東海道バーチャルトリップ
37)岡崎市指定文化財、史跡 藤川宿脇本陣跡 99.17m^2説明板高札/脇本陣跡:門を潜ると、左手
高札の説明文には、
藤川宿は江戸時代の東海道の宿場の内、品川宿から数えて第三十七番目の宿場町であり、伝馬朱印状が慶長六年(一六〇一)に発給された。そのため、本陣・脇本陣・問屋場などが置かれ、東海道の交通を担った。
脇本陣は、本陣の予備にあてた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、その家老や奉行の止宿にあてられた。平常は一般の旅行者にも使用が許された。その経営については、本陣に次ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、
その敷地は、現在の跡地の四倍、約一三〇坪(約四三〇m^2)の敷地を有していた。現存する門は、関ヶ原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されているが、昔日の名残りをよく留めている。
昭和五十三年十月二十一日指定、岡崎市教育委員会、とあります。
38)岡崎市藤川村合併記念碑/脇本陣跡:高札の先、左手
藤川町が岡崎市に編入されたのは、昭和30年(1955年)の事です。
39)藤川宿資料館と新聞写真、藤川宿の脇本陣跡(わきほんじんあと)立札/脇本陣跡:石碑の先、正面
資料館の右側に新聞記事が入ったフォルダと、同立札が建っています。新聞記事には、しめ縄 新年へ岡崎らしくの記事が掲載されており、また立札の説明文には、
「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。「脇本陣」を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは
「大西喜太夫」で、「橘屋」と呼ばれていた。入り口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われている、現在残っている藤川宿内では古い遺構である。
明治になって宿場の制度が廃止となり、その後、藤川村役場として使われ、現在は「藤川宿資料館」となっている。この敷地は、昭和五十三年十月に岡崎市の文化財に指定された。藤川宿まちづくり研究会、とあります。
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