東海道バーチャルトリップ
34)東海道と藤川宿説明板高札/藤川宿本陣跡広場:広場の右側、高札の手前
説明板の左側には、「藤川宿駒曳朱印状」が示されています。右側の説明文には、
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長六年、東海道の集落に「伝馬(駒曳、こまびき)朱印状」を下付して「宿駅」を指定するとともに、公用の旅行者のために「伝馬」三六疋を用意することを命じ、
その代償として地子(じし、地代)を免除しました。これが近世宿駅制度の始まりです。慶長九年からは幕府の命により、日本橋を基点とした五街道の整備が開始されました。慶長六年に整備された藤川の宿は、品川宿から
数えて三七番目の宿駅でした。中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されています。東海道の交通量の増加に伴い、
寛永一五年(一六三八)に幕府から常備人馬の増加(人足一〇〇人、馬一〇〇疋)を命じられた際には、宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。そのため、慶長元年(一六四八)、代官の
鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)六八戸を藤川宿の東隣に移住させる加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。
天保一四年(一八四三)の「宿村大概帳」の記録によると、藤川宿の総人口は一、二一三人、家数は三〇二軒となっています。これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。しかし藤川宿には本陣、脇本陣、
問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。岡崎市教育委員会、とあります。
35)史跡藤川宿脇本陣跡(藤川宿資料館)と藤川村道路元標:本陣跡の先、右手、徒歩36分、道路北側
瓦門の右側には開館時間と休刊日を示した札が貼られており、また門の左手前には白い石で出来た藤川村道路元標が置かれています。
36)本陣石垣:脇本陣跡の左側面、右手、徒歩38分、道路北側
脇本陣跡の左側面(西側)には↑−本陣石垣看板が貼られており、同石垣が残存しています。山綱川沿いの藤川の地形を良く表しています。
瓦門を潜ると左手に岡崎市指定文化財高札、右手に藤川宿脇本陣石碑と藤川宿マップ。正面は資料館で、右手前には藤川宿の脇本陣跡立札。
文化財高札には史跡藤川宿脇本陣跡とあり、現存する門は大西喜太夫(橘屋)のものとあります。
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