東海道バーチャルトリップ
55)直進地点/変形十字路:道標の先、交差点右手前、徒歩140分、道路東側
交差点右手前に、岡崎大平郵便局(大平局)と道標が有ります。道標には、→西大平藩陣屋跡、大岡稲荷社、この先90m、西大平藩陣屋跡保存会、大岡稲荷社奉賛会、とあり、台座にはようこそ東海道、西大平藩陣屋跡とあります。
56)大岡越前守陣屋跡:参道を進むと右手、同分、道路東奥
門の右手前には、岡崎観光きらり百選、大岡越前守陣屋跡看板が置かれています。また門の右側には、西大平藩陣屋跡の札が貼られています。
門を潜ると、左手に西大平藩説明板が、その先には箱庭と西大平藩陣屋高札が、その先には大岡越前守忠相説明板とその右にちがさきおすいマンホールが有ります。西大平藩の説明板の左側には西大平藩三河領の分布(安政元年以降)が、
右側には説明文が記されています。同説明文には、大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して三河国宝飯(ほい)・渥美・額田3郡内で4080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置
したことに始まります。安永元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、大部分が三河国に所在していました。(この庭園は、額田組12か村を石で表しています。)
また西大平藩陣屋高札には、左側に三河国額田郡大平村地図(安藤平久所有)が、右側には説明文が記されています。同説明文には、西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡越前は旗本でしたが、
72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、
三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宜が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした、とあります。
大岡越前守忠相説明板の説明文には、【延宝5年(1677)〜宝暦元年(1751)】、「大岡裁きで有名な大岡越前守忠相公は旗本の家柄に生まれ、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。
著名なものに、相対(あいたい)済し令・目安箱・小石川養生所設置、いろは四十七組の町火消の組織化、江戸防火対策である火除地の確保と「瓦ぶき」屋根とする建築基準の制定など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。また問屋・仲買・小売
の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通貨改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政の立て直しを図りました。晩年は譜代大名にとりたてられ、奏者番兼寺社奉行として職務を全うしました。宝暦元年に75歳で没し、
相模国堤村(現神奈川県茅ケ崎市)の浄見寺に葬られました、とあります。以下は「ゆかりのまち茅ヶ崎市との絆」、「茅ヶ崎市(神奈川県)のデザインマンホールふた」ですが、省略します。
57)大岡稲荷社:陣屋手前の道を右に入ると、左手、徒歩141分、道路東奥
黒い冠木門の先には赤い鳥居が、その先には拝殿が窺えます。拝殿の左には、大岡稲荷社の説明板が有ります。陣屋跡と神社は同じ敷地内に在ります。
大岡稲荷社の説明文には、寛延元年(1748年)一万石の譜代大名になられた大岡越前守忠相公は、西大平藩主として三河国額田郡西大平村(現在地)に陣屋を置いた。忠相公は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊
「〇枳尼尊天(だきにそんてん)」を本尊として祀った。現社殿は、忠相公没後250回忌の記念事業として平成14年(2002年)に再築されたもので、大岡家の守り本尊として代々引き継がれ守られている。なお、毎年4月には大岡稲荷奉賛会が
中心となり例大祭が行われている、とあります。
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