東海道バーチャルトリップ

67)舞木町ポケットパーク:横断歩道消失地点の先、左手、徒歩234分、道路南側

此処には手前から順に、是より西、藤川宿へ、是より東、赤坂宿へ説明板高札、屋根付休憩用ベンチ*2、山中城址説明板、山中八幡宮説明板、冠木門が有ります。

68)是より西、藤川宿へ、是より東、赤坂宿へ説明板高札/ポケットパーク:左手、同分、道路南側

高札の後ろには石垣と竹垣が組まれています。高札の中央下部には周辺図が描かれています。山中八幡宮は現在地の西に、山中城址は同南西に在ります。同説明文には、
【東海道】、慶長六年(一六〇一)、徳川家康は、東海道の各宿に伝馬朱印状と伝馬定書を発給し、江戸と京都・大阪を結ぶ東西交通路の確保を図りました。
慶長八年(一六〇三)、家康が征夷大将軍に任じられると江戸に幕府を開き、江戸を政治・軍事の中心に位置づけ、江戸日本橋を起点に一里塚を築き、幕府の直轄交通路として整備しました。
古代・中世の駅馬・伝馬制度にならい、公用の人や物資は無料、公用以外は有料で次の宿駅まで継ぎ送る宿駅伝馬制度を定め、全国的な交通制度に統一しました。
東海道には五十三の宿駅が設けられ、道巾は約三間半(六・三メートル)で一里塚や並木が整備されました。
【舞木町の由来】、舞木の地名は、山中八幡神宮記の一節に、「文武天皇(六九七〜七〇七)の頃、雲の中より神樹の一片が、神霊をのせて舞い降りたる」と書いてあることから、「木が舞い降りる」
を取って「舞木」とつけたといわれます。また舞木村は、昔は山中郷に属していましたが、慶安元年(一六四八)に幕府の三河代官が同じ山中郷で隣村である市場村の一部六十八戸を藤川宿へ移転させたため、
昔の市場村の一部と舞木村が合併して、現在の舞木村になったと言われています。平成十五年三月、とあります。

69)山中城址説明板/同:ベンチの先

説明板の説明文には、
起伏を利用した室町時代の典型的な山城で、眼下に東海道と額田群(郡?)南部に至る吉良道、現在の蒲郡市方面に至る西郡道などの街道をおさえる交通の要衝に位置していました。
山頂(標高二百四メートル)と山腹一帯を東西四百メートル、南北二百メートルの規模で主郭・二の郭を中心として帯状の曲輪が囲む三河地方最大規模の連郭式山城でした。
岡崎松平氏の三代信貞の城でしたが、大永四年(一五二四)に安祥松平氏の清康の命により大久保忠茂らによって攻略され、以後家康の祖父の清康のものとなりました。市指定史跡。平成十五年三月、とあります。

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