東海道バーチャルトリップ

52)西棒鼻跡立札/西棒鼻:藤川立札の先、右手、道路北側

立札の説明文には、宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は東棒鼻を描いたものである、とあります。

53)従是東藤川宿 東海道五十三次之内傍示杭/西棒鼻:立札の先、右手、道路北側

松の木の中に傍示杭が建っており、従是東 藤川宿 東海道五十三次之内、と墨書されています。周囲の松の木は、前回来た時よりも成長していました。

54)藤川宿案内板高札(新)/西棒鼻:傍示杭の先、右手、道路北側

高札の右手前には、岡崎観光きらり百選、藤川宿と松並木看板が建っています。高札は更新されており、以前は街道往還図高札でした。案内板の上部には、「藤川」の地名の由来、芭蕉句碑とむらさき麦、十王堂、藤川のまつ並木
の説明が成されています。また案内板の下部には、旧道を中心とした名所、旧跡が紹介されています。名所、旧跡の方は既にご紹介済みですので、此処では説明文の方をご紹介します。
「藤川宿 元ト宇治川ト云。駅の北裏ニ川有、又南ノ方大平川ノ流等ニ藤の花多く育て旅人壮観とす。故ニ藤川と書改ト云。今ハ藤絶たり。」林自見『世諺辯略』安永8年(1779)
藤川はかつて「宇治川」といわれていたのを、藤の花が見事なことにより「藤川」と改めたと記されています。さらに、藤川を代表するものに「むらさき麦」があり、藤にしろ、むらさき麦にしろ、藤川の色は古くから紫色であって、当時の藤川宿
を彷彿させてくれます。まちなみは時代とともに変化しますが、地名には、その場が持つ地形や歴史などの特徴が反映されていることが多く、地域を知る手がかりになります。

江戸時代後期に刊行された『東海道名所図会』(秋里籬島、寛政9年(1797))に「この辺りに紫麦を作る、これを高野麦という」とあり、藤川では古くから「むらさき麦」が栽培されていたようです。藤川小学校南西の向い、十王堂の境内には
「爰も三河 むらさき麦の かきつばた」と刻まれた句碑があります。松尾芭蕉が旅の途中、藤川宿で美しく色づいた「むらさき麦」を詠んだ一句です。昭和初期まで栽培されていた「むらさき麦」は、いつの間にか作られなくなり、「幻の麦」と
なりました。しかし、芭蕉の三百回忌に当たる平成6年(1994)に復活栽培をし、今では藤川の新しいシンボルとして各方面から注目されています。

十王堂は、冥府(冥土:死者の魂がいくところ)で亡者(死者)の罪状の軽重を決める判官である十人の王(冥官)を祀る堂のことです。「十王」の中でも五番目の「閻魔」が一段と大きく目立つように造ってあるので「閻魔同」ともいいます。
また、地元藤川の人たちは親しみを込めて「十王さん」と呼んでいます。堂内の十王像の台座に「宝永七庚寅天(1710)七月」と記されていることから、堂の創建はこの頃であろうと推測されます。なお、現在の堂は昭和11年(1936)頃に
撮られた写真をもとに、平成29年(2017)12月に復原され、岡崎市の歴史的風致形成建造物・景観重要建造物に指定されました。

まつ並木の整備は、慶長9年(1604)に2代将軍徳川秀忠が家康の意向を受けて東海道を整備したことに始まります。道程の道標として一里塚を設置し、街道の両側に土塁を築き、松を植えました。まつ並木は夏の日差しを防ぎ、冬は防風林
として、街道を旅する人々のために役立ちました。その後も幕府はまつ並木の保全に力を注ぎ、街道や周辺の農村に「往還通掃除丁場」を割り当てて夫役を命じました。藤川のまつ並木は藤川町の西端から約1kmの間に残っており、
現在は百本余りのクロマツが立ち並び、最大の木で幹周り約3m余、樹高は20数mあります。まつ並木は昭和38年(1963)に市の天然記念物に指定されています。

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