東海道バーチャルトリップ

22)復元されたソテツ/大橋屋:裏庭、左奥、徒歩39分、道路西側

大橋屋の建屋を潜ると、その先は裏庭です。裏庭には復元されたソテツが置かれていました。宝永堂版赤坂宿の浮世絵には確かに、蘇鉄と石灯籠が描かれています。
浮世絵によれば、蘇鉄と石灯籠は渡り廊下が囲む中庭に置かれていました。当時の建屋は現在、旧道に面した一部分しか残っていません。
赤い煉瓦ブロックと白いラインは、当時の建屋の間取りを表示しています。

23)大橋屋(旧旅籠鯉屋)の間取り説明板高札/大橋屋:裏庭、左奥、同分、道路西側

中庭の左手には、同高札が置かれていました。高札の内容は右から順に、説明文、間取り図(大橋屋が所有していた図を元に作成)、法雲寺の庫裏(豊川市白鳥町)写真が配置されています。説明文には、
大橋屋建物は、文化六年(一八〇九)の赤坂宿の大火以降に建てられたと考えられている。その後何度も改修され、間口六間一尺(約一一・二m)、奥行七間(約一二・七m)の主屋だけが現存する。
大橋屋が所有していた間取り図によると、かつては間口八間七尺(約一六・六m)・奥行二十三間三尺(約四十二・七m)の敷地に主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が建っていた。
間取り図の添え書きには奥座敷が明治四〇年(一九〇七)に白鳥地蔵尊(現豊川市白鳥町・法雲寺)に寄進されたと記されており、この建物は法雲寺の庫裏として使用されていた。
また、建物の東側を大正十年(一九二一)に消失したことも記されているが、保存整備工事における調査でも火災の痕跡が確認されており、消失部分を除くと、現存する主屋の間口と一致する。
なお、保存整備工事における調査によって、この間取り図は創建当初の姿ではないことが分かっている。おそらく、江戸末期から明治初期の状況を表していると考えられるが、主屋の復原に合わせて裏手に存在した
建物を間取り図に基づいて平面表示した、とあります。

24)赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡:大橋屋の先、左手、道路西側

大橋屋の先左手も整備されており、手前から順に、隷書東海道赤坂広重タイル、赤坂代官所(陣屋)跡立札/順路奥、大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣(輪違屋)高札、赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡石碑、東海道赤坂宿・御油宿案内図高札/旧道沿い
が在ります。

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