやナラ、クリやクルミなどの落葉広葉樹林が、本州の西側と四国、九州、南西諸島にはカシやシイ、クスノキなどの照葉樹林が広がる。
ようやく採集社会らしく成って来ました。(笑)
33)ナウマンゾウやヤベオオツノジカなど大型哺乳類は絶滅あるいは生息しなくなり、ニホンジカやイノシシなど中小哺乳類が増える。
34)また海面の上昇に伴い対馬海流の流量も増え、日本海側も太平洋側と共に暖流と寒流の交わる良漁場となる。
35)このような風土の変化に伴い縄文時代が始まり磨製石器と共に縄文土器が用いられる。
36)世界的には中石器時代あるいは新石器時代に相当するが、農耕や牧畜は普及せず、採集に加えて狩猟や漁撈を主とする生活である。
37)土器を用いて煮ることが発達し、採集による植物性の食品の利用が増えた。
狩猟採集社会においても狩猟から採集へと、そのバランスが変化している訳です。
38)クルミ、ドングリ、クリ、トチなどの堅果類を竪穴建物の近くに穴を掘り備蓄したものが多く出土している。
39)クルミは脂質を多く含み生でも食べられるが、クリやドングリやトチはデンプンを多く含む。
ですからこのクルミは、女性の名前にも採用されています。
40)生のベータデンプンは消化されにくいため、水と熱とで結晶構造を破壊し、アルファデンプンに変える必要がある。
41)またドングリはタンニンを含む種類が多く、石皿と魔石で潰したり粉にし、水に晒したり茹でたりして灰汁抜きをした。
42)トチは非水溶性のサポニンやアロインを含み、灰を加えて煮ることで灰汁抜きをした。
43)またクズやワラビ、ヤマノイモやウバユリ、ヒガンバナなど野生の芋類も、アルカロイドなどの毒を水に晒すなどして除去し、デンプンを利用したと考えられている。
44)動植物の遺物による調査と、遺骨のコラーゲンの同位体比による調査から、これら植物性のデンプンから熱量の大半を得ていたことが分かる。
45)植物性の食品の利用が増えたのに伴い、従来の食肉やレバーや血液かどから摂取していた塩の必要性が生じ、海水を土器で煮る製塩も行われた。
海水をそのまま使用すれば良さそうにも思いますが、輸送コストなども絡むのでしょう。(笑)
46)日本原産の香辛料であるサンショウを入れた土器も発見されている。
47)また栽培作物であるソバやオオムギやアワ、エゴマやリョクトウやヒョウタンなどが、少ないながら出土している。
リョクトウは豆の一種です。
48)縄文時代中期、紀元前4000年後半より日本列島でのダイズやアズキの栽培化が見られることが2015年の研究で判明し、この時期以降に野生種からの人為的な栽培に特徴的な種子の大型化がみられる。
確かに稲作(〜用水)よりも、畑での耕作の方が簡単な様です。
49)狩猟による食肉は大半がイノシシとインホンジカによるもので、その他カモシカやエゾヒグマやツキノワグマ、タヌキやアナグマなど様々である。
席亭もイノシシとシカは食べました。
50)またキジやカモ、ガンなどの鳥類も対象とした。
51)狩猟は縄文時代に登場した弓矢によるものを主とし、罠や落とし穴なども用いた。
ですから弓矢の登場は、割と最近なのです。ですが弓矢は、壁画にも描かれていますよね?(笑)
52)またイヌは飼育されており、猟犬として用いたと考えられている。
53)北海道ではアザラシやトド、オットセイなどの海獣などを対象とし、回転式離頭銛が用いられた。
漁業に関しては、後述します。
54)イノシシは伊豆諸島や北海道から遺物が発見されていて、移動や飼育、動物儀礼などについて議論されている。
55)原始技術研究所の関根秀樹によれば、縄文人が獣肉を食べたのは特別な日に限られていると述べており、おそらく獣肉を生贄として捧げ食べた祭りの日であろうとされる。
(神との)祭礼の日、動物を生贄にする事は普遍的でしょう。
56)漁撈による魚介類は、貝塚を主に形成するハマグリやアサリ、カキやシジミなどの二枚貝が多い。内湾性のスズキやボラ、クロダイやコチなどを対象とし、骨角器によるヤスや石錘を利用した漁網も用いた。
57)またイワシやサバなど小魚を対象とし、漁網によるものもある。
58)東北地方の三陸沿岸では外洋性のマグロやカジキを対象とし、骨角器による釣り針や、回転式離頭銛を用いた。
59)九州北西部でも外洋性のマグロやサワラ、シイラやサメを対象とし、骨角器による組み合わせ式釣り針を用いた。
ですから神話に登場するサメ(ワニ)などは、この漁撈と関係が有るのでしょう。サメが波打ち際に居るとも思えませんし。(笑)
60)内陸河川でもサケやマスも、北海道や東北地方では重要な食品であったとする考えもある。
クマが採る位ですから、ヒトも採るのでしょう。(笑)
61)料理としては、堅果類などのデンプンをこねて灰の中で焼いたビスケットやクッキーのような縄文クッキーが出土している。
ですからクッキーなどのお菓子の原型は、昔の主食なのでしょう。
62)また土器の利用により、デンプンを団子状にして煮たすいとんのようなものや、水で溶いて煮て粥状にしたものも考えられている。
そしてこれらの料理は、現代にも伝わっていますよね? 戦時中は、かなりお世話に成った筈です。(苦笑)
63)食肉や魚介類はすいとんや粥に混ぜたり、汁物や吸物のような羹や、鍋料理のようなものが考えられている。
羹はあつものと読みます。羹に懲りて膾を吹く、のアレです。
64)また、旧石器時代の礫群と同様の調理施設とみられる配石遺構も検出されており、これらは「集石」と呼ばれる。
65)採集や狩猟や漁撈は自然によるもので、四季のある日本列島では季節性が表れる。
66)宮城県の里浜貝塚による調査では、春にはアサリや木の芽や若草などの山菜を採集し、夏にはマグロやアジやサンマなどの漁撈と海水による製塩、秋にはサケの漁撈と堅果類の採集、秋から冬にかけて
ニホンジカの狩猟と土器の製作と、季節に応じた食生活を行っていた。
一体どの様にして、化石からこれら季節を判別するのでしょうか?
67)また食生活は、自然だけでなく人口密度なども含めた生態学的条件でも異なり、さらに北海道礼文島の船泊遺跡と浜中2遺跡のように、同時期同地域にあっても集団の歴史や社会的な文化にもより異なる。
68)沖縄諸島や奄美諸島ではこの時代を貝塚時代の前期ともよび、伊波式土器や荻堂式土器を伴う独自の文化でもある。
69)また沖縄県波照間島の下田原貝塚では、八重山土器やピラ型土器、イノシシの骨が出土していて、この頃先島諸島では漁撈とともにイモやアワの畑作農耕やイノシシの飼育が行われていたと考えられている。
イノシシの飼育とは、つまりはブタです。
70)この文化は、九州や沖縄本島などからの縄文文化の影響はほとんど受けず、南方系文化(台湾やインドネシア、オセアニア、メラネシア文化など)の影響を受けた独自の文化と考えられている。
ですから、海による交流が有ったのでしょう。
71)このように地域や時代、集団によって多様な食文化を伴う縄文時代は、様々な定義があるが縄文土器を基準にして、北海道から沖縄県まで日本列島のほぼ全域を対象とし、
約1万6000年から1万2000年前に始まり、紀元前900年から紀元前400年の頃まで続いたとされる。
弥生時代以降は省略します。狩猟採集社会に戻ります。
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